電子的なメトロノームの音が止まり、スペシャルウィークは一息ついた。
「スペ。このようなことはあまり言いたくありませんでしたが」
ダンス指導を行っていた陽室が静かに告げる。
「貴女、太りましたね?」
「乙女の秘密を軽々しく言わないでくださいっ!」
スペシャルウィークの絶叫にも近い声が響くライブレッスンルーム。壁一面が鏡になっている広い部屋にその声が乱反射する。彼女の反応に、陽室はひとつ溜息を吐いた。
「太ったのが悪いと言っているわけではありません。有馬記念までに十分調整できる範囲ですし、食事制限をしてこなかった状況でよく制御できているとは思いますよ」
本格化の最中は特にそうです、と付け加えつつ陽室はすたすたとスペシャルウィークの方に歩み寄り、そのまま体操服の上からスペシャルウィークの脇腹にそっと手を当てた。
「ひぅっ!」
「やはり貴女はすぐウエストに影響が出ますね。セパレートの水着などを着る機会があるのならば、気をつけるべきかもしれませんよ」
「そんなことしばらくないから大丈夫です!」
「ふむ。確かにターフへ水着でやってくるようなことがあれば、私はそれを見るなり貴女を蹴飛ばしにかかるでしょうが」
自分のことを蹴飛ばすトレーナーの図は全く想像できなかったが、それを口に出すこともできず、スペシャルウィークは黙って若干の涙目で睨み返すに留める。もし実際にそんな機会が訪れたならば、陽室は『なるほど、愉快なのでやりましょう』などと言うに決まっている。
そんな視線もどこ吹く風で、陽室は一歩離れてスペシャルウィークの体つきを正面から遠慮なく眺めた。
「ウマ娘は基本的にヒトと比較して、とんでもない新陳代謝を誇ります。多く食べなければあっという間に餓死してしまうでしょうし、そう考えれば大食漢というのも才能のうちです。運動量を元に戻せばすぐにすとんと落ちますよ。太るのと同じだけの時間をかけて痩せる分には、リバウンドもしにくいでしょうからね」
陽室はそう言いつつふわりと笑った。
「そろそろレースに向けて動かねばならない時期ですし、体重を落とすためにも負荷を戻しましょうか」
「お。やっと練習再開デース?」
レッスンルームの入り口からそう声が掛かり、振り返る陽室とスペシャルウィーク。
「あ、エルちゃん」
「ふふっ、私もいますよ」
「ミス・エルコンドルパサーにミス・グラスワンダー……リギルの皆様がここまで足を運ぶとは珍しい。如何されましたか?」
二人にそう問いかける陽室。
スペシャルウィークの指導を始めてからは時間も規模も縮小気味だが、陽室の本業は『URA特定芸能活動認定指導員』、つまりはウマ娘を相手にしたステージ指導であり、ウイニングライブ対策なのだ。トゥインクル・シリーズ、すなわちレースに向けた指導を生業とするトレーナー……URA平地競走上級指導員はあくまで走法等の指導を行うトレーナーであって、ライブ関連の指導力は問われないため、ライブ指導は陽室のようなライブ専門の指導員に委託することが通例だ。チーム内でライブレッスンまで完結することは
その
だからこそ、グラスワンダーやエルコンドルパサーが陽室の『城』であるライブレッスンルームに顔を出すこと自体がそもそもまれなのである。
「スペちゃんが気になってしまって、偵察と宣戦布告に」
「ケッ!?」
笑顔でそう言ったグラスワンダーに、エルコンドルパサーの尻尾が跳ね上がる。どうやらエルコンドルパサーの聞いていた内容とは話が違ったらしい。
「おや、偵察ですか。よくミス・東条が許しましたね」
「振り切って来ちゃいました」
「……素直で結構。こちらは構いませんが、ミスには後で謝罪しておきなさい」
表情も変えずにそう述べた陽室だが、スペシャルウィークはじっと黙って続きを待った。
「私たちも気にしていたんです。スぺちゃんを最近グラウンドで見ることがなくなったので、もしかしたらなにかあったのじゃないかと」
「ええ、それはもちろん。理由なく長期の休養を取らせはしませんよ。必要な余暇でした。ですが……そうですね。ジャパンカップ出走のタイミングを逃してしまったことには少々思うところはあります。まあ、スペならばこの先獲る機会もあるでしょう」
エルコンドルパサーに視線を向けつつ陽室は言った。今年のジャパンカップを颯爽と奪っていったエルコンドルパサーの顔が、フェイスマスク越しでもわかるほど露骨に真顔になるも、彼女はすぐに笑みを取り繕う。
「スぺちゃんがいないジャパンカップなんて歯ごたえがなさすぎて、さくっと獲らせてもらったデス。……次はないデスよ?」
それを聞いて陽室はスペシャルウィークへちらりと目線を送る。
「……うん、そうだね。次は、ないね」
スペシャルウィークの声から感情が落ちる。それを聞いたエルコンドルパサーがにっと笑う。
「そう! 日本最強はまさしくスペシャルウィーク。けれども世界最強になるのは、このエルコンドルパサーデース!」
「エルほどではないですが、私も気になっていたので、こうしてお邪魔しております」
ポーズを決めるエルコンドルパサーの隣でグラスワンダーがそう言った。その言い草に明らかにショックを受けたポーズを取るエルコンドルパサー。
「グラース!? なんだかエルのことをダシにしてませんかっ!?」
「まさか。そんな物騒なことを考えているとでも?」
「誰も物騒なんて言ってないデース! 勝手に自白しないでくだ────」
「エル」
グラスワンダーの一言でぐっと黙り込む。
「まあ、ライバルの様子を気にするお二人の気持ちは痛いほどよくわかりますとも。そしてスペもその感情に対して自覚的になるべきですね」
陽室がスペシャルウィークの方に向き直る。
「上に立つこと、もしくは上に立とうとすることというのは、そういうことなのですよ、スぺ。それらは周囲の視線を集める行動であり、心配にしろ、応援にしろ、怨嗟にしろ、それなりの関心を集める行動です」
「はい」
スペシャルウィークの素直な返事に、陽室は満足そうに頷いた。
「よろしい。それをより意識すれば、過度の暴飲暴食も減るでしょうし、すなわち太り気味にはならずに済みます」
「あっ! なんで二人がいるところでその話を蒸し返すんですかっ!?」
それを聞いたエルコンドルパサーがにやりと笑う。
「フフーン? その太り気味、さては食堂でオグリ先輩サイズのメニューを平らげたうえ、公園に来ていたキッチンカーでごんぶとチュロスとはちみーXXLサイズを頼んでいたせいデスねー?」
「……スぺ?」
「だって美味しそうだったんですもん!」
さすがに知らなかった情報が飛んできて、じとっとした視線を向ける羽目になる陽室。当のスペシャルウィークは耳ごと頭を抱えるようにして、一言も聞いてたまるかの姿勢である。
「あと、チョコクロワッサンがおいしいパン屋さんで? 両手に紙袋を抱えて出てきて?」
「わーっ! わーっ!」
「さらにさらに雨の日にも関わらず、ショートケーキをホールで買って帰ってたのもアタシは見たデスよ!」
「エルちゃんストップ! ストップっ! それにケーキはスズカさんとかと分けて食べたからノーカンだよっ!」
「でも『半分はスぺちゃんが食べた』ってスズカ先輩も言ってたデース!」
「スズカさん、口軽いよ……!」
スペシャルウィークが同室の先輩を一人恨んでいる中、グラスワンダーはニコニコと口を開く。
「そういえば一昨日あたり『おいしいお蕎麦屋さんを見つけたんです!』って言ってきましたよね、スぺちゃん……」
「グラスちゃんまでっ!?」
そのやり取りを聞いて盛大に溜息を吐く陽室。
「スぺ。大食漢は才能だと言っておいてなんですが、さすがに限度というものがあります。というよりそれだけ食べておいて、なおかつあれだけ練習を減らしておいて、なぜその太り具合で済んでいるのですか。世の中の女性から恨まれても仕方ありませんよ」
「そ、そんなことを言われましても……」
「体重を増やすのも落とすのも、意図的にするには苦労するものです。とりあえずお腹回りをひっこめますよ。筋肉量を戻すため、タンパク系の食事メインに切り替えるようにベルノと調整しましょう」
「……ということは、もしかして」
「はい、初めての食事制限です。しかしご安心なさい。貴女のストレスになるほど無理な制限はしませんよ。とはいえ、何をどれだけ食べたのかはベルノに逐一報告するように」
「そんなぁ……」
スペシャルウィークの顔が絶望に染まる。好きなものを好きな時に好きなだけ食べられるという環境から追放されるというのは、スペシャルウィークにとってとても重たいものなのだ。
「ふっふっふ……そもそも食事制限なしであそこまで走れるスぺちゃんが一番規格外だったんデース。エルと同じ地獄を味わうがいいデース……!」
指をわきわきしながら近づいてくるエルコンドルパサーからじりじりと距離を取るスペシャルウィーク。
「効果を確かめるためにも、エルが毎日触診してあげマース! まずは今日のだるだる具合を確認……」
「ちょっとエルちゃん!?」
エルコンドルパサーが飛びかかり、文字通り飛び上がってそれを避けるスペシャルウィーク。そのまま廊下へと逃げ出すが、エルコンドルパサーが急旋回してそれを追いかけた。
「……やれやれ。二人して何をやっているのだか」
「エルもスペちゃんも元気があっていいですね」
そう口にするのは二人に置いていかれたグラスワンダーだ。
「ミス・グラスワンダー、追いかけなくても構わないのですか?」
「えぇ、おそらく勝負がつく前に教官か先生に掴まって怒られるでしょうから」
それに、とグラスワンダーが続ける。
「一度、陽室トレーナーに聞いてみたいことがあったんです」
「聞きましょう」
「
普段通りのトーンでそう口にするグラスワンダー。
「それは、なぜ私がスペシャルウィークを選んだのか。なぜグラスワンダーではなかったのか、なぜ他のウマ娘ではなかったのかという意味であると受け取っても?」
「概ね」
それを聞いて陽室は肩をすくめる。
「傲慢……ですね」
「それは私も自覚しております」
「いいえ、ミス。貴女の事ではありません。彼女が、スペシャルウィークが傲慢だからこそ、私は彼女に手を伸ばしたのです」
その答えに面食らった様子のグラスワンダーに、陽室は笑いかけた。
「努力できることも才能であるように、勝ち続けることも才能です。それに耐えられるだけの精神力も必要です。周りが望み、それに答え続けることは容易ではありません。それをこなすには、貪欲に、かつ、留まることを知らない傲慢さが必要です。彼女はそれを持ち、それを証明しうると考えた。それだけのことです」
今の貴女がスペに視線を向けているように、と陽室は真顔で続ける。
「彼女はあらゆる視線を集め、それに耐えることができる。その才能を最大限に発揮し、遙かなる高みへと駆けていくでしょう。その先に望める可能性、その果てまで見通すような無謀な賭けを始めた彼女を、応援してみたいと思ってしまった……そんな酔狂が一人いたところで何も問題はないでしょう?」
「半ば無責任に聞こえますが」
「ええ、そうでしょうとも」
そう同意してグラスワンダーに真正面から向き合う陽室。
「私は道楽でトレーナーをしておりますので」
その顔には微笑みが浮かぶ。
「夢を叶えるうえでの責任も、夢を叶えてからそれを喜び誇る権利も、全ては夢を持つ本人にのみ許されるものです。私が行った助言の責任は取りますが、しかし私の責任はそれまでです。まるで命を懸けて走るような子の責任は持てませんし、そもそもそこまでの責任を持つ気もありません」
命懸けでなければレースに勝てない子は私向きではない、とは口にしなかった。それでもグラスワンダーには伝わったらしく、顔色が明らかに変わった。
「無論、スペが本気ではないと言うつもりは毛頭ありません。彼女は常に自分が本気だと信じていて、その行動には芯が通っていて、そして全身全霊でターフを走っていますとも。それでも勝利のために命を懸けたりはしない。……貴女たちは、本気すぎる。そのような気高い本気さに脚を取られているうちは、
それを聞いたグラスワンダーはしばらく動きを止めていたが、吹き出すように笑った。
「なるほど、理解しました」
「それは良かった。よろしければ、私の発言を受けた貴女の見解を聞いても?」
「……あなたは、間違えている」
それを聞いた陽室は瞳を閉じ、そして手を叩きながら大声で笑った。
「結構、大変結構! 青臭い断罪は
「ごきげんよう、陽室トレーナー」
グラスワンダーは静かに頭を下げた。