生徒会長スペシャルウィークちゃん!   作:天宮雛葵

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セイウンスカイは理由がほしい

 いくら窓を開けていても、入ってくる風が生ぬるくて仕方がなかった。それでも、セイウンスカイはうだるような暑さの中、タオルケットを蹴り落としたままのベッドで横になっていた。二人一組の部屋のつくりではあるのだが、セイウンスカイはシニア期に入ってからひとりで部屋を使っていた。

 

「……あつ」

 

 じっとりとかいた汗が背中に張り付いて気持ち悪かったが、シャワーを浴びることはおろか、身体を起こす気力もなかった。どうせカーテンを開けても陽の光が部屋に差し込んで無駄に暑くなるだけだ。開けてもメリットには感じなかった。どうせ今日は土曜日で休養日────トレーナーに半ば強制的に作られてしまった休養日だ。体を起こす必要も感じない。

 

 まもなく朝食の提供時間が終わるだろうか。お腹は減っていなかった。動いていないからだ。昼まで空腹が我慢できないなら購買で何かパンでも買えばいい。そう思って壁を見るように寝返りを打った。

 

「ぃてっ」

 

 その振動でパサリと紙の塊がいくつか頭の上に落ちてくる。おでこをさすりながら落ちた封筒を戻していく。『ニシノフラワー』と書かれた封筒を見て、ギクリと一瞬手が止まったが、それも戻した。封を切っていない封筒がおでこに刺さると痛いことを初めて知った。

 

 安田記念から2週間。それだけ経ってもあの日の衝撃は、眼の奥に、耳の奥にこびりついて離れてはくれなかった。

 

 あの日、セイウンスカイはレース場に行かなかった。観客席に入ればどうしてもバレてしまうし、チームからの参加者がいなかった以上、関係者用のパスは貰えない。インタビューまがいの冷やかしも、好奇の目もうんざりだった。重賞レースならパトロールビデオはすぐに公開されるし、どうせプリティーダービーチャンネルが中継もする。現場に出向くメリットはあまりに低かった。

 

 チームティコの部室で中継を見た。全ウマ娘の入線直後、不安そうな顔でこちらを見てきたスマートファルコンとアドマイヤベガの顔をよく覚えている。トレーナーはただただ無表情に画面を見つめていたのも、併せてよく覚えていた。自分がどんな顔をしていたのかは、よく覚えていない。笑っていたかもしれないし、無表情だったかもしれない。でも、涙が出なかったのだけは確かだ。

 

 スペシャルウィークは、シンボリルドルフでもナリタブライアンでもサイレンススズカでもなく、アグネスデジタルに負けたのだ。ダートから芝に転向して2ヵ月少々のクラシックのウマ娘に、競り負けた。

 

 それも、アグネスデジタルはあろうことか大逃げの後にスペシャルウィークを差したのだ。

 

 奥歯をかみしめる。がり、と音がした。先週、歯ぎしりのせいか歯が欠けていると歯医者に指摘されたばかりだ。仮止めの詰め物が割れたか外れたか、最悪歯が欠けたのかもしれない。月曜日はまた歯医者か。トレーナーにでもLANEでも入れたら、予約を代わりに入れてくれるだろうか。いや、それなら自分で予約を入れても手間は変わらないか。

 

「……面倒だ」

 

 歯のことも、食事も────アグネスデジタルも。

 

 あの走りは、安田記念でのレースのあり方そのものが、天皇賞(春)でセイウンスカイが目指したコンセプトと全く一緒だった。かつて有馬記念において、シンボリルドルフが乗ってくれば成し得たレース展開。スペシャルウィークを倒すためにと編み出した、セイウンスカイの最終回答だ。

 

 今回の安田記念において、果たしてその有効性が証明されたことになる。実際、スペシャルウィークは墜ちた。マイル最強と名高いタイキシャトルでさえも、逃げのお手本のようなレース展開で他を圧倒するサイレンススズカでさえもまとめて叩き潰した。それは間違いなく、戦略として成立し、間違っていなかったはずなのだ。

 

 ならどうして負けたんだよ。

 

 口の中だけで呟く。答えはすぐに出る。誰もアグネスデジタルを見ていなかったからだ。逃げを主な戦略として戦うセイウンスカイが逃げたのならば、誰もがそれを作戦と捉える。しかし先行や差しを主戦略とするアグネスデジタルが逃げたのならば、それは暴走として捉えられた。故に、あれは一回こっきりの大博打だったはずだ。次はない。

 

 天皇賞(春)での敗北は、セイウンスカイへの警戒度が高すぎたことに由来するものだったのだろう。スペシャルウィークもメジロブライトも、皆警戒していたのだ。安田記念でのアグネスデジタルは皆の虚を突くことに成功したのだ。だから成功した。それだけのこと。

 

 わかりきっている問いを2週間繰り返した。否、これは問いですらない。問いに見せかけた、ただの現実逃避だ。すり替えていることは自分が一番よく知っている。

 

 カーテンから漏れてくる陽の光が眩しくて、横になったまま頭の後ろで指を組むようにして腕で目元を隠す。枕もへたってきたのか、横向きで寝るには腕でも下にしかないと高さが合わない。脚を丸めるようにして身体のバランスを取る。

 

「あぁもう。スぺちゃんはなんでこんな────」

 

 ────くだらないところで負けるかな、と口にしかけて、やめた。自分の奥底のどこかが腐り落ちていく感覚というのは、こういうことを言うのだろうか。ジャングルだと着ている綿の服がそのまま腐り落ちていく、なんて言っていたのは、どのアニメだっただろうか。きっとそれはこんな感覚のことを言うに違いない。

 

 スペシャルウィークの視線が、世間の視線が、セイウンスカイからアグネスデジタルに移った。より高い脅威として認識された。それは痛みを感じるほどによくわかった。実際、スペシャルウィークはセイウンスカイに一声もかけることなくフランスへと飛んでいったのだ。

 

 スペシャルウィークは今後、海外GIのマイルレースを使ってアグネスデジタル対策に打ち込むつもりらしい。登録していた宝塚記念は当然のごとくスキップ。次の国内レースは天皇賞(秋)を仄めかせている。トレーナーはそれでも宝塚へのエントリーを勧めたが、セイウンスカイは目の前で登録申請書を握りつぶし、ゴミ箱に叩き込んだ。今更「スペシャルウィークがいなかったから勝った」と言われる勝利に何の意味があるというのだ。スペシャルウィークが無敗でなくなったとしても、彼女の価値が下がるわけではない。スペシャルウィークを倒さないことには始まらないし、終われないのだ。

 

 目を閉じる。何もしないをすると決めた以上、こんなことで脳を使うのも惜しい。意識的に呼吸の秒数を数えて────

 

「しゃいしゃいしゃーいっ☆」

 

 ────いたというのに、ノックもなしに飛び込んできた影に反射的に枕を投げつけた。首を軽く傾げるだけでそれを避けた影がニコニコと笑う。手元に持ってきていた手提げバッグを足元に置くと、元気よく挨拶してきた。

 

「おはようっ! セイちゃん」

「あさっぱらからいきなりなんなのさ!」

「もう10時近いんだよ? 天気良いのにもったいないよ?」

「ぼくはなにもしてないをしているんだよ」

 

 そう言い返しても、部屋に突入してきたスマートファルコンはどこ吹く風だ。天気が良いのにもったいないと言いつつも、半袖短パンの彼女は容赦なく窓際のカーテンを明け、タッセルにまとめていく。

 

「うへぇ。溶けるぅ……」

「そんなドラキュラじゃないんだから」

「いいんだよもう」

「よくないよっ! あと本当に外が暑くなる前に換気! 空気澱んでるし、あんまり換気してないでしょ?」

 

 そう言いつつスマートファルコンはてきぱきと窓を開け放ち、網戸にする。それだけでも風がふわりと抜けるようになった。

 

「で、ファル子さんはなにしにきたのさ」

「チームメイトの部屋に来ちゃダメ?」

「ノックもせずに押しかけるのには理由がほしいんだけどなー?」

 

 セイウンスカイはしかたなく身体を起こすとベッドの上で胡坐をかいてそう問いただす。

 

「お話をしにきたけど、まずうちのエースにはお風呂に入ってもらった方がいいね。寝ぐせもすごいし、いろいろ身綺麗にした方がいいよ」

「えー、朝からー? っていうか、大浴場閉まってるじゃん……」

「大丈夫、ヒシアマさんには話が通ってるから! アツアツのシャワーとちょうどいい温度の湯舟でさっぱりしよー!」

 

 飛び出した寮長の名前にセイウンスカイがビクリとしている間にも、スマートファルコンは容赦なく服が詰まったクローゼットを開け、持ってきていたバッグに下着やらジャージやらを突っ込んでいく。

 

「ちょちょちょ!」

「ほーら、抵抗したら、めっ、だぞ☆」

 

 慌ててベッドを飛び降りてスマートファルコンを引きはがそうとするが、彼女はびくともしない。

 

「下着とか洗濯物溜めてない? 大丈夫? ジャージとか体操服はランドリーに出てるって聞いたけど、私物とか溜めてたりしないよね? ……ってあちゃー、そのまさかだったかぁ……だめだよセイちゃん、セイちゃんも女の子なんだから」

「なんでっ! セイちゃんの! 洗濯事情を! 知ってるのさっ! ファル子さん栗東寮でしょ!?」

「ヒシアマさんから相談されたから、だよっ!」

 

 タオルハンガーからボディタオルとバスタオルまで奪われる間にもあの手この手で妨害しようとするが、最終的には全部片づけられた挙句、『もう土日にまとめてでいいや』と固めて放置していた私服の山まで別に持ってきていたビニール袋にきっちり詰められる。

 

「ほらっ! 朝風呂へれっつごー!」

 

 そうしてぐいと手を引いて廊下に連れ出されるセイウンスカイ。逃げようとした途端に、スマートファルコンの手に力が入った。果てしなく嫌な予感がしているが、逃げようとすれば手の骨が折れかねない。セイウンスカイは脚を突っ張るも、そのまま引っ張られていくのだった。

 

 


 

 

「に゛ゃ゛ー! 自分で脱げるから! ちゃんと脱ぐからっ! 脱がすな押すな引っ張るなーっ!」

「ほらっ、暴れない暴れないっ」

 

 美浦寮の廊下にセイウンスカイの絶叫がこだまする。廊下を歩いていたウマ娘たちはぎょっとして音の出所である大浴場の入口に視線を向けるが、そこにいるのが誰かを見るとそそくさと去る影がほとんどだった。

 

「朝風呂って言っておいて、なんでファル子さんは服着てんのさ!」

「え? だってファル子はちゃんと栗東で入ってきたし」

「これじゃ完全に介護じゃん!」

「どちらかと言えばネコのシャンプーかなー」

 

 シャワー用のやたらと低い椅子に座らされたセイウンスカイの後ろに立ってシャワーの温度を確かめるスマートファルコン。

 

「あたしはネコじゃな──わひゃっ」

「はーい、髪としっぽ洗っていくよー」

 

 そう言ってシャワーのお湯をしっぽに掛けるスマートファルコン。ついでにセイウンスカイに耳栓を渡す。ウマ娘の耳はシャワーの時に水が入りやすい構造をしている。普通のお湯や水なら問題はないのだが、シャンプーなどが入ってしまうと外耳炎になりがちなのである。

 

「ほら、つけて。シャンプー嫌いならぱぱっと終わらせた方がらくちんだぞー」

 

 セイウンスカイが渋々と耳にウレタンの塊を押し込んだのを確認してシャワーのお湯をかけていく。目をぎゅっとつむっているのを微笑ましく見ながら、スマートファルコンはとっておきのシャンプーをつかって髪をマッサージしていく。

 

「ちゃんとトリートメントとかしてる? 髪はウマ娘の命だよー?」

 

 そう聞いてみる。答えは返ってこない。しっかりと耳栓をしているからだ。しっかりと泡立てながら、スマートファルコンは続ける。

 

「……もう、見てられないんだよ」

 

 声が震えるのをなんとか押さえ込む。目の前にあるのは細くて軽い身体。それでいて、必要な筋肉は十分についている、どこかアンバランスな身体。ただひたすら中長距離向けにチューンされたしなやかな身体は、スマートファルコンが少し力を入れただけでも、壊れてしまいそうだった。

 

「これがセイちゃんの望みだってわかってるよ。でも、それでも、その先に何があるの?」

 

 クラシック三冠の器だと言われてきたセイウンスカイだが、シニア期1年目の春を終え、未だに重賞無冠のままで終わってしまった。すべて、スペシャルウィークに及ばなかったのだ。

 

 あの日、安田記念の中継を見ていたあの日、セイウンスカイがまるで世界のすべてを呪ってしまいそうな表情をしていたのを、スマートファルコンはよく覚えていた。

 

「残酷だってわかってる。許されないってわかってる。それでも、セイちゃん」

 

 怪しまれないように細い髪に指を通しながら、スマートファルコンは絞り出すように言った。

 

「セイちゃんがこれ以上壊れるのなんて、ファル子は見たくないよ……!」

 

 これは許されない願いだ。これはセイウンスカイだけが背負うことが許される痛みであり、栄光であり、呪いなのだ。だから今スマートファルコンが抱えている感情は、傍観者でいることを受け入れるための言い訳だ。それがわからないほどスマートファルコンは傲慢ではなかった。

 

 視界が歪む。それでも、この思いは心の奥底に蓋をするしかない。それが、チームメイトとしての責任だ。スマートファルコンがいまチームメイトとしてできるサポートは、セイウンスカイを無理やり外に連れ出すか、少々自堕落なところのある彼女の家事のアシスト程度。それ以上踏み込むなとトレーナーからも釘を刺された。

 

 だから、セイウンスカイがまたターフに戻るか、諦めるまで、こうするしかないのだ。彼女の耳を塞いで、聞こえない謝罪を勝手に押しつけて、彼女の道行きを見送るしかできないのだ。

 

「ごめんね、セイちゃん、ファル子は先輩なのにね……」

「ファル子さん、まだ?」

「ごめんごめん、今流すね!」

 

 耳栓越しでも聞こえるように大声でそう言う。頭の上からシャワーを流す。歪んだ視界はシャンプーのせいと言えばごまかせるだろうか。

 

「はい、終わりだよー」

 

 すぽんと耳栓を引き抜いてあげれば、まるでネコが水を飛ばすように頭を振るセイウンスカイ。水をある程度被ってしまったが、指摘するのはやめておいた。泡立てネットを取って、ボディソープを泡立て始める。

 

「ファル子さん、パパッと終わらせるって言ったのにぃ」

「ごめんごめん。さ、お背中お流ししますぞー。背中側、手の届かないとこでニキビとかあせもとかできそうだから、ちゃんとタオルで背中ゴシゴシしないとダメだぞー」

「もー、お母さんみたい」

「んなっ、言うに事欠いてアイドルにお母さんは禁句なんだから……!」

「にゃはは、ごめん。……ファル子さん」

「んー?」

 

 セイウンスカイに呼びかけられて、続きを待つ。しばらく、答えは返ってこなかった。

 

「セイちゃん?」

「いろいろごめん。でも、ありがとう」

 

 手が止まりかけた。それでも無理に手を動かし、ボディソープを泡立てる。小さなシャボン玉が出来て、飛んで弾けた。

 

「大丈夫、こんなところで私は終われない」

 

 ああ、やっぱりこの子は。

 

「……そっか」

 

 きっとこうやって、地獄に降りていくのだろう。ならば少しばかりの先達として、チームメイトとして、祈るしかない。

 

「大丈夫、セイちゃんなら大丈夫」

 

 願わくば、彼女の行き先が、明るい場所でありますよう。


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