京都レース場は、どことなく霞が掛かったような雰囲気になっていた。
「なんか口の中もじゃりじゃりする気がして嫌になるよねー、スぺちゃん?」
「そうかな」
どこかつっけんどんな返答を聞いて、セイウンスカイは肩をすくめるに留めた。天気そのものは晴れで間違いないが、今日は黄砂がひどく、遠景が霞む。流石にパドックや芝の上に積もるほどではないものの、いささか滑りやすい感触があった。
「……さて、と」
スペシャルウィークの方を盗み見ながら伸びをするセイウンスカイ。さすがにGIレース、それも天皇賞なだけはあり、あまり観戦向きとは言えない天気ながらもパドック含め超満員だ。応援幕を出しているファンも多い。
「まったく、スペちゃん人気のすごいこと……」
さすがにスパンコールが付いたようなものはないものの、それでも各自工夫を凝らして目立つようにと作ってきた力作ぞろいだ。5割スペシャルウィーク、2割メジロブライト、残り3割でその他諸々といったところだろうか。
「……ん?」
パドックの出入口に近い植え込みの近くに、自分の名前が大きく書かれた白い幕が掛かっているのが見えて、セイウンスカイはそっとそちらの方に歩み寄る。応援幕のそばにいたかなり小柄なウマ娘──赤い耳カバーとカチューシャが見える──がさっとそばの男性の影に隠れつつ、恥ずかしそうにこちらをみてくる。
「こんにちは」
「こ……こんにちは……!」
小学校の中学年にやっと入ったかどうかくらいだろうか。まだ高くて安定しない声を聞いて笑う。
「応援幕を出してくれたのはお嬢さん? お名前は?」
「あの、に、ニシノフラワー、です……。えっと……ご迷惑、でしたか……?」
「まさか! 出してくれてうれしいよ。ありがとうね」
そう言って柵越しに手を差し出す。父親らしい男性に背中を押されて前に出てきたその子は小さな小さな手を伸ばす。強く握ると痛めてしまいそうなほど華奢な手。それを包んで軽く振る。本当に温かい手だった。
「私、トレセン学園を目指してて、あの……セイウンスカイさんみたいに、走れるようになりたくて、その……」
「あはは、それじゃあ君までシルバーコレクターになっちゃうよ」
「ちがっ、えっと、そういう意味じゃなくて……」
慌てた様子で握手していない方の手をぱたぱたと振る少女。
「セイウンスカイさんみたいに、誰かに勇気を分けられるような、そういう、走りが、したくて、その……」
必死に言葉を紡ぐ様子に笑みを深め──必死に笑みを守るスカイ。そう念じなければ、笑みを保っていられなかった。
「さっきも聞いたけど……ごめんね、もう一度名前聞いていい?」
「えっと、ニシノフラワーです」
「ニシノフラワー、ニシノフラワー。うん、覚えたよ。じゃあ、これからライバルだね」
「え?」
握手していた手を離す。彼女の──ニシノフラワーの手の熱を、黄砂交じりの風が拭って吹き抜ける。それが惜しくて、右手を握りこんだ。この熱を奪われるのは
「それじゃあ、セイちゃんはさくっと勝ってきますか。……中央校で待ってるから、頑張ってね、
「っ! ……はいっ!」
満面の笑みを見て、スカイも笑い返して。背を向ける。
────あぁくそ、見るんじゃなかった。
そう思っても、ニシノフラワーから預かった熱が黙ってはくれない。背を向けた先に……スペシャルウィークがいる。
今日、
「今年の春天は例年通り京都開催。京都レース場はどちらかといえば瞬発的な加速力と最高速度が重要なコースになっているが、春天のような超長距離レースではどのみちスタミナが持っていかれてしまう」
「どうした急に」
突如解説を始めたメガネの男性に、パーカーの男性が冷静なツッコミを入れた。
「ウマ娘が全力で走れる時間は、個人差こそあるが平均的には30秒前後だと言われている。当然距離が長ければ長いほどその全力を発揮するのは難しくなるし、いつスパートをかけるのかという問題も大きくなる。ましてや先頭に立つ逃げウマ娘となると、3200mを逃げ切るには適切なレースメイクと高度な戦略眼が必須だ」
「なるほどな。今回のレースだと逃げるのはセイウンスカイひとりになる可能性が高く、中盤まではスタミナを温存してスローペースに落ち着くはず。勝負どころになるだろう淀の坂に辿り着くまでは、小競り合いに終始することになるか……?」
彼らが口にした言葉は的確だった。メガネの男性はなおも続ける。
「ああ、そうだな。さらに言えば外回りコースになる都合上、内回りよりも直線が長くなる。スローな展開も相まって差し脚勝負になる可能性が高いだろう。そうなると、昨年覇者かつ超長距離において凄まじい末脚を発揮できるメジロブライトにとって有利な条件になる」
「スペシャルウィークは正直言ってどんな作戦を取ってもおかしくないが、一度しかやっていない逃げや追込でセイウンスカイやメジロブライトと真っ向勝負するのはさすがに避けたいはず……基本は中団に構えて、あとはレース展開次第ってところか。悩ましくはあるが、こうなると春天の優勝経験があるメジロブライトがやっぱり一歩抜けてる気がするな」
互いに頷きあう二人。しかしまとまりかけた会話に待ったをかける声が響く。
「スペシャルウィークさんは負けないもんっ! 長距離レースも菊花賞で走ってるし、末脚でスペシャルウィークさんに追いつける人なんていないもん!」
声の主は、彼らの隣でターフを覗きこんでいた黒いショートヘアの幼いウマ娘だ。その横には彼女と同年代であろう、亜麻色のロングヘアが特徴的なウマ娘もいる。
「ご、ごめん!」
ふくれっ面の少女に謝罪する男性二人。
「もう、キタちゃんったら」
「でもダイヤちゃんも思うでしょ? スペシャルウィークさんは今日も勝ってくれるって」
「うん、そうだね。……きっと、すごいプレッシャーなんだろうなあ」
少し離れた場所から少女たちの会話が聞こえてくるなか、ベルノライトは口を開く。
「本当にいいんですか、マックイーンさん?」
「はい、こちらで見ると事前に伝えてありますので」
制服姿のメジロマックイーンは静かにそう答えた。ここは関係者専用エリアの最後方。他の面々の邪魔にならないようにと席を取った場所は、観客席の声もよく聞こえる。つまりそれはこちらの会話もそれだけ外に聞こえやすいと言うことで、ベルノライトはわずかに声のトーンを落とした。
「でも、メジロ家は天皇賞を重んじるって言いますよね」
「その通りです。メジロにとって、天皇賞に勝利すること、つまり陛下の名を冠した栄誉に与ることは至上の名誉とされています。もちろん私もいつかは……いいえ、必ずや天皇賞をと考えております」
「あの、そういうことじゃなくてですね」
ベルノライトは半ば頭を抱えながら言った。
「……メジロブライトさんの応援をしなくてもいいんですか?」
「今の私はチームテンペルの所属ですので」
そう断言したメジロマックイーンの顔に、ベルノライトは少しの迷いを垣間見た気がした。
「チームだからといって、応援しなきゃいけないってことはありませんよ。マックイーンさん」
「……どういうことでしょう?」
腑に落ちていない様子のメジロマックイーンに、ベルノライトは微笑みかける。
「チームのために、誰かのためにっていうと、不思議なくらい力が出るんですよね。それは否定しません」
視線を上に向けるベルノライトにつられるように、メジロマックイーンも霞がかかった青い空を見上げる。
「でも、そのために自分の気持ちを抑えつける必要はないんですよ。応援したい人を応援すればいいんです。義務感で応援する必要はないと思います」
「……そう、ですね」
「マックイーンさん?」
ぽつりと落ちた同意に、ベルノライトが視線を横に送る。
「私たちは、常に『メジロはかくあるべし』と言われて育ってきました。走ることを義務として、勝利こそを誉れとして、これまで育ってきたのです。メジロのウマ娘であるということはそういうことです」
メジロマックイーンの腕がそっと胸元に伸びる。そこにあるのは制服のスカーフをまとめる蹄鉄を模した金具だ。
「本音を申しますと、それを抜きに誰かを応援するというのがよく分からないのです。私が走るのはメジロのためですし、同じメジロ家のウマ娘を応援したいと思うのも、メジロのためです。同じように私は、チームのためにスペシャルウィークさんを応援したいと思うのでしょう」
ベルノライトはその独白を聞いて、静かに言葉を探す。
「……私は普通の家の子なので、メジロ家の在り方とか、使命とか、きっと分かってないところの方が多いんでしょうけど」
そう前置きをしたが、メジロマックイーンの視線は前を向いたままだ。
「応援するっていうのは、元々身勝手で、わがままなことなんだと思います。勝手に誰かに期待して、勝手に救われた気がして、勝手に裏切られた気分になって。応援するって多分そういうことなんです」
ベルノライトの視線の先、京都レース場の奥側に配置されたゲートの近くに、ウマ娘たちが小さく見える。もうまもなくの出走だろう。
「レースはそういう想いが集まって成り立ってるんだって思うんです、私。だからみんなレース場に来て応援するし、そんな人たちのためにライブステージをして……みんなが身勝手な思いを誰かに託して、託された誰かがそれを背負って走る。そういう場所なんじゃないかなって」
だからね、と言って笑ってみせたベルノライト。
「義務の外側にも、きっと応援する理由があって、走る理由もきっとある。その方がきっと、楽しいと思うんですよ。多分……トレーナーさんが私たちを観客席に置くのは、そんな空気を知ってほしいからじゃないか、なんて私は考えてます」
「トレーナーさんがそう仰っていたのですか?」
「ううん。そうなのかなーって思っただけですよ」
肩をすくめながらそう言うと、堅かったメジロマックイーンの表情が少し緩んだ。
「……率直に言わせていただきますと、あの方がそこまで考えているかは疑わしい気がしますわね」
「あはは……結構手厳しいですね、マックイーンさん。あの人が元々芸能界の出身っていうのは聞いてましたっけ?」
「ええ、一応は。逆に言えばその程度しか知ってはいないのですが……」
「トレーナーさんが言うには、トゥインクル・シリーズは……ひいてはスポーツ界は芸能界と似てるところが多い、らしいんです。『演劇や映画が観客から不可分であるように、レースにおいても観客は不可分な要素です。ゆえに観客が演者を、あるいは出走ウマ娘を見て何を感じるのかを意識することが大切なのですよ』って言ってました。私は芸能界のことをよく知りませんけど、それでもトレーナーさんと大体同じ考えです」
「私には……よく、分かりません」
「本当に、ですか?」
そう問われ、首をひねるメジロマックイーン。そんな彼女にベルノライトが問いを重ねた。
「ヒットひとつに一喜一憂したり、期待のエースのホームランに思わず飛び上がったりしたことって、本当にないですか?」
「あっ……」
思ったより大きな声が出てしまったのか、慌てて周囲を見回すメジロマックイーン。
「それと何も変わりないんです。そこに使命とか責務とかがなくたって、自分の気持ちで応援する……マックイーンちゃんだって、レースでそうしてもいいんですよ」
さらさらとした淡い藤色の髪を撫でるベルノライトだったが、すぐに慌ててぱっと手を離した。これでは完全に子供扱いだし、呼び方も馴れ馴れしすぎだ。
「ごめんなさい、つい……マックイーンさんの方がずっと詳しいですもんね、レースのこと」
釈迦に説法でした、と照れ隠しの笑みと共に頬を掻くベルノライトだったが、メジロマックイーンは静かに首を横に振った。
「いいえ、ベルノライトさん。いいえ」
その声は凜と澄んでベルノライトに届く。
「恐らく、ベルノライトさんの方が本質を見ていますわ。私の『かくあるべし』というレースよりも……ずっと、深く」
そう言って、メジロマックイーンは溜息を吐いた。
「貴女は今、私の目の中の丸太に気づかせてくださったのです」
「ま、丸太……?」
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。……マタイ書の第7章にこのような
「……えっと?」
全く知らない話が唐突に出てきて、困惑の表情を隠せないベルノライト。
「『こうあるべき』では見えないものがある、ということです。先入観という丸太、かくあるべしから外れたものを認めないという丸太。そういったものを抱えていながら、そうではないものを『そぐわない』と切り捨てていてはならない。そう、聞こえたのです」
「えっと、そんな大仰なことを言ったつもりはなかったんですけど……」
ベルノライトは苦笑いを浮かべるも、メジロマックイーンは改めて首を横に振った。
「ベルノライトさんは先輩なのですから、そう謙遜なさらないでくださいまし。呼び方も口調も、気を遣ってくださらなくて大丈夫ですわ。そう呼ばれるに値する差が、年齢にも経験にもありますし……これは言おう言おうと思いつつも今日まで言えずにいたことですが、スペシャルウィークさんに対して呼びかけるときよりも堅苦しくされてしまうと、私としても少々困ってしまうのです。ですから、どうか」
「……うん、わかったよ。でも、それならマックイーンちゃんも敬語じゃなくていいんだよ?」
「これはそういう言葉遣いしか習ってこなかったので……どうか慣れてくださいまし」
マックイーンの言葉に二人はクスクスと笑い合う。
都合よく、ちょうどそのタイミングでファンファーレが鳴り始めた。ベルノライトは正面に向き直る前に、メジロマックイーンの横顔をちらりと見る。先程まであった迷いの色は、もうどこかに消えているようだった。
『楯の栄誉を求め、黄砂舞う京都レース場にウマ娘たちが集う! 最長距離GI、春の天皇賞がまもなく出走となります!』
向こう正面に設置されたゲートへと目を凝らしながら、実況音声に耳をそばだてるベルノライト。ほぼゲート入りは完了しているようだが、何人かスタッフが集まっているのが見える。おそらくはセイウンスカイを始め、ゲートを苦手とするウマ娘が渋っているのだろう。
『3番人気はメジロブライト。メジロの名を背負い、最強ステイヤーの座と連覇を賭けて挑みます。続いて2番人気はセイウンスカイ。大外枠ながら仕上がりは万全、今日こそは総大将を相手に下剋上だと言わんばかりの様子です。そして1番人気はもちろんこの子、スペシャルウィーク。URA単独最多連勝となる、12連勝の大記録達成となるでしょうか。…………さあ、ゲートイン完了。出走の準備が整いました』
観客席の雰囲気が一気に張り詰めていく。
「いよいよ、ですわね」
「うん。いよいよ、だね」
二人の声と時を同じくして、スターティングゲートが開いた。