日本一のウマ娘になるというスペシャルウィークの大言壮語は、その言葉を聞いたほぼ全員に文字通りの夢物語として捉えられていた。しかしそれがどうやら夢で終わるものではないらしいということに周囲が気付き始めたのは、季節が流れて春になってからのことだった。
セイウンスカイと二度目の激突となった弥生賞を制し、続いてキングヘイローも再び加わったクラシック戦線第一の関門たる皐月賞をあっさりと快勝。あっという間にスペシャルウィークはクラシックの一冠を手にし、また同時に日本ダービーへの出走も確実としたのである。
どちらのレースも危なげない勝ちっぷりで、これならば日本ダービーすら鮮やかに勝ってしまうのではないかと誰もに感じさせるほどの強さを、彼女は方々に見せつけていた。
ダービーの本命はスペシャルウィークで決まりだ。そんな空気が醸成されつつあった。
「トレーナーさんと相談して、次はNHKマイルカップに出走することにしました」
だからこそ、記者会見で彼女が放った言葉に報道陣は騒然とした。
「それは……クラシック戦線から外れて、マイルへ舵を切るということでしょうか?」
「いえ、NHKマイルの次は日本ダービーを走ります。『日本一のウマ娘』が、私の夢なので!」
つまりそれは、皐月賞・NHKマイルカップ・日本ダービーの3レースをそれぞれ中二週で走り通すという宣言。前例すらほぼなし、全てを勝利した例は皆無。NHKマイルと日本ダービーだけのローテで見ても、前例となったウマ娘たちは大半が怪我で早期引退している。
当然ながらスペシャルウィークと彼女のトレーナーには内外から批判が殺到した。自らを過信しすぎだ、担当ウマ娘のレース生命を潰す行為だ、皐月賞勝ちで浮かれている。至極真っ当な物言いであった。さらにクラシック・マイル路線を走るウマ娘やそのトレーナーたちからも『調子に乗ったスペシャルウィーク陣営の宣戦布告』として受け取られた。
しかし渦中のウマ娘は決して常識で計れるような存在ではないということに、やはり誰もが気付いていなかった。
5月中旬、黄金世代の並み居るマイル強者が集ったNHKマイルカップ。だが蓋を開けてみれば、1着を飾ったのは
渦巻く批判の嵐と厳しい下バ評の山をまとめて粉砕しながら、彼女はNHKマイルカップという大舞台で1着の栄誉を勝ち取った。勝ち取ってしまったのである。
事ここに至ると、日本ダービーに対する世間の注目は否応なしに高まっていく。誰が勝つかではなく、彼女が勝つか負けるかという一点のみがレースの焦点とされるようになっていく。
勝たせてなるものか。
雨に濡れたセイウンスカイが、泥に塗れたキングヘイローが、そして日本ダービーの出走権を得た全てのウマ娘が、打倒スペシャルウィークという目標に燃えていた。彼女のみがダービーではないし、彼女のみがトゥインクル・シリーズではない。これ以上、スペシャルウィークに冠を渡すわけにはいかない。
誰もがそんな想いを抱えながら迎えた5月最終週、日本ダービー。当然ながらスペシャルウィークは熾烈なまでのマークを一身に受けることになったが、もちろんそうなることを彼女のトレーナーは予見していた。というよりも、トレーナーはそうなる前提でトレーニングメニューを組み、ひとつの秘策を準備していた。
レース開始と同時にスペシャルウィークはバ群から抜け出し、前方に躍り出た。綺麗なスタートダッシュが決まった形だ。そしてそのまま緩やかに……下がらない。むしろ逃げウマ娘たちを引き離して、さらに加速していく。
『こ、これは……スペシャルウィーク、下がりません! 先頭変わらずスペシャルウィークのまま、掛かってしまったか!?』
半ば悲鳴じみた実況の声。観客席からは本物の悲鳴すら聞こえてくる。
そうしてひとり抜け出した彼女にまず食らいついてきたのは、当然彼女に最も近かったセイウンスカイ……ではなく、意外にも他の逃げや先行を選択したウマ娘たちだった。スペシャルウィークを先頭にした団子状態になり、塊となってハイペースで駆けていく。
────引っ掛かった。
『い、一体何が起こっているのでしょうか!? スペシャルウィークを追い立てるようにウマ娘たちが迫りくる……いや、追いつけない! スペシャルウィークの影を誰も踏めずにいます!』
レースはようやく中盤に入るか入らないかという頃合いだったが、この時点でほとんどの逃げウマ娘と先行ウマ娘は勝ちの目を失っていた。ただでさえ滅茶苦茶なペースで逃げを打つスペシャルウィークにかき乱され、本来無視しておけばいいはずの彼女になんとか食らいつこうとして、終盤でスパートをかけるための体力を既に失っていたのだ。
そう、本来ならば無視すればいいだけだ。今までやったこともない逃げを破滅的なハイペースで行うウマ娘など、相手をするだけ無駄なのは目に見えている。自分のペースで冷静にレースをこなし、中盤以降にそのウマ娘が失速したところを軽く抜き去ってやればいい。
しかし今の彼女らが走っているのは日本ダービーで、先頭に立っているのはスペシャルウィークだ。その事実が、このレースから冷静さという概念を失わせた。
皐月とNHKマイルを勝ち、既にして変則二冠と呼ばれ始めたスペシャルウィーク。彼女にダービーを獲らせれば、それすなわち無敗の変則三冠。その勢いのまま菊花を勝たれたら? その先にある名立たるGIレースを勝たれたらどうなる?
そこまで都合良くはいかない、とは決して言えない。ミスターシービー、シンボリルドルフ、ナリタブライアンの三冠達成は記録にも記憶にも新しいのだ。自らの瞳で新たな三冠ウマ娘を見る機会はないなどと何故言えようか。ましてやスペシャルウィークは現時点ですら彼女らを超え、NHKマイルカップを制しているのに。
自らの代わりに優勝レイを受け、トロフィーを掲げるスペシャルウィークの姿を無意識に思い浮かべてしまう。レースはまだ始まったばかりなのに、少し先の未来にいる『無敗変則三冠スペシャルウィーク』の姿を、あるいはもっと先の未来にいる『無敗クラシック三冠スペシャルウィーク』の姿を幻視してしまう。普段は後方にいる彼女が一心不乱に先頭を走る、その様子が……勝利を確信したように前へと躍り出た彼女の背中が、そんな幻と重なってしまったのだ。
先頭集団からスペシャルウィークが抜け出ていく。いや、正確には彼女以外の全員が速度を落としていた。事前の想定から遠くかけ離れた体力消費を序盤から強いられた結果だ。ラストスパートで巻き返すようなスタミナも最早残っていない。
そんな元先頭集団から入れ替わるようにして、キングヘイローを始めとする後方に控えていた差しウマ娘たちが……誰もやってこない。団子状態のままで壁のようになった逃げと先行のウマ娘たちに前を阻まれ、思うように前へ出れないのだ。かといって彼女たちを避けようとすれば、外に膨らみすぎて先頭に辿りつけなくなる。付け加えるとそれ以前の問題として、先頭集団同様に掛かってしまったため、スタミナが既に消え失せていたウマ娘も何人かいた。
スペシャルウィークと彼女のトレーナーは、自らがレースを作るために逃げを選択したのではない。各々の想定するあらゆるレース展開を破壊し、ダービーの勝利を確実とするために逃げを選択したのだ。
『誰も来ない、誰ひとりとして来ない! スペシャルウィーク逃げる逃げる!』
いよいよ終盤、最早誰の目にも勝負は決まったものと思われた。
『いや、集団からひとり抜け出した!? あれはっ……』
ターフを駆けるウマ娘たちの中にあって、ただひとり。逃げウマ娘故に、勝利のための手練手管を探り続けた策士故に、スペシャルウィーク相手にこの半年で三度も苦汁を飲まされた故に。
『セイウンスカイだ、セイウンスカイが迫る! スペシャルウィークに詰め寄っていく!』
セイウンスカイだけは、スペシャルウィークの仕掛けたド派手な揺さぶりの真意を見破っていた。感情に任せて前に出たい気持ちを必死に抑え、しかしいざとなればスペシャルウィークを狙える位置を確保しながら、ずっと集団の中に潜み続けていたのだ。
『苦しいか、スペシャルウィーク苦しいか! しかしセイウンスカイも間に合うか!?』
残り2ハロン、目測で5バ身差前後。スペシャルウィークにとってはあまりに短く、しかしセイウンスカイにとってはあまりに長い差だ。
これまでずっと抑えていたとはいえ、無茶なペースに呑み込まれていたセイウンスカイの身体はすでに限界だった。フォームは乱れ始め、視界が歪む。それでも、ここで止まればスペシャルウィークにダービーウマ娘の称号をみすみす明け渡すことになる。それだけはどうしても、自分のプライドが許さなかった。
一方のスペシャルウィークも、無尽蔵にすら思われたそのスタミナは実のところ既に尽きていた。慣れない先頭位置、競り合いを拒否する無茶な加速、内外問わず荒れた芝、雲間から照る太陽、それら全てが彼女の体力を執拗に奪っていった。しかし逃げの提案を呑んだのは彼女自身であり、なにより母との約束を、日本一のウマ娘になるという約束を違えるわけにはいかない。
『ついに並んだ、二人が並んだッ! スペシャルウィークとセイウンスカイ、ダービーの栄光は、女神の微笑みはどちらに!』
────譲れない、譲らない!
────このレースだけは、絶対に!
声にならない二人の叫びが重なり、影も残さないような速さで二人の姿が重なった。
『両者同時にゴールイン、後続を置き去りにしたままゴール板を駆け抜けました! これは写真判定でしょうか!?』
目の前で繰り広げられた熱戦に観客席は色めき立ち、歓声奇声の嵐が東京レース場にこだましていた。そしてそれらとは対照的に、関係者用のスペースでは冷静な表情が幾らか見え隠れしていた。今しがた目の前で行われたレースの奇妙さ、異常さを遅れて理解しつつあるようだった。
「……お疲れ、スペちゃん」
「……うん。セイちゃんも」
二人揃ってふらふらとターフに倒れ込みながら、顔も合わせないままに話し続ける。
「これだけは今のうちに言いたいんだけどさ、スペちゃんにしてはだいぶ悪辣じゃない?」
「トレーナーさんの入れ知恵だよ」
「それを実現するあたり、スペちゃんも中々のものだと思いますけどねえ」
「そうかな? ……確かにそうかも。うん、そうだね」
「そこであっさり認めちゃうのはスペちゃんらしいや。あぁ、それからもうひとつ」
普段と何も変わらない口調で、セイウンスカイは努めて明るさを意識しながら口を開いた。
「……おめでとう。ダービーウマ娘はスペシャルウィークだ、ってね」
「……セイウンスカイは、間違いなく一番の強敵だったよ。ありがとう」
掲示板に確定の二文字は浮かび上がっていないが、二人はどちらも理解していた。1着はスペシャルウィーク。それに続き、ほんのわずかな差での2着にセイウンスカイ。彼女らのダービーはこうして幕を閉じた。
かくしてスペシャルウィークは日本ダービーを制し、クラシック三冠に王手をかけた。そして同時に、トゥインクル・シリーズのファンからは『変則三冠ウマ娘』として認識されるようにもなった。ただ一人の王者を強烈に印象付けつつ、春のクラシック戦線はようやく終わりを告げる。
激闘の続いた春に比べて、夏の時間は静かに過ぎていった。かと言って何も動きがなかったわけではない。競走・賞金の両面からスーパーGIIと称される札幌記念に彼女は出走し、有力なウマ娘の少なかったこれに危なげなく勝利。昨年以来の札幌レース場で故郷に錦を飾っていた。
そもそもクラシック戦線に限らず、トゥインクル・シリーズにとって夏という季節は基本的に準備期間である。トレセン学園もURAもなんとか夏季レースを盛り上げようと試行錯誤しているが、そう簡単にはいかないのが現状であった。
「故に、生徒会としても助かった。勝利の祝福と共に礼を述べたい」
札幌レース場、スペシャルウィークの控室。ウイニングライブも無事に終えて帰り支度を整えた彼女とトレーナーの前に突然現れて、シンボリルドルフはそう言った。
「いいえ、ミス・シンボリルドルフ。私はスペのコンディションを整えるのに札幌記念が最適と判断したまでですし、彼女も出走するならこのレースがいいと選択したのみです。祝福は彼女が受け取りますが、その謝礼は結構ですとも」
トレーナーは淀みなくそう返したが、一方スペシャルウィークは困惑を全く隠せていなかった。
「え、ええと……?」
「ミスはこう仰っているんですよ、スペ。『無敗変則三冠のネームバリューを持つウマ娘が、こうして夏のGIIに出走してくれて感謝している。おかげでトゥインクル・シリーズは盛り上がりを維持したまま秋に突入する』とね」
つらつらと述べながら、トレーナーはシンボリルドルフの方をちらりと見た。彼女が感謝と呆れの混じったすこぶる微妙な顔で自分を見ていることを確認してから、トレーナーは微笑んだ。その微笑みを見て、シンボリルドルフの表情はますます微妙なものに変化した。
このトレーナーはこうして微笑んでいるだけならば深窓の令嬢と捉えられるかもしれない容姿をしている割に、口を開くとそれはもう可愛げの欠片もないのである。
先日のダービーが終わってからのインタビューで、スペシャルウィークを逃げさせた理由を記者に問われて『ダービーの晴れ舞台で逃げるスペシャルウィークを見たいと考えました。なので作戦を考えて逃げを成立させました』などと宣ったのは記憶に新しい。文字通り手段を目的にする本末転倒ぶりであり、しかもそれで本当に勝っているのでますます手に負えない。やられた方にとってはたまったものではないだろう。
目の前に佇むトレーナーに言いたいことは二言三言では収まらない程度にあったが、シンボリルドルフは一先ず棚上げすることにした。今日この場所に来た理由はあくまでスペシャルウィークであって、トレーナーではない。
「一刻千金、レースとライブの直後に時間を取らせすぎるのも良くない。手短に済ませよう。早速本題に入ろうか」
「は、はいっ! ……え?」
反射的に返答してから、スペシャルウィークの脳内に疑問が浮かんだ。ついさっき二人が交わした言葉は本題ではなかったのだろうか? だとしたら今からの本題とは一体?
「スペシャルウィーク、君は将来の生徒会長となるべきだと私は見ている。君たちが首を縦に振るのならば、トレセン学園生徒会執行部は君を真摯にサポートすると約束する。どうだろう、承けてはもらえないだろうか?」
シンボリルドルフはそれだけ言って口を閉じ、腕を組んだ。控室に無音の時間が訪れる。
数瞬の後、スペシャルウィークの絶叫が札幌レース場を丸ごと揺らさんばかりに響き渡った。