「勝っちゃいました、勝っちゃいましたよどうしましょぉおおおお!」
東京レース場の出走者控え室──今回はチームスピカで大部屋一室を押さえていたのだが、そこにアグネスデジタルのあわてふためいた声が響く。勝負服のまま勝利後の記者会見があるため、まだ着替えることも許されていない状況だが、彼女はそんなことを気にする余裕もない。部屋の中央をくるくると8の字を描くように回りながらあたふたしている。
「さっきまでぶっ倒れてたのに元気だなお前」
これが若さか、と羨ましそうにパイプ椅子に腰かけた沖野が呟く。
アグネスデジタルはかれこれ数分前まで救護室で横にされていた。とはいえ佐久間の見通しは正しく、血圧がすぐに回復し吐き気などもなくなったので控え室に戻ってきたのだが、その途端にこれである。
「左回りのスズカの次はエンドレスエイトのデジタルか……」
「いや、なんなのさそれ」
ゴールドシップのボケにトウカイテイオーがなんとか突っ込むが、それに続く声はない。そのサイレンススズカも先ほどまで本当に左回りをしていたため、部屋に揃っているスピカの面々も、トレーナーの沖野までも突っ込むことができていない。
仕方なく、佐久間がアグネスデジタルの肩を押さえつけるようにしてストップさせた。
「落ち着けデジタル。病み上がり直後でテンションを上げるな。また倒れられてもかなわん」
「どうして落ち着けるんですか! 落ち着けますか! なんでそんな落ち着いてるんですか!」
「いや、普通にデジタルが全力を出せれば余裕で1着は取れると思ってたから、まあ予想通りというか」
「へぁっ!?」
アグネスデジタルの尻尾がほぼ真上に跳ねた。
「そ、そういうことは出走前に言ってくださいよ!」
「いや、言ったらお前絶対慢心するしそれで勝てなかったらこっちも恥ずかしいしさ」
「とか言いつつ、俺に喧嘩売ったのはどこのサブトレーナーだったっけか?」
沖野が茶化すが、佐久間は肩をすくめるに留める。
「慢心、慢心か。確かにお前の言うとおりだ、佐久間。まったく、大逃げかましたスズカをまともに捕らえられる奴がスペシャルウィーク以外にいるかもしれないと頭ではわかっていても、俺はまともに考えてこなかった。今回はスズカの逃げ足を活かしきれなかった
やたらと『俺の』を強調するのは、部屋で所在なさげに歩き回っているサイレンススズカに聞かせるためだろう。アグネスデジタルが心配そうに佐久間を見上げた。
「えぇ、今回は
だからこそ、とアグネスデジタルを見ながら佐久間は続ける。
「次はまた違う戦略で挑むことになるでしょう。また勝てるように手を尽くし、また全力で挑ませていただきます。またあなたの胸をお借りすることになりますが、きっとまた違う形で、それでも、もっと良い勝負にしましょう」
「……だな」
沖野が溜息を吐いてから笑った。
「次も易々と取らせるつもりはないぞ。スカーレットももっと伸びてくる」
「えぇ、次回もねじ伏せられるようにデジタルをしっかり鍛えることにしましょう。……まずは、このあがり症を治すところからですかね。向こう見ずに興奮する癖を治さないと、この先毎回ゴールの度に倒れますよ」
うっ、と大袈裟にショックを受けたようにリアクションをとるアグネスデジタル。彼女が倒れかけた原因について、救護室の見立てでは……というより素人が見てもそうなのだが、彼女が倒れたのは単純に『興奮して頑張りすぎた結果』だ。ゴールして運動を止めた瞬間に、心拍数を元に戻そうと副交感神経が強く働きすぎて、脳の血流量が低下したのだ。
「気をつけまーす……」
「ならデジタル、早速荒療治だが、そろそろ会見場に移動するぞ」
「待ってください、まだ準備がっ……!」
「待たない。持ってくのは携帯ぐらいで良いだろうが。そのままの格好でいいから来い。お前のケアの関係で、記者会見の順番をわざわざスペシャルウィークと入れ替えてもらったんだから」
「わかってますけど、心の方の準備が……っ!」
だだをこねるアグネスデジタルをせかすようにして部屋を出る。部屋を出ると覚悟が決まったのか、彼女は急におとなしくなった。
「まぁ、出たとこ勝負でやるしかないし、フォローアップもするから落ち着いていけ」
「トレーナーさんは強引ですね……それで、あたしが勝つって思ってたのは本当なんですか?」
「負けると思ったレースに出させるわけがないだろう。そのための2週間だったからな」
佐久間はそう言いつつスーツのジャケットの襟を正す。アグネスデジタルに「行くぞ」と声をかけ、先導するように歩き出した。
「とはいえ、沖野チーフが言っていたとおり、今回は『作戦勝ち』だ。課題もたくさん見えてきた。これを『奇跡』と呼ばせないように、これからねじ伏せていく必要がある」
「ねじ伏せるって……これからずっとウマ娘ちゃんたちに勝ち続けろってことですか?」
「そうだ。お前も全力で走ったように、今日はお前以外の11人も死力を尽くしたはずだ。だからこそ、勝者には勝者の責任がある」
佐久間はスタッフ用のIDカードを首に下げ、アグネスデジタルを連れて関係者エリアに入り直す。廊下はいろんな人が行き交って賑やかだ。警備員にURAスタッフ、廊下を区切っている鎖が垂れたポールの向こうでは記者たちが電話などで大忙しだ。
「前に立つってのはそういうことだ。上に立つってのはそういうことだ。いつか誰かが追い落としてくるその日まで、目標として走り抜ける義務を負う。お前の言う『ウマ娘ちゃんのそばに行く』というのは、同時にトップクラスのウマ娘としての責任を他の子たちと共に負うってことだ」
「それは……前も聞きましたし、覚悟はできてるつもりです」
「ならいい。だとしたらお前はこの先も勝っていける。デジタル」
軽く頭を撫でてから佐久間は重たそうな扉を開けた。
「それでは、記者クラブの皆様からの質問を受け付けますので、スペシャルウィークさんと陽室琥珀トレーナーに質問のある方は挙手をお願いいたします。こちらの方で指名いたしますので、所属会社とお名前に続けてご質問をお願いいたします」
少しざわつく屋内を見回すことはできない。ステージ横の裏側で、パーティションによって目隠しがされているからだ。アグネスデジタルが慣れない様子でそこに入ってドアが閉められると同時、司会役を務める駿川たづなの指名が入った。
「暁日新聞社の柳です。今回のスペシャルウィークさんの2着について、陽室トレーナーから先程『作戦負け』との発言がありました。それは具体的にどのようなものだったのでしょうか。できればスペシャルウィークさんからもお願いします」
低い男性の声。すぐに、ブツンとマイクの入るノイズが聞こえた。スペシャルウィークの「えっと」と戸惑うような声があり、すぐにすらすらと答え始める。
「スズカさんの後ろから私の後ろに乗り換えられると思っていませんでした。アグネスデジタルさんにはもうスタミナは残っていないだろうと考えていました」
「スリップストリームはミス・アグネスデジタルにとって有効に働いたことでしょう。また、クラシック期のウマ娘ゆえにミスの基礎的な身体能力は未だ低いとの認識をチームは共有していましたし、それは紛れもなく事実でしたが、低く見積もりすぎた部分があることは否定できません。一方で個人的な感想として、データ面から見れば本レースがある種の外れ値であったのではないかとも現時点では考えています。チームとしての公式見解は後日発表とさせていただきます」
トレーナーから飛び出した『作戦負け』の言葉、アグネスデジタルもこの数十分で何回も聞いた言葉だ。『奇抜な作戦が、たまたま通った』。それが今回のすべて。そう思われているのだろう。
「加えて、ミス・サイレンススズカと付かず離れずの距離を保ち続け、スペ以外に後方から差されることを許さなかった点についても驚嘆に値します。ミス・アグネスデジタルの小柄さ、そして観察眼が有効に働いた結果でしょう。これらを見落としていたという点で、トレーナーである私の落ち度は疑いようもありません。今回の敗戦についての責任は私にあります」
「ご回答いただき、ありがとうございます。確認なのですが、実際アグネスデジタルさんの作戦は想定外のものだったということですね?」
「その通りです。加えて、これは私情ですが……スペに伍するウマ娘が、ミス・ナリタブライアンやミス・シンボリルドルフだけでなかったことに私は大変安堵しています」
ひゅー、と小さく口笛が聞こえる。アグネスデジタルが音の方を見ると、横に立っている佐久間が面白そうに口笛を吹いたようだった。
「喜べデジタル。今や三冠の怪物や皇帝と同列だぞ。大出世だ」
「素直に喜べますか! これが!」
周囲に聞こえないように、可能な限り小声で反抗するも、佐久間はどこ吹く風だ。
「月刊トゥインクルの
今度の質問は聞いたことのある声だ。たしか、前に密着取材と称して佐久間とアグネスデジタルに丸一日張り付いていたことのある女性記者だ。
その質問を受けて、マイクを取ったのはやはりスペシャルウィークだ。
「……フランスに行きます」
スぺのあまりにも唐突な海外渡航宣言に、会場が一気にざわつく。
「ええと……それは凱旋門賞に狙いを定めるということでしょうか。5月の時点では、今シーズン中の海外遠征はないと仰っていたように記憶していますが……」
「私から補足させていただきますが、凱旋門賞への出走は想定しておりません。安田記念はデスティナシオンフランスの対象レースですので、これを利用してジャック・ル・マロワ賞とムーラン・ド・ロンシャン賞に出走するため、来週にはフランスへ渡航します」
陽室からフォローが入っても未だに騒然とする記者たち。そんな中、最初に持ち直したのは乙名史記者だった。
「デスティナシオンフランスというのは、つまり……」
「当然ご存知のことでしょうが説明させていただきますと、URAの実施する指定競走の上位入着ウマ娘に対して、フランスクーリエが実施する指定競走への優先出走権が付与されることになっており、その対象レースのシリーズがデスティナシオンフランスです。対象レースは安田記念及びヴィクトリアマイル。どちらかで3着以内に入ったウマ娘には、ジャック・ル・マロワ賞及びムーラン・ド・ロンシャン賞への優先出走権が付与されます。この双方のレースに出走することを現在時点で予定しております」
アグネスデジタルが口をパクパクとしてステージの方を指さした。言葉を絞り出すのも難しいといった様相だ。その間にも記者会見が続く。
「そ、その両レースは……」
「どちらも芝1600m、マイルのGIレースです。昨年にはURA所属のミス・タイキシャトルがジャック・ル・マロワ賞を勝利しておりますので、日本においても一定以上の知名度はあるものと認識しておりますが」
タイキシャトルが取ったと聞いて、アグネスデジタルの顔が青ざめる。そのレースは『世界に名を轟かせた』などと盛大に書かれてはいなかったか。
「えっと、トレーナー? もしかして、もしかしてですけど、マイルレースで負けたから海外で武者修行するよとか、そういう感じです……?」
「武者修行の先が国際重賞の最上位も最上位だ。どっちもフランスのマイルレース最高峰だぞ。というよりも世界最高峰のマイルレースだ。
「エット、ワタシタチ、ソンナスゴイレースニ、デテタンデスカ?」
「なにを今更」
佐久間は笑って続けた。
「ちなみに去年の国際GIレーティングだと、マイルレースでこれより重く位置づけられたのはイギリスの『クイーンエリザベス2世ステークス』ぐらいだ。……まったく、やってくれるぜ陽室トレーナー。この後に俺たちが会見するとわかってて爆弾放り込みやがった」
獰猛に笑う佐久間を見つつ、アグネスデジタルはやっと状況が飲み込めつつあった。そこに追い打ちを掛けるように記者から質問が飛ぶ。
「極東スポーツの北条です! 海外遠征の予定はなかったとお伺いしておりました。そのなかで急に海外の、それもこれまで優先してこなかったマイルレースに出走されるということは、アグネスデジタルさんとの再戦を見据えてのものなのでしょうか?」
「私は、負けたままでいるつもりはありません」
スペシャルウィークが間髪入れずに答える。ふらついたアグネスデジタルを佐久間が支えた。
「これまで私はあまりマイルで走ってきませんでした。それでも、やっぱりアグネスデジタルさんにはマイルで勝ちたいと思っていますし、もちろんそれ以外のレースでももう一度戦いたいです」
「常勝無敗の三冠ウマ娘にひとつ黒星が付きました。この借りを返したいとスペが言う以上、私は全力でそのサポートをするのみです。秋には日本へ帰ってくることになるでしょう」
────秋。
ここで『秋には』と言った場合に、これを単なる季節のことだと思うトゥインクルシリーズ関係者はいない。それが意味するのはただひとつだ。
「つまり、秋の天皇賞までには戻ってくるということですね?」
その答えを、記者が改めて問いただした。
「春秋連覇はひとつの悲願でもあります。そこでミス・アグネスデジタルと彼女のトレーナーに対峙することとなれば、スペにとっても私にとっても望外の喜びです」
それを聞いた佐久間が鼻で笑った。
「総大将から直々に宣戦布告だぞ、どうするデジタル。乗るか、反るか」
「反るって言ったらどうなるんです……?」
「無理矢理乗せられるだけだな。行くぞデジタル、勇者の凱旋と洒落こもうじゃあないか」
記者会見が終わり、陽室とスペシャルウィークが舞台袖へと降りてくる。すれ違う刹那、アグネスデジタルに対して、陽室がパチンとウインクをしてみせた……ように見えた。
「続きまして、本日1着を飾ったアグネスデジタルさんと、そのトレーナーの記者会見となります。アグネスデジタルさんと佐久間トレーナーはご登壇ください」
たづなに促され、数段の階段を上がる。ふたりを強烈なフラッシュが出迎えた。