翌日。スペシャルウィークと陽室は飛行機で羽田まで、そしてトレセン学園まで戻ってきていた。時刻は昼下がり。夏休みということもあって生徒たちがあちらこちらを歩いており、トレーニングに励む様子もいくらか見える。
「ではスぺ、健闘を祈ります。私はいつも通りレッスンルームで待っていますよ」
「はい。いってきます」
「いってらっしゃい」
ひらひらと手を振りながら陽室は去っていった。
「……蹄鉄は熱いうちに打て、だもん。やらなくちゃ」
スペシャルウィークの目的地はひとつ、他でもない生徒会室である。面会のアポも朝のうちにしっかり取っており、抜かりはない。
昨日、札幌でシンボリルドルフは『詳しい話はトレセン学園に帰ってからになる』と言っていた。おそらくここでスペシャルウィークが何も行動を起こさなかったとしても、シンボリルドルフは近いうちに生徒会室へ彼女を呼ぶのだろう。しかし、それはあまり良いことではないだろうと直観的に理解していた。
模範となって立つ、道を示すことこそ生徒会長の役割。受け身のままでいてはいけない。これまでの自分に甘えていてはいけない。自分の覚悟を示すためにも、自分から動くことが大事なのだ。
「よーし、頑張らなきゃ!」
「ふぅン。何を頑張るというんだい」
後ろから突然かかった声に、スペシャルウィークはびくりとしながら振り向いた。
「やあやあスペシャルウィーク、こうして話すのは初めてになるのかな」
「……アグネスタキオンさん」
彼女の目の前に、白衣を身に包んだアグネスタキオンが立っていた。
アグネスタキオンというウマ娘について、スペシャルウィークが知ることはそう多くない。かのゴールドシップと並びうる学園随一のトラブルメーカーであること。頭脳明晰にもかかわらずここしばらくはろくに授業にも出ず、留年すら噂され始めたということ。もちろん、そんな彼女をトレセン学園が放り出さないことにも理由がある。彼女の綽名は『幻の三冠ウマ娘』なのだ。
今のところ、スペシャルウィークの変則三冠という戦績に伍するウマ娘は過去に存在しなかったと言ってよい。しかし唯一、アグネスタキオンだけはその例外に値するかもしれないウマ娘だった。
メイクデビュー阪神、1着。
ホープフルステークス、1着。
弥生賞、1着。
皐月賞、1着。
NHKマイルカップ、1着。
以上がトゥインクル・シリーズにおけるアグネスタキオンの全競走成績である。結論から言うと、彼女はNHKマイルカップの後に足の故障が発覚し、競走ウマ娘としての彼女の命運は完全に断たれた。
当時アグネスタキオンを担当していたトレーナーは、彼女にドリームトロフィー・シリーズへ名義だけでも移籍することを勧めた。どのみち出走は不可能だが、それでもドリームトロフィーに在籍することはそれだけで名誉だ。URAとて無敗のままに皐月とNHKマイルを勝ったことを評価しないわけがない、とトレーナーは彼女を諭した。
しかし彼女はそれを蹴った。学園からはサポート科──スタッフ研修生とも呼ばれる、競走ウマ娘たちを支える裏方を育成する場所だ──への移籍を提示されたが、それもやはり蹴った。
結局アグネスタキオンは元いたトレーナーとチームの元を去り、引退した競走ウマ娘としてトレセン学園に在籍し続けている。そして定期的に実験と称する何かで大騒動を巻き起こしている。それが目の前の先輩について、スペシャルウィークが知るおおよそ全ての情報だった。
「なに、そんなに警戒することはないとも。折角君を見かけたのだから、先達としてひとつアドバイスをしようと思ってね」
「アドバイス……ですか?」
「そうだ。変則二冠の先達として、変則三冠たる君に大事なことを教えようじゃないか」
若干大げさなポーズと共に、アグネスタキオンはスペシャルウィークの右足を見つめながら言った。
「蹄鉄を替えた方が良い。少なくとも、君が今レースで使っている蹄鉄は到底君向きとは言えまいよ」
予想していたよりもずっと常識的で穏当な言葉がアグネスタキオンから飛び出してきて、スペシャルウィークは逆に呆気に取られてしまった。
「君のレースを拝見させてもらったよ。映像だったのが残念だったがね。いやはや、実に興味深い。君の走りを目にすれば『素晴らしい走りだった。これ以上ない走りだ』と皆が君に言うだろう。だが、そんなはずはないだろう? 今の君をただ
「は、はあ……ありがとうございます」
「無論、今の君が弱いわけではないだろう。しかし実力を発揮しきれているかと言えば断じて否だ。君のトレーナーがそれに気付いているのかいないのかは判断のしようがないが、私としては……あうっ!?」
「……何してるんですか、後輩相手に」
アグネスタキオンの背後から、彼女の頭がぺちっと叩かれた。
スペシャルウィークが視線を動かすと、そこにいたのは長い黒髪に金色の瞳が光るウマ娘──マンハッタンカフェだ。
「あの、この人の言うことはあまり真に受けないでください。ろくなことにならないです」
「カフェ、そんな物言いはあんまりじゃあないかぁ! 私はただ後輩のことを思ってだね……あうっ! やめたまえ、やめたまえよカフェー!」
「私も応援しています、スペシャルウィークさん。どうかお気を付けて」
「待ってくれカフェ、まだ話は……ああっ引き摺らないでくれ! 私は普通に歩けることを君も知っているだろうっ? カフェ、カフェ~!」
抵抗空しく、白衣をむんずと掴んだマンハッタンカフェに引っ張られていくアグネスタキオン。そして一人取り残されるスペシャルウィーク。
「……よーし、頑張らなきゃ!」
一連の流れはとりあえず見なかったことにしよう、と彼女は決めた。
「失礼します。スペシャルウィークです」
「入れ」
生徒会副会長、エアグルーヴの声が部屋の中から聞こえてくる。そのままスペシャルウィークが生徒会室の扉を開くと、まず彼女の視界に入ったのは、意外なことにもうひとりの副会長であるナリタブライアンの姿だった。
「来たか、スペシャルウィーク」
まじまじとこちらを見つめてくるナリタブライアンに一瞬困惑したが、すぐにその理由には思い至った。よくよく考えてみれば、いくら皇帝シンボリルドルフと言えど次期生徒会長を文字通り会長の一存で決められはしないだろう。副会長に話のひとつふたつは通していておかしくない。
「はい、来ました」
「先に言っておくが、私はお前が生徒会長に向いているか向いていないかはまだ判断できんと考えている。情報が不足しているからな」
ナリタブライアンはきっぱりと言った。
「なので聞く。お前は今年の有馬記念に出るか」
「……トレーナーさんと相談することになると思います。でも、出たいです」
「そうか、ならいい。お前のトレーナーはお前が出たいと言えば出走させるだろう。今更グランプリの投票数を気にする必要もない。
「副会長が次期生徒会長の素質をターフだけで判断しようとするな、痴れ者が」
横からエアグルーヴの鋭い声が飛んだ。怒りと同時に呆れの感情を相当量含んでいるのは明白だった。
「何か問題か?」
「問題以外の何物でもないだろう……ああ、すまないなスペシャルウィーク。会長はまだいらっしゃっていない。しばらくここで待っていてもらえるか」
「わかりました! お気遣いありがとうございます」
そう言いながら空いているソファに座るスペシャルウィークのことを、エアグルーヴは目で追い続けていた。……以前とは明らかに違う。それが彼女の感じた印象だった。
表面的には確かに変わっていないようにも見える。だが、クラシック戦線が始まる前のタイミングであれば生徒会室に入るときは緊張していただろうし、ナリタブライアンに突然あのように詰められて冷静に受け答えすることもできまい。感謝の意を述べたとしても流暢に『お気遣いありがとうございます』とは口から出てこないし、生徒会室でシンボリルドルフを待つというシチュエーションでここまでリラックスした状態を保ちもしないだろう。
尊敬する生徒会長の言とはいえ正直なところ半信半疑であったが、確かにこれならばあるいは次代の会長足り得るかもしれない。
そこまでエアグルーヴが考えたところで、生徒会室の扉が再び開いた。
「おっと、もう来ていたか。待たせてしまったかな」
「いえ、大丈夫です! 昨日は札幌まで来てくださってありがとうございました」
「君がこうして生徒会室に来てくれているのだから、私が札幌に向かったのも正解だったということだよ」
そんな調子でスペシャルウィークと言葉を交わしながら、生徒会室の主たるシンボリルドルフは鞄をテーブルに置き、そしてスペシャルウィークから向かって正面のソファに腰掛けた。
「さて、スペシャルウィーク。君の決意を問う前に、改めて昨日聞いた三つの問いにここで答えてもらいたい。今日この場所に来ることを選択したからには、君は答えを持ち合わせているに違いないと信じている」
三つの問い。スペシャルウィークにはこれから生徒会長が何を問うのかすぐに思い浮かんだ。
一方でナリタブライアンとエアグルーヴは何のことかよく分かっていない様子だった。そして同時に、一体生徒会長が何を問うというのか、その興味を隠しきれていない。シンボリルドルフが口を開くのを、二人してじっと見守っている。
「沈黙は是と受け取るよ。……菊花賞を軽く掻っ攫って、無敗のクラシック三冠ウマ娘と呼ばれたくはないか」
「はい、ぜひとも」
エアグルーヴが露骨に表情を変えた。
「天皇賞で、ジャパンカップで、有馬記念で、名だたるウマ娘たちを軒並み薙ぎ倒して1着を掴みたくはないか」
「はい、そのつもりです」
ナリタブライアンが獰猛な笑みを深めた。
「クラシック三冠シンボリルドルフとGIの大舞台に立ち、これ以上ないほどの大差で前世代の皇帝を打ち倒したくはないかッ!」
「上等ですッ!」
シンボリルドルフがテーブルを叩いて叫び、スペシャルウィークが立ち上がって吠え────
「待て待て待て待て!」
そこにエアグルーヴが慌てて割り込んだ。
「会長っ! 一体何を吹き込んでるんですか!? スペシャルウィークも乗せられるんじゃないっ!」
「はっはっは。もちろん理由があってこの問いかけをしている。エアグルーヴ、少し話を聞いてはくれないか」
渋々ながらも黙り込むエアグルーヴ。それに「ありがとう」と口にしてから、シンボリルドルフは前を向いた。
「よく言ってくれた、スペシャルウィーク。ならば改めて君の決意を問おう……と、続けたいところではあるのだが。一回座ってくれ、私にはその前に話すべきことがまだある」
そう言いながら、シンボリルドルフは鞄の中からバインダーを取り出した。それを見たエアグルーヴが再び止めにかかる。
「会長、それは」
「いいんだエアグルーヴ、中身はまだ見せない。……スペシャルウィーク、これは生徒会における会議の議事録だが、その中でも様々な理由から一般生徒への閲覧が許されていないものだ」
ソファに戻ったスペシャルウィークが無言で頷くのを見て、シンボリルドルフは続ける。
「残念なことに、表に出せない話し合いというのは少なからず存在している。ときには私たち生徒会執行部の全員を不快にさせるような案件もあったし、正面から意見がぶつかって紛糾した会議もあった。そしてそれらは全て必要なものだ」
彼女はバインダーを手に立ち上がり、振り返って本棚の方に歩いていく。
「ここの棚は鍵付きだ。議事録を含め、外に忘れてきた日には責任問題になるような書類がおおよそ全てこの中に収まっている」
いつの間にか小さな鍵を手に握っていた彼女は、そのまま本棚に付いていた錠前を開け、バインダーを棚の中に収めた。
「トレセン学園生徒会、特に中央校生徒会執行部は、実のところ隠し事が多い。生徒会長ともなれば尚更だ。……秘密を守れるか、とは問わない。それは当然のものとして求められる資質に過ぎないからだ」
錠前によって再び閉ざされる本棚。間違いなく開かないことを確認してから、彼女は鍵を懐に入れた。
「故に問いたい、スペシャルウィーク。重圧に耐える覚悟はあるか。生徒からの期待、教職員からの信頼、外部からの視線を一身に受け、その責任の重さを自覚しながら笑ってみせる気はあるか」
「……今の私には、まだその覚悟はありません」
スペシャルウィークは一旦そこで言葉を切ってから、シンボリルドルフの瞳を見た。
試されている。トレーナーが、陽室が教えてくれた通りに。ならば、予習したときと同じように自分の気持ちを返せばいい。
「なので、今から学びます。会長さん……ルドルフさんの姿を見て学んで、責任と一緒に笑えるようになります!」
「ふっ……あっははは! これから学ぶ、私から学ぶときたか!」
シンボリルドルフが真剣な表情を崩し、手を叩いて笑った。
「合格だ、スペシャルウィーク! 昨日の今日でどうなることかと思ったが、君はこの一日で随分先に進んだようだね」
「ありがとうございます。でも、トレーナーさん頼りの一夜漬けです。私はあんまり変われてないと思います」
「それでもだよ。例え他人頼りでも、例え一夜漬けでも、私に面と向かって『上等だ』と啖呵を切れるならそれは本物に違いない。私の目もまだ捨てたものではないな」
スペシャルウィークに向かって片手を差し出すシンボリルドルフ。スペシャルウィークも今度こそちゃんと立ち上がり、その握手に応じた。
「無論、いずれ行われる会長選挙の結果次第ではあるが……次代の生徒会長、君に任せようと思う。勇往邁進してくれたまえ」
「はい、頑張ります!」