「あなたのトレーナーがすごい顔で出ていったけれど、ケンカでもしたの?」
「キングには関係ないでしょ」
ライブも一通り終わったあと、制服に着替える気にもなれずに控室で腰を下ろしていたセイウンスカイの元にやってきたのは、両手に紙コップを持ったキングヘイローだった。
「というか、来てたんだ。わざわざ京都まで」
「同期が走るのに応援しちゃいけないなんて道理もないでしょう? ……惜しかったわね」
その言葉に、セイウンスカイは若干の苛立ちを隠すことなく答えた。
「慰めに来たんなら帰って。そういうのはいらない」
「でしょうね。ホットとアイスを間違えて買ってしまったから押し付けにきたのよ」
「猫舌なの知ってるよね?」
「安心なさい。あなたが飲むのはアイスの方よ」
そう言って紙コップに入った冷たいカフェラテを差し出してくるキングヘイロー。セイウンスカイがそれを眺めているとしびれを切らしたのか、無理やり持たせてくる。それをそのまま押し付けてから、彼女は化粧台を兼ねた作り付けのデスクに腰を預け、湯気立つコップを啜る。
「……で、本当は何をしに来たのさ」
紙コップ入りのアイスカフェラテには氷が入っていない。相変わらずキングヘイローは変なところでミスをする。彼女はホットのカフェラテを買うのに氷抜きのボタンを押してしまったらしい。
キングヘイローが口を開く。
「勝手に情報を売りつけたのは私よ。アフターフォローぐらいはさせてもらうわ。それに……スペシャルウィークさんが次に走るのは安田記念、少しでも情報が欲しいって下心もある」
「スぺちゃんがまたマイルに?」
「あなた、ライブ前の記者会見を見てなかったの? 1年ぶりに1600mを走りたいって言ってたじゃないの、スペシャルウィークさんが」
彼女は驚いたように目を見開いた。その仕草も、今のセイウンスカイにとっては大した意味を持たない。
「興味ない」
「まったく……本当にらしくないわよ。どうしたの?」
セイウンスカイは黙ったまま答えない。曖昧な色に濁ったカフェラテは、どのような像も結んではくれなかった。
「今日の走りもそうだった。飄々とした、安定した走りが売りだったあなたらしくない走りだった」
「はいはい、期待の走りじゃなくて悪ろうござんした」
「勝手に他人の話を切り上げないの。良し悪しを言ってるんじゃないわ。私はこれまでのあなたの走りより好きよ、今日のあなたの走り」
その言い草にセイウンスカイは吹き出すように笑う。
「好き嫌いで勝ち負けが決まるならこんなに楽な話はないよねぇ」
「でも、やっとあなたは取り繕わない本気で走ったでしょう?」
セイウンスカイの心臓の奥底へ氷の針を刺し、キングヘイローは笑ってみせる。
「それに、スペシャルウィークさんとの距離の開き方だけを見るのなら、ダービーに続く詰め寄りかたをした。最終直線の手前で
その一言に顔を上げるセイウンスカイ。その顔は半分怒りに満ちたものだった。
「『レースに
「『レースに
キングヘイローはそう言って目を伏せる。
「スペシャルウィークさんが1着。アタマ差でメジロブライトさん、続いてハナ差でスカイさん。あなたが得意とする長距離での3着は、確かに現状の限界を示しているかもしれない。けれども、あなたの実力は誰もが認めるところよ。……そして、今日の走りは図らずもその証明となった」
「キングは何が言いたいのさ」
1ヶ月ほど前、リーニュ・ドロワットの後にも同じような会話をしたと思い出しながら、セイウンスカイは問い返す。
「なら単刀直入に言うわ。……あなたに足りないのは勝利の経験よ。あなたはスペシャルウィークという存在に執着しすぎている。足りないのは戦略でも執念でもない。経験よ」
キングヘイローはそう口にする。
「あなたの戦略眼が一流であることは嫌というほど見せつけられてきた。その場での適応力もダービーと今日の天皇賞で見せつけた。それを実現できるスタミナとパワーも兼ね備え、スピードに乗れることも分かっている。レースメイクだって、悔しいけれど超一流だと思っているわ。それでもあなたが勝てない理由は、スペシャルウィークさんという理外の強敵だけではないと、私は見ているの」
キングヘイローは喉を湿らせるようにカフェラテを一口飲み込んでから続ける。
「勝ち癖というのを信じているわけではないわ。それでも、自らに合う勝ち方を知るには勝ちを重ねるしかない。ひたすら最終目標に当たって砕け続けるよりも効率的。違うかしら?」
真面目な顔でそう言って、セイウンスカイの返事を待つキングヘイロー。セイウンスカイは一気にカフェラテを煽った。
「……キングに話したことあったかな。たぶんないと思うんだけど。……私、結構おじいちゃんっ子だったんだよね。あ、今もか」
話題がいきなり飛んだ。キングヘイローは続きを静かに待つ。
「じいちゃん、私にクラシックを獲ってほしいって、それを見るのが夢だって言っててさ。それはもう、小さいころから何度も何度も、ずーっと言われ続けてきた。『お前は三冠を取れる器なんだ』ってさ」
空になったはずの紙コップをあおり、不満そうにそれを握りつぶすセイウンスカイ。
「じいちゃんの夢のために走ってたわけじゃない。そのために時間をかけてたわけじゃない。私が走るのは、徹頭徹尾私のため」
いびつに歪んだ紙コップを見下ろして、彼女が呟いた。
「……それ以外の何かを背負うなんて、重しにしかならない。ホープフルステークスで負けてからずっと、そう言い聞かせてたんだよ」
キングヘイローには、その後に続く『それでも』という叫びのような幻聴が聞こえた。しかしセイウンスカイはそのまま黙りこくってしまう。
そのまま無言の時間がしばらく続いた。しびれを切らしたキングヘイローが口を開く。
「……手を組みましょう。あなたがただのシルバーコレクターではないという証明を、対スペシャルウィーク決戦兵器という評価に収まるような器ではないという記憶を、あなたは手にする権利があるわ。……あなたのトレーナーさんや、私のトレーナーにも話はもうつけてるの。あなたが望みさえすれば、チーム間での共同練習やノウハウの共有に関する覚え書きを締結する用意がある」
「……キングが皆に好かれる理由、よく分かったよ。でも私は大嫌いだ」
セイウンスカイはそう言い放つ。キングヘイローの顔がひるんだように歪んだ。
「私はずっと、こうやってきた。今更変われないし、もうこれ以上、何も失えないんだ」
それはさながら、蟻地獄に両脚を突っ込んだようなものだったのだ。あがけばあがくほどにスペシャルウィークの実力を思い知る。
セイウンスカイの拳が握りこまれた。
「そんな私すらどこかに捨てたら、私は……私を、じいちゃんの夢を、どこに葬ってやればいいんだよ」
「……スペシャルウィークさんは、あなたの価値を計る物差しではないはずよ」
「アンタになにが分かるのさ!」
キングヘイローの耳のすぐ横を紙コップだったものが飛び抜けた。カフェラテの雫が鏡を汚したが、彼女は振り向かなかった。肩で息をするセイウンスカイをまっすぐと見つめる。
「もう他にないんだ! 終わらないんだよ! そうしないと終わらせられないんだよ!」
「……仮に、終わらせられたとして、それであなた自身は、一体何を得るのかしら?」
「他に何もないんだ!」
そう叫んだセイウンスカイをまっすぐと見て、キングヘイローは一瞬笑った。
「だったら、ただの負け犬ね」
お邪魔したわね、と一言告げて控室を出る。扉を閉めた向こうから金属的な破壊音が聞こえた。掃除用具箱かダスト缶か、そのあたりを蹴り飛ばした音だろう。
「……負け犬だなんて、本当に言ってよかったのですか? あなたはそんなことを思ってなどいないでしょう?」
キングヘイローは背後から掛かった声に足を止める。
「どうかしらね。……それでも、言う意味はあったと思うわよ。グラスさんも、ここまで来ていたのなら入ってきてくれても構わなかったのに」
そう言いながらキングヘイローが振り返ると、予想通りに栗色の長髪を揺らすクラスメイトにしてライバルの少女が立っていた。
「お取り込み中のところにしゃしゃり出ても、良いことはひとつもありませんので」
「なら、今から顔を出すのは?」
「火中の栗を二度拾う必要がありますか?」
笑顔を崩さないまま、グラスワンダーは横に並んだ。そのまま連れ立って歩きだしながら、キングヘイローが口を開く。
「あなた、そういうところは本当にしたたかね」
「褒め言葉として受け取っておきます。……それで、感触は?」
「スカイさんなら大丈夫……あの子は、あの程度で折れる器じゃないわ」
間髪置かずそう返したキングヘイローに、グラスワンダーは小さく笑い声を漏らした。だがそれをはしたないと思ったのか、彼女は自身の口元をそっと指で隠す。
「そうでなければ困ります」
「……それだからエルさんに『鎌倉武士』呼ばわりされるのよ」
「心外ですね」
グラスワンダーはそう答えつつも上機嫌だ。
「とはいえこれは本心ですし、セイちゃんはきっとまた走ってくる。また上がってくる」
「スペシャルウィークさんに憑りつかれたまま……ね」
「ええ。でも、それはきっと悪いことではないと私は思うのです。それを彼女が望むのであれば、きっとそれは他人が奪ってはいけないことです」
グラスワンダーは歩みを止めることなく、納得しきれていないキングヘイローの顔を見る。
「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする」
「それ、恋の歌よね?」
「あら、キングちゃんも博識ですね」
「あれだけ百人一首でコテンパンにしてきたのはどこのどなただったかしら。嫌でも覚えたわよ。それに、古典の授業でもやったしね」
そう言われて、スキップでも始めそうなほどに嬉しげなグラスワンダーが頷く。
「それで、どうしていきなりそんな歌を?」
「レースって、片思いに似ていると思いませんか?」
「そうかしら」
「勝利への片思い、好敵手への片思い。そんな思いを皆ひた隠しにしながら、私たちはターフを駆けるのです」
「あの子が苦しんでいるのが、恋って言いたいの?」
「おそらくは。恋に恋する、なのかもしれませんが」
グラスワンダーはきらきらとした瞳をさらに輝かせる。
「誰もが勝利に恋焦がれる。それでもそれはいつだって片思いで、たとえ1着を掴んだとしても両想いに昇華することはありません。私たちは失恋すると理解していながら、それでも焦がれて、挑まずにはいられない乙女なのです。だから私たちに、
「命短し恋せよ乙女、ってわけね」
「ふふっ。熱き血潮の冷えぬ間に 明日の月日はないものを、です」
拍子までつけてそう歌うグラスワンダーに深い溜息を吐くキングヘイロー。
「……あなたの方がスカイさんと比べてもよっぽど熱に侵されてるわ。そこまで吹っ切れたらスカイさんもまだ楽でしょうに」
「そうかもしれませんね。私もまたスぺちゃんと競えることが楽しみで楽しみで! ……今度の安田記念、今度こそ全員まとめて差し切ってみたいと思っているんですよ」
急転直下でグラスワンダーの声が冷えた。
「それ、このキングもまとめてって言ってるの?」
「全員まとめて、例外なく、です」
「……上等じゃないの」
そう笑って、キングヘイローは隣を歩くグラスワンダーに視線を向ける。
「容赦はしないわよ」
「もちろんそうでなければなりません。私たちは……好敵手なのですから」
その言葉と共に再び微笑むグラスワンダー。そっと脚を止めて振り返るも、スカイのいる控室はもう遥か遠い。
「いくらスペちゃんが出てくると言っても、マイルレースをセイちゃんが走ることはないでしょう。そうなると、二人が次に競うのは宝塚か、はたまた秋の天皇賞か……そのあたりでしょうか」
「……そうね」
キングヘイローもつられたように足を止める。
「待っていますよ、セイちゃん」
グラスワンダーは、もう振り返らなかった。