「ぜぇ、はぁ、ぜぇ……」
「よし、今日はこんなもんだろう。ラスト3ハロンの速度の伸び悩みはとりあえず明日以降の課題として、コーナーの速度はだいぶ改善してきたな」
コースから辛うじて退避したアグネスデジタルが大の字に転がる。その横にしゃがみこんで、彼女を引き起こしつつスポーツドリンクを渡す佐久間。
「1日で矯正されるとは、思ってなかったですけどね……! あー! 体が勝手に左回りになっていく……!」
「正直小手先でしかないがな。府中の芝はコーナーも緩いから比較的高い速度域でレースが進行するはずだ。コーナーでの位置取りの選択肢が広がる以上、順位の入れ替わりも起りやすいし狙いやすい。いろいろと考えなきゃいけないことも多いぞ、ここから先はただトレーニングするだけでは伸びない」
そう言いながら佐久間はタブレットを操作する。カーブに設置されたビデオカメラの映像を呼び出しているらしい。
「でもトレーナーさん、こんなにたくさんのカメラ、よく手に入りましたね」
「スピカの備品として3台はあったからな。2台ぐらい追加で買うぐらい問題なかろう」
「え? これ買ったんですか?」
「あの後電機屋に飛び込んだ。まあ安いもんだろう」
コーナー外側にビデオカメラが全部で5台。家庭用のモデルではあるもの結構高そうに見えるのだが、さくっと買ってきたらしい。
「よし、おそらくコース取りは今日の感覚でいいだろう。……さて、カメラを回収して作戦会議といこう」
佐久間トレーナーの鬼、と思いつつ、アグネスデジタルは腰を上げる。
「それにしても頭がパンクしそうですよぅ」
「まあ、それでも理解して実行できている。やっぱりお前にはこの方式があってるな、デジタル」
「OODAループ、とか言ってましたっけ」
「元ネタは米空軍の戦闘機パイロット向け意思決定手順だ。情報の収集、評価、方針の策定、実施を高速で回し続けて正しい判断に基づいた行動をしようってやつだな」
安田記念に出るにあたって、佐久間トレーナーがアグネスデジタルに提示してきたのは、トレーニングの徹底した記録と、それを見ながらのフィードバックの高速化だった。これまでは並走が終わったタイミングなど、切りのいいタイミングで実施していたフィードバックが下手をすると周回ごとに飛んでくる。
何を見て外ラチへ膨らんだか、何を考えて距離をとったか、何を聞いて速度を上げたか。走りの変化の理由をひとつひとつ潰していく作業を15分1サイクルで繰り返す。それをしているとアグネスデジタルより先に、はちみーLLサイズを奢ることを条件に並走役を頼んでいたトウカイテイオーが音を上げた。
その様子を思い出したのか、アグネスデジタルが声真似をしつつ口を開いた。
「テイオーちゃんは『無理無理無理! こんなに考えながら走るのボクには絶対無理! 意味わかんないよー! というより絶対カイチョーもこんなに考えて走ってないよ!』でしたもんねぇ……」
「まぁ、テイオーは考えずに突っ走っていいって言ってたんだけどな……」
頭を搔きながら佐久間がそう言うと、ぷぷぷ、と笑いながらアグネスデジタルが口を開く。
「そう言われても『考えずに走れ』なんて今のテイオーちゃんには無理ですよ。だってテイオーちゃんは今メイクデビューに向けて燃えてるし、スポンジみたいな状況ですもん」
「スポンジねぇ……」
「シンボリルドルフ会長に追いつきたくて、追い越したくて、そのためなら何でもやるって思ってるんですよ。そういう意味ではテイオーちゃんにとってもスぺさんは超えるべき壁ですし、このデジタルもそうでしょうしねぇ。『速さの秘訣をつかむチャンス! 絶対速くなってやるもんに!』って思ってたはずですし」
ビデオカメラを回収しながらアグネスデジタルはそんなことを言う。
「テイオーちゃんは中長距離向きではあるので、今回の練習とはちょっと合わなかったかもしれないですね」
「とはいえ、スカーレットやスズカに頼むのも手の内明かすだけだからなぁ。今日のところはゴールドシップがスズカに引っ張られてるが、明日以降でゴールドシップに頼めるなら頼もうか」
「宝塚記念を獲ったゴルシさんにお頼みするのは少しどころでなく恐れ多いと言いますか……いえ、秘密は間違いなくちゃんと守ってくれるお方ですし、確かに適任ですけれど。ところで……同志トレーナーさん、なんだかいきなりチームの皆さんにも情報隠し始めました?」
「あぁ。昨日沖野チーフに喧嘩売ったからな」
「え゛?」
アグネスデジタルの動きが止まる。
「ちなみに……どんなことを?」
「スズカを相手にイーブン以上の勝負をさせてみせますって言ったから、負けるなよ」
「なに勝手にそんなこと言ってるんですかっ!?」
「それでも走る以上は勝ちたいんだろ?」
「それと! これとは! 話が! 別です!」
そう言って両手をぶんぶんと振るアグネスデジタル。
「なんで事前にあたしが超えるハードルをトレーナーさんが勝手に高くするんですか!」
「……なぁデジタル」
ハードケースにカメラをしまいながら、佐久間は担当の名を呼んだ。
「現状、お前が足りていないものは何だと思う?」
「……なんですか」
すでに拗ねてそっぽを向いたアグネスデジタルがそのまま聞き返した。
「シニア期の面々を相手取るにあたって、という前提での話だぞ。まず圧倒的に足りていないのは瞬間的な加速力。要はパワーだ。相手を抜き去るのに時間を与えれば与えるほど、百戦錬磨のタイキシャトルのような相手には対処の隙を与えるだけだ」
「それは、まぁ、わかってます」
アグネスデジタルの尻尾の揺れが止まった。
「そしてそれだけのパワーを使って後ろから抜き去ろうとするにはスタミナも足りてないから、すぐにグラスワンダーに追いつかれる」
「……はい」
耳がしおれてくる。
「スタミナで負けてるから最終直線で速度が伸びない。……そして、悔しいけど若干諦めている節がないか? つまり根性が足りていないから、後方で足を貯めてたキングヘイローに後ろから差される」
「……」
彼女の両手が握られてぷるぷるしてきた。
「そしてなにより、トップスピードが足りてない。条件を完全に揃えたらスズカはお前の1.2倍は出してくるぞ」
「じゃああたしに何が残るんですか!」
振り返って半分涙目のアグネスデジタルが佐久間に詰め寄る。佐久間は涼しい顔で即答した。
「目だ。お前には誰にも負けない目がある」
「め?」
何を言われたかわからないアグネスデジタルは、そこで一瞬呆けた顔をした。
「キラキラ?」
「ド阿呆。お前には誰にも負けない観察眼と空間把握能力があるって意味だ」
「くうかんはあく?」
溜息を吐いた佐久間が、カメラを仕舞い終わったハードケースを手に提げた。
「併走したトウカイテイオーのこともよく見ているし、お前は圧倒的にレース中の視野が広い。今から劇的にスタミナを付けたり、筋肉量を増やしたりできない以上、小手先で勝つしかない。だとしたら、お前の目に賭けるしかない」
佐久間が歩き出し、アグネスデジタルが慌ててその後を追った。
「安田記念まであと2週間。参加登録しているウマ娘の癖、コースの癖、可能な限りのすべてを頭に叩き込め。その上で相手の動きを最大限予想して、動くことを考えよう。……いくぞ、デジタル」
「はいっ! これもウマ娘ちゃんを間近で拝むため!」
「……それで勝つためって言わないところがお前らしいよ、ほんと」
佐久間は呆れたように声をかけた。
「沖野チーフ、遅くまでお疲れ様です。佐久間トレーナーはまだこちらにいらっしゃいますか?」
「おっと、葵ちゃんか。そっちも遅くまでお疲れ様だ。佐久間のやつ、奥の部屋にいるにはいるんだが声かけても反応するかも怪しい状況だ」
21時半を回り、学園の灯りのほとんどが校舎から寮に移ったころ、課外B棟の端にあるトレーナー室に一人来客があった。髪を小さなハーフアップにした女性トレーナー……桐生院葵はノートパソコンで事務仕事をしていた沖野の答えを聞いて首をかしげた。
「調子が悪い……とか、ですか?」
「逆だ逆。絶好調過ぎる。そんでもって、あいつの絶好調はこっちが見てると心配になるぐらいの集中力だ」
そう言って奥のドアを軽くノックする沖野。そのまま反応を待たずに開けると、倉庫を兼ねている一室のスチールラックの影で、ヘッドセットを付けたままなにか作業している佐久間が奥に見える。
それを見た桐生院は笑顔で首を横に振り、ドアを静かに閉じる。
「やっぱり佐久間さんらしいですね。あの人もなかなかとんでもない」
「そうだな。……だが、葵ちゃんも大概だろ? おハナさんが飲みの席でよくやってると褒めてたぞ。リギルのサブトレーナーが務まる奴も早々いないだろうしな」
「えっ、東条チーフがそう言ってたんですか?」
「おっと、バラさない方がよかったか。俺が口を滑らせたことはナイショにしておいてくれ」
沖野が肩をすくめつつそう言うと、小さな冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを取り出し、桐生院に投げ渡した。
「走ってきたんだろう。水分は摂っておけよ」
「あ、ありがとうございます! では、遠慮なく」
「それで、佐久間に何の用だったんだ? トレーニング周りなら相談に乗るぞ。ちょうど安田の前でリギルの情報も欲しかったしな」
ペットボトルに口を付けた桐生院が困ったように笑った。
「チームスピカからはスズカさんと、スカーレットさん、あとデジタルさんでしたね?」
「そっちもタイキシャトルにグラスワンダー、ハッピーミークで3人だろ。スペシャルウィーク包囲網もここに極まれり、だな」
「タイキちゃんに至っては『ルドルフとブライアンのカタキ、絶対とりマース!』って燃えに燃えてますし、グラスちゃんもスペシャルウィークさんの同期ですから負けられませんしね」
上がる名前はどれも実力者ばかりだ。スペシャルウィークに話題を奪われがちだが、スペシャルウィークの同期にあたるグラスワンダーも『10年に一度見つかるかどうかの逸材』と名高い。
名門たるチームリギルは、重賞を堅実に積み重ねていく安定した実力者が多い。かつてはオグリキャップを始めとするスターウマ娘を擁したチームシリウスと、そして今はサイレンススズカやゴールドシップを筆頭にスターウマ娘が集うチームスピカと並び、トレセン学園最強チームの筆頭候補に名を連ねていた──少なくとも、スペシャルウィークを押さえた陽室琥珀が『チームテンペル』の旗を掲げて場外大乱闘を始めるまではそうだった。
チームテンペルのスカウトは、他のトレーナーたちから見ると悪夢でしかない。オグリキャップの快進撃を最後まで支えたあと、頑なにチーム所属サポーターへの勧誘を断り続けていたベルノライトをいつの間にか引き込み、どんな魔法を使ったのか入学前の時点でメジロマックイーンをも獲得し、入学当日での入部を実現させている。メジロ家のご令嬢が入学することはどのチームも知ったうえで狙っていた以上、その衝撃は凄まじかった。
だからこそ、どのチームも『チームテンペルの鼻を折らねばならない』と邁進しているのである。そういう意味では、スペシャルウィークが
「もっとも、主戦場が中長距離のスペシャルウィークを相手に、海外最高峰GIマイルレース『ジャック・ル・マロワ賞』優勝者のタイキシャトルがまたあっさり負けましたなんて言えないだろうしな」
「三度目の正直って言いたいところです。おかげでリギルでは『打倒スペシャルウィーク・打倒チームテンペル』が合言葉ですよ。もう四六時中ピリピリしちゃって。ミークのケアも結構気を遣わないといけませんし、東条チーフもスペちゃんのデータを揃えたうえで模擬レースをやったりしていますからね」
「はっはっは、おハナさんでもそうなるか」
沖野はそう笑うとノートパソコンをパタリと閉じた。
「だが、すまんな。安田はスピカがもらっていく。スペシャルウィークだって、
「負けませんよ。わたしのミークにだって、ヴィクトリアマイル1着の誇りがあります。最高に仕上げてご覧に入れます!」
桐生院が両腕を握って自身の胸の前で振った。それをどこか嬉しそうに眺めた沖野が話題を戻した。
「それで、佐久間を訪ねてきたってなると……蹄鉄についてか?」
「あ、そうです。といっても、ミークじゃなくて、殿下のなんですけど」
怪訝な顔をする沖野。殿下と言われて浮かぶ顔はひとつだ。
「ファインモーション公女様か。おハナさんもなかなか苦心してたと聞くが」
「はい。秋シーズンに向けて、私が主担当としてファインを指導するようにって言われちゃいまして、今は私が担当してるんです」
そう言われどこか腑に落ちない表情を浮かべる沖野。
「……それは、他の子とは違う配慮がいるだろうしな」
「あ! そういう意味じゃなくてですね! 本当にいい子なんですよ! それに桐生院家としてのあれこれもあって、
「へぇ、おハナさんが担当を手放すなんて珍しい。殿下からの要望か?」
「ああ、いえ……実は、東条チーフが直接指導してる子たちを、今どんどんサブトレーナーに振り分けてるんです」
「ということは……国政へ挑戦するって噂話は本当だったのか」
沖野のつぶやきに桐生院が驚いた表情を浮かべる。『鳩が豆鉄砲を食ったよう』という表現はこういうときのためにあったのかと心の奥底で思いつつ、沖野は笑うにとどめた。
「ご存じ、だったんですね」
「ウマ娘のための教育制度がザル過ぎるとずっとぼやいてたし、おハナさんなら適任だろう。しかしそうなると、トゥインクルのシーズンが切り替わる12月末で引退してチームは解散か、誰かが代表して引き継ぐかってとこかね?」
「あの……沖野チーフなら言うまでもないとは思いますが……」
「他言無用、だろ? 公式発表までは誰にも言わんから安心してくれ」
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる桐生院に頭を上げさせて沖野が続けた。
「で、葵ちゃんも独立か?」
「どうでしょう、東条チーフ以外の流儀も習ってみたいので、どこかリギル直系以外のサブトレーナーをもう何年かできたらなとは思っていますが……ミークと、もし4年目以降も許されるなら殿下も連れてなので、難しいだろうとは覚悟しています」
「そうか。もしもの話だが、どうしても見つからなければ
「ほ、本当ですか……?」
「スピカの懐事情次第だがな。……話がそれたが、そんなこんなで殿下の蹄鉄か」
脱線した話を元に戻すと、慌てたように桐生院が口を開く。
「はい! 蹄鉄回りの不安とかのヒアリングをしたいと思ってて、生徒の安全に関わることですし、殿下の事情が事情なので、万全を期すためにも佐久間さんに同席してもらえないかなと」
「わかった。来ていたことだけは伝えておくから、明日には佐久間の方から連絡があるだろう」
「ありがとうございます。助かります」
「それにしても、佐久間のやつと仲いいんだな」
桐生院は問われてどこか気恥ずかしそうに笑った。
「蹄鉄だったりパワー系のトレーニングだったりで、いろいろ私もお世話になってるのはご存じでしたっけ?」
「サポートの子たちのやってる購買で、やたらと蹄鉄談義してたのは知ってるが」
「はい。そのときにミークの蹄鉄をちょっと見てもらったのもあって、同期ですし協力できるところは協力しようよって」
「いいじゃねぇか。この業界だと同期は貴重だ。じゃんじゃん交流していけ。それに、情報盗まれて負けるような奴は一流になれないしな」
沖野は頭の上で両手を組む。
「それにしても佐久間なぁ……アレも結構大概なんだよなぁ。脚質オバケなデジタルとはいえ、本当に芝もダートも両面取りするとは思わなんだし、ましてやそれでNHKマイルを取らせてくるとは考えてなかった。スカーレットと競ることができるだけでもクラシックとしては相当な実力者だ。アレのやり方をストレートに真似すると、ウマ娘の方が先に潰れるぞ」
「あ、それはもちろんわかってます」
やはり桐生院は困ったように笑う。
「でも、やっぱりすごいんですよね、佐久間さん。もちろんわたしのミークも負けてはないんですけど、私には東条トレーナーからジュニア戦線を勝ち抜いたミークを引き継いだのでその貯金があります。その点佐久間さんはいきなりデジタルさんが初担当ですし……本家からも『アレを倒すなり懐柔して引き込むなりしろ』ってよくわからない指示が来ちゃいますし」
「名家のお嬢様も大変だな」
沖野は苦笑いだ。ノートパソコンを片付け、佐久間宛のメモを残しつつ沖野も続ける。
「ま、お互い優勝目指してぼちぼち頑張るしかないわけだ。勝ち負けは別にして、良いレースにできるよう、最大限努力していこう」
「はい。2週間後、東京レース場で」
安田記念まで、あと2週間。トレーナーたちも最終調整に入った。