番狂わせは起きなかった。
今年の菊花賞を言い表すのに必要な言葉はこれだけだ。あまりにもあっさりと、当然のようにスペシャルウィークはクラシック三冠という偉業を成し遂げてしまった。
探そうとすれば理由はいくつも見つかる。まずもって彼女が絶好調であったこと。一方でそれとは対照的に、『スペシャルが勝たないならセイウンが勝つ』と太鼓判を押されていたセイウンスカイが見るからに絶不調であった──それでもなお2着は死守したのだが──こと。
他の菊花賞出走ウマ娘には3000mという長距離戦でスペシャルウィークに伍する実力者がいなかったのも大きなファクターだろう。なにせ彼女が最終直線に至った頃には、他のウマ娘たちが
だが、しかし。ナリタブライアンに言わせれば、このように余計な言葉を並べる必要はない。
「菊花賞ではスペシャルウィークが強かった。これ以外の何がある」
彼女の言葉に、向かい合うシンボリルドルフはくすりと笑った。
「いかにも君らしいな、ブライアン」
「会長、アンタには何か別の見解があるのか?」
「いいや、同意見だとも」
二人に挟まれた生徒会室のテーブルには大量の新聞や雑誌が積み重なっていた。全国紙やスポーツ紙の号外、月刊トゥインクルを始めとする専門雑誌の数々。そのいずれもがスペシャルウィークの三冠達成を報じるものだった。
「それにしても、トゥインクル・シリーズも注目されるようになったものだと思わないか。私達の頃には、ここまで記事の内容が充実していた記憶はない」
「会長が三冠になったときには似たようなものだったはずだ。結局のところ、無敗三冠のインパクトが大きいということだろう」
「いや、それでもここまでの騒ぎではなかったよ。やはりスペシャルウィークの戦績は唯一無二、空前絶後だ」
会長にしてはずいぶん普遍的な四字熟語を使うものだ、とナリタブライアンは思った。とはいえ、その方がより単純明快に無敗クラシック三冠を成し遂げた後輩を称えることが可能なのも事実だった。
「今の彼女に対して、何か心配事があるとすれば……」
「身体を壊さないか。その一点に尽きる」
シンボリルドルフの言葉を引き取ってナリタブライアンが続ける。
「あのローテーションを続けるなら、遠からずスペシャルウィークはどこかを壊す。そう言いたいんだろう」
「……ああ。余計な気遣いかもしれないが、どうにも気にかかってね」
「あの走りは天性だろう。脚を壊すことはないように思うが」
「レースに絶対はない。それに、壊れるのが脚とも限らない」
「テンペルの陽室トレーナーがそれを許すか? 常識を知りながら無視する手合いだが、退き際自体は弁えているはずだ」
「そこが最も恐ろしいところでね、ブライアン。確かに陽室トレーナーはスペシャルウィークの故障を厭うだろう。しかしスペシャルウィーク自身が『故障してでも』と望めば、陽室トレーナーは背中を叩いてターフに送り出すのではないかと思えてならないんだ」
そんなふざけたことがあるかと思わず言いかけて、ナリタブライアンはなんとかその衝動を押し留めることに成功した。
「何故そう思う」
「陽室トレーナーは刹那的な人物だ。それをスペシャルウィークに押し付けはしないだろうが、彼女自身が刹那的に生きるのを望むならばそれを否定することはしないのではないかと、私にはそう感じられてね」
「……スペシャルウィークを次期会長として育てている理由はそれか?」
その質問にシンボリルドルフは目を丸くした。
「慧眼だな」
「アンタの善良な部分もそうでない部分もそこそこ見てきたつもりだ。……それで、どうなんだ」
「否定はしないよ。無論、それが理由の全てではないが」
彼女はその指摘をあっさりと認めた。
「『あらゆるウマ娘に幸福を』という私の大それた理想を、言わずとも継いでくれそうな後輩が彼女だった。また同時に、彼女自身も幸福を享受すべき者だ。そのためには、彼女にこれまでとは違う視点を持ってもらうべきだとも思ってね」
「新たな責任を背負うことにはならないのか?」
「なるとも。私は彼女に責任を、重荷を背負わせた。その対価は、彼女自身の未来だ」
その言葉にナリタブライアンは溜息を吐いた。
「責任で未来を縛るのはどうかと思うがな。場合によっては逆効果だ」
「そうだろうか? ことスペシャルウィークに関して言えば────」
控えめなノックに二人の会話が途切れる。
失礼します、の一声と共に生徒会室のドアを開いたのはスペシャルウィークだった。
「やあ、スペシャルウィーク」
「こんにちは! 今日もよろしくお願いします!」
スペシャルウィークが未来の生徒会長を目指すことが決まって以来、彼女はトレーニングやレッスンの合間を縫ってほぼ毎日のように生徒会室を訪ねていた。
いくら現生徒会執行部が彼女を次期会長に推しても、能力が伴っていないことには論外だ。トレセン学園の生徒会は決してお飾りではなく、様々な権力と責務を有する実務的な組織なのである。会長ともなれば、書類仕事も周囲との折衝も避けては通れない。ゆえに、彼女は会長になる前にまず執行部の仕事とは何たるかを学ばなければならなかった。
「今日は会計関連の書類を処理してもらう。そちらにまとめてある分が終わったら声をかけてくれ」
「わかりました、これですね?」
最初の頃は山のように積まれた書類を見て白目を剥いた彼女も、かれこれ三ヶ月同じような光景を見続ければもう慣れたものである。その見た目に反して、黙々と作業すればこの程度の量は二時間や三時間で全て片付くということを既に知っているからだ。
しかも会長たちは他の仕事をスペシャルウィークよりも迅速に捌いたうえで、彼女が処理した書類にミスがないか改めてチェックし直すのが常なのだ。人手が増えて仕事が減るどころか、書類事務の指導と問題点の指摘を行わなければならないぶん余計な手間が増えている。
ミスをしても怒られることはないし、むしろ丁寧に何故間違っているのか、何故間違いが起こるのかまで教えてくれるのだが、それはつまりただでさえ忙しい先輩に本来不必要な時間を取らせるということだ。
「ああ、今日はエアグルーヴのデスクを使ってくれていい。今日は委員会との折衝に出ていてね、しばらくは帰ってこないはずだ」
「ありがとうございます、お借りしますね」
スペシャルウィークはそう返しながら椅子に座り、デスクに積み上げられた書類と向き合う。
彼女の生来持ち合わせた生真面目さ、そして『未来の生徒会長に相応しいと自身が考える振る舞いを』という陽室からのオーダーが組み合わさって、生徒会室でこうして過ごしている間の彼女は緊張を強いられ続けていた。そもそも、今の彼女にとって学園生活の中で気を抜ける時間というものはほぼ存在しないのだ。
朝は早起きして当日分の宿題を駆け込みで終わらせ、サイレンススズカが起きてきたら二人でジョギングに出かける。帰ってきてシャワーを浴び、朝食を食べて登校。午前中は授業をしっかり受け、昼食の後は生徒会室へ。シンボリルドルフの指導を受けながら書類仕事を、ときには会議での書記役などもこなし、15時になったらグラウンドかレッスンルームに移動し、陽室とベルノライトに迎えられてトレーニングがスタートする。
トレーニングが終わるのは大抵20時を回るので、急いで寮に帰ってお風呂と夕食と明日の支度。やりたいこともやらないといけないことも山積みだが、深夜まで起きているのは厳禁だと陽室に釘を刺されているので、22時には就寝。そして朝の4時に起き、宿題をこなし、サイレンススズカが起きるのを待ち……ここしばらくの間、スペシャルウィークはこのサイクルを繰り返しながら平日を過ごしている。
趣味の時間なんてものを取る余裕はないし、休憩時間もギリギリまで切り詰めているが、それ自体を辛いとは思わない。夢を追うならこれくらいの努力は当然だと彼女は考えていた。
むしろ彼女にとって辛かったのは、一日のほとんどを気が抜けないまま過ごさなくてはならないということ。同じクラスの友人が相手でも、同じ部屋の先輩が相手でも、素の自分を出せない。出してはいけないのだ。
演技が無意識になるまで、素顔になるまで、辛くなくなるまで。
……そこに辿りつくのは、一体いつなのだろう。
「スペシャルウィーク。手が止まっているぞ」
その声に、彼女の意識が思考の海から引き戻される。ナリタブライアンがソファ越しにスペシャルウィークの顔を覗き込んでいた。
「あっ、ごめんなさい。ちょっと……考え事をしていて」
ちょっと疲れていて、と言いそうになったのを彼女はごまかした。弱音を吐くのは
「そうか」
ナリタブライアンはそれ以上深く追求しなかった。その代わりか、マグカップ片手に会話を続ける。
「書類仕事は好きになれないか」
「いえ、そんなことは。まだ慣れていないので、困ることはありますけど」
「私は嫌いだ。いつまで経っても変わらん」
スペシャルウィークは思わず顔を上げた。
「でも、ブライアンさんは書類をさくさく片付けて……」
「数をこなせば慣れる。だが、慣れと嫌悪は矛盾するものではないだろう」
湯気の立つコーヒーを一口啜り、ナリタブライアンは続ける。
「仕事に勤しむのは構わないが、嫌いな仕事を好きになろうとするな。良いことがないぞ」
「……ありがとうございます。でもここで躓いていたら生徒会長なんて目指せませんし、まだまだ頑張らないといけませんから!」
笑顔を作りながら言葉を返し、同時に書類へと目を向けるスペシャルウィーク。そんな彼女の行動を見て、ナリタブライアンは立ち上がった。
「ふん……会長、スペシャルウィークを借りていっても構わないか。用事ができた」
「え?」
つい気の抜けた声が出てしまう。しかしそんな彼女を無視して話は進んでいく。
「……ああ、さほど忙しくもないし、構わないよ。雑務は私が片付けておこうか」
「話が早くて助かる」
「ま、待ってください! まだ全然仕事が終わってないのに……」
「だからそれを会長が代わりに片付けると言っている。そして私は用があるのでこのままオマエを連れていく。何か問題があるか?」
「問題しかないですよ!?」
あまりにも急展開すぎて理解が追い付かない。そうこうしている間にナリタブライアンはマグカップをテーブルに置き、そのままスペシャルウィークの左腕を引っ掴んで歩き出す。
「わ、分かりました! ちゃんとついていきます、自分で歩きますから!」
凄まじい力に冷や汗が出てくる。スペシャルウィークも脚力には多少なりとも自信があるつもりなのに、まともに踏ん張ることすら許してくれない。結局ナリタブライアンが腕を離したのは、二人が生徒会室の外に出てしまってからのことだった。
「あの、ブライアンさん……?」
「私の話にそう時間は取らせん。ついてこい」
入口のドアを閉めながら彼女は言った。その言葉には文字通り有無を言わせない雰囲気が乗っていたし、ここまで来てまだ抵抗するほどスペシャルウィークは物分かりが悪いわけでもない。
素直にナリタブライアンの後ろを歩く。廊下を通り、階段を降り、そのまま一階へ。彼女がどこに向かおうとしているのか、スペシャルウィークにはさっぱり見当がつかなかった。そのまま校舎を出て渡り廊下に足を踏み入れたタイミングで、ナリタブライアンはようやく口を開く。
「やはり不測の事態には弱いな、スペシャルウィーク。随分とめっきが剥がれていたぞ」
その言葉にはっとして、しかしスペシャルウィークは何も答えられなかった。
「努力は認める。だが、何事が起きても泰然と構える余裕が今のオマエにあるようには見えない。相当に無理をしているだろう?」
先程と違って、今回はごまかしたところで意味は無さそうだということに彼女はもう気付いていた。
「……無理をしないと変われませんから」
「何故変わろうとする?」
ナリタブライアンがさらに問う。
「スペシャルウィーク、どうやら勘違いをしているようだが。オマエは会長ではない」
「え? それは、はい、そうですけど……いずれは生徒会長に」
「役職の話ではない。オマエはシンボリルドルフ会長ではないし、そう変わることは叶わないと言っている」
二人の他は誰もいない渡り廊下で、ナリタブライアンの鋭い言葉が響いた。