忌引による更新環境の確保困難につき、本日分の投稿が遅れてしまいました。申し訳ありませんでした。幸いネット環境は出先の方で確保できたので、今後の更新は支障ありません。
これからも会長スペちゃんをよろしくお願いいたします!
その日は快晴だった。
『快足自慢が集うマイルGI、安田記念! 東京レース場芝1600mで競います。春のマイル王は誰の手に!』
実況の声が聞こえる中、アグネスデジタルは誰よりも真っ先にゲートに入っていく。この瞬間を嫌うウマ娘も多い──例えば、セイウンスカイなどがその筆頭だが──とはいえ、アグネスデジタルはこの瞬間が嫌いではなかった。視界が遮られるのは少し落ち着かないものの、それでも文字通りの至近距離で『推す』べきウマ娘の息づかいを感じられる場所でもあるのだ。
『今回の安田記念は直前での出走取消が相次ぎ、8枠12人での出走となりました。しかし出走するのは精鋭揃い。本日出走するウマ娘、3番人気以上をご紹介しましょう』
NHKマイル以来の勝負服──普段からトラッドな恰好のトレーナーにはあまり響いていないようだが──で身を包み、靴をトントンと足元の芝に慣らすように打ち付けてつま先を微調整。そうしていると左隣の1枠1番に、真っ白な勝負服に身を包んだハッピーミークが入ってくる。シャボンの香りがふわりと香ってきて、卒倒しそうになる。これがあるからゲート入りはやめられない。
『3番人気となりましたタイキシャトル、本日は5枠5番での出走です。ジャック・ル・マロワ賞を日本に持ち帰ったマイル覇者が、今をときめく後輩たちを迎え撃ちます」
反対側の3枠3番に青と白の勝負服が目を引くダイワスカーレットがおさまった。レースで一緒に走るのは桜花賞以来、いつもよりピリッと辛口の空気がやっぱり似合っていて、こちらもこちらで卒倒しそうになる。
『2番人気のサイレンススズカは5枠6番での出走となります。誰もが待ちに待った復帰戦で唯一無二の大逃げ戦法が今回こそ炸裂するか、その走りに期待がかかります』
頬が熱くなっているのを感じる。心拍数が上がっていく。これを高揚感と呼ぶべきか、過負荷と呼ぶべきか……アグネスデジタルには分からなかったが、とりあえずこの場を意識して他の面々が収まるまで場に慣れる必要がある。
『1番人気はやはりこのウマ娘。常勝無敗の総大将、スペシャルウィーク! 昨年の毎日王冠以来のマイルレースは7枠10番となりました。驚異的なロングスパートが輝くか、はたまた流星のような差し足が煌めくか、注目です』
スピーカーで流れる実況と解説の声を聞きながら、アグネスデジタルは周囲を見回す。ゆっくりとグラスワンダーがゲートに入っていくのが見える。ダイワスカーレットが遥か遠いスタンドに手を振ってから収まるのが見える。その視界は、クリアだ。
皆、歴戦の猛者たちだ。……否、歴戦の猛者以外が舞台から降りてしまった。スペシャルウィークがマイルにやってくると聞きつけたマイラーたちが出走を表明した結果として、『チャレンジ』として安田記念を目指していたウマ娘たちが軒並み棄権したのだ。実際、クラシック戦線からの参加者はダイワスカーレットとアグネスデジタルのみ。シニア戦線を勝ち抜いている残り10名も重賞を複数取っていて当たり前の面々だ。
『さて、今回のレースはどう見ればよいでしょうか?』
『はい。台風の目となるのはやはりスペシャルウィークでしょう。彼女の差し脚は他のウマ娘にとって、大きな脅威であることに違いありません。一方でパワー勝負でも引けを取らないタイキシャトルやそもそも差し脚が届かないところまで逃げ切れる可能性のあるサイレンススズカ、瞬発力では負けないグラスワンダーやキングヘイローなど、文字通りの
解説の声が夏前の空に広がって届く。たしかに今回は文字通りのドリームレースだ。スペシャルウィークがわざわざマイルレースに飛んできた。スペシャルウィークと走りたくて、そしてできることならば勝ちたくて、誰もが飛んできた。
『まず間違いなく歴史に残るレースになると思います。ハイレベルなレース運びに期待です』
バックゲートが閉じる音がする。全員がゲートに収まった。うるさい心臓を撫でつけてから、スタートに向け右足を下げる。重心を落とす。
『各ウマ娘の体勢整いました。いよいよ運命の1600メートル、発走の時です』
ジッ、と頭上で音。発走用意完了のランプが付いた時のノイズ。一気に周囲のボルテージが上がった。
周囲の息遣いが変わる。誰かが息を吸い込んだ音。吐く音は聞こえない。
アグネスデジタルは前に出していた左脚を脱力し、後ろに引く。右足は後ろに引いた状態だ。重心は当然右足の上にないので当然のように身体は重力に従って下へ。強い前傾姿勢へと変わっていく。もう一度、ジッという電気的ノイズ、今度の音は、前。
左足を後ろに向けて叩きつけると同時に、スターティングゲートの電磁石とモーターが駆動し、道を開けた。倒れかけた体のバランスを取るために自然と右足が大きく前に出る。広いストライドで前へ、身体を起こしつつストライドを縮めてサイクルをあげる。コースは緩やかな下り。速度に乗る。
『さぁ、全ウマ娘一斉に──』
風切り音と蹄鉄が芝を蹴る音に実況がかき消された。その空隙で佐久間の言葉がリフレインする。
──デジタル、自らの身体のすべてを意識下に置け。
2週間前、安田記念への出走を認めてもらった後、作戦会議の時の会話だ。
──全身をセンサーにして、自分の体が今何をしようとしているのかを把握しろ。周囲が何をしようとしているのかを掌握しろ。自身も観察対象に加えるんだ。全体を俯瞰できるだけの知性と眼をお前は持っている。
目線は前に向けたまま、耳を澄ます。右後方すぐで強く芝を蹴る音──ダイワスカーレットが抜きに来る。普段ならそれを見送って後方に位置取るのだが、今回はすぐに速度を上げてすぐ後方につける。彼女のピッチがいつもより速い。
「ちょっ!?」
焦ったようなダイワスカーレットの声。声をあげさせることになるとは思ってなかったが、好都合かもしれない。ぴったりとそのすぐ後ろについてそのまま距離をジワリと詰める。
「くっ……!」
ダイワスカーレットがストライドを広げた。その加速についていく。緩い下りが続くうちに速度に乗らねばパワー勝負に持ち込まれる。彼女はおそらくそれを理解している。
(デジタルがついてくるなんて、想定外でしょう、ねっ!)
ダイワスカーレットが
(最初の賭けはデジタルの勝ちっ! スカーレットさん、お覚悟っ!)
5秒もたてばすぐに上り坂が飛んでくるだろう。東京レース場向こう正面終盤に待つ急な上り坂。そのひとつ目の坂までの距離を測る。
そのタイミングで緑色の勝負服が視界の右端に映った。
サイレンススズカ。
彼女はコーナーの入りに向けて最短距離で突っ込むコースに乗っていた。直線で加速して先行組の進路を妨害しないことを確信してから寄ってきたらおそらくこのルートになる。このまま行けば、ダイワスカーレットの2バ身ほど前に割り込まれる。
1.5レーン外ラチ側へ。内ラチをダイワスカーレットに明け渡してサイレンススズカを見据える。上り坂に飛び込むと同時にストライドを広くとる。ピッチは変えずに速度を上げた。ダイワスカーレットがこれ幸いと内ラチ側に寄ったものの、おそらくそのまま進路を維持しサイレンススズカの後ろについた方が距離は詰められたはずだ。ダイワスカーレットは相当に焦っているのだろう。
強く蹴り込み一気に前に出る。坂の終わりを飛び抜けると同時にサイレンススズカが内ラチに飛び込んできた。その斜め後方に陣取る。わずかな距離の平地。再加速。
「……!」
サイレンススズカが驚いた気配。正直アグネスデジタル自身も驚いていた。本当にサイレンススズカに食らいついていけるとは。それでも驚きも押し込んで頭を回す。
1.5バ身。少し遠い。目指すべきはおそらく1.1バ身以内。さらに速度を上げる。ちょうど下り坂が始まった。自然と上がる加速度も使って前へ。
ふわりと前に吸い寄せられるような感覚。ここだ。後方を確認するようにサイレンススズカの視線が外に走る。目が合う前に彼女の視線が前に戻った。しかし、アグネスデジタルがそこにいることは把握したはずだ。
遠く後ろで足音が複数。先行組が上がってきているはずだ。それでも警戒しているのはアグネスデジタルではなくサイレンススズカだ。大逃げを決められればチャンスがなくなる。アグネスデジタルとダイワスカーレットが追いすがり、逃げ集団内部で潰し合っている間に距離を詰めておく魂胆だろう。
(でも、そうなるつもりはありませんっ!)
そのままの距離を維持するようにしながら第3コーナーに突入する。無駄なく効率的な走りをするサイレンススズカの後ろをぴったりとつけて駆けていく。それ以外に、アグネスデジタルが勝ち残る術はない。
最高時速70キロを超える速度で走るウマ娘にとって、空気抵抗は最大の減速要因と言い切って良い。空気の壁を押し分けて進まねばならないからだ。
だが、その一部分でも他のウマ娘に担ってもらえるとしたら。
────スリップストリーム。それを活かすには相手のすぐ後方に位置取り、相手がかき分けた後の空気の渦に入り込むことで、体力の消耗を防ぐ事ができる。アグネスデジタルが小柄であることも有利に働いた。
(吸い寄せられる感覚の所にとどまり続ける! 吸い寄せられる場所に残り続ける!)
それだけを考えながらひたすら前について行く。心臓の鼓動がおかしいぐらいに速くなっているのがわかる。それでも足を前に。前に。
すぐ後方からずっと聞こえていた足音がわずかに遠くなった。おそらくダイワスカーレットが失速した。呼吸が少しずつ浅くなっていくような感覚がある。スリップストリームで若干気圧が低いのかと一瞬考え、そんな影響が出るほど変わらないかと考え直す。
下り坂の底で今度は緩やかな上り坂。第3コーナーを半分回った。後方から徐々に迫ってくる足音、おそらくタイキシャトルだ。思ったよりも早く追いつかれた。サイレンススズカの足も相当に速かったはずで、普通の逃げよりもかなりハイペースだったはずなのだ。
つまり、サイレンススズカは後方の面々に早々からスタミナを消費させる事に成功した。
(やっぱりスズカさんは、強い……っ!)
レースメイクをしたのは間違いなくサイレンススズカだ。彼女の逃げが、全ての戦略をひっくり返そうとしている。差し戦略や追込戦略は、あくまでスパートで追いつける範囲に全員が収まっていなければ成立しない。故に『逃げが許される』のは先頭が失速すると思われているからだ。
有力ウマ娘としてマークされているサイレンススズカの大逃げを、後続が許せるはずがない。故に、彼女は大逃げに賭けた。それが末脚を潰しきると信じて賭けたのだ。
(かくいうデジタルも、ちょっとバテ気味なんですけど、ね……!)
アグネスデジタルはそれを噛みしめながら後ろから迫ってくる足音から逃げていく。逃げ切れるか。ここから先は、彼女自身にとっても賭けだ。
アグネスデジタルだって無傷でここまで逃げてこれているわけではない。逃げざるを得なかったのは、集団に囲まれてしまうと抜け出せない可能性が高く、大外に回り込むと速度で負ける可能性が大きいからだ。ここで集団に囲まれてしまえば、最前列への復帰は見込めまい。
歯を食いしばる。第4コーナーカーブ。抜けるまであと7秒。その先の上り坂で勝負が決まる。
大ケヤキの影を抜けた。カーブを抜けるまであとわずか。ここまで2位をキープできている。足音からして数バ身後ろ、十分な射程内に2人か3人ほどいるはずだ。タイキシャトルは間違いないとして、おそらくダイワスカーレットもまだ粘っている。回り込もうと外側に膨らんできている気配。耳を振って音を確認。振り向かない。振り向くだけの余裕がない。
(それでも、デジタルは、最前線で! この場の空気を! 味わいたいのですっ!)
前へ、前へ。サイレンススズカから引き離されないように、前へ。サイレンススズカ自身も一段階加速した。引き離されてたまるか。ここでスリップストリームの加速が切れれば、アグネスデジタルが再度上がることは難しい。
(それに、そろそろ……)
6と書かれたポールが目の端を過ぎる。上がり3ハロン。勝負は残り30秒。
「来たっ!」
思わず声を上げる。アグネスデジタルのすぐ後ろ。おそらく数秒前まで感知できなかった距離から、高速で突っ込んでくる。
────スペシャルウィークが、突っ込んでくる。