「一体何が起こっているんだ!?」
「わからない! 今言えるのは、スペシャルウィークは掛かったわけじゃなかったってことだ!」
メガネの男性とパーカーの男性が巨大なスクリーンを見ながら叫ぶ。その声を聴きながら、黒いショートヘアのウマ娘は双眼鏡を覗き込んでスペシャルウィークの姿をずっと追い続けていた。
「スペシャルウィークさん、すごい……!」
レースも中盤。向正面に入り、コーナーでは鳴りを潜めていた競り合いが一気に顕在化している。しかしそんな中でも、スペシャルウィークは顔色ひとつ変えずに三番手を堅持していた。
普段はキュートで穏やかで、それでいてまっすぐで。なのにレース中はクールでかっこよくて、誰にも負けないような強さを見せつけて。そんな彼女の二面性に少女は強く惹かれていた。スペシャルウィークの見せるレースとステージに魅了された、と言い換えてもいい。
「あっ、ブライアンさんがスパートしてる!」
隣で同じように双眼鏡を覗いていた亜麻色ロングヘアのウマ娘が──気心知れた、少女の親友である──そう言ったのが聞こえてきて、少女はスペシャルウィークから視線を外した。
「どこ!? どこにいるの!?」
「真ん中あたりだよ! ミークさんが抜かれて……エアグルーヴさんも抜かれてる! たった数秒で……!」
慌ててスペシャルウィークの後方を見てみれば、確かにナリタブライアンの姿がそこにはあった。怒涛の勢いで直線を駆けるその姿は、まさしく怪物のそれだ。
「ナリタブライアン、こんな早くからギアを切り替えて大丈夫か!? 終盤に失速するぞ!」
「いいや、このタイミングじゃないと間に合わないんだ! 足場が悪すぎる上にスペシャルウィークが前すぎる!」
少女はトゥインクル・シリーズを夢見てはいるものの、決してレースそのものや戦術について詳しいわけではない。だが二人の解説のおかげで、ウマ娘たちが何を考えながら走っているのかは理解することができた。
じりじりとナリタブライアンが前との距離を詰めていく。しかし彼女の目前にはエイシンフラッシュとファインモーションの姿があった。
「ブライアン、完全にブロックされてるぞ!」
「おい、後方から追い上げだ! フクキタルとヒシアマが加速態勢に入ってる!」
「冗談だろ!? 二人してここからロングスパートする気か!?」
「マジだよ、ゴルシももう来てる!」
「……だとしたら、このままじゃブライアンは身動きできなくなるぞ!」
今や戦況は混沌を極めていた。誰か一人が仕掛け始めるとそれに呼応して、あるいは焦って他の誰かもまた行動を始める。少女は誰を見るべきかわからなくなって、結局スペシャルウィークに視線を戻すことにした。
少女がスペシャルウィークを応援するようになったのは皐月賞からのことだ。だが、その頃と比べると今のスペシャルウィークは全く違う走りをするようになったと少女は感じていた。
まず第一に、表情を出さなくなった。毎日王冠以降ずっと、スペシャルウィークはレース中に顔色のひとつも変えずに走り抜けるようになった。その真意を記者に問われたとき、彼女は一言『作戦の内です』と返したのみだ。
そして第二に、変わった走り方をすることが増えた。こちらは日本ダービーのころから時々と言ったところだが、予告なしで大逃げしてセイウンスカイ相手に競り勝ったり、かと思えば最後尾から追い込んでサイレンススズカ相手に差し切ったり。『奇を
そして今日もまた、彼女は感情をひた隠しながら奇妙な走りを見せている。けれども、少女はやはりスペシャルウィークの勝利を疑ってはいなかった。
レースはいよいよ終盤戦。未だ先頭を守るセイウンスカイが第3コーナーへ入り、続くはグラスワンダーとスペシャルウィーク。そしてその外から迫り来る影がひとつ。
「ルドルフが動いたぞ!」
解説がなかろうと、その一言だけで充分だった。ここまでずっと目立った仕掛けをせずにいたシンボリルドルフが、ついに先頭を狙って牙を剥いたのだ。
しかし、急転直下の展開はそれだけでは終わらない。
「ブライアンも上がってきた!」
「そんな馬鹿な、あそこからどうやって!?」
「ド真ん中をぶち抜いたんだよ!」
先程まで行く手を阻まれていたはずのナリタブライアンが、その規格外のパワーを以て殴り込んでくる。『皇帝』には負けられないと言わんばかりに、『怪物』が名乗りを挙げたのだ。
「このままじゃ……このままじゃ、スペシャルウィークさんが呑み込まれちゃう」
少女の親友がそうぼそりと呟く。
「ううん、違うよダイヤちゃん」
「え?」
少女の否定に返ってくるのは困惑の声。
「呑み込むのは、スペシャルウィークさんだよ」
そう断言した少女の声は、若干上擦っていて。その言葉は、スペシャルウィークに魅入られた者のそれだった。
「キタちゃん……?」
「ほら、見てて」
シンボリルドルフとナリタブライアンが一気にスペシャルウィークを追い抜いていく。グラスワンダーとセイウンスカイは抜かれまいと必死だが、もはや時間の問題か。
だが、後方から追い上げてくるウマ娘たちの集団がここで一瞬途切れた。割り込んでも危険走行とはならない、わずかなタイミング。スペシャルウィークはそれを見逃さなかった。
軽いステップでも踏むかのように、スペシャルウィークが外ラチ側に二歩三歩と寄る。
「来るよ、スペシャルウィークさんが」
少女の言葉と共に、先頭集団を猛追するエルコンドルパサーたちの前にスペシャルウィークは躍り出る。
そして次の瞬間、スペシャルウィークの姿は
「…………え?」
少女の親友が呆然とした声を漏らす。
確かに見ていたはずなのに。間違いなく彼女を見ていたはずなのに。彼女はいつ加速した? いつ速度に乗って、ナリタブライアンに並んだ?
「……なあ、今さ」
「……
彼らがそう誤認するのも仕方のないことだった。スペシャルウィークはまさしく飛ぶように脚の力を使い、瞬発的な加速力を無理やり得たのだから。
それがどれだけ脚に負担をもたらすのかはもちろん言うまでもない。いくら怪我知らずの身体を持つスペシャルウィークであっても、無策のままに行えば足首の骨が砕けるかもしれないものだった。もっとも、衝撃を吸収して逃がすことに特化した特異なシューズや蹄鉄をわざわざ用意していたのならば……話は別かもしれないが。
少女はふと思い出した。あれは確か、スペシャルウィークを応援し始めて、彼女がこれまでに走ったレースの映像を漁っていたときのこと。ホープフルステークスを勝ったときの記者会見で、終盤の見事な差し切りについて記者に問われたスペシャルウィークはこう言っていた。
『トレーナーさんに、飛ぶように走りなさいと言われたので』
スペシャルウィークは既にその答えを示していたのだ。だから自分はスペシャルウィークのことをこうして信じていられるのだ。
「いっけぇ、スペシャルウィークさあぁぁん!」
自分が送れる精一杯のエールを声に乗せる。きっと届かないだろうとわかっていても、そうせずにはいられなかった。
しかしそう叫ぶとほぼ同時、少女はほんの一瞬だけ得体の知れない寒気を感じた。
「……ッ!?」
誰かに睨まれたような、何かおぞましい視線を確かに向けられた。そんな気がした。思わずレースから目を離して、周囲を見回してしまう。
「頑張って、スペシャルウィークさん!」
「勝てる、勝てるぞスペシャルウィーク!」
「俺達に夢を見せてくれ、スペシャルウィーク!」
少女の近くに妙な人影はなかった。そう言い切れるのは、観客席にいる誰もがレースの行方を、走るウマ娘たちを注視していたからだ。少女の親友を始め、自分以外の誰かがその視線を感じたような様子もない。
「……気のせい、だよね」
少女は自分にそう呟いた。自分に言い聞かせるためだった。
そう、今はそんなことに気を取られている場合ではない。もうゴールは目前だ。何があろうと見逃すわけにはいかない。
最終コーナー、かろうじて先頭争いをしていたセイウンスカイとグラスワンダーが失速していく。スタミナがついに切れたのだろう。二人とも半ば根性のみで走り続けているような状態だ。
そしてそんな彼女たちを颯爽と追い抜く影がひとつ、ふたつ、みっつ。コーナーが終わり、最終直線に入って横並びになる三人の三冠ウマ娘。
中山の直線は短い。トゥインクル・シリーズを知っているものなら当然知っていることだ。そしてその直線の勝敗を分かつのが中山名物の急坂であることも、やはり常識だろう。
そして、ここに集う観客たちはよく知っている。今日から現役最強の名を欲しいままとする、登り坂も下り坂も苦にせず駆ける三冠ウマ娘の名前を知っている。
スペシャルウィークだ。誰かがそう呟いた。
少女の目には先頭が誰なのか、今ここで誰が抜きんでているのか判別がつかなかった。ただ、スペシャルウィークの走り方が他の二人とは違うことだけが理解できた。
急坂を走るスペシャルウィークの『飛翔』がもたらすのは、まず1秒にも満たない時計の短縮でしかない。しかしそのわずかな時間こそ、彼女の強さを証明するために必要な最後のファクターだった。その事実を見抜いていた者が、果たしてどれだけ存在するのか。
残り100m。まだ横並びだ。
残り75m。まだだ。まだわからない。
残り50m。ほんの少しだけ、彼女が前にいる気がする。
少女は観客席から半ば身を乗り出すようにして、スペシャルウィークのことを視線で追いかけていた。考えるまでもなく、身体がそうしていた。
シンボリルドルフが、ナリタブライアンが、目を見開いている。強敵と競い合える一瞬をただ愉しみ、そして未だ諦めることなく勝利を掴もうとしていた。
スペシャルウィークが目を細めている。証明した勝利の先にある何かを視て、視界が眩んだかのように。それでも彼女は淀みなく駆け抜けようとしていた。
そして、その瞬間は訪れる。
『────ゴールイン! 三冠ウマ娘が三人揃ってゴールインだ! 目視では全く判別できません! そして続くはゴールドシップ、さらにセイウンスカイ……』
実況の声が観客の大歓声に掻き消される。そしてそれとは対照的に、少女の心は冷静さを急速に取り戻していく。
「すごかったね、ダイヤちゃん」
「うん、本当に、本当にすごかった」
そう言葉を吐きつつ、少女たちは隣の男性二人を見上げる。
「……このレースは、後々まで語り継がれるぞ」
「……どうした急に」
その掛け合いに少女は思わず笑ってしまう。こんなときまで彼らは全くブレないらしい。
「だってお前もそう思うだろ?」
「そりゃ、まあ、当たり前だよ。……で、だ。誰が勝ったと思う?」
パーカーの男性にそう問いかけられて、メガネの男性は顎に手を当てた。
「……正直、わからん。同着だったって言われても納得する。だが、スペシャルウィークが少しだけ抜け出していたような気もする。写真判定を待つしかないだろう」
「だよなあ……」
互いに頷きあう二人。しかしまとまりかけた会話に待ったをかける声が響く。
「スペシャルウィークさんだよ」
「スペシャルウィークさんです」
きっぱりとそう宣言する少女たちの、きらきらとした瞳。
「……確かに、君たちの言う通りかもしれないな」
メガネの男性がそう言って笑った。パーカーの男性もそれに同意する。
「だな。……あれ、ちょっと待て。スペシャルウィークがこっちに来てるぞ」
その言葉に、三人のみならず周囲の観客たちがざわつく。ターフの方に目を向けてみれば、確かにスペシャルウィークがこちらに歩み寄っているではないか。
「誰か知り合いが来てるんじゃないか?」
彼ら彼女らは知るよしもないが、確かに近くの観客席にはベルノライトが未だ座している。だが、今のスペシャルウィークが目的としているのはベルノライトではなかった。
ゆっくりと息を落ち着けるようにして歩いてきたスペシャルウィークは、観客席を軽く見まわして……他ならぬ、少女に視線を向けた。
穏やかな笑顔でスペシャルウィークは口を開く。
「さっき、私のことを応援してくれたよね? ありがとう」
「……え? え!? ど、どうしてっ」
慌てふためく少女。その反応も当然だろう。
「第三コーナーで貴女の声が聞こえたの。不思議だよね、こんなにたくさん人がいるのに……おかげで、迷わずに最後まで走れたから。どうしてもお礼を言いたくて」
「い、いやいやそんな、私は本当にただ応援しただけで……っていうか、どうしてそれが私だって……?」
「声が聞こえてきたほうを見てみたら、貴女と……それから一緒に応援してる人たちがいて。きっとあの子が応援してくれたんだろうなってなんとなく思っただけだよ」
スペシャルウィークの言葉に思わず感極まりそうになる少女だったが、なんとか前を向く。
「その、えっと……有馬記念、優勝おめでとうございますっ」
「まだ結果は出てないよ? もしかしたらルドルフさんかブライアンさんかもしれないし」
「ううん、絶対にスペシャルウィークさんです!」
改めてそう力強く宣言する少女に、スペシャルウィークは笑って右手を差し出した。少女もそれに応える。がっしりと握手する二人の姿を、周囲の観客たちは拍手と共に称えていた。
────もしも。
もしも、少女が声を張り上げて応援したそのときに目を瞑っていなかったら。あるいは、スペシャルウィークが少女の方を見たという事象について、もう少し深く思考を巡らせていれば。
レースの最中に感じた恐ろしい寒気の正体に、少女は思い至ったかもしれない。
机上に積まれた新聞が、バランスを崩してばさりと落ちた。
『スペシャルウィーク、有馬記念を制す』
『次に目指すは「天皇賞春秋連覇」』
『海外遠征にも前向き、「凱旋門も検討に値する」』
お堅い全国紙からマイナーなスポーツ紙まで、どれを見てもスペシャルウィーク特集だ。
見れば見るほど溜息が漏れる。溜息を吐くと幸せが逃げるなどとよく言われるが、その点今の自分には幸せらしい幸せなど見当たらないので吐き得だろう。
ベッドの上に寝転んで、腕を組んで、ぼんやり天井を見つめて。有馬記念が終わってから三日間、ずっとそうやって時間を潰していた。普段からサボり魔とはあだ名されているが、こんな気分で惰眠を貪っても心地良くはなれない。それでも身体を動かす気力がいまいち湧かなくて、結局何をするでもなくこうしている。
「スペシャルウィーク、黄金世代筆頭、常勝無敗の流星……日本総大将、か」
セイウンスカイの小さな呟きは、誰にも聞かれることのないまま消えていった。