スペシャルウィークがリーニュ・ドロワット直前の準備業務に追われていた、3月下旬。
「ふぅ……データはこれでなんとかなるかな?」
府中から遠く離れ、京都は淀の地。トゥインクル・シリーズの開催中というわけではないにもかかわらず、ベルノライトは京都レース場にやってきていた。理由は言うまでもなく、レース場自体の下見。いわば偵察の一環である。
その目的についても当然言うまでもなく、すなわち春の天皇賞に向けてのものだ。
凄まじい激闘となった有馬記念を終えたチームテンペルの面々は、スペシャルウィークの次走を天皇賞に定めてトレーニングを行ってきた。
大阪杯を始めとする国内レースや、あるいはちょうどこのタイミングで行われているドバイシーマクラシックへの海外遠征というプランもあるにはあったが、有馬記念におけるかなりの無茶を通した走りへの休養という意味を込めて、結局は次走まで丸4ヵ月の間隔を空けるということで落ち着いたのだ。
「芝はあまり荒れてない……スペちゃんならたぶん問題なし。でも、一応グリップは重めに調整した方がいいかなぁ」
独り言を呟きながら、人混みの流れに沿ってレース場の出入口への道を歩むベルノライト。トゥインクル・シリーズの開催期間外では、本来レース場の内部に入ることは不可能である。にもかかわらず彼女どころか大勢の一般人がレース場に入ることができているのは、今日がURA主催のイベントデーだったからだ。
興行収入の増加や競走文化の普及を目的として、こういったイベントは各地のレース場で開催期間を問わず設けられている。一般人にとってはトゥインクル・シリーズに初めて触れる経験として、ファンにとっては著名な競走ウマ娘と会話したりターフに自らの足で踏み込む貴重な体験として、そして現役の競走関係者にとっては現地の雰囲気を掴み、いくらかのデータを手にする偵察の機会として、様々に活用されているといえる。
しかしその事実を裏返せば、イベント時のレース場はレースの開催期間並に人でごった返すという意味でもある。
うんざりするほどの人の波に流されないようにしながら、ベルノライトはいくらか混雑がマシなシンザンゲートの方へ向かっていく。腕時計で確認すれば、現在時刻は午後5時の少し前。そろそろ日が落ち始める頃合いだ。陽室との待ち合わせはシンザンゲートで午後5時なので、問題なく間に合っている。
京都レース場に向かうと言われたときにはてっきり陽室と共に行くものだとベルノライトは思っていたのだが、蓋を開けてみれば陽室とは完全に別行動だった。曰く、『実家の付き合いで大阪ドームに行かなければならない』だとかなんとか。
気になったベルノライトが空き時間に調べてみると、今日は大阪ドームでプロ野球の開幕戦があるらしかった。対戦カードは阪電ビクトリーズ対東京帝鐡シーガルズ。陽室が大阪ドームに向かった理由はおそらくこれだろう。
実家の付き合いという部分はよくわからないが、考えても仕方がない。陽室琥珀とその周辺から今更何が飛び出してこようが、ベルノライトは大して驚かない自信があった。たかが数ヵ月の付き合いで散々振り回され、嫌な方向の慣れが発生してしまったのである。
何をするでもなくベルノライトが待っていると、彼女から少し離れた場所にタクシーが停まる。陽室はタクシーで迎えに来ると事前に言っていたので、きっとこれに乗っているに違いない。
そんなベルノライトの予想通り、ドアを開けて降りてきたのは陽室だった。何故かはわからないが、普段は降ろしているはずの──そして朝にこの場所で別れたときにもそうだったはずの──ミディアムロングの銀髪を後頭部でまとめている。野球観戦には邪魔だったのだろうか。
小さな疑問を抱きつつベルノライトは陽室の元へ駆け寄ろうとしたが、しかしその脚は自然と止まってしまった。その理由はごく単純。
「ふぅ……感謝いたしますわ、朝月さん。わざわざ京都レース場まで送っていただいて……」
「いえ、どのみち私もここで待ち合わせがありましたから。お気になさらず」
このトレーナー、知らないウマ娘と連れ立ってタクシーに乗っていたのである。しかもやたらと親しげに。
今更何が飛び出してこようが驚かないなどと考えていた先程までの自分はどこへ。ベルノライトは声をかけることすら忘れて、ぽかんとした顔で二人のやりとりを見ていた。
「むしろ、ここまでで本当によろしいのですか? 貴女の保護者が迎えに来るという話でしたが」
「問題ありませんわ。むしろ、ここでなければ少々都合が悪いと申しますか……」
藤色の長いストレートヘアを整えながらそのウマ娘が言う。
「……ミス、これは答えたくないのならば答えずとも構いませんが」
「なんでしょうか?」
「なんだかんだと理由を重ねていましたが、貴女はご両親や保護者の許可を得ずに大阪ドームの開幕戦に訪れましたね?」
ぎくり、という擬音がこれ以上ないほどに似合うリアクションを取るウマ娘。
「聞けばミスは4月に、すなわち二週間後にトレセン入学。飛び級でなければ小学校を卒業したてということになります。見るからに育ちの良さを感じ取れる、随所での振る舞いも鑑みれば……年齢的にも実家的にも、貴女を一人きりで行動させるというのはどうにも説得力に欠けます」
「そ、それは……」
トレセン入学というワードが聞こえてきて、ベルノライトの思考が再起動した。陽室と話しているあのウマ娘と会ったことはないのだが、どうにもどこかで見たような気がする。
「そして京都レース場で保護者と合流するという言葉を踏まえるに……元々、ミスはレース場のイベントデーに保護者と連れ立ってやってきていたのでしょう? そこで個別行動の了承を得るなり勝手に抜け出すなりして、自力で大阪ドームへ。そうしてのんびりと野球観戦を楽しむ心算だった。違いますか?」
「……お見通しでしたのね」
「むしろこれを見通せないのは、仮にも大人として少々拙いですよ」
呆れ半分同情半分の視線を向けながら陽室は続ける。
「そして貴女は初めてやってきた大阪ドームであわや財布ごとチケットを紛失しかける、と」
「うぐっ……」
「そも、如何なウマ娘と言えど小学生が一人で遠出というのはよろしくありません。ええ、ミスは確かに年齢の割に落ち着き大人びていますし、トレセン学園に合格している時点で知識も運動能力もそれ相応のものでしょうが、それでもです。ましてやその日知り合った大人をろくに疑わず、同じタクシーに乗るなど言語道断です。私が誘拐犯だったらどうするのですか」
「阪電ファンに悪い方はいませんわよ!」
「どうしてそこだけやたらと力強く断言するのですか。もっと神妙にしなさい、神妙に」
陽室は今度こそ呆れを隠さずにそう言った。
「ところで、ミス。気づいていましたか?」
「……何にでしょう?」
ウマ娘の問いかけには答えずに周囲を見回す陽室。ぽつんと一人立ち尽くしていたベルノライトのことも間違いなく見つけたはずだろうに、彼女のことはスルーして全く別の方向を指差した。
「あの白色のセダン、それから水色のワンボックス。我々が乗車していたタクシーをずっと追ってきていましたよ」
「んなっ……!?」
その二台の車を見た瞬間、ウマ娘の顔が青ざめる。
「京都で多摩ナンバーが二台もくっついて並ぶとは、珍しいこともあったものです。そういえば、メジロ家の現本邸はトレセン学園や東京レース場にほど近い稲城市内だったと記憶しています。まさしく多摩ナンバーの地域ですね、ミス・メジロマックイーン?」
メジロマックイーン。その名前を聞いて、ベルノライトの脳はようやく適切な情報を弾き出すことに成功した。
重賞ウマ娘を多数輩出してきた名門、『華族たるウマ娘』ことメジロ家。そんなメジロ家の秘蔵っ子、ステイヤーになるため生まれてきたと評されているらしい期待の新星。それこそ彼女、メジロマックイーンではなかったか。
「……メジロマックイーンさん!?」
思い切り声に出して驚いてしまう。それくらいの衝撃がベルノライトのことを襲っていた。当然、その大声は陽室とメジロマックイーンの元にもしっかり届く。
「何故私の名前を……?」
「あっいえ、違うんです!」
不審者を見る目を向けるメジロマックイーンの誤解を解くべく、慌てて二人の元に駆け寄るベルノライト。
「私はベルノライトって言います。トレセン学園のサポート科所属で、だから学園の新入生についてはある程度……」
「ああ、そういうことでしたのね。メジロマックイーンと申します。どうぞよろしくお願いいたしますわ、ベルノライトさん」
「こ、これはご丁寧に。こちらこそよろしくお願いします。……いやそうじゃなくて! そうじゃなくてですね!」
メジロマックイーンから視線を動かし、ベルノライトは当然のように佇んでいる自らのトレーナーに詰め寄った。
「何があったらトレーナーさんがメジロマックイーンさんと同じタクシーに乗ってここに来る流れになるんですか!?」
「落ち着きなさい、ベルノ。色々あったのですよ、色々」
「お、お待ちくださいまし! トレーナー、ということは……朝月さんはトレセン学園のトレーナーなのですか!?」
「えっ、それを知らないままであんなに仲良さげな感じになってたんですか!? どうして!?」
「どうしても何も、朝月さんが教えてくださらなかったのですよ!」
驚愕を露にするメジロマックイーン。聞きたいことばかりが募っていくベルノライト。いよいよ収拾がつかなくなりそうな場の流れを無理やりに変えたのは、やはり陽室だった。
「積もる話は数多あるようですが……タイムリミットですよ、二人とも」
そう言いながら、先程指差していた方向に向き直る陽室。二人がそちらに視線を向けると、執事服を着た初老の男性がセダンを降りてこちらへ歩み寄ってきていた。彼の後ろにはクラシカルなメイド服姿の女性がいかにも『怒ってます』という表情をしながら腰に手を当てているのも見える。
「じ、じいや、それにサキも……! どうして本邸ではなくここに────」
「マックイーンお嬢様が大阪にいらっしゃると、そちらの方にトレセン学園経由でご連絡をいただきました。それが午前中のことです」
サキと呼ばれたメイドが重々しくそう言ったのを聞いて、メジロマックイーンは思わずといった様子で陽室の方に振り返る。しかし陽室はそれをいっそ清々しいほどに無視。
「私たちは本邸からヘリで慌てて飛んできたんですよ」
サキの言葉に唖然としているメジロマックイーンを横目に、初老の執事は陽室に向かって深く一礼した。
「陽室様、本日はご迷惑をお掛け致しました」
「いえ、むしろこちらの都合でミス・メジロマックイーンを連れ回してしまったようなものですので」
「大奥様からも、後日改めてお詫び申し上げたいとの言伝を預っております。ご都合のよろしい日時を後程お伺いさせていただいてもよろしいでしょうか」
「なるほど、ではそのように」
「大変有り難く存じます」
あまりにもとんとん拍子で話が進んでいくので理解が追いつかなくなってきたが、それでもベルノライトは重要な事実をその会話から辛うじて推測することができた。
メジロマックイーンは実家に無断で京都レース場を抜け出し、大阪ドームに向かったのだろうということ。陽室は大阪ドームでメジロマックイーンと会って、恐らく今の今まで一緒に行動していたのだろうということ。そして陽室はそれをメジロ家にどうにかして伝えて、その結果メジロ家の侍従たちは早々に陽室と連携を取りつつメジロマックイーンを見守り追いかけていたのだろうということ。……ついでに、何故か陽室は普段使わない芸名であるはずの『朝月咲』という名前を、メジロマックイーンに自身の名前として教えていたらしいということも。
さながら刑の執行を待つ囚人のような顔つきになりつつあるメジロマックイーンの様子を見るに、これらの推測はおおよそ正しいものであるように思えた。
「では、我々はそろそろお暇したほうが良さそうですね。タクシーを延々待たせ続けるわけにもいきません。帰りますよ、ベルノ」
「えっ、いや、まだ聞きたいことというか気になることがいっぱい……」
事もなげにそう言った陽室に対してそう抗議するベルノライトだったが、陽室はそれに取り合う気などさらさらないようだった。
「帰りのタクシーと新幹線でいくらでも聞かせて差し上げますよ。さあ」
半ば強制的にベルノライトをタクシーの中に押し込める陽室。ウマ娘の膂力をもってすればそれに対抗するのは容易だったが、ベルノライトは大人しくなされるがままになっていた。こういうときの陽室は折れないということを、やはり経験で知っていたからだ。
ベルノライトが奥の座席に収まったのを見て、陽室も続いてタクシーの中に入ろうとする。しかし彼女の背中から引き留める声がかかった。
「朝月さん、どうかこれだけはお答えを!」
メジロマックイーンの言葉に陽室は足を止める。
「答えるに差し支えなければ」
「貴女はトレーナーなのだと、ベルノライトさんは仰りました。その……よろしければ、貴女が率いる、あるいは所属しているチームの名前をお聞かせください」
「ああ、その程度は別に構いませんよ。……何より、貴女は天皇賞春秋連覇を目標にトゥインクルを走ると先刻仰っていましたからね」
陽室の言葉にメジロマックイーンは困惑の色を浮かべた。
「もし本気で天皇賞春秋連覇を目指すのだというのであれば、チームテンペルは貴女を歓迎しますよ。ミス・メジロマックイーン」
「……チーム、テンペル?」
メジロマックイーンはその名前に聞き覚えがあった。
「多くの生徒を取るつもりはないのですが、さすがに『スペシャルウィークが立ち塞がるとしても楯の栄誉は必ず手にする』と宣言するウマ娘を無碍にする気にはなりません。……テンペルのスペシャルウィークを倒すために、テンペルに入る。決して悪くない手段だと思いますよ」
そこまで言われて、メジロマックイーンはついに思い出した。スペシャルウィークが所属するチームテンペルのトレーナー、陽室琥珀。今自分が話している人物こそ彼女ではないか。
ついさっきはショックで気にする余裕がなかったが、彼女のことを指してじいやは確かに『陽室様』と言っていた。そうだ、きっと間違いない。幾度もスペシャルウィークと共に彼女が映っている記者会見の映像を見ていたはずなのに、どうして目の前の人物が陽室琥珀その人だと気づかなかった? メジロマックイーンの思考が疑問と驚きで埋め尽くされていく。
「……その顔、やはりお気づきではなかったようで。やはり髪型を変えるだけでも変装の効果はありますね。スペにフィードバックできそうです」
「で、ですが貴女はそもそも朝月咲と名乗って……」
「これからチームを選ぶ貴女に余計な先入観を与えたくはなかったもので、多少の配慮はさせていただきました。残念ながら無意味になってしまいましたが……ああ、それからもうひとつ。隣に学園関係者がいると知っては、贔屓のチームを応援するにも遠慮してしまうでしょう?」
呑気にそう言った陽室に対しメジロマックイーンは何か返そうとして、しかし驚愕で声が上手く出てこない。そうこうしているうちに陽室はタクシーに乗り込む。
「ではごきげんよう、ミス。貴女が私との縁を選ぶようでしたら、また是非」
その言葉を最後に、陽室はタクシーのドアをばたりと閉めた。
「帝鐡京都駅までお願いします」
陽室の言葉にタクシードライバーが頷き、行先を速やかに入力して車を発進させる。
しばし静寂が車内を支配する。その沈黙を破ったのは、やはりと言うべきかベルノライトであった。
「あの、トレーナーさん。聞きたいことは色々、ほんっとうに色々あるんですけど……とりあえず、本当にあれで良かったんですか?」
そう問いただす彼女に対して、陽室は興味なさげに返事する。
「良かったとは、何がです?」
「メジロマックイーンさんですよ! もっとちゃんと勧誘しなくて良かったんですか!?」
ベルノライトの言葉はもっともだ。普通のトレーナーならば、メジロのウマ娘を……それも入学前からステイヤーとして期待されているメジロマックイーンを相手にして、あれほど雑で投げっぱなしな勧誘を行うなどあり得ない。あの手この手を使ってチームに引き入れようとするだろう。
もちろんベルノライトもいまさら陽室を指差して普通のトレーナーなどとのたまうつもりはさらさらないが、それでもチームサポーターとして一言言わずにはいられなかったのである。
「構わないのですよ、あれで。私は自分自身の夢に対して本気になることのできるウマ娘しか取る気はありません。スペにしろベルノにしろそうです」
「……メジロマックイーンさんは、そうじゃないってことですか?」
「いいえ、私がミスに語った言葉に欺瞞はありません。天皇賞春秋連覇という夢、大いに結構。その過程にスペがいようと必ずやという傲慢さ、素晴らしいものです。だからこそ、私はミスの意志を問うのです。私との、チームテンペルとの縁を選ぶのかどうかを」
陽室は横目でちらりとベルノライトの方を見た。ベルノライトの表情はといえば、陽室の言を理解したのかしていないのか曖昧なものだった。それを確認して、陽室は言葉を付け足す。
「自らの抱えている夢をこのチームで叶えられる、とミスが信じるかどうかという話です。無理な勧誘でそれが曖昧なままになってしまってはろくなことになりません。だから私はスペをスカウトしたときも、貴女をスカウトしたときも、最後は各々の意志表明を待ったのですよ」
「……トレーナーさんって、ロマンチストなところがありますよね。夢へのこだわりとか」
ベルノライトの発言に陽室は一瞬だけ虚をつかれたような表情をしたが、しかしすぐに普段通りの真顔に戻った。
「人生経験の賜物というものです」
陽室のその言葉に返答するのはなんとなく憚られて、ベルノライトは口を閉じる。
「そしてこれは無責任な予想に過ぎませんが、ミス・メジロマックイーンはきっとテンペルへとやってきますよ。ミスはそういう空気を纏っていました」
予言めいた陽室の言葉を最後に、車内は再び静寂に包まれた。