おそらくそれは夢と呼ぶより、記憶のリフレインと呼ぶべきだろうと、ぼうっと考える。
────お前さえいなければ。お前らさえいなければ。
そんな言葉が何度もリフレインする。グレーがちな廊下の壁、鈍く光るナイフ。
────スペシャルウィークは、もっと輝けたんだ。
その前にあの人が飛び出して。ねじ伏せる。
現実ではないとわかっている。今目の前で起きていることではないとわかっている。だが同時に、これが現実だったとも、実際に起きたことだとも、理解している。視界がぶれて、あの人とナイフが遠のいていく。身体が揺れて、揺れて──アグネスデジタルは目を覚ました。
「起きたのか」
低いロードノイズ、眼を開けるとオレンジ色の世界だった。
「まだ寝ててもいいぞ」
男性の声が右側から聞こえた。どうやら長いトンネルに入ったところだったらしい。トンネルの中だと、オレンジ色以外全部白黒に見える。
「トレーナーさん、今どこですか?」
「糸魚川市街を抜けて
「え、本当ですかっ?」
「この先でこの高速は海の上を走るんだ。とは言っても夜だし、海は反対車線側だからきっと見にくいだろうが」
海という言葉で少しばかりだがテンションが上がった。アグネスデジタルは無理矢理にでも頭を起こす。そうすれば、少しでもあの景色が遠のいてくれる気がした。
「……タフだな。デジタルは」
「へ? そうですか?」
運転席の男────佐久間の感心した声に、アグネスデジタルは素で首をかしげた。
「昼にあれだけ走って、寝起きでここまで元気だとは素直に羨ましいよ。歳は取りたくないもんだねぇ」
「トレーナーさん、そんなにおじいさんなんですか?」
「ギリギリまだ20代で……いや、30にはなったか。デジタルからすれば2倍以上年上のおっさんさ」
そう言っておどけた様子の佐久間に、アグネスデジタルはそっとその様子を盗み見る。ジャケットを脱いでいるものの、夜の高速道路での運転だと言うのにネクタイはきちんと締められ、黒いアームバンドが襟付シャツの袖を整えていた。
「俺の顔に何かついてるか?」
「イエ、そういうわけじゃないんですけど……」
しばらく黙っていると、トンネルを抜けた。
「わぁ……っ!」
「おぉ、月の入りとタイミングが被ったか」
横目で一瞬海側を見た佐久間がそういった。半月が海の向こう、水平線に近いところに浮かんでいる。海に月の光が反射している。
「光の道ができてますよっ!」
「モーンガータってやつだな」
「へ?」
「スウェーデン語だ。月の光が水面に反射してできる道の事らしい」
「物知りですねぇトレーナーさんは!」
アグネスデジタルは運転席の向こうの海を見ようと体を乗り出す。
「あんまり乗り出すなよ、あとシートベルトは外すなよ」
「わかってますっ!」
そう言いつつもなんとか佐久間の体を躱して月と海を見ようとする様子を見て、ウインカーをつける佐久間。そのまま側道の方へとずれていく。
「あれ? 降りちゃうんですか?」
「俺も海が見たくなった。ちょっと付き合え」
そう言ってゆっくりと料金所を抜ける。……深夜割引付のはずなのにETCで7000円はかなり遠くまで来たのでは、などとアグネスデジタルが思っている間にも、車はこれまで来た方向の反対側に向かっていく。そう時間もかからず海沿いのパーキングが彼女の瞳にも映り、そのまま車は停まる。エンジン音も消えて、フロントガラス越しに月が眺められた。
「悪いがデジタル、ダッシュボードに黒い懐中電灯が入っていると思うから出してくれるか?」
「え? 街灯もありますし、なくてもいいんじゃ……」
「念のため、な」
それでもという佐久間の声に、アグネスデジタルは怪訝な顔をしながらも助手席側のグローブボックスから無骨な懐中電灯を渡す。
「ありがとう。……この様子なら少しぐらい外に出ても大丈夫だろう。少し背中を伸ばしとけ」
アグネスデジタルが待ってましたとばかりにドアを開け、飛び出していく。佐久間は後部座席側に投げていたジャケットを手に取って、周囲を見回しながら追いかける。トラックが数台いるだけで、外に出てきている人影はないようだった。
「トレーナーさんっ! 本当に道ができてますよっ!」
「だな」
ジュニア向けのジーンズとパステルカラーのTシャツという姿に着替えたアグネスデジタルが佐久間を呼ぶ。浦和トレセンで職員が用意してくれていたものだ。靴も蹄鉄などがついていない普通のスニーカーを用意してくれていて、秋川理事長と現場の職員には感謝しかない。
「ほれ、半袖だと体が冷えるぞ」
佐久間がデジタルの肩にスーツの上着を掛ける。正確に言えば日付はもう変わってしまっているが、この行動も本日二度目だ。
「あ、ありがとうございます……」
おい、どうして顔を赤らめる……とは、佐久間もさすがに聞けなかった。仕方なくごまかすように柵に肘を乗せ、海を眺める。数分そのまま無言の時間が続いた。
「……トレーナーさん」
「ん?」
静寂を破ったのはアグネスデジタルだった。肩に掛けられたジャケットの襟をきゅっと握っている。
「……ひとつ、聞いてもいいですか?」
「質問によるから、聞いてみてから答えるか決める」
「トレーナーさんは、なんであたしをスカウトしたんですか?」
話したことなかったか? と佐久間が笑うが、その左手が胸ポケットの前で空を切った。ジャケットがあれば、おそらくそこに襟があったであろう場所だ。アグネスデジタルはその仕草に気がついて、肩に掛けられたジャケットの左内ポケットを漁る。
「あれ、タバコ吸ってたんですか?」
「……やっぱり良い目をしてるよ、ほんと」
「でも、これまでタバコの匂いがしたことはまずなかったような……」
ポケットから取り出された薄い青色と白色のツートンカラーのパッケージ──古くさいデザインだとアグネスデジタルは感じた──とオイルライター、携帯灰皿の喫煙三点セットを手渡されつつ佐久間は苦笑いだ。
「一応学内は禁煙だしな。それに禁煙中の沖野チーフがいる手前、スパスパ吸うわけにもいかないだろう。念入りに消臭したり、色々してるんだよ」
「でも私は気にしませんよ?」
「珍しいな。たばこの匂いが駄目ってのも多いが」
「時々実家に遊びに来る叔父がヘビースモーカーだったので」
「なるほど」
佐久間はそう言って海に背を向け、火をつけた。
「それで、どうしてスカウトしたのかだっけ?」
「はい!」
「実質的には一目惚れだ」
「へあっ!?」
目に見えて飛び上がる担当に苦笑いしつつ、煙を吐いた。
「お前の強みは目にある、というのは前にも言ったな。熱くなりすぎるきらいはあるが、それを上回る視野の広さ、観察眼の正確さがある。そして、前に食らいついていけるだけのガッツがあった。ダート向きの脚質だが、芝でも走り方でカバーする。……それを考えて実行できる合理性と、ただ、他のウマ娘と走りたいという不合理ながら純粋な、故に強力な行動原理」
蛍のように光るたばこの先端が隠れた。煙をアグネスデジタルから離すように首を振ったのだ。
「まっすぐで、不器用で、それを差し引いても余りある才能。伸ばせるものなら伸ばしたいと思った。そして、選考会に入ったら間違いなく他に取られることもわかりきっていた。だからこちらからスカウトした。ちょうど沖野チーフからも、ダート向けの子をひとり連れてこいと指令されてたしな」
たばこが見えないように手に隠して、佐久間は笑う。
「俺はな、デジタル。今日お前が走ってくれて良かったと思っている。安田を回避してダートダービーに直行しようと言った俺を言い負かしてくれて良かったと思っている」
「トレーナーさん……」
「お前なら、きっとどこでも行けると思っている。それこそ芝でもダートでも、海外GIだって取れるだろう。俺たちならそれを証明できる、そう思った。……少なくとも、初めて担当したウマ娘がお前で良かったと、心底思っている。お前流に言うなら“推し”て良かったと思っている」
「……デジタルには、わかりません」
アグネスデジタルが水平線の向こうに半分消えた月を見て、呟く様にそう言った。灰色がちな青い瞳が細められる。
「……スズカさんの思いも、スペ先輩の気迫も、すごく輝いてて、手を伸ばしたら、届いてしまって。あたしは、デジタルは、一緒に走りたいってだけで、走ってしまった。一緒にいたいってだけで走ってしまったんです」
何を、と佐久間は問わなかった。数時間前のレースの話だとわかりきっていたからだ。佐久間は続きを待ちながら、たばこの先を明るく光らせる。
「シニアのウマ娘ちゃんたちと走る機会はこの先もあるかもしれない。それでも、そのいつかの機会が来るまでに引退してしまうかもしれない。だから早く走りたかった。マイルがメインだから、スペ先輩と走れる機会もまずないと思ってた。だから出たかった。……トレーナーさん、今日、あたしは勝って良かったんでしょうか。デジタルが、勝つ意味が、あったのでしょうか……」
それを聞いた佐久間は口元からたばこを離し、煙を遠くに向けて吐いた。
「意味、か……。また難しいことを聞く。少なくとも俺は勝って良かったと思っているし、その結果を僻む奴は、誰が勝っても僻んだだろう。それでもお前が意味がないと切り捨てたら、負けた面々が浮かばれんだろうが、お前もそんな答えは求めてないだろう?」
佐久間は携帯灰皿に灰を落とし、しばらく燃えるに任せた。
「サルトルって知ってるか? フランスの哲学者だ」
アグネスデジタルは答えない。佐久間は海の方に向き直り、話し始める。
「実存主義というのを唱えた人でな。この人の恋人だったウマ娘、ボーヴォワールは『ウマ娘はウマ娘として生まれるわけではない、ウマ娘となるのだ』と言ったとされている。たぶんこっちの方がわかりやすいかもな」
「それ、あたしたちの名前のこと……ですか?」
「いいや。その問いはもっと根源的なもので、ウマ娘に限らず、ヒトにも共通する問いであり、その回答だった」
彼の手の間でたばこの火がゆるゆると燃えていく。
「二度の大戦がもたらした総力戦の果て、フランスは何もかもが燃え落ち、神でさえも地に墜ちた。祝福されたはずの教会が石材に還り、神なんていないと悟った者たちは、なぜ生きねばならないのか、なぜ不幸を振りまいてまで競わねばならないのかと叫んだ。そのひとつの答えを導き出したのがサルトルだ。曰く『我々はサイコロと同じで、自らを人生の中へと投げ込む』」
アグネスデジタルは彼が何を言いたいのかを掴みかね、ただ黙って月の光が揺れる海面を眺めている。
「存在することだけが真実であり、その向こうに神なんておらず、物事に理由なんてない。先にサイコロを振り入れなければ、前になんて進めない。結果や行動を規定する意味や意志なんて最初から存在しない。そんな考え方をサルトルは説いた」
佐久間はタバコの火をもみ消す。
「結果も意味も、その理由も、誰かが与えてくれるわけではない。自ら意味を見つけなければならない。意味を知る前に、走り出すしかない。でもな……だからこそなんだよ、デジタル。勝ちたい理由も、走りたい理由も、その結果の善し悪しも、それら全てを自らの意志で追い求める自由を誰しもが持っている」
アグネスデジタルの側に一歩寄り、しゃがみ込んで視線を合わせる佐久間。
「レースは意志のぶつかり合いの場。皆が勝ちたいと願い、積み上げてきた理由と意味を賭けて競い合う闘技場だからこそ、皆が惹かれてるんだろうと思う。今日はデジタルがその強さを証明した。自らの積み上げてきた理由と意味が、通用すると証明して見せた。だから、俺は今日走ってくれてよかったと、本気で思っているんだよ」
真剣な顔でそう言い切って、それから笑って見せた。
「ほんとう、ですか……?」
「もちろん。君は君の理由で勝っていい。アグネスデジタルが望む理由で勝って良いんだ。それが君をきっと『ウマ娘アグネスデジタル』へと昇華させていく」
「それは……」
「望む道を進んでいいんだ。わからなくても、怖くても、進む自由を持っている。それは同時にここで別の道を目指す自由も持っているということでもある」
「もし、もしもですよ……」
アグネスデジタルが言いにくそうに口を開く。
「私が、その……走るのをやめるって言ったら、どうしますか?」
「その時は俺自身が納得できる理由を探すさ。君が最善と思うあり方に賽を振り入れることこそが、どんな選択よりも優れていたと信じる他に何もない。その選択の先に最大の幸福があると信じるだけだよ。だから────」
佐久間の手が、アグネスデジタルに伸びる。さらりとした髪をなでつける。
「悩みなさい。あがきなさい。その結果の羅列の果てに君自身が見いだした意味こそ、君が君であることの証明になる」
アグネスデジタルの顔が歪んで、双眸から雫がこぼれた。
「でも、まずは休もう。時間はいつだって俺たちの味方だ。あと2時間もあれば金沢に入れる」
そう言って軽く肩を叩いて、佐久間が立ち上がる。佐久間が先に車に戻るように歩き出した。
「────やめませんよ。あたしは、アグネスデジタルは、やめません」
振り返る。月が消えた海を背に、アグネスデジタルの水色の瞳が光る。
「トレーナーさんが信じてくれた私を、もう少しだけ、信じてみようと思います」
「……そうか」
佐久間はにやりと笑った。
「ならば契約更新だな、同志アグネスデジタル」
「はいっ! トレーナーさん!」
乗れ、と車のドアのロックを外した。助手席にやってくるアグネスデジタル。エンジンを掛けつつ、佐久間は横を見た。
「さて、次を狙いに行くが、まずは金沢で一旦体を休めるとしよう。休む以外はできないだろうしな」
車がまた走り出した。