「それで、一先ず今日は帰りなさいと諭されて私の元に戻ってきたと。上出来ではないですか、スペ。思っていたよりもよくやりましたね」
トレセン学園、ライブレッスンスタジオA棟。文字通りの用途に使用されるこの建物は、教室数個分の広さを持つ大きな屋内練習施設である。
一面板張りの床、そしてやはり一面が鏡となっている壁。音響設備も学園内では随一の規模を誇るこの部屋が陽室の仕事場であり、そして実質的にトレーナーとしての仕事場であるかのようにも扱われていた。
そしてそのレッスンルームの床にだらしなく転がっているのは、つい先程まで生徒会室でシンボリルドルフと渡り合っていたスペシャルウィークだ。
「すごく疲れましたぁ……」
「意識的な演技の経験に乏しい状態で、長時間ミスが出来ない一発撮りを強いられていたようなものです。これで疲れなかったなどと言われた日には俳優への道を勧めますね」
「もっと褒めてくれてもいいと思うんです」
「頑張りましたね、スペ」
スペシャルウィークは床に転がったまま陽室の方を向いた。驚きの表情と共にである。
「どうしたのですか、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていますよ」
「え、だってトレーナーさんの素直な誉め言葉なんて聞いたことなかったので」
「怒りますよ、スぺ」
「ご、ごめんなさい~……」
「よろしい」
事実、陽室の言葉遣いは総じて
「とはいえ、本当によくやりました。ミス・シンボリルドルフの挑発に対して吠えられる者は、トレセン学園広しと言えども間違いなく多くはありませんよ。無論、ミスは貴女が吠えることを期待して挑発という形でお膳立てをしたのでしょうが」
「でも、あれは元々考えてなかったのに、気付いたら口から出てて」
「それです、それですよスペ。『気付いたら口から出ていた』を常日頃からこなせるようになれば、それは最早演技ではなく素顔です。私がこれからの貴女にそれを求めるように、ミスも貴女が生徒たちの前でそうあれる存在になることを期待しているのでしょうね」
つい先程シンボリルドルフが言っていた、『責任の重さを自覚しながら笑ってみせる気はあるか』という問いがスペシャルウィークの頭をよぎった。あれはきっと、求められたときに笑うのではなく、求められていなくても笑っていなければならないということだ。演技はバレるかもしれないが、素顔になってしまえばその心配はない。スペシャルウィークはそう理解した。
「頑張ってみます。期待に応えたいですから」
「大変結構、これからは可能な限り人前で喋るときに余裕のある話し方を心がけるようにしましょう。貴女と同室のミス・サイレンススズカを始め、友人相手には貴女の性格は既に筒抜けでしょうが、それでも練習と考えてこなすべきです」
「や、やっぱり今日一日で終わりじゃないんですね……」
「当然です。貴女が三つ目の冠を持ち帰った暁には、余裕だけでなく威厳も意識していくようにすべきですね。周囲はそれを三冠達成ゆえの変化だと考えるでしょうから、そういった意味でも良いタイミングです」
そう、スペシャルウィークがやらなければならないことは決して生徒会長を目指すための努力だけではない。周囲の人間は揃って彼女がクラシック三冠を達成する前提で話を進めているが、まずは肝心の菊花賞に勝たないと話にならないのだ。勝利した先に待つウイニングライブのレッスンも陽室によってしっかり今後の予定に組み込まれているが、こちらもやはりスペシャルウィークの勝利が前提だ。
ここまで期待されているからには、万全の状態でレースに臨みたい。となると、彼女の頭にはひとつの懸念が浮かんだ。
「あの、私の勝負服って普段はどこに置いてあるんですか?」
「勝負服ですか? 普段は学園の専用倉庫で保管されていますが、貴女か私が望めば手続きの上で持ち出すことは可能ですよ」
「シューズだけ持ち出したいんですけど、できますか?」
「ええ、それ自体は全く問題ないでしょうが……シューズだけを? 何か気になることがありましたか?」
「いえ、その……生徒会室に行く前、アグネスタキオンさんに話しかけられたんです」
陽室が目を細める。
「ミス・アグネスタキオンですか」
「はい。それで、『君のレースを見た。良いレースだったが、今の蹄鉄は君に合っていないから変えるべきだ』って言われて……」
「ふむ……ミスにしてはどうにも常識的に過ぎる忠告ですね。逆に不気味ですらあります」
仮にも教員が生徒に対してしていい物言いではないが、残念ながら、かのマッドサイエンティストにはそう言われても仕方ない程度には前科があった。彼女の持ってくる得体の知れない薬品を何も疑わずに飲むべきでないことは今や学園中の常識である。
「他には何か言っていたのですか?」
「『今の君が弱いわけではないが、実力は発揮しきれていない』って言ってました。そこでマンハッタンカフェさんが来て、そのままアグネスタキオンさんを引きずっていってしまったので、それ以上は聞けませんでしたけど……」
「なるほど、情景が目に浮かぶようです。しかし、実力を発揮しきれていないとミス・アグネスタキオンが仰ったと……スペにその自覚は? 些細なことでも構いませんが」
「ありませんでした。思い返してみても、そう感じたことは一回もなくて」
「蹄鉄が合わない、もしくはシューズが合わないと感じたことは?」
スペシャルウィークは首を横に振った。蹄鉄も練習用シューズも陽室と一緒に購入したものであるし、勝負服のシューズに至ってはGIレースに出走するたびに採寸が入って逐一調整されるのだ。
「……これは正直なところ伝えるべきか悩んでいたのですが、ミス・アグネスタキオンに指摘されたまま貴女が疑問を抱え続けるよりはマシでしょう。ミスの言葉に私は思い当たることがあります」
「じゃあ、もしかして今の私は……アグネスタキオンさんの言う通り、ちゃんと実力を発揮できてないんですか?」
彼女の問いに陽室は曖昧な表情を見せた。
「その認識で一応間違ってはいません。そして同時に、この問題は中々改善し難いうえ、改善すると本末転倒になる可能性を秘めてもいます」
溜息をひとつ挟んで陽室は続ける。
「スペ、貴女は右回りと左回りのどちらが得意ですか。主観ではなくタイムで考えてください」
「えぇと、タイムだと左回りの方が少し速く走れるはずで……」
「その通りです。同条件で比較すると、貴女はいかなる距離でも左回りの方が若干良いタイムを出しています。そしてこの差が生まれる原因は、実のところすこぶるシンプルです」
そう言って、陽室はスペシャルウィークの右足を指差した。そういえば、アグネスタキオンも同じように右足を見ながら蹄鉄の話をしていたことを今になって思い出す。
「貴女は右足の脚力が強すぎるのです」
「……え、それだけですか?」
「それだけです。ですがこれは由々しき問題ですよ、なにせ強いだけならともかく強すぎるのですから」
右足の脚力が左足に比べて強いと、何故左回りの方がより良いタイムになるのか。
ウマ娘が全速力でコーナーを曲がろうとするとき、強烈な遠心力によって身体がどんどん外へ押し出されていく。当然遠回りはシンプルなタイムロスであるし、場合によっては斜行による降着処分や衝突事故の危険すらある。一方で速度を緩めれば遠心力は小さくなるが、やはりスピードが落ちるぶんタイムロスになってしまう。
そうなると、可能な限りの速度と適切なコースを保ちながらコーナーを曲がるために、身体の重心を内ラチ側に傾けなければならない。また同時に、身体が外に押し出されるのを留めるために足裏で踏ん張り、外ラチ方向に対して地面を蹴り込む必要もある。シューズに着用する蹄鉄の大きな役割のひとつは、コーナーでの遠心力によって身体ごと横滑りしてしまうのを防ぐことにあると言える。
ここで左回り、つまり反時計回りでコースを走るときについて見てみると、外ラチ側にあたるのは身体の右側であり、右足だ。右足の力が強ければ当然踏ん張りやすいし、蹴り込みも楽だし、一歩の移動距離も稼ぎやすい。結果として、コーナーで差がついてタイムが良くなるという理屈だ。
そして逆に右回り、時計回りのコースを走るときは、左足の脚力を強く発揮できるほうがコーナーで速く走れることになる。理想を言えば両足の脚力が同等かつ水準以上の強さで、右回りでも左回りでもコーナーで適切に力加減を調整しながら走行することが出来れば素晴らしいということになるが、現実にはそう簡単に実現できるものではない。
だが、スペシャルウィークの場合は少し話が違った。そう、右足の脚力が
「貴女がトレセン学園に来る前……つまり貴女のお母様がご実家で課していたという厳しいトレーニングに貴女が日々励んでいたころの話ですが、それらのトレーニングで力一杯に身体を使う必要に駆られた際、右足で踏ん張っていたことの方が圧倒的に多かったのではないですか?」
「……確かに、そうだった気がします」
「やはりそうでしたか。当然ですが、この事実について貴女や貴女のお母様を責めることはできません。設備も経験もない中でこなせることを最大限にこなし、その結果として今の貴女が結実したのですから、むしろ賞賛されてしかるべきです。しかし同時に、貴女が生まれてからの十数年間で培われた無意識的な脚力の偏りは、私が貴女のトレーニングを管理した一年半弱の歳月をもってしても矯正しきれていません」
右か左か、どちらかの脚力が弱いならばそれを強くしてやればいい。だが既に両足の脚力自体は充分すぎる状態に達していて、そのうえで右足だけが異様に強くなってしまっている彼女の矯正は率直に言って困難であった。
左足を重点的に鍛えるためのメニューは当然組んだし、ずっと続けさせている。しかし彼女の左足は現状でも理想的な脚力であり、これ以上無茶に鍛えると悪影響を及ぼしかねないのだ。そういう意味では、右足の脚力がこの段階に至るまで故障を経験したことがないというのがむしろ異常であると言える。
「なので、ミス・アグネスタキオンが言うところの『実力を発揮できていない』というのは正しい意見ではあります。しかし貴女が右足の力をフルに発揮すると、まずフォームが歪んで綺麗な走りができなくなるでしょう。次いで貴女の右足自体がその脚力に耐え切れず故障する可能性が極めて高いです。そういう意味では『そもそも発揮可能な実力ではない』という方が正確でしょうね」
「こ、故障ってことは、つまり……」
「まあ、おおよそ貴女の想像しているようなことになると考えて間違いないでしょう。一般的には自身の脚力に耐えられない足に対して『繊細な』や『硝子の』といった形容詞を付しますが、貴女の場合にそれらの言葉が適切かは微妙なところです」
陽室の言葉に青ざめていくスペシャルウィーク。しかし、そうなることを予期していた陽室は宥めるように言葉を続けていく。
「ですが、幸いなことにそのような惨事が待つ可能性はまず皆無だと私は考えています。そうでなければ気付いた時点で貴女に伝えていますよ」
「でも、全力を出したら私の右足は」
「運が悪ければ壊れるかもしれません。ですがスペ、考えてもみてください。その『全力』は本当に起こり得るものですか? 左足に比べて右足だけを極端に酷使するような状況が、レース中に発生するものでしょうか? 単純にトレーニングやレースをしているだけならば、右回りも左回りも関係なく、貴女の足への負担というものは故障の臨界点に全く届かないのですよ」
大外を強引に回って全員を置き去りにした皐月賞。先行策で誰も追ってこれなかったNHKマイルカップ。レースメイキングもスタミナ配分も投げ捨てて逃げ去った日本ダービー。それらのいずれでもスペシャルウィークは限界など知らないような走りを見せたし、レース後に足の不調が出てくるようなこともなかったのだ。
「ですので、貴女の右足は貴女自身が意図的に壊そうとでもしなければ壊れません。そして仮にそうしようとしても、本当に故障するかは怪しい……というより、まず不可能と考えてよいでしょう。身体のリミッターというものは当人の意志に関係なく働くものですからね。つまり、貴女が余計な心配をする必要はないということです」
陽室にそう言われても、スペシャルウィークの表情は若干の沈みを見せたままだった。
「そうは言っても、という顔ですね? ……ウマ娘ではない私には、貴女の感情を理解できると無責任に述べることはできません。ですが同情はできますし、だからこそ私は貴女にこの事実をこれまで伝えませんでした。どれだけ心配するなと言っても、可能性がほんの少しでもあるかもしれないとなれば恐れを抱くのは当然のことです」
陽室は部屋の隅に鎮座するデスクから立ち上がった。そのままスペシャルウィークの方に歩み寄っていく。
「ですので、そんなスペに良いことを思い出させて差し上げましょう。ミス・アグネスタキオンは貴女に何をしろと言いましたか?」
「それは……蹄鉄の交換、ですか?」
「その通りです。正確には交換ではなく変更を意図して発言したのでしょうがね。すなわち、ミス・アグネスタキオンは今の蹄鉄では足への負担が大きいと見て、貴女にアドバイスをしたわけです。どのようにしてミスがそれを見抜いたのかは定かではありませんが……少なくともそのアドバイスに関しては、充分信用に値すると私は考えます」
アグネスタキオンは足の故障によって引退の憂き目に遭ったウマ娘である。さらに言えば、そんな彼女の後輩たるスペシャルウィークも似たような戦歴を辿っている最中なのだから、助言のひとつくらいするのもおかしい話ではないだろう。不可解な点が無いわけではないが、今の陽室はそう受け止めることにした。
「というわけで、蹄鉄を買いに行きますよ。気分転換にもなるでしょうしね」
「えっ、今からですか!?」
「ええ、今からですとも。でなければ気分転換にならないでしょう? 私は勝負服の持ち出し申請を行っておきますので、先に出発しておいてください。以前蹄鉄を購入したのと同じ店で合流する、ということで」
まさしく有無を言わさず、陽室はそのままレッスンルームから出ていく。後には未だ事態の展開についていけないままのスペシャルウィークがひとり残されるだけだった。