生徒会長スペシャルウィークちゃん!   作:天宮雛葵

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スペシャルウィークは望まない

 スペシャルウィークにとって、東京レース場という舞台は慣れた場所だ。安田記念と距離の近いNHKマイルカップや毎日王冠を走った経験があるし、なにより2400mと距離は離れているが、同時期かつ安田記念同様のCコースで施行される日本ダービーも彼女は経験している。

 

 レース場というものは、その形状によってどうしても個々人の向き不向きというものが発生する。そのような観点から見れば、スペシャルウィークは東京レース場のことを『走りやすい舞台』だと認識している。

 

 そして同時に、サイレンススズカのスピードに追いすがるという状況にもスペシャルウィークは慣れている。

 

 何も毎日王冠だけの話ではない。スペシャルウィークは早朝にサイレンススズカとジョギングするのが欠かせない日課になっている。その日課の最中で、少し気を抜いた隙に彼女がジョギングとは言えないスピードで走り去っていくことなど日常茶飯事だ。当然それを止めることができるのはスペシャルウィークしかいないし、河原の長い直線などではかなり本気で追いかけないといけないようなこともあった。

 

『サイレンススズカと走る』ことの経験値ではチームスピカの面々と同じか、もしかすればそれ以上。スペシャルウィークにはその自負があったし、チームテンペルのデータ分析担当たるベルノライトもそれを肯定していた。

 

 だからこそ、スペシャルウィークの思考にはほんの少しだけ焦りが混じっていた。

 

 ────サイレンススズカが速い。明らかに速すぎる。

 

 先頭が、すなわちサイレンススズカが3コーナーに入った。向正面の500mある直線を走りきった頃合い。序盤は終わり中盤へ、というタイミングだ。

 

 当然だが、距離が短くなればなるほどレースの全体的なペースは上がるものだ。1800mの毎日王冠を走るサイレンススズカと、1600mの安田記念を走るサイレンススズカであれば、後者の方が速く走るのも道理。だが、それを差し引いてもなお彼女の速度は予想を超えている。

 

 ベルノライトが導き出してくれた想定タイムより、2.4秒か2.5秒速い。それがサイレンススズカによってたった500mで作り出されたズレだ。スペシャルウィークは一瞬だけ、自らも速度を増すべきか悩んだ。しかしその迷いは即座に振り切る。焦りに惑わされて、スパートのタイミングを早めるようなことがあってはならない。

 

 レースに余計な感情はいらない。闘争心だけがあればいい。隠し通すだけではまだ足りない。脳の演算機能、その全てを勝利のために使うのだ。

 

 今やスペシャルウィークにとって、レースとは『自らが思い描いた理想のスペシャルウィーク』を真に実現することのできるわずかな機会だった。

 

 長きに渡る演技レッスンによって、生徒会長たるスペシャルウィークとしての振る舞いを着飾ることはかなりできるようになった。陽室からは一先ず合格点とのお墨付きを貰ったし、ベルノライトやサイレンススズカにはずいぶん言動や所作が変わったとよく言われるし、クラスメートや最近チーム入りしたメジロマックイーンには頼られるような機会も出てきた。

 

 それでもなお、自己暗示によってレースの最中のみ得られる理想の自分には遠く及ばない。スペシャルウィークはそう感じていた。

 

 ゆえに彼女は、リーニュ・ドロワットで自らの手に余ることが明白なトラブルが発生したそのとき、レース直前に自己暗示するための言葉を呟いてしまった。そうすれば、あるいは自らが求める『スペシャルウィーク』をこのタイミングで得られるのではないかと信じて。

 

 結果としてそれは上手くいった。普段よりも速い情報処理、深い思考、客観的な視点。それらを一時的に得て、スペシャルウィークは完璧なトラブルシュートをやってのけたのだ。……もっとも、その日の夜にトレセン学園へ戻ってきた陽室に一目でそれを見破られたうえ、さっさと暗示を解かれてしまったのだが。

 

『貴女ほど暗示の効きが強いと、長時間の暗示は精神的な影響が大きすぎることが容易に予想できます。手軽に理想の自分を得られる可能性に心揺らぐことは理解しますが、レース本番以外ではくれぐれも控えるように』

 

 普段あまり見せることのない真剣な顔でそう告げた陽室の言葉を、スペシャルウィークはしっかりと守っていた。

 

 生徒会の業務でミスを重ねてしまったときも、取材中に記者から難しい質問をされたときも、レース本番で自分が作った記録を超えられないまま延々とトレーニングを続けていたときも……模擬レースで勝つための走りをしたときも、彼女は自己暗示に頼ることはしなかった。

 

 そうしてきたからこそ、スペシャルウィークにとって理想の自分を正しく演じられるたかだか数分の時間とは、さながら麻薬のようなものだった。

 

 心の奥から全能感が湧いてくるのを、彼女はひしひしと感じていた。しかしそれに溺れているだけでは勝利に辿り着けはしない。ターフの上を走るスペシャルウィークは、理想のウマ娘としてそこに存在しなければならないのだ。

 

 そう、実のところ思考を巡らせる必要もなく、サイレンススズカが普段以上にハイペースなレース運びを見せる理由は明らかだ。彼女はのびのびと逃げることができていない……つまり、スタートから今に至るまで完全にマークされているのだ。マークから逃れようと速度を増すのは何も不思議なことではない。それよりも不思議なのは、マークしているウマ娘の方。

 

 すなわち、()()()()()()()()。あろうことか、アグネスデジタルがぴったりとサイレンススズカの背後についているのだ。

 

 想定の埒外というほかないが、同時に動揺する必要もない。ベルノライトが地道に偵察を重ねて得てくれた情報を全て頭に叩き込んだ自分すら全く想像しえなかったのだから、きっと他の誰もこのような展開は予期していなかったはずだ。チームメイトであるはずのサイレンススズカやダイワスカーレットすら明らかに驚いている様子なので、恐らくこの走りはアグネスデジタルの暴走か、あるいは秘策のどちらか。

 

 もしも、これがアグネスデジタルが練った秘策だとして……警戒すべきはむしろ彼女の存在によってペースを早めたサイレンススズカであって、アグネスデジタルではない。スペシャルウィークはそのように答えを弾き出した。

 

 アグネスデジタルは無視できる存在だ、と考えているわけではない。もっと根本的かつ単純な問題として、彼女は未だ成長途上たるクラシック期のウマ娘なのだ。

 

 実に70年にも及ぶ安田記念の歴史において、クラシック期のウマ娘が勝ったのはたったの3回であり、そもそもシニア期のウマ娘しか出走していないということもしばしば起こっている。これは開催時期の近い宝塚記念においても同じことが言えるが、能力的な全盛期を迎えておらずレース経験もまだ浅いウマ娘と、能力も経験も兼ね備えたウマ娘のどちらが強いのかという話でしかない。

 

 ましてやアグネスデジタルはこれまでのレースで後方から差し切るタイプの走りをしてきており、逃げの経験はない。それで逃げどころか派手な大逃げをかますサイレンススズカに追いすがっているのだから、遠からずスタミナが底を尽くだろう。

 

 翻って自らの位置を確認すれば、事前の作戦通り前目に構えることができている。先頭サイレンススズカ、直後にアグネスデジタル、少し空いてダイワスカーレット。そこから数バ身空いて自分とタイキシャトルがほぼ横並びという状態だ。後方からも複数のウマ娘が先頭を狙い始める頃合いだろうが、今はそれを気にする必要もない。サイレンススズカを追っていれば、後続は自然と引き離せるからだ。

 

 3コーナーに差し掛かり、スペシャルウィークはタイキシャトルの外を回らされる格好になっている。とはいえマイルレースたる安田記念ゆえ、外に膨らむことによるスタミナの消費はさして問題でもないし、前方のウマ娘たちを追い越すことを考えるならば決して悪いわけではない。

 

 サイレンススズカの逃げ切りさえ許さなければいい。府中の長い最終直線できっちり差して勝つ、面白みのない横綱相撲でいい。そうすれば勝てる。

 

 何故なら、スペシャルウィークは理想のウマ娘なのだから。

 

 まもなく府中名物の大欅。東京レース場のランドマークとも言えるこの大欅を境に、レース中の争いも激化していくことが多い。今日の安田記念もその例から漏れることはなかった。

 

 スペシャルウィークがぐいと一歩前に出る。タイキシャトルを置き去りにするための加速であり、前を見据えるための加速だ。しかしただで抜かせてくれるはずもなく、タイキシャトルも張り合って横並びに戻ろうとする。

 

 しかし彼女のコーナリングは……トキノミノルに比べれば、甘い。

 

 タイキシャトルは内ラチ側を走っている以上、外に多少膨らんででも速度をさらに上げるという戦略を取ることができない。スペシャルウィークの前に出ることが叶っても斜行で反則となってしまう距離だし、出られないまま膨らめばスペシャルウィークと接触、衝突だ。内ラチすれすれを走る戦略は単純な走行距離の短さで優位に立てる代わり、コーナーにおいて選択できる戦略が限られてしまうのだ。

 

 一方スペシャルウィークはその外を走っているので、走行距離は理想距離よりも長くなる。だがコーナリングが比較的得意ではない彼女にとっては、無理に内ラチ側を走ることで速度を下げてしまうよりも、速度を維持しながら外ラチ側を走った方が結果的に速いタイムでコーナーを抜けることができるということになる。

 

『内ラチに固執してコーナーを曲がろうとはしないように。貴女の走りやすいコースを走りなさい。その方が前方のウマ娘をかわしやすいですし、貴女の走り方であれば結果的に良いタイムが出ることでしょう』

 

 もう2年も前のこと、メイクデビューを走るよりもさらに前、陽室はスペシャルウィークに淡々とそう教えていた。あのときの言葉が、シニア期の安田記念でなお生きている。その事実を改めて噛みしめながら、スペシャルウィークは一気にタイキシャトルを引き離す。

 

 そのまま大欅の影を超えたスペシャルウィークの目の前に姿を表したのはダイワスカーレット。どうやら、彼女はこの時点でもう速度を落とし始めているようだった。サイレンススズカが先頭にいるせいで、逃げのペースを掴みきれなくなったのだろう。アグネスデジタルの存在も影響しているかもしれない。どちらにせよ、スピードに乗ったスペシャルウィークを止められるような状態ではないことだけは確かだった。

 

 ダイワスカーレットを外から抜き去ると同時に、最終コーナーが終わりを告げる。残るは500m強の最終直線。スペシャルウィークの行く手を阻むウマ娘はふたり。

 

 アグネスデジタルが未だに粘っている。スタートから1100m、彼女はあのサイレンススズカの背中に喰らいつき続けてきた。そのガッツは間違いなく評価に値するし、今なおまともに走れていること自体が脅威的だ。

 

 サイレンススズカが未だに逃げている。最終直線に入って3バ身、4バ身差というこの状況は、奇しくも昨年の毎日王冠とほぼ同様。あのとき敗北を経験した彼女が、同じ盤面から襲いかかってくるウマ娘をいなす手段を用意していないはずもない。

 

 だが、そのような些事は今のスペシャルウィークにとって何の関係もなかった。

 

 登り坂に差しかかるも、サイレンススズカとアグネスデジタルのスピードは緩まらない。しかしスペシャルウィークは直線に入りさらに加速、ふたりとの空間を縮めていく。そのまま坂に突っ込みつつ、外ラチ側に一歩ズレてゴールまでの道を確保。

 

 かつてのスペシャルウィークであれば、自己暗示を以てしてもなおサイレンススズカ相手には『あと一手』が必要だった。彼女を動揺させて、そのスピードを鈍らせて、スペシャルウィークはやっと確実な勝利に手が届いた。

 

 しかし今日は違う。トレーニングを地道に積み上げ、暗示との付き合い方を理解し、そしてなによりレースに慣れ、勝利に慣れた今ならば。

 

 ────走ってさえいれば、先頭に立てる。

 

 誰かが隣に並ぶことはない。誰も並ばせなどしない。坂の終わりがけ、残り2ハロン。スペシャルウィークは紛うことなく先頭をひた走っていた。サイレンススズカとは恐らくアタマ差かクビ差、しかしここから引き離せる。その背後にいるだろうアグネスデジタルは……

 

 いや、()()()

 

 アグネスデジタルはサイレンススズカの背後を離れていた。かと言って、スタミナが尽きて落ちていったわけでもない。すなわち彼女の居場所はただひとつ、()()()()()()()()()()()()

 

「…………どうして」

 

 スペシャルウィークの口から声が漏れた。何故アグネスデジタルにそんな横移動をするスタミナが残っている? 違う、それは今考えるべき事柄ではない。今重要なのは、移動したアグネスデジタルが何のためにそれを行ったかだ。

 

 決まっている。サイレンススズカにもスペシャルウィークにも前を邪魔されない位置まで動いて、差し返すためだ。それ以外に何がある。

 

 だが、それが上手くいくものか。ここから加速して、スペシャルウィーク(  わたし  )相手に差し返すなど、上手くいくものか。

 

 坂を抜けて残るは1.5ハロン。スタミナは余裕すぎるほどにある。アクシデントも起こらず、調子は普段通りの絶好調。そしてこの時点で確かに掴んでいるリード。競り負ける理由がない。

 

 なのに、近づいてきている。彼女が近づいてきている。振り返らずとも理解できる。それは決して初めての感覚ではない。スペシャルウィークは今まで数多のウマ娘に追い縋られて……その全てから逃れてきた。これまでと違うのは、ひとつだけ。

 

 差し返される。スペシャルウィークはそう結論付けた。理解したくなかったその結論が、彼女自身の思考から叩きつけられたのだ。

 

 スパートのタイミングは正解だった。事実後方のウマ娘たちを置き去りにして、サイレンススズカをも抜き去ったのだから。自らの走りに何も問題はなかったはずだ。

 

 残り1ハロン、アグネスデジタルとの差はどれほどか。スペシャルウィークに確認する余裕はないが、おそらくクビ差。

 

 何故? 疑問だけがスペシャルウィークの脳内を支配する。何がいけなかった? アグネスデジタルを軽視したことか? 彼女を揺さぶり、潰しに行く戦術が必要だった? どうやってそれをレース前に予想すればよかった? 

 

 思考が埋め尽くされていく中で、スペシャルウィークには聞こえた。隣を走る足音が、声にならない彼女の叫びが、地を揺るがす数多の歓声が、そして────

 

アグネスデジタルだ! アグネスデジタルが来たぞッ!





//NEXT CHAPTER ==>
第4章『奇跡の安田記念』

「女神を殺すように、彼女を殺しなさい」

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