「この一週間で既に身が引き締まりましたか、マックイーン」
「わかりますか……?」
メジロマックイーンは暗い色合いのテーブルを前に力なく笑った。その前にかたん、と白いティーカップが置かれる。カップを置いたメジロアルダンが淡い色合いの髪を揺らし、メジロマックイーンの向かいに腰掛けた。
「少なくとも、学園から抜け出すようなことはしていないようでなによりです」
「あ、あの一件に関しては……深く反省しております。メジロのウマ娘として大変軽率な行いでした……」
「おばあ様からしっかり叱られたと聞いていますから、私からは一言だけ。自分で言うのもどうかとは思いますが、私は怒ると怖いのですよ。次はおばあ様と一緒に怒ります」
「……肝に銘じておきますわ」
「その言葉を信じますよ、マックイーン」
そう言いながら、メジロアルダンはくすりと笑った。
「過ぎた話はここまでにしておきましょう、紅茶が冷めてしまいます。久方ぶりのお茶会ですから、どうかリラックスしてくださいね」
「もちろんそのつもりですわ。……良い香りのアールグレイですわね」
「ヤグルマギクの控えめながらも華やかな香りがするでしょう。気に入ってくれると良いのですが」
メジロアルダンは静かに口をつける。それに釣られるようにして、メジロマックイーンも口をつけた。窓の外から昼下がりの陽の光がゆっくりと部屋を暖めている。
「家を出てまだ一週間ですが……どことなく、慣れ親しんだはずの屋敷がこれまでと異なるように見えますわね」
「ふふっ、マックイーンも鍛えられましたか」
「ええ、私の常識が様々な方向から打ち砕かれた一週間でしたから……」
メジロアルダンはマックイーンの様子に優しく笑ってみせた。
「学園とお屋敷はこんなにも近いにもかかわらず、まるで別世界ですものね」
「はい、本当に」
メジロ家の本邸はトレセン学園中央校から多摩川を挟んでしばらく歩いた場所にある。元々は北海道にあったのだが、10年ほど前から関東に活動の主軸を置くべく府中近辺に主要拠点を移しており、元の本邸は別荘として扱うことになった。ともかく、そんな本邸に気楽に
「ところで……アルダンさん、私の所属チームについて既にご存じでしょうか」
「当然です。かわいい義妹のことですもの」
メジロアルダンはそう肯定したが、実際のところ情報を集めようとする必要はなかった。この一週間、座しているだけでも充分な情報が噂として流れ込んでくる状況だったのだ。
トゥインクル・シリーズに挑むためのチームは、存続のために5人の生徒が所属しなければならない。チーフトレーナーの代替わりやエースウマ娘の引退によるチーム改編、あるいはチーム設立直後であればある程度の猶予期間が認められはするが、それでも原則は原則だ。
とはいえ実のところ、トレーナー側がこの制約を気にすることは少ない。というのも単純な話で、中央トレセンはウマ娘に比してトレーナーの数が少なすぎるのである。現状の人員では、中央のトレーナー全員が5人のウマ娘を受け持ったと仮定してもなお、全校生徒の半分はチームに所属することができない。チームに所属できなければ、メイクデビューにすら挑めない。ゆえに学内の選抜レースで目立つ結果を残さないことにはトゥインクルへの挑戦すらままならないのだ。
だがそんな中にあって、チームテンペルは設立以来の2年間、スペシャルウィーク以外のウマ娘をチームに迎え入れていなかった。本来ならばチームごと取り潰しになるところを、『テンペルと共にスペシャルウィークは勝ってきた』『テンペルが消えればスペシャルウィークがレースに出れなくなる』という二点のみを盾に無理矢理押し通しているのだ。……正確にはベルノライトもチーム所属ウマ娘なのだが、生徒サポーターはスタッフ扱いで員数外となるため今回の話にはあまり関係がない。
だからこそ、メジロ家のウマ娘として一定の注目を浴びていたメジロマックイーンが入学当日にチームテンペルを選び、そしてそれを陽室が受け入れたことは、トレセン学園を盛大に揺るがしたと言っても過言ではなかった。
「正直なところ、戸惑っております。私の知っているチームや、トレーニングといったものから、あまりにかけ離れている。そう思えてならず……」
「チームテンペルの陽室琥珀トレーナーは有名人ですからね」
ころころと笑ってみせるメジロアルダン。
「子役として芸能界を渡り歩き、しばしの沈黙を経てURA特定芸能活動認定指導員としてトレセン学園へ。その後にURA平地競走上級指導員としての指定を改めて受け、すぐにスペシャルウィークさんを迎え入れ、実質的なスペシャルウィークさんの専属トレーナーとして活動していた。……文字通り、破竹の勢いでの快進撃を続けているスペシャルウィークさんのトレーナーです。貴女が勧誘を受け、そしてチーム入りを認められたということは、陽室トレーナーは貴女をスペシャルウィークさんに比類する実力者たりえると判断したということに他なりません」
メジロアルダンはそう言って、砂糖をひとさじ掬い、紅茶に溶かした。
「それでも、不安に思うのですね」
「……トレーナーさんは、あまりグラウンドに来てくださらないのです」
メジロマックイーンはそうぽつりと呟いた。
「スペシャルウィークさんもそれにもう慣れているようでした。トレーニング面で実質的な指導をしているベルノライトさんが映像を録画していて、トレーナーさんはそれを翌日に確認しているから大丈夫だと笑いながら仰っていたのです。しかし、私はそう簡単に割り切ることができず……」
メジロマックイーンの視線が落ち、琥珀色の紅茶をじっと見つめる。
「ベルノライトさんの指導に不満があるわけではありません。スペシャルウィークさんのことも、私のことも、しっかりと見ていただいています。きっとベルノライトさんの指導は、一般的なトレーナーよりもずっとウマ娘に寄り添っていて、的確なものなのでしょう。そのうえ、トレーナーさんにも時折アドバイスをいただいています。実質的にはウマ娘ふたりに対してトレーナーふたりだと受け止めれば、チームテンペルのトレーニング環境は間違いなく恵まれているはずなのです」
「……そうですね、滅多にない環境だと言えるでしょう。特にベルノライトさんのサポート能力については、私も身に沁みて理解しています。敵方に回した経験もありますからね」
メジロアルダンにそう同意されても、メジロマックイーンは視線を上げようとはしない。
「高望みだとは理解しています。それでも、やはり……私のこともスペシャルウィークさんのことも、ほぼ一日遅れの映像越しで指導されているのだと思うと、考えてしまうところがあるのです」
「直接見なければわからないことがあるのではないか、と?」
「はい」
メジロマックイーンは紅茶に映る自らの顔から、これまであった覇気が失せているように見えて、自分自身が思っていたよりも消耗しているらしいことをようやく悟った。
かちゃり、と耳を澄まさねば聞こえないほどの音と共に、メジロアルダンのティーカップがデーブルに戻された。
「……スペシャルウィークさんが大成していることを見るに、その指導法も決して間違いなどではないのでしょうね」
「はい……」
「ですが、それはマックイーンが納得できるかどうかというのとはまた別の話です」
そう言って、人差し指をぴっと立てるメジロアルダン。
「直接ぶつけてもいいのですよ、マックイーン。トレーナーとは対等に接してかまわないのです。トレーナーと生徒の関係を極限まで還元すれば、師匠と弟子ではなく、指導契約に基づくサービスのやりとりと見ることもできるのですから。貴女の不安は決して高望みではありません」
「それは、そうかもしれませんが……」
「陽室トレーナーに直接ぶつけるのは気が引けますか?」
メジロマックイーンはこくりと頷いた。
「ふふっ、素直なのは貴女の美徳ですね。……マックイーンの気持ちはよくわかります。私もトレーナーを信じ切れなかったことがありますから」
「アルダンさんも、ですか?」
メジロマックイーンはどこか驚いた様子で問い返す。
トゥインクル史上初のトリプルティアラを達成したメジロラモーヌを姉に持ち、入退院や静養を繰り返しながらもクラシック戦線を戦い抜いたメジロアルダン。彼女の戦績を語るにあたって、彼女を信じ抜いて支え続けたトレーナーに触れないわけにはいかない。
最新かつ高水準の医療体制やメジロ家のバックアップも当然あったとはいえ、メジロアルダンの心の支柱として彼女のトレーナーが大きな役割を果たしていたのは間違いない。その事実を彼女自身がメディアに直接語ったこともあるほどに、二人の間には固い信頼関係があった。そのメジロアルダンが、トレーナーを疑った経験を告白したのだ。
「私の脚は、走るようにはできていない。走れたとしても、永く使えるものではない。……それはあの方が覆すまでの定説であり、絶対だったはずです。それを覆したいと願った私に、トレーナーは応えてくださった。あの方は私を信じてくださったのです。それに私も応えたいと思った。それでも、それだからこそ、不意に心に魔が住み着く隙を見せる事があります」
「魔……ですか」
「えぇ、魔です。漠然とした恐怖、漫然と広がる不安、それを餌として、信じるべきものすら腐らせていく、不信」
メジロアルダンは窓の外を眺めるように視線をずらした。
「信頼というのは一時的な盲信を意味します。その結果がいかなるものとなろうとも、共に背負う覚悟が前提となります。……その覚悟を私はトレーナーになる前のあの人に問い、あの人はそれに応えたいとおっしゃった。信じていただいた」
メジロアルダンの視線を追うように、メジロマックイーンも窓の外で小鳥が飛び交うのを眺めた。背の青い鳥、ルリビタキだろうか。
「それでも、それが口先だけのものではないと証明することは困難です。あの人も、私も、真の意味で信じ合うことは、難しいことでした。そんな関係を築くにはたくさんの手段がありますが、根源的には時間でしか解決できないものだと私は考えています。どれだけ理論で裏付けしても、どれだけ言葉を重ねても、時間をかけなければ届かない領域というのがある……そう思えてならないのです」
「アルダンさん……」
ルリビタキが飛び立っていく。少し残念そうに、あ、と呟いたメジロアルダン。
「行ってしまいましたね」
「えぇ……」
「そういえば、この紅茶の名前も『ブルーバード』と言うのです。ヤグルマギクの青色から取っているそうですよ」
メジロアルダンは金色の縁が光るカップを改めて持ち上げた。
「青い鳥を探したチルチルとミチルは、側にいた青い鳥に気づけなかった。誰もそれを責めることなどできません。気づくにはたくさんの時間と、長い旅路が必要だったのです。その果てだからこそ、気づけたのだと思います。人間関係もまた然りです」
一口喉を潤わせ、メジロアルダンは笑った。
「ですからマックイーン、貴女の感覚は間違っていませんよ。チームテンペルの皆様方がどのような人物であれ、信じるだけの時間と手間が積み重なるまで、信じなくてもかまわないのです」
メジロマックイーンはしばらく黙っていたが、吹き出すように笑った。
「……やはり、アルダンさんには敵いませんわね、私は」
「いいえ、マックイーン。私がただ、少し早く生まれただけです」
そっとマカロンに手を伸ばして、メジロアルダンは優しく否定する。
「……私は、掴み取ることができるのでしょうか。メジロの悲願である、天皇賞春秋連覇を成し遂げられるのでしょうか」
「マックイーン」
メジロアルダンは優しく、けれど確かな質量をもってメジロマックイーンの声を断ち切った。
「貴女が無理にメジロの名を背負う必要もないのですよ」
「そんな……!」
「ああ、いえ。背負うに値しないという意味ではありませんよ、むしろ逆です。貴女の才能をメジロが押しつぶすのであれば、メジロの冠など捨て置いてよいのです」
「アルダンさん!?」
笑顔で恐ろしいことを言い始めるメジロアルダンに、思わず腰を浮かせたメジロマックイーン。
「どうかそんなことを仰らないでくださいまし! アルダンさんはおばあ様からもメジロ次期当主の器と常々言われてきたではありませんか。そのアルダンさんがメジロの名を軽く扱うなどあってはならないことです! それはメジロに対する反逆に等しい行為ではありませんか!」
「マックイーン、確かに貴女の言うとおり、メジロの冠は軽くありません。ですがその冠が才気溢れるウマ娘の未来を潰すのならば、メジロの次代を担う者としても、メジロの冠を持つひとりのウマ娘としても、それを認めるわけにはいかないのです。少なくとも────貴女ほどの才能をすり潰すのであれば、メジロなど斜陽だと言われても仕方がないというもの」
真剣な顔のメジロアルダンはゆっくりと目を閉じた。
「URAが日本中央ウマ娘競走協会法に基づき成立して以来、いえ、まだURAが全国競馬連盟だったころから、私たちは本家、分家問わず一丸となってその先頭に立ち、ウマ娘文化の牽引役となることを使命とし、ここまで来た。その使命こそ私たちがメジロを名乗る事を許された唯一の拠り所であり、それはこれからも変わることはないでしょう。それこそ……陸軍の再編などという天変地異が起こらないかぎりは」
「だからこそです! だからこそ私は、メジロマックイーンは楯を掲げることによってメジロここにありと示さねばならないのです。それこそがメジロへの貢献であり、私を目に留めていただいた本家への貢献ではありませんか!
半ば叫ぶように言葉を吐き出したメジロマックイーン。それを聞いて、メジロアルダンは瞳を開く。その瞳はメジロ家を率いる者としての瞳だった。
「背負うな、という訳ではありません。ですが、それに拘泥する余裕があるほどトゥインクル・シリーズは甘くありません。貴女が望む走りに、貴女が望む未来にメジロの冠が障害となるのであれば、それは捨て去ることもできるということです。貴女には好きな未来を選ぶ権利があるのですから」
そこまで言って、ふわりと目元を緩めたメジロアルダン。
「マックイーンは先程『この一週間で常識が打ち砕かれた』と言っていましたね。その感覚はきっと正しい。世界は私たちの常識の外側でどんどん動いていくでしょう。貴女はそれを感じ取る心と、視野を持っている。常識の外にある事象に食らいつかんとする気概を持っている。だからこそ、メジロという枠に囚われずに前に進んでほしい。それがいつか、メジロの未来を切り開く事になると、身勝手ながら考えています」
「アルダンさん……」
メジロマックイーンは毒気を抜かれたように相手の名を呼んだ。
「大丈夫。マックイーンならできますよ。貴女は……それだけの強さを、もう持っているのですから」