乾く。それが最初の感想だった。喉が乾いて張り付くような気迫、とでも表現すべきか。その気迫の正体がすぐに後ろから突っ込んでくる。
スペシャルウィークが、突っ込んでくる。
アグネスデジタルはじわりと加速。ここが勝負所だ。ここで競り負ければ潰れて終わる。
足音が右側へ1レーン動いた。サイレンススズカとアグネスデジタルを躱すための動き。スペシャルウィークの射程距離に入ってしまった。逃れる術はない。
────道を空けろ、アグネスデジタル。
そんな声を確かに聞いた。
逃げ切らんとサイレンススズカがさらに速度を上げる。それに無理やりついていく。目の前に最後の急坂、だんだら坂が迫る。残り2.5ハロン。
あぁ、なるほど。確かに、これは…………
すぐ隣、どちらかが半歩でも進路がブレればぶつかりそうな位置を、彼女が抜けていく。アグネスデジタルの視界に白と紫の袖が飛び込んでくる。
(ここまでしても間に合わない。ここまでしても逃げ切れない)
スペシャルウィークの横顔を垣間見る。まるで能面のように、まるで疲弊していないかのように動かない表情。まっすぐ見据えられた、瞳。
スペシャルウィークは余力を残して走り抜けていく。常人では達しえない領域、飛行機が低速で不安定になるように、高い技量と速度があるからこそ実現できる速度とパワーを両立した走り。高速度安定域に脚を踏み入れた、悪夢のような走り。
その影は一気に前へと抜けていく。斜度が上がり脚を痛めつけるはずの急坂で。そんな坂など存在しないかのような加速度で。スペシャルウィークが駆けていく。
これがスペシャルウィーク。これが常勝無敗の総大将。これが彼女の走り──!
(その走りは孤高! その姿は荘厳! 最終直線でご一緒できるならば! やはりこれは! またとない至高の2ハロンッ!)
アグネスデジタルの奥底で火花が散る。だんだら坂の上りを蹴りこみ、サイレンススズカの背後に踏み込むように再加速。スリップストリームの加速度を残したまま、サイレンススズカの後ろから離脱する。1レーン右へ────スペシャルウィークの、背後へ。
残り2ハロン。
彼女を背後から眺めるのも悔いはない。それでもそれは……あまりに、惜しい。
ならばアグネスデジタルが取るべき選択はただひとつ。
「その道行、お供いたしますぞっ!」
スリップストリームを乗り継いだ。スペシャルウィークに坂を引き上げてもらう。彼女のかき分けた空気の奥へともぐりこむ。
「────ッ!?」
内ラチを走っていたスズカの驚いた顔が見える。息を呑む音が聞こえたような気がした。
それすら置き去りにして、一気に坂を上っていく。赤紫色のセーラー襟を追いかける。四つ葉のクローバーを模した襟飾りが翻る。風になびく尾を追いかける。それに触れられそうなほど近くまで、追いかける。
こんな走りは見たことがない。こんな走りは知らなかった。
「はあああああっ!」
声を出して、前へ。余分な力が抜けるからここぞの時に叫ぶのは理に適っていると聞いたのはいつの日か。スタミナにもパワーにも余力のない今こそ活かすべきだ。
それでも、スペシャルウィークは涼しい顔で前を往く。
(あなたは……)
その走りは、孤独だ。
その領域に達した者があまりにも少ないが故の、それに比類する存在があまりにも少ないが故の、運命付けられたような孤独。
その孤独に惹かれないと言えば嘘になる。ウマ娘としてだれもが憧れる、文字通りの『最強』としてのウマ娘のありかた、その正解のひとつ。それを体現したスペシャルウィークに憧れないと言えば、嘘になる。
あそこに並び立ちたい。スペシャルウィークが何を見ているのか。スペシャルウィークが何を感じているのか。それを覗いてみたい。
しかし、同時に感じてしまう。
(……それが、あなたの望んだ強さなんですか?)
脳のどこかが焼き切れる。音すらかき消え始めた。まずい。限界を迎えつつあるのがわかる。
それでも、それでも。そう頭の奥底で叫んでいる。
「────あ」
坂を上り切った。残り1.5ハロン。ゴール板まで残り300メートル。
圧倒的な熱量、身体の中がドロドロに溶けてしまったかのような感覚、全身が止まれと責めたてる。これ以上は危ないと警告する。だれよりも近いところでウマ娘ちゃんたちを眺めるという目的は達しただろうと、理性が囁く。
「かひゅあっ!」
確かに、目的は達した。
熱量が危険な域に達している。
9番人気がよくここまで食らいついたじゃないか。全力を出さなかったわけじゃない、ここで諦めたって、先頭をスペシャルウィークが取るのは必然だ。それに抗って何になる。
────それがどうした、と理性をねじ伏せる。
「うひょああああああああああああああああああああっ!」
我ながら悲惨な悲鳴だと思う。それでも前に踏み込んだ。大逃げで残った残りかすのような気力をかき集め、叫ぶ。末脚とは呼べないほどのわずかな加速。
だがそれは、確かに一歩分の間合いを詰めたのだ。その加速度が、わずかにスペシャルウィークの影を大きくしたのだ。
────距離が詰まった!?
驚いたのはデジタル自身だ。一生分の鼓動を打ち切らんとするかのように心臓が大きく跳ねる。
差し返せ。まだ届く。跳べ。まだ走れる。
わずかに左へ、彼女のスリップストリームの外へ。加速度を保ったまま、大気の壁に飛び込んでいく。耳に入る風の音の質が変わる。スリップストリームの効果範囲を出た証拠だ。だが、それは出遅れた結果ではない。十分な加速度を得ての離脱だ。自分自身を鼓舞するように叫ぶ。
「走れデジタルぅうううううっ!」
加速度が消えていく前に、左斜め前に飛び出した勢いでそのまま前へ、前へ。
いつのまにかラスト1ハロンを切っていた。すぐ前に100と書いてあったであろう内ラチの柵が見え、読む前に後ろに飛び抜けた。
すぐ目の前にゴール板がある。もう届くところにある。スペシャルウィークの方が一歩分速い。
────飛べ。
何かに背中を押された気がした。自然に前に脚が出る。上体を前に倒すように急加速。おそらくタイミングが味方した。まるで魔法のように飛び出した。トルソーを突き出すように前へ。
ゴール板が後ろに吹き飛んでいく。数歩進んでゴールしたことを理解した。上体を起こして、ゆっくりと減速していく。第1コーナーの半ばまで進んで、なんとか歩く速度まで減速した。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
膝が笑っている。その膝に手を当てて息を整える。オーバーヒートした体を冷やすために汗が後から後から流れてくる。俯いて垂れた髪からも伝って落ちているのではないかと感じられた。実際、まつげから伝って落ちた汗が目に入って痛い。
『なんということだ! なんということだ! もつれあうようにゴールしたスペシャルウィークとアグネスデジタル、どちらが先かは判別できません! 先頭ふたりに続いて3着はサイレンススズカ! 4着タイキシャトル、5着ハッピーミークです!』
判別できない? アグネスデジタルは耳を疑った。追いつけた? もしくは、追い抜けた?
ゆっくりと背を伸ばそうとして、ふらついた。頭の奥で鼓動がうるさい。くらりと身体が揺らいだところを、がっしりと誰かに腕を掴まれる。そのまま肩を借りるような姿勢になった。誰に? と横を確かめる。
「おっひょ」
真顔でこちらを見ているのはスペシャルウィークだった。
「スペ、先輩……っ!」
「息を整えることに集中して」
感情の乗っていない声に黙り込む。レースの前後でスペシャルウィークと話すのは初めてだ。
「デジタルちゃん……!」
まだ息の上がっているサイレンススズカも駆けてくる。笑って──本当に笑えたかわからないが──デジタルは片手を挙げる。
『おそらく写真判定となるでしょう。観客席は騒然としながら結果を待っていますが、アグネスデジタルはスペシャルウィークの肩を借りていますね』
『限界を大きく超えた走りだったのでしょうか。脚質的には逃げというよりは差し向きの印象を受けます……あ、トレーナーが走って向かってますね。大丈夫でしょうか。心配ですね』
解説の声が告げたとおり、佐久間が走ってやってくる。スリーピースのスーツを翻してやってきて、アグネスデジタルの前でしゃがみ込んで視線を合わせてくる。
「デジタル」
「大丈夫です。さすがに、息がもたない、だけです……」
「でもデジタルちゃん、顔色悪いわ……」
「首、触るぞ」
サイレンススズカの声に佐久間が頷くのが見える。首筋にその手が触れた。佐久間の手が熱い──いや、むしろアグネスデジタルの首筋が冷えているという方がおそらく正解だ。走った直後なのに。
佐久間が人差し指を立てた。反射的にその指先を追うが、ぼやけて見える。
「おそらく
「いえ、当然のことをしたまでです」
四角四面なスペシャルウィークの声を聞いて一瞬驚いた顔をした佐久間だが、すぐにジャケットを脱いでサイレンススズカに預ける。
「スズカ、おんぶしたらデジタルの肩にかけてやってくれ」
「わかりました」
佐久間の背に乗ると、ふわりとミントのような香りが鼻をくすぐった。すぐに肩にジャケットがかけられて、そのまま視線が高くなる。慣れない高さだ。
「あの、デジタルさん。それから……佐久間トレーナー」
スペシャルウィークがふたりを──少しの空白は、佐久間の名前を首から提げた許可証で確認した故だ──呼び止めた。デジタルが顔を上げる。
「また挑ませてもらいます。次は負けません」
「スペ先輩……?」
アグネスデジタルは狭くなる視界の中でそれを聞く。何を言われたか、それが何を意味するか理解できないまま、デジタルの意識は暗転した。
『写真判定の結果、1着は2番アグネスデジタル! アグネスデジタルがスペシャルウィークをハナ差で下して安田記念を獲りました! なんという番狂わせでしょうか! 常勝無敗の流星、スペシャルウィークの連勝記録は12でストップ! GI八冠目、皇帝越えは持ち越し! 無敗の流星を撃ち墜としたのはアグネスデジタルです!』
場内に驚愕とどよめきの声が響く中、スペシャルウィークは地下バ道をただひとりで歩いていた。まだサイレンススズカもタイキシャトルも、他のウマ娘たちも上で……ターフでそれを聞いているだろう。しかしそれは、スペシャルウィークにとっては過去の事象の羅列でしかない。
「お疲れ様でした、スペ」
呼びかけられたスペシャルウィークは、バ道の真ん中で立ち止まる。彼女の目に映るのは普段通りの陽室琥珀トレーナーだ。喜びも悲しみも見せていない、普段通りの陽室だった。
「ひとまず、怪我などはないようで何よりです」
「はい……」
それきり会話が途切れる。どちらともなく再び歩き始めて、地下バ道に足音だけが響く。
地上への出口が見えてきたあたりで、スペシャルウィークがやっと口を開いた。
「トレーナーさん。次のレースの予定って、今からでも変更できますか?」
「ええ、もちろん可能ですとも。日程次第、望むレース次第ではありますがね」
スペシャルウィークはまっすぐに陽室の目を見据える。
「実力のある方たちが集まる芝のマイルレースならどこでもいいです。あと、できれば1回じゃなくて、2回以上走りたいです」
「なるほど。念のため確認しますが、本当にどこでも構わないのですね?」
「はい」
陽室はその瞳の奥を見据える。
「もう一点……いや、聞くまでもないでしょうが」
「何ですか?」
スペシャルウィークが首をかしげる。
「ミス・アグネスデジタルに勝利せずとも、中長距離最強の座は守られますが……貴女はそれに甘んじるつもりなどないのでしょう?」
「はい。私の夢は、日本一のウマ娘になることですから」
陽室はじっとスペシャルウィークの目をじっと見つめ、しばらくの後に口を開いた。
「大変結構。来週出発しましょう。……フランスへ飛びますよ、スペ」
「わかりました」
その言葉と共に、彼女は一歩を踏み出した。
こちら完全なる作者の余談ですが、7月30日の新潟5Rメイクデビューで上がり31秒4が出たそうで……競馬場(レース場)や距離の違いこそあれ、会長スペを現実の馬が超えていきました。事実は小説より奇なりとはよく言ったものですね。作中の展開も含めて運命的なものを感じます。