フランス共和国、オー・ド・フランス地域圏、シャンティイ。
ここはフランス版URAとも言えるフランスクーリエを語るには外せない場所だ。フランス最大のトレセンであるウマ娘トレーニングセンター中等教育学校シャンティイ校の他に、フランスの
「ウェルカーム!! スぺちゃんもアパルトマン暮らしとは楽しみデース!」
そのシャンティイの郊外、短期の留学生や非常勤職員など向けに設置されたマンスリーマンション前でタクシーを降りたチームテンペル一同を待ち受けていたのは、エルコンドルパサーの歓声だった。
「あ、エルちゃん」
「ふっふっふっ……ここで会ったが百年目、明日からバリバリ並走にも付き合ってもらうデース。フランスの皆さんと走っても、消えないこの滾るような熱! 発散しきれませんでしたから!」
「エルちゃん、こんなときも元気だね……」
パリ郊外のシャルル・ド・ゴール空港から乗り込んだスペシャルウィークは疲れ切った表情のままそれを受ける。一方メジロマックイーンや陽室はけろっとしていることに疑問を覚えたのか、エルコンドルパサーは陽室の方を見る。
「スペちゃん、どうしたんデス?」
「あぁ、スぺなら御心配なく。長時間乗り物に揺られ続け、ついでに時差ボケのダブルパンチで三半規管がやられて乗り物酔いをしているだけですから。……だから飛行機の中では眠たくなくても寝ておきなさいと言ったのです」
「反省してまーす……」
ヘルシンキの乗り換えで少しばかりは休めたとはいえ、それでも十数時間は乗り物に揺られている。それだけの長時間長距離移動は初めてだったこともあり、スペシャルウィークはすでに疲労困憊だった。
「スぺちゃんは乗り物ダメなタイプでしたか……」
そう言われてしゅんと耳を垂れさせるスペシャルウィーク。
「自分でコントロールできない乗り物は苦手なんですよぅ……」
「ともかく、まずは荷物を置いて一息入れましょう。マンスリーマンションなので一通り家具類は揃っているでしょうが、いろいろと買い出しも必要になるでしょう。まずは部屋を見てから動きますよ」
陽室はエルコンドルパサーから鍵を受け取る。どうやら、彼女に鍵の受け取りなどのお使いを頼んでいたらしい。
「部屋は4階の404号室デース」
「どうにもエラーになりそうな予感のする部屋番号ですが、部屋ごと消えることはないでしょうし、良しとしましょう。ミス・エルコンドルパサー、ありがとうございました」
「スぺちゃんとの並走を組んでもらえるならこれぐらいなんのその! それにどうせ同じ建物デース」
「ちなみにミス・エルコンドルパサーの部屋はどちらに?」
「ひとつ下、3階の307のワンルーム。……3LDKの広い部屋を押さえられるなんて、テンペルはお金持ちデスねぇ」
「チームで借りますからね。スペにマックイーン、後追いでベルノもとなれば、どうしてもこういう部屋になります」
築60年は軽く経っているだろうか。壁面にびっしりと蔦が生えたレンガ造りの建物に入ると、手動ドア式の軋むエレベーターが顔を出す。
「あ、そのエレベーターは使わない方が得策デース。前に3階に行こうとして乗ったら、目の高さに床が来る位置で止められたことが……」
「……なるほど。忠告に感謝します」
スーツケースをエレベーターに乗せようとしていた陽室が静かにエレベーターから降りる。
「面倒ですが、階段で上がりますよ」
「トレーナーさんの分は私がお持ちしますわね」
メジロマックイーンがひょいとスーツケースを取る。自身のスーツケースと併せてふたつの荷物を抱えながらサクサクと螺旋階段を登っていく彼女を追いかけながら、陽室は口を開いた。
「当たり前ですが、流石ウマ娘ですね」
「これもメジロ家のたしなみですわ」
力仕事のどこがたしなみなのかはわからないが、荷物を持ってもらった以上、突っ込むことはせずに階段を上る。螺旋階段で目が回る前に4階に着くと、一番手前の角部屋が件の貸し部屋らしかった。
「というわけで、こちらデース!」
エルコンドルパサーが真っ白いドアを開ける。覗き込んだメジロマックイーンや体調不良絶不調なスペシャルウィークですらも目を輝かせた。
「なるほど、いわゆるリノベーション物件だったのですね」
「建物の外は景観条例で変えられなかったらしいデスけど、それぞれの部屋はほとんど新品デース!」
土足前提の部屋なのだろう、ドアを開けると靴を脱ぐスペースもなく、いきなり板張りの廊下が始まる。壁は黒いペンキで塗られ、等間隔で並んだペンダントライトには裸電球が灯っている。
シャワーブースやお手洗いを一瞥した陽室がインダストリアルなデザインの廊下を抜けると広いリビングダイニングが顔を出す。IHキッチンに広いダイニングテーブル。リビング部分にはソファに大画面テレビ、観葉植物に抽象画、ホテルの一室のようなラグジュアリーな作りを見て陽室は笑った。
「それぞれの居室はこっちですね」
リビング脇の扉を開けると8畳ほどの部屋がふたつ。それぞれにシングルベッドが2台あり、狭いもののデスクも完備、フロアライトなどもあり、かなりおしゃれな様子だ。ついでにバルコニー付きの書斎のような小部屋に簡易ベッドがあることも確認し、さっさとリビングに戻る陽室。
「これで月当たり4000ユーロは安いですね。さすが学生街です」
「4000ユーロを安いとは言いませんわよ……家具と光熱費込みとはいえ、おおよそ55万円ではありませんか」
「おや、珍しいことを言いますねマックイーン。4人でひと月と考えればその金額ではビジネスホテルにすら泊まれません。シャンティイの学生寮が満杯で使えないのは痛手でしたが、だからといって貴女たちを格安ドミトリーに詰め込むとなれば安全上の懸念が大きすぎます。これぐらいは必要経費ですし、レートとこの家の設備を考えれば十分格安です。一人当たり14万は、都内で一人暮らしをしようと思えば出て行ってもおかしくない金額でしょう」
そう笑って自分の荷物を小部屋に叩き込む陽室。
「私はこの小部屋をいただきましょう。部屋割りは自由です。ベルノが来たら再調整するとして、まずは一人一部屋で行きましょう」
「そういえばベルノはどこに行ったんデス?」
エルコンドルパサーが遠慮なくルームツアーをしながらそう口にした。
「パスポート申請の関係で、ベルノのフランス入りは2週間後です。それまではミス・東条とも相談の上で、チームリギルの練習に相乗りさせてもらうことになっていますよ。その代わり、ライブレッスンはこちらで担当します」
「これで並走し放題っ!」
「……ミス・エルコンドルパサー。まさかとは思いますが、このひと月少々で早くも孤立したのですか?」
その言い草にキッチンで棚の下を覗いていたエルコンドルパサーが身体を跳ね上げ、シンク下に頭を強打した。
「なるほど、その様子は図星ですね」
「あれはフランスのウマ娘が悪いんデース! エルのマスクを馬鹿にするのが悪いんデースっ……!」
盛大にたんこぶを作ったであろう後頭部をかばい目に涙を溜めつつ、そう叫ぶエルコンドルパサー。陽室はわずかに考え込むように顎に手を当てた。
「ふむ、欧州の悪いところが出ましたね。やはりどうしても外国人、特にアジア人を下に見る意識はどうしても残っています。日本の看板を背負ってこちらに来ている以上は避けられないものでしょう」
「……それでも、世界最強と日本最強がタッグを組んで殴りこみできる体勢が整いました! やってやるデース!」
「その意気込み、大いに結構。では凱旋門は頼みましたよ、ミス。マイル戦線はこちらでなんとかしますので」
スペシャルウィークやメジロマックイーンがそれぞれの部屋に引っ込んでいるのを横目で見つつ、陽室はそんなことを口にする。
「……やっぱり、スぺちゃんは今年の凱旋門賞には出ない?」
「その通りです。今の彼女に必要なのは、マイルでの経験と、真の意味におけるアウェーでの挑戦ですから」
陽室は目を細め、エルコンドルパサーを品定めするような無遠慮な視線を送りながら続けた。
「彼女に必要なのは、熱です。ミス・アグネスデジタルが残した熱、種火のような小さな弱い熱ですが、それを今ここで吹き消されるわけにはいかないのですよ。……そのついででマイル最強の名をものにできれば良いですが、そこまでは望みません」
「タイキとグラスを破っておいてよく言います。アタシもスペちゃん相手にマイルで負け続けデスが」
「……そういえば、ミス・グラスワンダーはどうしていますか?」
エルコンドルパサーはにっこりと笑う。
「不退転の書初めを書き直したそうデース。ちなみに4カ月ぶり3回目デース。スぺちゃんに負けたことよりも、デジタルを見逃していたことの方が堪えたみたいで、おハナトレーナーが頭抱えてマース。毎朝日が昇る前からベッドの上で座禅を組んだり、前の休養日には滝行に行ったりしたそうデス」
「なんとも彼女らしい解決策ですね。少々迷走しているようにも見えますが」
「いつものことデース。もう少ししたらたぶん正気を取り戻しますから、そうしたらグラスも再始動デスねー」
エルコンドルパサーはにやりと笑う。
「でも、エルは代わりにかたき討ちなんて考えてませんからネ。それはいつかグラスが自分で果たすでしょうし、このエルコンドルパサーがやるべきは『世界最強』を証明することだけデース」
「付け加えれば、我々もミスも日本のレースが舐めてかかられている状況をなんとかしないといけませんしね。少々考えることとしますか」
陽室が腕を組んだタイミングで、バン! と何かが破裂する音が響いた。同時に部屋の電気が落ちる。ブレーカーが作動したらしい。
「ひゃっ!?」
「スぺ?」
スペシャルウィークが消えた部屋に陽室が飛び込むと、何かが焦げた匂いと目を白黒させているスペシャルウィークがいた。
「どうしました?」
「い、いきなり延長コードが爆発して……」
後を追ってきたエルコンドルパサーが、まだ薄く煙を上げているテーブルタップを慌ててコンセントから変換プラグごと引き抜いた。
「スぺ、怪我は?」
「ありません。しびれたとかやけどとかもなしです」
「良かった。……持ち込む電化製品は対応電圧を確認しなさいとあれほど言ったでしょう」
「タブレットとかの充電機は確認したんですけど、延長コードは完全に忘れてました……」
「……ともかく、そのテーブルタップはもう使わないように、内部の回路が焼き切れているはずです。買い出しも含めて、落ち着いたら買い物に行きましょう。晩御飯の食材も買わなければなりませんし」
「スペシャルウィークさん? 大丈夫ですか?」
メジロマックイーンも顔を出し、とりあえず全員の無事が確認できたので、ブレーカーを上げに行く陽室。ダイニングの椅子の上で背伸びをして、なんとかブレーカーを上げる。
「怪我がなかったのが幸いです。気を取り直して、近所のスーパーマーケットにでも偵察に行きましょうか」
「そういえば、こちらには食堂ないんでしたね……」
「平日の昼は学園のカフェテリアが使えますが、それ以外は自力で調達する必要があります。料理は当番制で行きますよ」
「え?」
「え?」
「……はい?」
スペシャルウィークとメジロマックイーンの顔が同時にぎこちなく凍り付いた。
「あの……私、小学校の調理実習を除いてはまともにお料理をしたことがないのですが……」
申し訳なさそうにそろそろと手を挙げつつそんなことを言うメジロマックイーン。
「……スぺ」
「私も食べる専門で……目玉焼きだと黄身が割れちゃうのでスクランブルエッグというか、『ぐちゃぐちゃたまご』にしないと作れない感じでして……あはは……」
「ちなみに、トレーナーさんはお料理の腕に自信がございますか?」
メジロマックイーンとスペシャルウィークがすがるような視線で陽室を見てくる。どうか自信があると言ってくれ、という感情が傍からも丸わかりだった。
「生憎ですが、稀にストレス発散を目的に作る程度です。そのうえ趣味としての料理なので、普段作るには面倒さの方が優るようなものしか作らないのですよ。恥ずかしながら、要領自体もさして良くありません。それに……」
そう言いつつ陽室はキッチンに寄っていく。IHコンロの前に立って笑って見せる。
「やたらと高い作業台やレンジが並ぶこのキッチンで、ウマ娘複数人の胃袋を満たせるようなサイズの鍋やフライパンを私が満足に振るえるとお思いですか?」
陽室琥珀の身長は140cmジャスト。低身長の競走ウマ娘として知られているタマモクロスやハルウララなどと同身長であり、成人の日本人女性としては異様なほどに背が低い。だからこそ子役として重宝された過去があるのだが、その身長がここでは裏目に出てしまった。
恐らくは170から180cmほどの身長の人が使いやすいように作られた、欧州における標準サイズのキッチンなのだろう。陽室の胸元ほどの高さに作業台の天面があり、ビルトインコンロもその横に設置されている。
それはすなわち、このキッチンで陽室が包丁を振るおうとすれば、ほぼ肩の高さで包丁を振るわねばならないということを意味している。カレーやシチューが作れるような深い鍋をコンロに置こうものなら、陽室は鍋の中身を見ることすら適わないのである。
「……」
「……」
「……」
しばらくの沈黙の後、わっと火が着いたように騒がしくなった。
「そんなこと言わないでくださいましっ! そんなこと言わないでくださいましっ! お願いですわ神様トレーナー様陽室様っ!」
「ほら踏み台! 踏み台買ってきましょう! ねっ!? お洗濯もお掃除もお買い物もなんでもしますからっ! ねっ!?」
「そうです、スペシャルウィークさんの仰る通りですわよ! 包丁用に作業台を買ってきてここに置きましょう! 私たちにもこの作業台は高すぎますので、安全第一で買うのがいいですわねっ!?」
「いいですねっ! 私、陽室さんの手料理食べてみたいです~っ!」
なんとか料理当番を回避しようとあの手この手で機嫌を取りにかかるチームの面々と、その様子を見て腹を抱えて笑っているエルコンドルパサーを見ながら、陽室琥珀は珍しく本心から深々と溜息を吐いた。
前途多難という言葉は、まさしくこの瞬間のため存在したに違いなかった。