遠くで優雅な音楽が流れ始める。会場はどうやら完全に復旧したらしい。体育館に面した中庭のベンチに座り、その音楽を右から左に聞き流しながら、セイウンスカイはペットボトルの水を口に含んだ。喉がやけに渇く。襟元の第一ボタンと蝶ネクタイを緩めて少しでも楽にする。
「……私は、スペシャルウィークのことを、本当に知っているのか」
セイウンスカイの頭の中で響くのは数週間前に掛けられたフジキセキの言葉だ。その命題が、その問いが、まさに『正鵠を射ていた』ことにゾッとする。
フジキセキは確かにセイウンスカイが見えていなかった一面を正確に捉えていた。座学中には見せないスペシャルウィークの一面。練習中はおろか、パドックでも、ターフでも見せない彼女の一面、それをフジキセキは極めて正確に捉えていたのだ。
「……あれは、なんだ」
そう呟いて、セイウンスカイは自分自身に問いかける。自分の思考回路は、あのスペシャルウィークをどう処理すればいい。アグネスデジタルが何故かファインモーションの護衛に取り押さえられたその瞬間の振る舞いを、どう解釈すればいい。
「……パーティの夜に一人きりというのは、スカイさんらしくないわね」
その声にセイウンスカイが顔を上げると、そこには深い臙脂色のドレスを身に纏った見知った顔があった。
「キングこそ、ウララちゃんと踊りに来たんじゃなかったの?」
「ダートで走ってる子と踊ってきたいってフラれちゃったわ。貴女と似たようなものね」
貴女と似たようなもの。そう言われ、スペシャルウィークの微笑みが脳裏に浮かぶ。
「……盗み聞きは一流の行為とは言えないんじゃない?」
「あれだけ目立つことがあったばかりだからしょうがないじゃないの!」
そう言って目を三角にするキングヘイロー。だが、その顔はすぐに優しく緩んだ。
「隣、いいかしら?」
「勝手にどうぞー」
律義に許可を取るあたり、本当にキングヘイローらしい。彼女がセイウンスカイの左隣に収まってから、しばらく無言の時間が続いた。何故キングヘイローがここに来たのかを考える。何故声を掛けに来たのかを考える。
「スカイさん、貴女は……」
「何さ」
「貴女は、スペシャルウィークさんのことをどう思っているのかしら」
「……それ、またキングが中距離戦線に復帰するってことでいいのかな」
キングヘイローはクラシックでの不振を受けて、数ヶ月前から短距離戦線に乗り換えている。どうやら彼女にはスプリンターとしての才があったらしく、数日後には高松宮記念への出走を控えていたはずだ。セイウンスカイにその乗り換えを揶揄する意図はないが、思うところが何一つなかったかと言えば嘘になる。
「いいえ。私は私の道を行く。そう決めたことを反故にするつもりはないわ」
「スぺちゃんから逃げたのに?」
「そんなことを言う貴女はスペシャルウィークさんに囚われているのではないの?」
キングヘイローは顔を正面に向けたままそう言った。その目が細められ、セイウンスカイを射貫く。
「少なくとも、貴女にはこのキングヘイローが逃げたように映っているということはよくわかったわ。そう思っている貴女にいくら言葉を掛けたところで届きやしないってことも。それでも、スカイさんほどの逸材が緩慢な死を迎える現状を、ただ指をくわえて見ているなんてできないのよ」
「……どういう意味なのかな」
「文字通りよ。……貴女、スペシャルウィークさん以外見えてないでしょう。そして、彼女以外にこれ以上負けることなんて考えてもいない。それじゃあ、スペシャルウィークさんにも勝てはしないということも、考えたことがない」
でしょう? という声にセイウンスカイは答えることができない。
「確かに実力で見ても、私達の世代で今あの子に一番近いのはスカイさんよ。けれども、今の貴女は冷静さを失っている。スペシャルウィークさんという熱病に侵されているのは、決して世間だけじゃない」
キングヘイローは腕を組む。
「スペシャルウィークさんは強い。それは認めざるを得ない。それを倒そうと皆が躍起になっている。皆が勝手に私たちに希望を預けていく。皆が勝手にレースに色をつけていく。そしてそれが、彼女の背中を押し続ける。常勝無敗の総大将でありつづけること、力を誇示し続けること、それが彼女を形作っている」
「キングは何が言いたいのかな。難しい話はセイちゃん苦手なんだけどなぁ」
「
キングヘイローらしからぬ絶対零度まで冷え込んだ声に、セイウンスカイが黙り込む。
「スペシャルウィークに皆が絶対を見る。シンボリルドルフ以来の逸材として、絶対を見る。そして私たち挑戦者には、その絶対を突き崩せと彼女の強さを直視することを強いる。それが重しになる。レースの本質は、あの子の強さは、そこにはない」
「じゃあ、どこにあるってのさ」
「……おそらくスペシャルウィークさんは、とても周囲の目に敏感なのよ。そしてそれを器用に利用して、自らの虚像を、自ら纏う……多分、そういうことをしている。周りが勝利を望む限り、あの子は折れないでしょうね」
「なら、いつも見てたスペちゃんはなんなのさ」
半ば反射的にそう言い返すセイウンスカイ。噛みつくべき相手は目の前のキングヘイローではないことなどわかっているが、それでも噛みつかずにはいられなかった。
「覚えているかしら。スペシャルウィークさんがまだ転入してきたばかりのころ、スペシャルウィークさんは、座学もボロボロだったし、初回選抜レースに向けて教官に走りを習っていたときも、パッとした成績は残していなかった」
セイウンスカイはそう言われ思い返す。
「でも、すぐにトレーナーがついて、頭角を示し始めた」
「……テンペルの陽室トレーナーと、相性がとてもよかったのでしょうね。でもおそらくは、トレーナーが彼女に役割を与えた。日本一のウマ娘になるという彼女の夢を、最初に学園で信じたのがおそらく陽室トレーナー。その陽室トレーナーが望む虚像をスペシャルウィークさんは被った。そこから一気に飛躍していく。……まるで、悪夢のように」
そう絞り出したキングヘイローは、どこか悔しそうだった。
「スペシャルウィークさんが生徒会入りを目指しているかもしれないという噂も、この仮説に合致するのよ。これまで補習と追試の常連だったあの子が、たったの数ヶ月で学年上位勢に迫る成績。もちろん努力の賜物ではあるはずだけれど、生徒会を目指すという新しい夢が彼女の努力を補強したと考えれば筋が通るわ」
「よかったの? それを私に話しても」
「……キングヘイロー、セイウンスカイ、スペシャルウィーク。三人が揃って重賞レースに出ることはもうないでしょう。だからいいのよ。……悔しいけれど、もう、ないのよ」
「……そっか」
セイウンスカイが腰を上げる。そのまま立ち去るべく足を踏み出した。
「でもありがとう。助かった。……キングの
「スカイさん!」
呼び止められ、振り返る。
「油断しないで」
「わかってる」
残ったのは沈黙だけだった。
「うむ、今回もよい企画となった。エアグルーヴ、ドロワット側の進行を任せてしまって申し訳なかった。それにフジキセキも。生徒会としても、私個人としても大いに助けられた」
シンボリルドルフがそう言って振り返る。窓の外はすでに電気も消え始めている時間帯。生徒会室に集まっているのは、生徒会三役──シンボリルドルフ会長、エアグルーヴ副会長、ナリタブライアン副会長、そしてフジキセキだ。
「私と会長は卒業式にかかりっきりだったからな。顔を出せず申し訳なかった」
「殊勝だね、ブライアン」
「……ふん」
フジキセキが茶化すようにそう言う。そのやり取りに頭を抱えたのはエアグルーヴだ。
「とはいえ、ファインの関係で事故が起きてしまったのが悔やまれます。先ほど、アグネスデジタルのトレーナーから肩回りの炎症があるため注射薬での鎮痛と湿布の処方を受けたと報告がありました」
「報告は聞いている。何はともあれ、命に関わるような怪我ではなくて本当によかった」
シンボリルドルフが胸を撫でおろす隣で、フジキセキが考え込むようなしぐさを見せた。
「でも心配だね、デジタルちゃんは桜花賞が近かったはずだ。尾を引かなければいいけど……」
「その点は生徒会としてもフォローしよう。エアグルーヴ、この件は生徒会
「可能であればその方がいいでしょう。スペシャルウィークがこの件をリードしていたので、切り替えた旨は伝えておきます」
「うむ。これで引き継ぎは以上だな。春のGIシーズンが控えている中忙しいとは思うが、気を抜かずにいこう。本来はこれで解散となるのだが……フジキセキ、話があるということだったが」
シンボリルドルフはそうしてフジキセキに視線を向ける。
「いや、大したことじゃないんだ。……スペちゃんのことでね、ちょっと気になった部分が二つ三つ。生徒会執行部として彼女を次期執行部に入れようとしているらしいけど、彼女にその打診を……それも恐らく会長職の打診をしているのは君だね、ルドルフ」
シンボリルドルフは「そのことか」と笑って頷いた。
「現状、彼女以上の人材はいないと思っているが……フジキセキ寮長から見て、そうは映っていないかな?」
「いい子だとは思うし、あの子自身がそれを望んでいるのなら、応援するべきだと思うさ。でもね、君の行為は周囲から警戒されるに足るものだということを理解しているよね」
「フジキセキ」
とっさに口を開いたエアグルーヴを、シンボリルドルフは手で制した。
「無論、理解しているとも。……おおよそ、フジキセキはこう言いたいのだろう。『シンボリルドルフ、君はスペシャルウィークを操り人形にして長期的な絶対王政を引くつもりではないのかな?』」
その問いに対してフジキセキは肩をすくめるに留める。だが、彼女の表情が何よりの回答になっていた。
「それとも栗東寮寮長として、スペシャルウィークの能力に疑問符を付けたくなるような事象でもあったのかな?」
「いいや。スペちゃんは確かに強いし、いい子だと思うよ。周囲から求められた役割をしっかりと理解して動くことができる。でもね、ルドルフ。だからといって周囲がそれを彼女に押し付けていい理由にはならないんだよ」
「まるで、現生徒会がスペシャルウィークを無理やり会長にしているような言い草だな」
会話に割り込んだのはナリタブライアンだ。
「私もスペシャルウィークと話した。あいつは強い。会長とはタイプが違うが、それでも皆を率いることができるだけの度量はある。そして、彼女はそれを覚悟できるウマ娘だ」
「私もそれを疑っているわけじゃないよ、ブライアン」
「ならフジ、お前は何を問題視している。強い奴が率いることにどんな問題があると言うんだ」
「……ルドルフが会長になってから、中央トレセン生徒会は大きく発展した。スぺちゃんがそれを踏襲していくことは、中央トレセンだけを短期的に見れば大きな利益をもたらすはずだ」
いきなり話題が飛んでナリタブライアンが黙り込む。シンボリルドルフはずっと笑みを浮かべたままだ。
「ルドルフが『ウマ娘全体の幸せのために』という願いを持って会長になったことは理解している。そのために改革を急いだことも、理解している。だけどルドルフ、君は上を見ることしかできなかった。上を見て旗を掲げることが皆を率いると信じた。そして今も信じているんだろう?」
「もちろんだ。
中央トレセンは全国から才能の原石をかき集めた、ウマ娘のレース教育の頂点に文字通り君臨している学校だ。
「地方校は地域に密着しレース文化を育み、中央校はレース文化の目指すべき頂点としてそのあり方を体現する。それがトレセンとしてのあり方だと、心の底から思っているし、変えるつもりは毛頭ない」
「だろうね。そして、それができる存在として、スペシャルウィークを育てている。君がURAに進み、抜本から学校のあり方を問い直すときに、学園側の扇動者として使うために。違うかい、ルドルフ会長」
口元を緩めたシンボリルドルフは、そっと目を閉じた。
「否定をしたところで、フジキセキは納得などしないだろう?」
「だとしたら?」
しばらく沈黙が落ちた。皆が根気よくその続きを待ち続ける。
「この先の数多の勝利と、敗北はきっと彼女のあり方を変えていく。それが誰の思惑によるものかという議論にもはや意味などない。走り出したスペシャルウィークはもう止められない。ならば、それを応援するのが先達の役割だろう」
シンボリルドルフは笑う。
「彼女は生徒会長になるか否かに関わらず、学園を変えていってしまう」
「……かつて、シンボリルドルフがそうだったように、か?」
ナリタブライアンの問いには答えず、シンボリルドルフは続ける。
「童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずる事も童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり」
「────即ち鏡は、瞥見すべきものなり、熟視すべきものにあらず」
フジキセキが後を継いだことに驚いた様子のシンボリルドルフ。まさか答えが返ってくるとは思わなかったらしい。
「ルドルフも聖書を読むんだね。確か、コリント人への第一の手紙……で合ってたかな?」
「今のは?」
「斎藤緑雨さ。気が向いたら読んでみるといい。でも、今のを聞いてはっきり理解したよ。……ルドルフ、やっぱり君は生徒会長になるべきではなかった」
そう言い捨てて、フジキセキが席を立つ。抗議しようとしたエアグルーヴを再度手だけで止めるシンボリルドルフ。
「いいんだ。フジキセキには私を批判するに足る理由がある。甘受すべき批判だ」
「しかし会長」
「
庇おうとしたシンボリルドルフ本人に窘められ、エアグルーヴが悔しそうに黙り込む。
「……『皇帝』シンボリルドルフが絶対でなかったように、『流星』スペシャルウィークも絶対ではない。ルドルフ、スペちゃんのことを君自身を超える
「それでも理想は語らねば始まらない。やはり君こそ生徒会に来るべきだったよ、フジキセキ」
フジキセキは、笑いもせずに出ていった。
//NEXT CHAPTER ==>
第3章『黄昏の天皇賞』
「だったら、ただの負け犬ね」