生徒会長スペシャルウィークちゃん!   作:天宮雛葵

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サイレンススズカは臨まない

 まもなく梅雨入りかと噂され始めた6月5日の月曜日、東京レース場は見事に晴れ渡っていた。

 

「一般的に東京レース場や新潟レース場のように長いホームストレッチを持つレース場の場合、差しや追込の作戦を選ぶウマ娘が有利だと言われている」

「どうした急に」

 

 突如解説を始めたメガネの男性に、パーカーの男性が冷静なツッコミを入れた。

 

「しかし大抵の場合、それは内側の芝が荒れている前提の話だ。大外からの方が速度が乗りやすく、内側の逃げ・先行組が遅れているならば抜き返せる、それだけの話に過ぎない」

「そりゃそうだよな……コーナーがある限り内ラチを走る方が距離が短いし、当然有利。同じ条件で外を回らされちゃ不利に決まってる。それに脚質だけじゃなくて、ホームストレッチが長いとロングスパートタイプの末脚を持つウマ娘に有利だろ?」

 

 彼らが口にした言葉は的確だった。メガネの男性はなおも続ける。

 

「ああ、その通りだ。そして東京レース場の整備技術は高く、芝はよく手入れされて良好な状態であることが多い。内ラチと外ラチでバ場状態による速度の差が生じにくい状況だと言えるし、こんな快晴の日なら尚更だ。これらの要素を考慮すると、差し・追込組は中盤までに突き離されると最終直線で差し切れない可能性が高い。ましてや今回のレースは、『完成された大逃げ』というある種究極的なロングスパートタイプとも取れるサイレンススズカが出走する」

「そうか、視点を変えればそう捉えることもできるのか……となると彼女が完全に逃げ切っても何もおかしくない。対抗できるとすれば、府中であの大逃げを正面から攻略したスペシャルウィークくらいか。どちらが勝ってもおかしくないな」

 

 互いに頷きあう二人。しかしまとまりかけた会話に待ったをかける声が響く。

 

「サイレンススズカさんが相手でも、スペシャルウィークさんは負けないもんっ! マイルだって逃げだって、スペシャルウィークさんはずーっと勝ってきたんだから!」

 

 声の主は、彼らの隣でターフを覗きこんでいた黒いショートヘアの幼いウマ娘だ。その横には彼女と同年代であろう、亜麻色のロングヘアが特徴的なウマ娘もいる。

 

「ご、ごめん!」

 

 ふくれっ面の少女に謝罪する男性二人。

 

「もう、キタちゃんったら」

 

 亜麻色ロングのウマ娘が、黒髪ショートのウマ娘を少し見上げるようにして軽く笑った。

 

「キタちゃんは本当にいつでもスペシャルウィークさんのことを応援するよね」

「だって今日スペシャルウィークさんが勝ったらシンボリルドルフさん越えだよ? ここまで勝ってきたんだもん、絶対勝てるよ!」

「……うん、きっとね。スペシャルウィークさん、とっても強いから」

 

 どこかまぶしそうにショートヘアのウマ娘を見ていた亜麻色ロングのウマ娘が、そっと視線を下の方に向けた。黒髪ショートのウマ娘がつられて覗き込むと、関係者席にスーツ姿の男女が集まりつつある様子で、ちょうど背の低い女性が──それこそ背丈で言えば少女たちより少し高いかどうかだ──その輪に加わるタイミングだった。もちろん知らないはずもない、彼女こそスペシャルウィークのトレーナーだ。

 

『皆様、随分お早いご到着のようで』

『よう、陽室。定例のトレーナー会議以来か』

『そうなりますね。お互い忙しかったですから』

 

 ウマ娘の耳をフル活用しながら少女は会話を聞く。棒付きの飴玉を舐めている男性が親しげに声をかけている。スペシャルウィークのトレーナーは白いロングカーディガンを揺らしながら席をひとつ陣取った。

 

『それにしても、()()スペシャルウィークをマイルに突っ込ませるとはな。スズカも喜んでたよ』

『全てスペの希望ですから、謝礼は彼女にどうぞ。ミス・サイレンススズカとまた競えるのだと勇んでいましたからね』

『去年の毎日王冠ぶりだからな。スズカも張り切ってる。今度こそ逃げ切るんだってな』

『私としても、実りあるレースとなることを期待していますよ』

 

 スペシャルウィークのトレーナーはそう言いながら後ろに振り返って視線を巡らせ────その途中で、少女と間違いなく目が合った。それに驚き、少女は慌てて顔を引っ込める。

 

「キタちゃん?」

「な、なんでもない!」

 

 隣の親友には咄嗟にそう答える。そっと顔を出すと、スペシャルウィークのトレーナーは何事もなかったかのように話を続けていた。

 

『仮にも上半期のマイル王者決定戦たるGIレースだというのに、関係者席に空席が目立ちますね』

『誰のおかげだと思ってるのかしら』

『これはミス・東条、実に手厳しい』

 

 グレーのスーツを着こなした眼鏡の女性の声がする。

 

『スペシャルウィークがやってくると聞いて、舞台から降りた子がいくらか出ているのよ。その上今回は同チームから複数人の出走というケースが重なった。この空席も妥当よ』

『なるほど。……ふむ、それにしてもこの場に集うべき人数には足りないようですが。リギルとスピカのサブトレーナーはどちらに?』

 

 そんな声を聞いていると、少女の親友が袖をちょいと引いた。

 

「キタちゃん大丈夫? 顔赤いよ?」

「大丈夫、ちょっと驚いただけだから」

 

 そう答える間にも会話は進んでいく。

 

『葵ちゃんなら最後までミークの蹄鉄の確認をすると言ってたから、後で来るわよ』

『佐久間はデジタルを落ち着かせてる。デジタルはどうも本番になるとハイになりすぎてね』

『なるほど。やはりGIともなると、直前準備も忙しいですね』

『陽室が放置しすぎなんじゃないのか?』

『心外ですね。ベルノもいますし、スペは今更本番の緊張で揺らぐことなどありませんよ』

 

 スペシャルウィークのトレーナーがそう言うのを聞いていると、親友に手を引かれて少女は席に座らされる。

 

「落ち着いて、キタちゃん。はい、お茶だよ」

「あ、ありがと……」

 

 差し出されたほうじ茶をゆっくりと飲む。その間にも少女の耳にはトレーナーたちの会話が届いていた。

 

『ああ、そういえば……樫本常務理事。いえ、ここでは樫本トレーナーとお呼びしましょう。先日、スペが貴女の元教え子に色々とお世話になったようで。念のため申し上げておきますが、皮肉の類ではありませんよ。純粋に有益なアドバイスを頂いたそうです』

『……そうですか』

 

 この暑い中で黒いスーツをかっちりと着ている女性が、落ち着いた声で言葉を返す。

 

『はい。おかげでスペが余計な怪我をする可能性は下がりました』

『陽室』

 

 男性の鋭い声が聞こえる。聞こえていたのだろう、少女の親友が心配そうに再び関係者席を覗き込んだ。

 

『出過ぎた真似を、と思われるかもしれませんが……貴女の指導で救われた生徒は、おそらく貴女が想定しているよりも多い。もう少し胸を張られた方がよろしいでしょう。少なくとも、貴女が指導するウマ娘は貴女の背中を見て育つのですから』

 

 その言葉を最後にしばらく言葉が止む。

 

『……釈迦に説法とはまさしくこのことですね、どうかお笑いください』

『いえ、陽室トレーナー。肝に銘じておきましょう』

『ったく、お前さんなぁ。遠慮なく行き過ぎなんだよ、いつも』

 

 安堵と呆れの混じった男の声がして、一気に場が和らいだようだった。

 

『まずは教え子達の晴れ舞台が先だろうが。見届けてやるのも、トレーナーの仕事だ』

 

 ゲート入りの時間は刻一刻と迫っていた。

 

 


 

 

「スペちゃん」

 

 地上の喧騒からいくらか離れた地下バ道。ひとりで歩いていたところに背後から名前を呼ばれて、勝負服姿のスペシャルウィークはゆっくり振り返った。彼女を呼び止めたのは、同じく勝負服を着たサイレンススズカだ。

 

「スズカさん! 一週間ぶりですね!」

「そうね。本当は、普段通りスペちゃんと同じ部屋で過ごしても良かったのだけれど……」

 

 そう言って微笑むサイレンススズカ。

 

 どれだけ仲が良い者同士でも、同じレースに出走することが決まれば会話の機会は当然減るものだ。ましてやそのレースがGIの大舞台ともなれば、顔を合わせるだけで空気がひりつくようなことも起こるだろう。今回の安田記念においては、他ならぬスペシャルウィークとサイレンススズカの二人がその主たるパターンに当てはまっていた。

 

 このような場合、大抵は互いが互いを避けるように行動すればさして問題にはならない。しかし彼女たちは寮の同室であり、どうあがいても顔を合わせることが避けられない距離感である。

 

 さすがにそのような状態をほったらかしにしておくのは不味かろうと二人のトレーナーが調整した結果として、サイレンススズカは早めの合宿という名目でチームスピカの面々と共に外泊し、スペシャルウィークは学園内でチームテンペルの面々と共にトレーニング……という形に落ち着いていたのだ。

 

 とはいえ実際のところ、このふたりはそのような配慮が必要ない程度には相性が良かった。基本的にマイペースで走ることが第一なサイレンススズカと、この数ヶ月間ずっと積み重ねてきた演技レッスンによって感情を取り繕うのが上手くなったスペシャルウィーク。しかも元々の仲も決して悪くない、むしろ大変良好と言って良い。それでもサイレンススズカがチーム合宿の形で寮を空けたのには理由があった。

 

「でも、スペちゃんと一緒にいたらどちらが速いのか確かめたくなってしまうから、これで良かったのかも」

「……スズカさん相手でも譲りませんよ? 今日も勝たせてもらいますから!」

 

 闘志に溢れる笑顔でそう宣言するスペシャルウィーク。

 

「……スペちゃん、やっぱり変わったわよね」

「そうですか? 変われてたら嬉しいですけど」

「すごく変わったわ。だからこそ、私も負けられないの。スペちゃんがとても強いことは身をもって知っているけれど、それでも先頭は譲れない」

 

 昨年、サイレンススズカの戦績は7戦5勝。二度の敗北に関しても、ゴールドシップの2着となった宝塚記念にスペシャルウィークの2着となった毎日王冠がその内訳である。言うまでもないことだが、サイレンススズカは間違いなく強者たるウマ娘だ。

 

 有馬記念と春の天皇賞を経た今、最も強いウマ娘が誰かという問いへの返答はスペシャルウィークで揺るがない。しかしその一方で、最も人気のあるウマ娘が誰かと問われれば、トゥインクル・シリーズを追いかけるファンの多くはサイレンススズカであると答えるだろう。

 

 紛れもない実力。群衆を釘付けにする大逃げ。強さと人気を兼ね備えた、今も変わらないスペシャルウィークの憧れ。それがサイレンススズカだった。

 

「今日は最初から最後まで先頭で走ってみせるって、ずっと前から決めてたのよ」

「……スズカさんからすれば、それっていつものことじゃないんですか?」

 

 スペシャルウィークの言葉に少しだけ顔を赤らめるサイレンススズカ。

 

「スペちゃん、本当に変わったわ。ちょっと憎たらしいくらいに」

「えぇ!? そんなつもりはなかったんですけど……」

「ふふ、冗談よ。……行きましょうか」

 

 そう言って歩き出すサイレンススズカの後をスペシャルウィークが追う。長く緩やかな通路のスロープを登っていく間、ふたりが口を開くことはなかった。やがて一気に視界が開ける。

 

 満員の観客席から響く歓声。そのお祭りじみたムードとは対極的に、ふたりが立ったターフには張り詰めた空気が満ちていた。

 

「それじゃあ、お互い頑張りましょうね」

「はい。良いレースにしましょうね、スズカさん」

 

 スペシャルウィークの言葉に対してはにこりと笑うだけに留めて、サイレンススズカはゲートとは違う方向に向かっていった。本番直前のウォーミングアップ、いわゆる『返しウマ』をやるようだ。軽々と走り出す彼女を横目に、スペシャルウィークは周囲を見渡す。

 

 ゲートの近くに何やら気合を入れている様子のキングヘイローやダイワスカーレット。かなり遠くには揃って準備運動をしているチームファーストの面々も見える。翻って反対側を見てみると、目を離した十数秒の間にずいぶんと遠くに行ったサイレンススズカの姿がまず目に入る。彼女同様に返しウマで走っているのはタイキシャトル、ハッピーミーク、グラスワンダーか。最後のひとりであるアグネスデジタルの姿を探し当てるには時間がかかったが、彼女のことをスペシャルウィークが見つけたときには、ゲートの影に隠れるような場所で浮かれた顔をしながら早口で何事か呟き続けていた。少なくとも不調というわけではないらしい。

 

 さすがに強いメンバーが揃ったものだが、それでもやはり最も警戒すべきはサイレンススズカ、次いでタイキシャトルといったところか。情報の少なさによって底が見えないという点では後輩のダイワスカーレットやアグネスデジタルも気になるが、あまり大勢を警戒しても注意散漫に陥る可能性が高いので仕方ない。

 

 そんなことをスペシャルウィークが考えている一方で────サイレンススズカもまた、走りながら同じように警戒すべき対象について思考を巡らせていた。彼女にとってダイワスカーレットやアグネスデジタルはチームメイトだし、タイキシャトルは友人だ。その人となりも実力もよく理解しているし、決して無視できない存在だ。だが、それでも。

 

 それでも、ターフに立つスペシャルウィークの前には霞んでしまう。

 

 大逃げという戦術を取るようになってから、サイレンススズカはレース中に深いことを考えないようにするよう心掛けている。ただ自分の思うままに走り、先頭を譲らないままに駆け抜ければ、それすなわち勝利なのだから。今日もその姿勢を崩すつもりは毛頭ない。しかしスペシャルウィークに限ってはその存在を気に留めて走るべきかもしれないと、サイレンススズカは考えていた。彼女ですらその結論に至ったのだ。

 

 スペシャルウィークを中心に全てが回る。その想定を誰も疑うことのないまま、出走の瞬間は迫りつつあった。

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