(私はどこにでもいる
「安田記念かジャパンダートダービーか、そんな二者択一はあんまりですよぉぉおお!」
チーム部室兼会議室にアグネスデジタルの声が反響する。その叫びを向かいで聞いていた彼女の担当トレーナーが────
「二者択一じゃない。ジャパンダートダービーは絶対に勝とう。その前の安田は来年以降に見送ろうって話だ」
「トレーナーさんだって、芝もダートもいけるからどんどん走っていこうって言ったじゃないですか!」
「その通り。だがバチバチにシニア勢が詰まっている安田記念は流石に無茶だという話をしている。現状、君の実力では申し訳ないことに時期尚早と言わざるを得ない」
そう佐久間が言えば、アグネスデジタルのツインアップのブロンドが跳ねた。
「時期尚早でも胡椒少々でも走りたいのは走りたいんですー! どうしてもですー! シニア期のウマ娘ちゃんたちと一緒に走れるのはこれが唯一の機会かもしれないんですー!」
そう言って挟んでいた机を回りこむアグネスデジタル。彼女は赤と白のツートンカラーなジャージ姿で尻尾を盛大に揺らしながらやってくる。どうやら頑として引く気はないらしい。身長の低い彼女は、スツールに腰掛けている佐久間と視線がそのままでも合ってしまう。
「いいか。共通認識の洗い出しからいくぞ。お前の強みはなんだ」
「マイル中距離芝ダート、問わずに走れる脚質の広さです!」
「そうだ。では弱点はなんだ」
「ウマ娘ちゃんの供給がないと息も絶え絶えになることです!」
「いやそれはおかしい」
佐久間は何度目かわからない溜息を吐いた。供給が多くても死んでるだろうが、とは言うべきではないのだろう。
「クラシックのマイル路線でお前は本当によくやっている。現状で同時期にデビューした面々の中でも、トップクラスであることは間違いないし、多くの人が認めるだろうさ。だが桜花賞でスカーレットに惨敗したときにも言ったはずだ。お前は良くも悪くも『勝てる』レースを捨てることを厭わない」
桜花賞で負けたのはそれだけが理由ではないことは佐久間も理解している。リーニュ・ドロワットで発生したアグネスデジタルの怪我に起因する調整不足も否めなかったし、それでもと言って出場する彼女を止めなかった以上、桜花賞の敗北は必然だ。
少々この言い草は卑怯だったか、と思いつつもアグネスデジタルの反応を待つ佐久間。
「それは……そうですけど、ですが! この不肖アグネスデジタルも負けたくて走っているわけではありません! ちゃんと考えて走っています!」
「なら安田記念、スカーレットにどう勝つ?」
佐久間の声にうっ、と大げさに詰まってみせるアグネスデジタル。
「それは……」
「マイル最強タイキシャトルにどう勝つ? NHKマイルで1着を取った以上、タイキシャトルは絶対に対策をしてくる。舐めてかかってはくれないぞ」
「ですが……っ!」
「ならサイレンススズカの逃げにどう対応する? がむしゃらに追いかけるだけでは間違いなくスタミナでも速度でも勝てないぞ」
「それでも……っ!」
「それに今回はスペシャルウィークがマイルに出てくるんだぞ。
「う、うぅぅぅぅ。正論が痛いぃぃいいい!」
そう言って文字通り地団太を踏むアグネスデジタル。
「でも! そうだとしても! あたしは! キラキラのウマ娘ちゃんたちと一緒にいたくて! あの側に行きたくてここまで来たんです! トレーナーさんも1年以上一緒にやってきてくれたじゃないですか! 走らせてくれたじゃないですか! それでもなんで今回だけ!」
「それくらい今回の安田は特殊なんだ。デジタル」
静かにそう言って、佐久間がバッグからタブレット端末を取り出す。表示されたのは、アグネスアグネスデジタルの戦績票と、これまでの練習コース、1600メートルのラップタイムの推移のグラフだ。
「よく聞けデジタル。今回の安田に出ると、短期間で次はダートを走る羽目になる。お前の足なら、
グラフが示すのは、ダート適性の方が芝に比べて若干高いこと。
「デジタルの才能なら芝とダートの両立が可能だし、実際俺たちは二兎を追う選択をした。とはいえ、それでもお前には可能な限り勝ってもらいたい。たとえそれがトレーナーとしてのエゴであってもな」
「トレーナーさん……」
「だから、現状で安田は回避するべきだと考えている。お前はこれからまだまだ伸びていく。身長も伸び、筋肉量もまだ増えていくはずだ。知識もつけていける。今は勝てるレースで時間を稼ぎ、より大きな舞台に繋げていくほうが、無茶な出走をして疲労を溜めるよりよほど未来の勝利を引き寄せる」
「……理解、しました」
しゅん、とした様子のアグネスデジタル。夕日が照らす部屋に静かな沈黙が落ちる。
「でも納得できませんっ! 嫌です! 出たいです! 出ます出ます出ます出ますぅぅううう!」
「だぁーもう! 今の間はなんだったんだ!」
佐久間が頭を抱え直した。
「昔の偉い人は言いました! 『諦めたらそこで試合終了ですよ』! だから諦めないんです!」
「それは伝記ではなく漫画だ」
「絶対走って勝ってみせます! トレーナーさんはあたしをいじめて喜ぶタイプのドSなんですか!」
「なにぃ! トレーナーがアナログをいじめてるってぇ!?」
「デジタルですっ!」
最悪のタイミングで最悪の相手が飛び込んでくる。長身に似合う銀髪が勢いよく開けたドアの風をはらんで広がる。去年の宝塚記念を取った問題児────ゴールドシップだ。
「誤解だ」
「完全に浮気が見つかって言い訳する夫の顔になってましてよ佐久間サブトレーナー君?」
「独身男を捕まえて言うべき台詞じゃない。担当以外に指示出しをすることを浮気と呼ぶのなら、俺が専任で見ているアグネスデジタルに指示出しするのは浮気じゃねえだろうが」
それを言うとゴールドシップが口元を片手で隠してにまーと笑った。
「ゴルシ様とあんなことしたのに?」
「蹄鉄選びだけだろう。それにお前にヘンなことしたら沖野チーフに申し訳が立たん。それで、下の片付けは終わったのか」
「おうっ! ちゃんと爆速で片付けたぜ! スカーレットが!」
「俺はお前に頼んだんだ! ……まったく、後で謝っておくんだぞ」
「はいはーい」
ゴールドシップが前を開けたジャージの裾を翻して上機嫌に返事をし、パイプ椅子に逆向きに座ると、アグネスデジタル達を面白そうに見てくる。
「それで、ゴルシ様にミニハードルの片付けを手伝わせて、二人で何をしてたんだ?」
「次にデジタルが出るレースの選定」
佐久間が答えると、アグネスデジタルはゴールドシップを仲間に引き込もうと考えたのか、単純にゴールドシップに甘えに行ったのか、彼女の側に駆け寄った。
「ゴルシさん! 佐久間トレーナーは安田を飛ばしてジャパンダートダービーに出ろって言うんですよ! あたしはどっちも出たいのに!」
「ん? 安田? 出走登録期限は大丈夫か?」
ゴールドシップは顎に指を当てて聞き返す。
「明日の正午に通常登録締め切りだから、決めるなら今日決めないといけないんだよ。デジタルを安田に出すとなると、一度惨敗したスカーレットに加えてスズカを始めとするシニアの強豪、果てはスペシャルウィークにまで競り勝つ必要がある。現状のデジタルでは、パワー勝負に持ち込まれると勝負にならない可能性が高い」
「でもさぁ、さくまんは、そこに持ち込ませなければ勝機はあると思ってるだろ?」
にやっと不敵に笑うゴールドシップ。
「さくまんはデジタルを安田で勝たせる算段をしてる。少なくとも『何をしてはいけないか』の洗い出しはしてるじゃん?」
「……まず、その謎の呼び名をやめろ」
「でもほら、勝つための方法を考えている事を否定はしない。だったらデジタルもワンチャンあるんじゃねぇの」
アグネスデジタルが真偽を問うように佐久間をじっと見つめてくる。
「……その上での話だ。どうしたってこの先シニアの面々との直接対決は免れない。逆を言えば、デジタルなら必ず『そこ』まで行き着ける。今不必要にリスクを踏む必要はない」
「でもそれは挑まない理由にはならないんじゃねえのか? それに目をつぶってるなら、そりゃあエゴだよ」
「『レースに絶対はない』……か。ゴールドシップ、お前手厳しいな」
「可愛い子には優しくしろってゴルゴル憲法に書いてあんだよ」
にやっと笑うゴールドシップ。その頃になって、部屋には明らかに荷物量の多いダイワスカーレットと身軽で上機嫌なウオッカが入ってくる。
「あー……なんでアンタの分まで持って上がらないといけないのよ……!」
「だってジャンケン負けただろー?」
「お前らいつまで小学校みたいなことやってんだ」
呆れ顔でそう言いつつ、このチーム──チームスピカのチーフトレーナーである沖野も生徒に続いて入ってくる。
「あぁ、沖野チーフ。お疲れさまです」
「おう。佐久間トレーナーもお疲れ。……その様子はデジタルの次走をどうするか悩んでる、ってところでよろしいか?」
「その通り」
反射的に答えてから、佐久間はどこかばつが悪そうな顔をする。その様子を見てにやりと笑う沖野。
「返事の癖は抜けないな、佐久間君」
「失礼しました、沖野チーフ……やはりあなたにはお見通しですか」
「ま、チーフトレーナーがチームのメンバーや配下のトレーナーを面倒見れなくなったら終わりだからな」
沖野はトレードマークになっている棒付きキャンディをくわえたままそう言った。
「で、出るのか。安田」
「出ます!」
「今それを話し合っていたところです」
「……どんな会話してたかは今のでだいたいわかった」
苦笑いをしてから、沖野はゆっくりと口を開いた。
「デジタル。安田は出るのが目的か? 勝つのが目的か?」
アグネスデジタルは答えない。沖野はしゃがみ込んで視線を合わせた。
「出るのが目的でも俺はいいと思っている。それがどういう結果であれ、お前と佐久間が納得しているのなら、スピカとしてもOKだ。だけどなデジタル、それは『勝てなくてもいい』という意味じゃないし、ましてや『負けてもいい』という意味でもない。まったく同じことを佐久間トレーナーからも聞いていると思うが、そこは大丈夫だな?」
「はい」
「正直『ウマ娘ちゃんのそばにいたい』って理由を理解しかねてるところはあるんだが……それが勝ちたい理由になるなら俺から言うことはない。そこんとこ、どうなんだ」
アグネスデジタルはしばらく黙っていたが、ぽつりぽつりと口にしはじめる。
「私は、それでも出たいと思ってます」
それを誰もが静かに聞いていた。
「勝てないかもしれない。それもわかってます。でも、それでも、私は、スペさんやスズカさんと走ってみたいんです!」
「あぁもうわかった、負けだ負け!」
先に降参したのは佐久間だ。
「ただし、ぬるい勝負にはできないからな。とりあえず明日からいろいろとやり方を変えていく。しんどいだろうが、根を上げる事は許さんぞ」
佐久間の言葉にアグネスデジタルの顔がほころぶ。
「やった~~~~!!」
そのまま両手を天に掲げくるくると回り出すアグネスデジタル。その様子を見ながら佐久間はわずかに頬を緩め、タブレットの画面を切った。それを見計らってか、沖野が手を叩いて皆の注目を集めた。
「さて、そろそろ日も暮れるわけだし、今日の練習はこれで終わりとしよう。お疲れさん。トレーナーチームは書類仕事がちまちまあるから生徒一同は帰るように!」
「ちぇー! 今日こそデュエルドームで☆超☆エキサイティィィイインしたかったのに!」
「2人用ゲームを部室でやるな」
「せめてみんなでできるモノにしろよ」
トレーナーたちに突っ込まれたゴールドシップが明らかに残念そうな顔をして出ていく。アグネスデジタルは小躍りしそうな勢いのまま荷物をまとめて出て行き、それにダイワスカーレットとウオッカも続く。部屋には沖野と佐久間だけが残された。
「沖野さん、スズカとテイオーの姿が見えなかったようですが、大丈夫ですか」
「ん? あぁ。あいつらはもう少し走りたいと言ってたから、もう少しだけ芝を走らせてる。あと5分で戻ってこなければ迎えにいくさ」
そう言って沖野は小さく溜息を吐いた。
「佐久間」
「はい」
「なんであの場で止めなかった。お前なら俺を止めてくると思ったんだが」
「挑まない理由を押しつけるのは大人のエゴ、だそうですよ」
「ゴールドシップか。今のデジタルじゃそんな気の利いた反論は出てこないだろう」
沖野はそう言って棒付きキャンディを噛み砕く。
「で、ゴールドシップと2対1で責められて屈服? 甘いことと優しいことはイコールじゃない。そんなお説教が必要なほどお前が甘ちゃんじゃないことは知ってるつもりだが、実際のところどうなんだ」
「ちゃんと火の付いたデジタルなら勝てる可能性はゼロではありません。デジタルは沖野さんを前にしても怯まなかった。迷わなかった。だったら腹をくくるべきは私ですよ、チーフ。私はそう判断しました。少なくとも、この先2週間で彼女はオッズをイーブンまで持っていける」
「それは、
トーンが落ちる。沖野の目をまっすぐと見て、佐久間は答えた。
「
しばらく無言の時間があり、弾けるように沖野が笑い出した。
「やっぱりお前はすげぇよ、佐久間。俺よりよっぽど上手くなる。デジタルはお前に似てきたな」
「ご謙遜を。それに、私に似てもロクなことにはならないですね。なんとしても止めなければ」
その言い草に沖野は肩をすくめた。
「
「それはまともな奴がいないという意味で?」
「鏡を見ろ。少なくとも担当の練習をコマ送りで確認して精細にフィードバックをかけ続けられるトレーナーがいったいどれだけいる」
それを言われ今度は佐久間が笑う番だった。
「少なくともトレーナー未経験の私をそう育てたのはあなたですよ、沖野チーフトレーナー。それを言うなら、スペシャルウィークをあなたが育てたら、それはまた別の意味で伝説になったでしょうし」
「あのスペシャルウィークは陽室が育てたからああなったんだ」
半分投げやりに沖野は返す。1年先に入職したやたらと低身長なトレーナーの姿を思い出し、佐久間は今日何度目かの苦笑いを浮かべた。
「確かに、去年のダービーで『逃げるスペシャルウィークが見たかった』という衝撃的な道楽トレーナー発言を放ちましたからね……」
「お前だったらスペシャルウィークをどう育てる?」
「……素の脚力が強すぎるのもあるので、トレーニングはかなり気を遣いそうです。テイオーほどとは言いませんが、かなり気をつけないとすぐに足を痛めてしまうでしょうし。そういう意味ではよく怪我させずに走らせ続けてると思いますよ。私にはサポート科の生徒に預けるなんて怖くてできません。それがオグリキャップの好走を支え続けた天才サポーターであってもです」
「だよなぁ。正直テイオーやスズカと同じ粒度でトレーニングとケアを両立させるとなると、ウチを除けばどこのチームも受け入れは難しいだろう。おハナさんには悪いが、もしリギルに行ったとしてもジュニアかクラシックで潰れて終わりだ。その塩梅を見極める目は相当なんだろうな、あのちんちくりんお嬢様」
「沖野さん、さては未だ根に持ってますね?」
「当たり前だ。スペシャルウィークはウチでも狙ってたし、ベルノライトは直接スカウトもしたんだぞ。今年もメジロマックイーンが取られたわけだし」
浮かぶのは朗らかに笑うスペシャルウィークだが、ひとたびターフに立つとなかなかに恐ろしい存在だ。文字通りの規格外。強烈な差し足を主な武器にレース後半凄まじい伸びを見せ、どれだけ対策をしてもそれをあざ笑うかのように追い抜いていく『常勝無敗の流星』。
日本国内の中長距離のGIレースを総なめし、凱旋門賞を含めた海外重賞も視野に入れているのではと噂されているが、真偽の程は不明。
その化け物とも言えるスペシャルウィークの才能を見極めたのはトレーナーとしてまだ1年目だった陽室琥珀だ。もっとも、これは正式な選抜が始まる前に抜け駆けをした結果であり、弊害として『トレーナーによる新入生、転入生のスカウトは初回選抜レースを終えてから』という紳士協定を崩壊させた。
「とはいえあのお嬢様が『紳士協定』を崩してくれていたおかげで、次の年に佐久間がデジタルを連れてきて、スピカに迎え入れることができたわけだから、あまり強く出れないんだけどな」
「沖野さんが言えないとなると、理事長たち
「まあ、実績はこれ以上ないくらいに作ってるからなぁ。ここは一度鼻をへし折らなきゃいけないわけだが……正直お前が勝つのも気に食わん。悪いが、安田はスズカに取ってもらう」
「なら、デジタルが獲ったらなにかプレゼントのひとつでも彼女に贈ってあげてください」
「おうよ。安田で俺に勝ったらお前も免許皆伝だな。ダブルヘッドは生徒が迷う。そうなったら独立しろ」
沖野は不敵に笑ってみせた。
「さて、スズカとテイオーを迎えに行ってくる。お前も上がれ、明日から特訓なんだろ。ただでさえお前は根を詰め過ぎなんだ、少しは休め」
「はい、お疲れさまでした。沖野さんもご自愛ください」