思ったよりも砂が浮いている感覚がする。セイウンスカイはそれを呪いながら京都レース場2回目の向こう正面を先頭で駆ける。振り返ることはない。振り返る体力が惜しい。
(ま、中山や阪神よりはよっぽどマシだけど、っと!)
中山レース場や阪神レース場と比べて、京都レース場は最終直線が平坦なので走るのにパワーを必要とせず、そういう意味ではセイウンスカイとの相性は良い。ずっと走りやすいコースが続くというわけではないものの、どのみち抱えている手札でなんとかするしかないことに変わりはない。
自分のイメージよりわずかに脚の接地タイミングが速かった。京都レース場名物の3コーナーに向けた丘に向け、4m近くを駆け上がる。まだ背後から聞こえる足音は遠い……確かに遠いが、この坂が勝負の分水嶺になることは間違いない。
ここまでのレースはセイウンスカイだけが逃げ続け、先行・差し集団がまとまって団子となる構図になった。これは無責任にレースの予想を切り売りするレース雑誌でも大きく外してはいないはずだ。
逃げ戦略を採るのがセイウンスカイひとりだけでは、逃げ集団の速度アップは見込めない。超長距離という前提もあり、セイウンスカイだけでペースを引き上げるゲームメイクには誰も乗ってこないだろう。セイウンスカイだって、誰も乗ってこない賭けで唯一の勝ち目を潰すようなことはするまい。
誰もがそう予想した通り、レースはスローペースで進んでいく。3200mというのは歴戦のウマ娘にとっても決して短い距離ではない。
3コーナーが遠い。そう歯ぎしりしながら内ラチギリギリ、内周り用のコースの進入禁止柵を見ながら一気に坂を駆け登っていく。ここで速度を維持しておきたい。もうすぐ頂上、先行組の靴音が背後まで急激に寄ってくる。
やっと残り1000mを割ったばかりの上り坂でスタミナを使ってまで先行組が速度を上げるということは、先行組がリードを維持できなくなりつつあるということ……つまり、差し組が先行組を煽った。それも加速が難しいコーナーの、上り坂で加速させるという地獄のようなタイミング。
そんな悪魔的な展開を能動的に起こした奴がいる。
そんな悪魔のような駆け引きを持ちかける奴など──ひとりしかいまい。
(圧倒的差し有利、逃げ不利の京都レース場。最終直線での粘り勝ちができないと焦った先行組はもうグダグダ、すぐに脱落しはじめる。セイちゃんはひとりで逃げ続けてスタミナ不足に陥り、集団に飲み込まれてデッドエンド。そういうシナリオなんでしょう?)
3コーナーの前三分の一を超えると始まる急激な下り坂。コーナーを抜けるころにはもう4mを下りきるほどの急坂を一気に駆け降りる。いつかのこと、トレーナーは『淀の坂はゆっくり上ってゆっくり下るんだ。そうしないと危ないからな』なんて言っていたが、そんな大型トラックの運転講座じみた戦略はもはや通用しない。
「それくらい、お見通しなんだよっ!」
下りでは上体を起こすのが定石だ。上体がしっかり起きていれば、骨盤が起き、脚を前に出しやすくなる。蹴り足は上げるのではなく前に抜く。歩幅を小さくして脚への衝撃を抑えつつ、ピッチをあげていく。それが、脚への負担が一番少ない走り方。
セイウンスカイは一気に上体を前に。自然に伸びる脚に乗り遅れないように前へとつける。速度を落とすわけにはいかない。上体が起きれば空気抵抗も大きくなる。骨盤が起き、脚を前に出すということは重心が後ろに倒れるということで、それはブレーキを意味する。
────坂を
下り坂で自然にストライドが伸びる。そのストライド以上に、上体を前へと持っていく。倒れることを防ぐために脚が前に出るという状況に近い。脚のダメージなど知ったことか。どうせ走ったとしても次のGIは最速で宝塚、そうでなければ秋の天皇賞だ。療養期間はしっかりと確保できる。
速度が上がればそれだけ外側に膨らみやすくなる。時速数十キロでカーブを曲がろうとすれば、恐ろしい加速度が脚に掛かる。コーナーでも地面はほぼほぼフラットだ。下手をすればそのまま外ラチまで吹っ飛ぶし、一歩間違えれば脚が文字通り砕けるシナリオだってありえる。
それでもセイウンスカイは前へ、後続の先行組の足音から逃げるように前へ。平地での基本ピッチを落とさず、それでもストライドは広く。結果的にコーナーの内ラチを擦るような位置を飛ぶ。内ラチは荒れやすいというが、京都は比較的マシだ。
これまである程度規則的だった足音が一気に崩れ始めた。みな、スパートに向けた位置取りの調整に入ったのだろう。3コーナーを抜けて斜度が下がる。緩やかに下りつつ4コーナー。蹴り足はそのまま擦るように前へ。コーナーの奥が開け始めた。観客で満たされたスタンドが見えはじめる。ゴール板までの直線が開けたタイミングで全員がスパートに入る。
ターフを擦るように、低く、前へ。そしてその外から一際強く踏み込む音がする。
「待ってたよ」
その言葉が口から出たかはわからなかった。出ていたとしても相手には聞こえていないだろう。それでも誰が来るのかは、おおよそわかっていた。
もう慣れてしまった、彼女が来る感覚。振り返らずとも、それが誰なのかわかってしまうほどだった。
スペシャルウィークが、すぐ横を駆けていく。
セイウンスカイは強くターフを踏み込む。ここで負けるわけにはいかなかった。
「こうやって競るのも久しぶりだよねっ……スペシャルウィークッ!」
セイウンスカイが再加速する。涼しい顔をしたスペシャルウィークは、正面を見つめたまま振り返らない。それがいやに癪に触ったが、それでもその思いすら今は重しだ。捨て置けと命じて脚を前に振り出す。
腕を振って身体を持ち上げ、そのぶん蹴る力は前へ。スローなレースで末脚を温存できていたのは、セイウンスカイだって同じだ。
最終直線に入り、残り2ハロンを割った。あと20秒で勝負がつく。
そのときだった。
「うえっ……!」
蹴り足が一瞬滑った。バランスを取るため、返している最中の脚で地面を真上に蹴るようにする。黄砂が祟って芝を蹴り損ねたのだと理解したときにはわずかに速度が落ちていた。その横をもうひとつの影がひゅんと飛び込んで、頬をかすめるような近さをそのまま飛び抜ける。
────メジロブライト。
わずかな空隙を突くようにして、ミントブルーの勝負服が前へと飛んでいったことにセイウンスカイは驚いた。メジロブライトは去年の春天覇者で追込を得意とするウマ娘だ。神出鬼没で安定しないゴールドシップとはまたタイプが違うが、距離が伸びれば伸びるほど驚異的な末脚を誇る、要警戒ウマ娘のひとりだった。
その数刹那だった。失われた加速度を取り戻すために地面を蹴るが、その足が重い。3コーナーまでのリードキープで少なくないダメージが蓄積している。脚が鉛のように重たいのは気のせいだと言い聞かせ、なんとか脚を前へ飛ばすが、メジロブライトは背に羽が生えているかのように軽々と距離を開いていく。
目の前でメジロブライトとスペシャルウィークが先頭を奪い合う。メジロブライトが内ラチに半歩だけ寄った。それは、スペシャルウィークを内ラチ側から抜きにかかった体勢であり……そして同時に、内ラチ側を走っていたセイウンスカイのレーンを潰すトドメのコース取りだった。
(やられた……!)
ふたりの前に出るにはスペシャルウィークのさらに外に出るしかない。この状況で、2レーン外へとスライドしろという。
(間に合わない、間に合うわけがない。もう1.5ハロンもないんだぞ!)
足が緩みそうになる。後続は大きく離れている。スペシャルウィークとメジロブライトとセイウンスカイ。三人だけの争いだ。それでも、脚を前に。
諦めても誰も文句は言うまい。常勝無敗のスペシャルウィーク、春天連覇の懸かったメジロブライトとの大接戦。皆が望んだ結果だろう。それは、あまりに甘美であまりに退廃的な囁き。
────私、トレセン学園を目指してて、あの……セイウンスカイさんみたいに、走れるようになりたくて、その……
頭の奥底が殴られたように痛い。身体中の酸素が足りていない。
諦めたっていいだろう。折れたって誰も責めはしないだろう。
────セイウンスカイさんみたいに、誰かに勇気を分けられるような、そういう、走りが、したくて、その……
「ふっ……ざけんなああああああああああああ!」
強く右足を蹴り、外ラチに向けて弾き出る。姿勢は低く、倒れこむのを防ぐために脚が出ているような状況だ。二歩で外に出た。左足が芝を掘り返した感覚がある。もうロスがどうなどと言っていられる余裕はない。そのまま無理やり前に進路を取り直す。さっきまで左側に見えていたスペシャルウィークが右前にいる。
「負けられないんだ! 私だって! 負けられないんだよっ!」
視界が歪むのは黄砂のせいだ。足が痛むのは今の無茶な軌道のせいだ。
100の表示は見えなかった。ゴールまであと数秒。
心臓が痛いのはスタミナがすでに尽きたせいだ。頭が痛むのは酸欠のせいだ。
音すら遠のく。スタンドは歓声に沸いているのだろうか。きっと沸いているのだろう。
その中に、ひとつはセイウンスカイを呼ぶ声があると確信してしまったのは、なんと傲慢で、なんと重たい感情か。
────あぁくそ、見るんじゃなかった。
そう思っても、認識した事実は覆らない。
ゴール板は今、背後に消えてしまった。
「スカイさん……」
膝に手を乗せて肩で息をするターフ上の彼女を見て、ニシノフラワーは心配そうにそう呟いた。
「惜しかった……最終直線で滑らなければ優勝していたかもな……フラワー?」
彼女を肩車していた父親が怪訝そうに声をあげる。
「大丈夫、かな……。スカイさん。最後、すごい追い上げをしてたから……」
「きっと大丈夫さ。あそこから復活して、メジロブライトさんと横並びでゴールできたんだ。あんな末脚、見たことないし……ほら、顔を上げた。大丈夫。きっと大丈夫だ」
ニシノフラワーを下しつつ、父親はそう言った。
「ライブまでかなり時間もある。ちゃんと最後まで見ていくんだろう?」
「うん……お父さん」
「なんだい?」
はぐれないように手を引く父親を見上げて、ニシノフラワーは迷ったように間を開けてから、口を開いた。
「私の応援、届いたよね。きっと」
「もちろん届いただろうさ。きっと届いたから、セイウンスカイさんはあんな走りができたんだとお父さんは信じてるよ」
「……そっか、そうだといいな」
「きっとそうさ」
父親はそう言って笑ってみせた。
「あの、お父さん。ひとつ、わがまま言っていい?」
「どういうわがままかな? 言ってごらん?」
「髪留めが欲しいの」
髪留め? と父親が聞き返す。
「スカイさんがしてたみたいな、お花の髪留めが欲しい。スカイさんみたいに、あきらめずに走れるウマ娘になって、トレセン学園に行って、頑張るんだって、そう思った私を忘れないようにしたくて」
「……そっか。じゃあ、母さんとも相談して買いにいこう。セイウンスカイさんにも応援してもらったし、きっとフラワーなら大丈夫だ。なれるよ、フラワーがなりたいウマ娘に」
ニシノフラワーは頷いて空を見上げた。
黄砂交じりの空は何も言わずに、彼女を見つめ返していた。