トレセン学園中央校の練習用レーストラックは、学園内でナイター設備を備えている唯一の屋外練習施設だ。門限ギリギリの21時まで使用可能であり事前の申請も不要と、中央トレセンの恵まれた練習環境を象徴する設備のひとつであるのだが、実際には浴場やシャワー室の開放時間、また夕食の都合などもあり、20時を過ぎて使用者がいるのは稀だ。
「ふぅ……」
スペシャルウィークは汗ばんだ体を冷やすように、ゆっくりとジョギングをしていた足を止めた。この時間の夜風は心地良く、汗と熱をそよ風が拭っていってくれる。左手首にはめたスマートウォッチに目線を送り、彼女は心拍数とタイムを確認した。インターバル走は厳しいトレーニングだが、ここで踏ん張らないわけにはいかない。
ここに来て、スペシャルウィークは自身の優位が崩れてきていると感じていた。
春の天皇賞は1着を勝ち取れたものの、メジロブライトやセイウンスカイに奪われていてもおかしくなかった。もう少しホームストレッチが長ければメジロブライトの手に、黄砂で脚を滑らせていなければセイウンスカイの手に、楯と優勝レイが渡っていたかもしれない。
その原因は至ってシンプルだ。
「……トップスピード不足、かぁ」
スペシャルウィークは肩を落とす。
その戦績とレースでの勝ちっぷりからはあまり想像できないが、実のところスペシャルウィークが出せる基本的なトップスピードは同期の『黄金世代』組とほぼ差がない。強いて言えば怪我知らずの身体なおかげで、負荷の大きい無茶なフォームでも走れてしまうので、そこは明確に彼女のアドバンテージなのだが……逆に言えばそれまでであるし、そう多用できるものでもない。
『流星のような』と称されるスペシャルウィークの差し足。結局のところその本質は、トップスピードに一瞬で至ることを可能とする脚力と、そのトップスピードをとにかく長時間維持することができる持久力にある。
対戦相手には気づかれないように、早ければ向こう正面のタイミングからスパートを開始。コーナーに入ったら脚力で強引に遠心力を打ち消しつつ、曲がりながら叩き出せる最高速に一瞬で到達。その勢いを保ったまま最終直線に突っ込むのである。トップスピードが目を見張るものでなくとも、それがすぐ発揮できて長時間続けば当然強いという、実に身も蓋もない話であった。
そのうえで、彼女自身が自覚していなかった闘志を自己暗示によってしっかりと発揮することができれば、他のウマ娘を差し切らんとする彼女のスピードは限界を超える。毎日王冠でサイレンススズカを追いかけた結果生まれた上がり3ハロン31秒5という記録は、彼女のそういった性質が最大限発揮されたものだったのだ。
スペシャルウィークは、実力あるウマ娘を
単純だが、その単純さ故に覆ることのない最強。実力を以てそれを体現すること。それがスペシャルウィークにとっての勝ち筋だったのだ。
翻って天皇賞での走りについて考えてみると、あのレースにおけるメジロブライトのトップスピードは目を見張るものがあった。加速力、すなわちトップスピードまでの到達時間はスペシャルウィークの方が圧倒的に短いので、それだけ彼女がリードを稼げるのだが、そのリードを後から詰めてくるだけのスピードをメジロブライトは持っていた。
そして最終直線での粘り方を見れば、セイウンスカイとの競り合いに負ける可能性も決して低くなかった。長距離レースで常に先頭を走り続け、背後の強敵の存在を常に意識しながらペースを作るという、スペシャルウィークからしてみれば神経の擦り切れそうな戦術を採っておきながら、最後まで先頭争いに食らいついてきた。
目標を追い抜くまでは鮮やかに決まっても、そうして自分が先頭に立った途端に闘志が薄れていき、ゴール直前で差し返される可能性が高まる。どのような戦術でも大抵は終盤で差すタイプのレース運びに帰結するスペシャルウィークにとって、それは致命的なリスクだ。
その事実を認識して、彼女はこれまでに感じたことがないほどの焦燥感を覚えていた。
「あと……30分は練習できるかな。ギリギリまで走って、クールダウンは帰りながら……うん、頑張らなきゃ」
チームテンペルは土日完全オフ──ここで言う完全オフというのは『軽めのジョギングやストレッチ以外は自主練もしないように』という意味である──というのが陽室の定めている大前提であり、しかし平日は生徒会に混じって仕事をしている現状、スペシャルウィークが普段より長い練習時間を確保するには居残り練習か早朝練習以外にない。それすらベルノライトからは『スペちゃんの生活だとすぐオーバーワークになりかねないから気をつけてね』と釘を刺されている状況だ。
これはつい先日、天皇賞が終わった直後あたりの話だが、メジロマックイーンがスペシャルウィークの予定表を見て本気の困惑を露わにするという一幕があった。
『あの……スペシャルウィークさん、いくらなんでもこのスケジュールは……』
『スケジュール? 結構大変だけど、慣れればなんとかなるよ?』
初めて出来たチームの後輩に対するちょっとした見栄も込みでスペシャルウィークはそう言ったのだが、メジロマックイーンの反応は想定以上のものだった。
『慣れでどうにかできる問題ではありませんわよ!? ライブレッスンでは毎週毎月のように新曲を叩き込み、トレーニングでは高負荷なものを延々と続け、生徒会の業務も当然の如く降りかかり、さらに勉学もおろそかにすることなく取り組み……そのうえ休日も、身体を使わないからと映像研究ばかりしているのだとお聞きしましたわよ! 少しは息抜きの時間を設けませんと、どこから崩れてもおかしくないですわ!』
『そうそう、マックイーンちゃんの言う通りだよ!』
彼女のみならず、ノートパソコンに向かい合っていたベルノライトまでもが顔を上げて加勢する。その顔は真剣そのものだ。
『映像研究に関しては、一応私としては息抜きのつもりで……』
『同じこと前にも言ってたよね、スペちゃん。私も前と同じことを言うけど、それって全然息抜きになってないよ? 研究なら私が平日にいくらでも付き合うから、土日はちゃんと休んで!』
『スペシャルウィークさんはもっとご自分の身体を労ってくださいまし! 今できるからといって、ギリギリまでやることを詰め込んでいてはいずれ倒れてしまいますわよ!』
『わ、わかったから! これから気をつけるから、そんなぐいぐい詰め寄らないでっ!』
チームメイトふたりに真剣な顔で詰められてはさすがにどうにもならず、スペシャルウィークはそう言いながら大人しく頷いておくほかに選択肢はなかった。
そんな事情もあって、映像研究はもちろんのこと、休日に身体を動かすトレーニングをするわけにはますますいかない。となれば、平日に別途トレーニングを行えるような時間の余裕が生まれるのを見過ごすことなどできないのである。
日頃の練習は比較的苦手なコーナリングのために多めの時間を割いているが、それと同じぐらいにトップスピードの向上も重要だ。いくら暗示によってレースで全力を確実に発揮できるとしても、その全力が貧弱では何の意味もありはしない。
今日は珍しく遅い時間まで生徒会の業務が入っていたので、そもそもトレーニングもレッスンもスペシャルウィークの予定にはなかった。しかし業務が終わってみれば想定していたより疲労も薄く、であれば門限ギリギリまでひとりでこなせるトレーニングを……と考えた彼女は、こうして自主練としてインターバル走を淡々とこなしていたのである。
明日以降の練習に差し支えるような疲労を抱えてしまっては自主練も何もないし、なにより陽室を始めとするテンペルの面々にはすぐに気づかれる。オーバーワークになってまた迷惑をかけることもしたくない。だからこそ、そう長くない時間で高い負荷と確実な効果を見込めるインターバル走は今の彼女にとって最適の選択肢だった。
「……帰ったらお風呂とご飯を済ませてすぐ寝て、起きたら宿題……あ、明日英語の小テストだっけ。復習もしなきゃ……」
明日の予定を思い出しながら再び走り出そうとしたタイミングで、スペシャルウィークはどこかから視線を感じた気がした。一旦足を止めて軽く周囲を見回してみると、その視線の主と──おそらくは──目が合った。
「ふっ、気がつくとは流石ですね。これで貴女とも縁ができました、スペシャルウィークさん」
何もかもよくわからないし、本当に目が合ったかどうかすらも実のところかなり怪しかった。なにせ、スペシャルウィークのことを見つめていた女性は目元を仮面で隠していたのだ。不審者情報としてあまりにも頻繁に学園のメーリングリストで回ってくるため、学園七不思議になりつつある『保健室に低確率でスポーンする妖怪笹針女』の人相書きで見たような仮面だ。
もっとも、その笹針女は赤いタイトな服装に白衣らしいが……怪しさで言えば、目の前のウマ娘もどっこいどっこいだ。服装は緑色のタイトスカート、厚手のストッキング、白いワイシャツと黄色いネクタイ。頭の上からはウマ娘たる証のひとつであるウマ耳が伸びている。
だが奇抜すぎる仮面とウマ耳を除けば、スペシャルウィークはその女性の姿に見覚えがあった。あまりにありすぎた。どうやっても否定できないぐらい見覚えがあったのだが、その名前を出すことはいささか以上に躊躇わざるを得なかった。
控えめに言って変人、遠慮を取り払って言えば本物の不審者。そんな目の前の人物と、スペシャルウィークの心当たりたる人物はどうしても繋がらなかったからである。
それでも、無視を決め込むという選択肢をスペシャルウィークが取れるはずもない。観念したように彼女は問いかけた。
「……あの、たづなさん? 何をしてるんですか?」
「いいえ、私はただの通りすがりのウマ娘です」
間を置かずそう返事する謎のウマ娘。付ける意味があるのかもわからない仮面の横に指を当てながらキリリとポーズを決めているのだが、スペシャルウィークはその仮面が学園最寄りにある100円均一ショップのパーティーグッズ売り場に並んでいることを知っている。昨年のクリスマスパーティー、セイウンスカイが寝落ちしていたエルコンドルパサーのマスクをそれにすり替えて追いかけっこになっていたのをスペシャルウィークはよく覚えていた。
スペシャルウィークはこの時点でもう頭を抱えたくなってきていたし、許されるならばこの場から速やかに離脱したかったが、もちろんそれが叶うはずもない。
「えっと、どこからどう見てもジャケットを脱いだだけのたづなさんだと思うんですけど……」
「いいえ、私はただの通りすがりのウマ娘です」
ビジネス用のパンプスでレーストラックへと続く階段をつかつかと降りてくる謎のウマ娘は、頑として自分が駿川たづなであることを否定する。
「……もしかしてですけど、あの笹針師さんのお友達だったりします?」
そう質問されると、謎のウマ娘は頬を膨らませながら言葉を返す。
「あんな不審者と一緒にしないでください。追い払うのにどれだけ苦労したか……」
「やっぱりたづなさんじゃないですか!」
「いいえ、私はただの通りすがりのウマ娘です」
謎のウマ娘はスペシャルウィークの前まで来ると、彼女と向き合うように足を止めた。ここまで来られてしまうと、最早どうしたところで相手にしないわけにはいかなくなってしまった。『いいえ、私はただの通りすがりのウマ娘です』と言われながら絡まれ続けたために寝不足です、というのはあまりに理不尽だ。
スペシャルウィークは深く溜息を吐いた。
「……それで、通りすがりのウマ娘さん。私になにかご用事ですか?」
「はい、もちろん。用がないのにわざわざ呼び止めるようなことはしません」
棘がある言い方にどことなく自分のトレーナーらしいものを感じたスペシャルウィークを尻目に、謎のウマ娘はスカートのポケットから白手袋を取り出し、そのまま地面に叩きつけた。
「決闘を申し込みます。芝2400mの左回りで私と勝負しなさい」
「……はいっ!?」
スペシャルウィークの素っ頓狂な声がグラウンドに響いた。