「勝負服とゲートを持ってこれるなんて、やっぱりたづなさんですよね!?」
「いいえ、私はただの通りすがりのウマ娘です」
投光器が煌々とターフを照らす中、先程までのジャージから勝負服に着替えたうえでスターティングゲートに収まるスペシャルウィーク。一方、謎のウマ娘は練習用のゲートの自動化設定をいじっている。少人数での練習に使われる、バックゲートを閉じてから数秒後に自動でゲートが開くモードに切り替えているらしい。全てのゲート内にウマ娘がいないことを確認すると、自動でコース外へと待避してくれる最新式だ。
「……ところで、貴女は着替えなくていいんですか?」
謎のウマ娘は現れたときと全く同じ格好。靴すら履き替えず、ビジネス用にしか見えないパンプスのままだ。それを指摘しても、彼女はまるで何事もないかのようにクスっと笑って振り返る。
「今の貴女を嬲るのに、勝負服など必要ありませんよ。……これまで私、一度だって負けたことがないんですよね」
ここまで意味不明な状況に振り回され続けていたスペシャルウィークも、この言葉にはさすがにカチンと来た。
「だとしたら、貴女に初めて土を付けるのは私ですね。トキノミノルさん?」
「…………」
そう言いながらいっそ嫌味なくらいの笑顔を向けてみせれば、謎のウマ娘──トキノミノルも無言で微笑み返してきた。だが、その笑みはどこか冷淡だ。
目の前のウマ娘は、自らがトキノミノルであることを否定しなかった。より正確に言うならば、否定することができなかった。
ウマ娘はふたつの名前を持っている。産まれたとき両親によって名付けられるヒト同様の名前と、幼少期に突然自覚するウマ娘としての名前だ。
戸籍謄本にはまず両親の名付けた名前が載り、後になってウマ娘としての名前が載る。公的にはどちらも本名という扱いになるが、一般的な生活を送るウマ娘は前者を、レースに出る競走ウマ娘や芸能界などで活躍するウマ娘は後者を主に名乗ることがほとんどだ。
しかしいずれにせよ、『ウマ娘はウマ娘として生まれるわけではない。名前を自覚して初めてウマ娘となる』という言葉まであるほどに、ウマ娘は自覚したその名を自らの誇りとして抱えていくことになる。
トゥインクル・シリーズを始めとする公的な競走競技では、規定上両親に名付けられた方の名を名乗ることはないし、トレセン学園においてもそれは同じだ。競走ウマ娘にとっての名、ウマ娘としての名とは──その生涯がどのようなものであれ──自らと切り離すことなど叶わない、自分そのものですらあるのだ。
だからこそ、そのウマ娘は否定できなかった。トキノミノルという名を捨てきれないままに生きてきたのだろう。
トキノミノル──十数年前のトゥインクルで無敗のまま日本ダービーを獲り、しかしその勝利を最後に怪我で引退した、人呼んで『幻のウマ娘』。生涯成績は10戦10勝。レースを早期で引退した後は飛び級で大学に入り、卒業後はそのままURAに就職したらしい……というのは、URAの関係者であれば誰もが知る話だ。
そしてトレセン学園理事長が今代の秋川やよいに代替わりした途端、学園事務局秘書課課長・駿川たづな代表秘書官として彼女が着任したということも、関係者であればやはり誰もが知る話だった。トキノミノルの現役時代を知らない生徒たちにはあまり浸透していない情報ではあるものの、そんな彼女らに『走って追いつく』ような芸当をたづなが幾度か見せているのもあって、駿川たづながウマ娘なのではないかという憶測は度々立っている。
ウマ耳としっぽを見せないようにしているのは過去に触れられたくない証拠だと影で噂され、誰もがその過去を知っていながら誰もそれに触れることができないがため、駿川たづなに『貴女がトキノミノルなのか』と直接問いただした者はいない。それでも今この場において、彼女こそがトキノミノルであることは疑いようがなかった。
スペシャルウィークが陽室から研究用に渡されたレース映像は数多い。その中には当然トキノミノルのレースも複数あったし、彼女の顔はとっくに覚えている。トキノミノルと駿川たづなが同一人物であることなど、スペシャルウィークにはわかりきっていることだった。
「安心してください。これでも、スペシャルウィークさんの全力に応えられるぐらいには鍛えているつもりです」
しかしその事実を以てしても、自分相手にトラッシュトークを仕掛けてくるトキノミノルと、穏やかな笑顔で生徒たちをサポートする駿川たづなは別人すぎる。
あまりにも大きな差に戸惑いを覚えなかったかと問われれば、否と言うことはできない。だが裏を返せばその差とは、今この瞬間にトキノミノルと駿川たづなを
「どうなっても知りませんよ」
「ご心配ありがとうございます。ゲートに入るのも久方ぶりですが、なんとかなるでしょう。それでは、用意の程は?」
「いつでもどうぞ」
スペシャルウィークはそう返す。それを聞いたトキノミノルが自らゲートに入り、バックゲートを閉じた。
自己暗示はしない。いくらレースとはいえ模擬戦で軽率に使うのは憚られたし、なにより十数年前に引退したウマ娘を相手に暗示込みで勝ったところで何の意味もないからだ。
カシャン! という小気味良い音と共にゲートが開き、スペシャルウィークは一気に飛び出していく。その目の前に、白いワイシャツ姿が飛び込んできた。
────速い!
先行型の走りだが、序盤から相当な速度が出ている。さすがにサイレンススズカほどとは言わないが、2400mのレースにもかかわらずマイルのような走り方だ。
だが、それ以上にゲートに対する反応が良い。だからこそトキノミノルは綺麗にスタートダッシュを成功させて前に出ることができたのだろう。自慢の脚力で強引に加速して実質的なスタートダッシュを決めるスペシャルウィークとは全く違うアプローチであり……言うまでもなく、トキノミノルの方が正統派だ。
スペシャルウィークは一先ず相手に対する認識を改めることにした。決闘などというものを挑んでくるだけはあって、少なくともその走りはとっくの昔に引退したウマ娘のそれではない。GIを現役で走っていると言われても不思議には思わないようなレベルだ。
コーナーに入っても内ラチをするすると抜けていくトキノミノル。コーナーの抜け方だけを見れば、おそらく彼女の方がスペシャルウィークよりも数段上の実力だ。徐々に彼我の距離が伸びていく。2コーナーの終わりがけには、ふたりの間に3バ身弱の差が開いていた。
しかし向こう正面に入ったのを見計らってスペシャルウィークが速度を上げれば、今度はその差がゆっくりと詰まっていく。パワーとスピードでは彼女の方が上だ。
だが、驚異的なのはトキノミノルの速度が落ちてこないことである。どうやら、彼女は本気でマイルのようなペースを維持したままクラシックディスタンスを走り切るつもりらしい。
スペシャルウィークも離されまいとさらに速度を上げる。3コーナー手前まで来たころにはほぼ追いついたが、コーナーに入るとまたじりじりと離されていく。
こうなれば、あとは最終直線の差し勝負になる。あくまで感覚的にだが、スペシャルウィークは3バ身以上離されなければ確実に差し切れると確信していた。しかし逆を言えば、3バ身差を超えれば勝負の行方は不透明だということだ。
スペシャルウィークは寒気がした。敗北の可能性に現実味を感じたからではない。この局面に至って、トキノミノルが模擬レースのために提示した条件の意味を理解できたからだ。
クラシックディスタンス、2400mの左回り。すなわち、
ああ、確かにこの場所は東京レース場ではないし、東京レース場のそれを模した構造になっているわけでもない。それでも、スペシャルウィークはトキノミノルに負けるわけにはいかない。仮にも現役の無敗三冠ウマ娘が負けてはいけない。必ず勝たなければならない。
最終コーナーに入って、まもなく最後の直線が開ける。一気に加速しつつ、外ラチ寄りを全速で駆けていく。だが、スペシャルウィークが横並びになると同時に向こうも加速してきた。そう易々とは追い抜かせてもらえないらしい。
さらに前へ、前へ、前へ。だが相手は静かに、息を乱すこともなく食らいついてくる。……まるで、速度を合わせているかのように。
それを認識すると同時に、スペシャルウィークの心がぐらぐらと煮えたぎり……そして彼女は、
────助けは必要?
その声が幻聴だと、スペシャルウィークは理解している。
「……いら、ないっ……! このくらいっ……!」
それでも、声に出してその
残り2ハロン、遮るもののない直線を全力で駆ける。間違いなく先を走っている。しかし確実な勝利とはとても表現できない、すぐにひっくり返されてもおかしくない差。1.5ハロン、1ハロン、0.5ハロン……ゴールが目前に迫ってもその差は縮まらず、さりとて伸びることもない。
気づけば、スペシャルウィークはゴールの目安となるポールの前を飛び抜けていた。
止まれる速度まで減速するだけでもかなりの時間と距離がかかる。充分に減速するころにはもう1コーナーを抜けようとしていた。そのままレーストラックからまろび出て、堤防のように盛り上がった斜面へと転がる。
「はぁ……っ、はあっ……、はあっ……!」
「流石は現役三冠ウマ娘、本当にお速いですね。……まさか、競り負けるとは思いませんでした。大差とは言わずとも、今の貴女であればちぎれる自信はあったのですが」
軽い口調でそう言ったトキノミノルは、スペシャルウィークの前まで歩いてくると足を止めた。仮面の奥の表情は読み取れないが、どこか晴れ晴れとした様子に見える。
「なるほど、これが負けるということですか。……思ったより悪くないですね。一度くらい負けてみたかったんですよ。ありがとうございました」
とことん馬鹿にする、と憤る体力すらない。なんとか相手を引き離そうとかなり無茶な前傾姿勢で走ったのが祟ったか、スペシャルウィークは中々息が整わない。片やトキノミノルはもう息が整いつつある。スペシャルウィークと競ったにも関わらず、だ。
「貴女は……本当に、本格化が終わってるんですか……?」
「さあ、どうでしょう?」
トキノミノルは笑ってみせる。
「インターバル走をあれだけやった後に勝負を挑んでおいてどの口が言うかと思われるかもしれませんが、貴女にはまったくもって休息が足りていません。いくら負荷を掛け続けても、リカバリの余力がない」
彼女はそう言って手を差し出してくる。素直にその手を取ると、火照っているはずのスペシャルウィークの手よりもなお温かかった。
「私が言っては負け惜しみになってしまいますが、このレースの勝敗は引きずるべきものではありません。生徒会の業務を終わらせてからロングインターバルを何セットもこなした直後に走った貴女と、久方ぶりの模擬レースを仕事着のままで走った私。これは最初からまともな勝負ではないのです」
トキノミノルの言う通り、確かにこれはどちらが勝ったところで意味のない勝負でしかない。その事実に、スペシャルウィークは言われて初めて気がついた。
「良いトレーニングは良い休息から。疲れというものは中々自覚できませんし、怪我の前兆となればなおさらです。疲労が残れば、十数年も前に引退したウマ娘にすら勝ちが危うくなる。自らの能力を低く見すぎて、無茶な走りに手を出してしまう。たとえその自覚がなかったとしても、疲労を抱えたまま走ることが常態化すれば……貴女でも、取り返しのつかない怪我をする可能性はあるんですよ」
スペシャルウイークを立ち上がらせて、トキノミノルはどこか寂しそうに笑った。
「よく励みなさい。そしてそれ以上によく休みなさい、スペシャルウィークさん」
「……はい、ありがとうございました」
彼女はひらひらと手を振って去っていく。それを見送りながら、スペシャルウィークは静かに呟いた。
「本当にありがとうございました。たづなさん……それとも、今日だけはトキノさんって言った方がいいですか?」
「いいえ、私はただの通りすがりのウマ娘です」
「ここまで来てまだ誤魔化すんですか!?」
スペシャルウィークの叫びだけがこだまして夜空に消えていく。
上半期のマイル王者を決める戦い、安田記念……サイレンススズカとの再戦は、すぐそこに迫りつつあった。
「ふぅ……」
安物のマスクをゴミ箱に放り込み、いつも通り帽子で耳を隠す。帽子のせいで耳にもクセがつき、帽子がない方が落ち着かなくなってきた。寝るときまでナイトキャップを被らないと眠れないほどに、駿川たづなとしての生活はよく馴染んだ。自らがトキノミノルであるということを忘れそうになるほど、馴染んでしまった。
「……大人げなかった、ですね」
「そうですね」
「ひゃっ!?」
独り言に答えが返ってきて、文字通り飛び上がるたづな。灯りの落ちたピロティの奥から黒い影がすっと出てきた。
「樫本常務理事……見てたんですか?」
「盗み見るつもりではなかったのですが」
金色のピンストライプが入った黒いスーツに、濡羽色と表現すべき長髪。闇によく溶ける容貌をした樫本理子は、その中で寂しげに笑った。
「珍しいですね、貴女が走ってまで生徒を止めるというのは」
「……こんな私のことを、笑いますか?」
「
理子はそう言って目を伏せた。それにつられるようにして、たづなの視線も落ちる。ややあって、理子が再び口を開いた。
「トキノミノルをも越えていった、現役最強……あるいは、歴代最強のウマ娘と共に走って、貴女は何を感じましたか」
「強いですね。そして何より、悔しいです。どうして私と同じ年に生まれてくれなかったのか、どうして公式戦で一緒に走れないのかと感じてしまうくらいには」
「そうですか」
誰もいなくなったグラウンドの方に目を向けて、理子は呟いた。
「トキノ」
「はい、トレーナー」
懐かしい名で呼ばれ、たづなは素直に答えた。
「私は……間違っているでしょうか」
「何を、ですか? 目的語を教えてください」
若干意地悪にそう返せば、理子は黙りこくってしまう。
「少なくとも私は、貴女の間違いを見つけられません。貴女は、今も昔も立派なトレーナーです。リトルココンさんやビターグラッセさん、チームファーストの皆さんもそう信じているでしょう。アグネスタキオンさんだって、きっとそれを知っているはずですよ」
その名前を出され、理子は表情を歪ませた。
「……私は諦めた身です。逃げた身です。樫本トレーナーほど私は強くなかったから、怖くなって逃げました。後悔がないわけではないですし、反省も山ほどあります。それでも、納得したからここにいます。トキノミノルとして、駿川たづなとして、ここにいます」
そう言って優しく笑うたづな。
「大丈夫です。あなたならきっと越えられますよ、樫本トレーナー」
グラウンドの灯りが落ちた。月明かりだけがそれを見ていた。