作者ページの活動報告にちょっとした『おまけ』を投稿しております。よろしければ、今話を読んだ後にどうぞご覧ください。
靴底の泥を落としたベルノライトがブラシを床に置くと同時に、シャンティイ行きの列車が進み始めた。靴底を見た時点で嫌な予感がしていたが、恐らく予想は外れまい。市街地用にかけられていたゴム製のカバーを外して、蹄鉄そのものに触れた。
「……なるほど」
ベルノライトの視線の先にあるのは、外側の尾鉄を薄く広く叩いて伸ばしたスプーンヒール蹄鉄。強い蹴り足を使うときに地面を
つまるところ、ベルノライトの手元にあるのはフルオーダーメイドの蹄鉄とシューズということになる。
(素材のアルミは多分A2000番台? ううん、7000番台かな。多分航空グレードのアルミ材を削り出して作ってる……?)
蹄鉄を見ながら固定用のボルトの位置を確認、装蹄する面に触れ、接着剤などが使われていなかったことを確認。これならばなんとかなるし、固定具以外は完全に密着するのではなく、微妙に隙間ができるように調整されているようだ。
(で、外れたってことは固定ボルトか靴側のナットが死んだってことだろうけど……)
そう考えつつ固定用のボルトを確認する。ネジ山が摩耗している箇所はあるもののそこまでではない。ということは樹脂ナットが割れたということだろう。
日常使い用の蹄鉄は、シューズに短いボルトと樹脂ナットで固定するのが通例だ。蹄鉄ごと役目を終えるレースシューズであれば蹄鉄固定用の短い釘を叩き込み、使い終わった勝負服用のシューズは高オッズ投票券的中者向けのグッズ抽選に回されたり、ウマ娘本人のための記念用トロフィーに魔改造されることが通例だ。
しかし蹄鉄の交換スパンより長く履く靴であったり、用途ごとに蹄鉄を入れ替える場合は釘で固定できないのだ。固定用の釘の位置をずらすにしても限度があるし、靴底にいくつも穴が開くと素材としても強度が落ちていく。それを回避するためにも、交換が容易なボルトとナットを用いることになる。
靴の中底を取り出し、固定箇所のナットを全回収。樹脂のかけらを確認するとどれも割れるか欠けるかしている。骨折などの負傷を防ぐため、蹄鉄を何かに引っかけた場合に一定以上の負荷が掛かれば、樹脂製のナットが割れて落鉄するようになっているとはいえ、全てのナットが破損するのは珍しい。
(モンジューさん、スペちゃん並に脚力があるのかも)
そう思いつつ固定用のビスと同じ径のナットが手持ちにあるか確認。このあたりはある程度共通化されていて、アメリカ製以外は互換性がある。
(ミリねじでよかった……手持ちもギリギリ。後で補充申請しておかなきゃ)
そう思いつつ靴の破損が他にないか確認、防水パッキンやワッシャーの欠落はないか、靴底そのものに欠けはないかを見ていく。小さい懐中電灯を口に咥えて照らしつつ、小石などが咬んでいる場合はピンセットで取り除き、靴の方は問題ないことを確認する。
問題は蹄鉄の方だ。
何かに躓いたのだろうか、流石に欠けるほどではないが、若干の歪みがあるように思える。確認すべく平滑な面を探すが、足下は毛足の短いパイル地で平面はない。ベルノライトはスマートフォンを座席に置き、その上に蹄鉄を乗せて歪み具合をチェックする。おそらくつま先部分で何かを蹴るような形になったようだ。本当にわずかにだが、山なりに歪んでいる。手足の感覚というのは、精密ではないが正確だ。
本来ならばある程度叩き直すのが定石であるし、神経質なウマ娘ならまるごと新品に取り替えとなる。しかし流石に公共交通機関のど真ん中でハンマーを降り下ろすわけにもいかない。そもそも今のベルノライトの手持ちには、ハンマーがあっても肝心の金床がない。
応急処置としては、そのまま付け直しても一応は役目を果たすだろう。しかし、だ。
(でも、そうすると多分靴の方に歪みが出る……)
悩む。2秒だけ。
ベルノライトは直観を信じることにした。反りに合わせてワッシャーを余分に咬ます。外れていない方の靴にも同じだけのワッシャーを咬ませて、高さと重さを微調整することにした。
(残り15分! 間に合うっ!)
手持ちの工具でなんとかするにはこれしかない。工具セットからL字のヘックスレンチを取り出す。樹脂ナットゆえに締めすぎればそれだけで割れてしまうため、慎重に締め付けていく。ドライバーの長辺のしなり具合でどれだけ締め付けているかを感じながら、歪みのないように、正確に締め付けていく。
目元に汗が入ってきて染みる。それを手の甲でぐいと拭いて作業続行。スマートフォンをまた台にしてゆがみを確認。不要な隙間がないかを板状のスケールを差し込み確認。がたつきをチェック。ほぼ靴底に頬をつけるようにして目視で最終確認。
残り9分。右足分を手早く分解し、ワッシャーをそれぞれ2枚ずつ咬ませ、左足の蹄鉄との高さを調整。調整に使ったワッシャーの枚数の関係で右足の方が1グラムほど重くなったので、左足側におもりとしてのワッシャーを中敷き側に追加して再調整。残り4分。
地面に置いたときの高さを確認し、違和感がないことを確認し、靴の表面をクロスで拭いていると、パチパチとまばらな拍手が聞こえた。
「Good job, Bell」
顔を上げれば満足げなモンジューと目が合った。なんとか合格点は出たらしい。ベルノライトはあいまいな笑みを浮かべつつ、ゆっくりと深呼吸を重ねたのであった。
「まったく! 生徒を海外の空港に放置とは一体どういうつもりですか! あなたもトレーナーという教育者なのですから、もう少ししゃんとしてください」
「ですから文句はミスター・佐久間にお願いします」
ガンガンと痛む頭を押さえながら、陽室は前を歩く女性────東条ハナを盗み見た。
彼女がフランスに来ていることにも当然理由がある。エルコンドルパサーが凱旋門賞に向けて海外での合宿に励んでいるためだ。しかしチームリギル所属のウマ娘の大多数は日本でトゥインクル・シリーズでの勝利に照準を合わせているため、ここ最近の東条は日本に軸足を置きつつ、必要があるときだけフランスに顔を出す生活になっていたのである。
「私とて、ビールを飲みたくて飲んだわけではありません。夜中の中途半端な時間に電話をかけてくるミスターが悪いのです」
その言葉にわざと聞かせるような溜息を吐く東条。それでも陽室はどこ吹く風だ。
どんよりとした空のもと、シャンティイ駅に向かう。なんとか天気は持ち直しつつあるが、それでも雨の後の湿度が気持ち悪い。陽室は体調不良を隠そうともせず続けた。
「それに、ベルノはああ見えて度胸は一級品です。なんとかなるでしょう」
「ずいぶん信頼しているのね」
「信頼しなければ手元に置きません。レース指導の方は道楽で指導をしているようなものですからね」
「本業のライブ指導をおざなりにしてでも?」
「仰る通りです。仕事というものは、その程度にしなければ誰もが疲れ切ってしまうでしょう?」
再びの溜息。東条が顔を上げると、ちょうど列車が北へ向け出発するところだった。駅の出口を見れば目当ての人物が出てきていた。……その隣には何故か東条にも陽室にもよく見覚えのある有名人が立っていたが、陽室はひとまずそちらの方は置いておくことにした。
「無事でなによりです、ベルノ」
「無事じゃないですよ! 車内でチップたかられました!」
すぐに頬を膨らませながらベルノライトが陽室に詰め寄る。
「ああ、それならば無事の範疇です。その他に被害等は?」
「ありませんが、蹄鉄用の樹脂ナットなどがなくなってきたので備品申請します。チップ代も乗せて申請するので通してください!」
「樹脂ナット? ……ミス・モンジューに使用したのですか?」
こくこくと頷くベルノライトを確認し、陽室はモンジューの方を向いた。彼女の口から出るのはフランス語だ。
「マドモアゼル、チームメイトを連れてきていただき感謝します。チームテンペルのトレーナーの陽室琥珀です。どうぞよしなに」
「ベルはトージョの指導するチームリギルではなかったのですか……いや、失礼しました。私のことはモンジューとお呼びください。マダム・コハク……とお呼びしてもよろしいのかはわかりませんが」
「どうぞお好きに。呼び名は呼ぶ者が決めるものですから」
スカートを持ち上げるような挨拶。流石に貴族家の出だけあって本物は様になっている、と舌を巻きつつも陽室は続ける。
「ベルノが再装蹄したと聞きましたが」
「ええ、落鉄しているのを駅で即座に見抜かれてしまったのです。マダム・コハクのチームは、実に優秀なソワニョールを連れている。キャスパーと……ああ、うちのソワニョールのことですが、きっと彼といい勝負になる」
ソワニョールと言われ、それがサポーターの意味だと変換するのに陽室は一瞬手間取った。フランスクーリエでソワニョールと言えば、装蹄からドリンクの管理や練習や本番後のマッサージまで手広く扱うアシスタントで、フランス国内の国家資格として成立している。
「欧州最強と名高いウマ娘に認めていただけるとは、ありがたいことです。しかし、再装蹄だけでしょう? それも日常使い用、打ち換え前提の靴に見えます。技術の違いが出るような箇所などそうないのではありませんか?」
そう陽室が言うとモンジューは首を横に振った。
「この靴も蹄鉄もフルオーダー品で、トルク管理含めてピーキーにできているのです。学園に戻ってキャスパーに見てもらうまで靴底についていれば良いと思っていたのですが、外れた蹄鉄と靴だけで、違和感なく正確にセットされるとは思ってもみなかった。それもトルクメーターなどを使わずに、手の感覚だけで取り付け角やトルクをぴたりと合わせてくる。尊敬に値する」
「なるほど、よく理解しました。ベルノ、褒められていますよ」
「ひゃいっ!? ……さ、サンキュー!」
陽室が英語で呼びかけると、なぜか飛びあがるベルノライト。その様子を見て笑う東条とモンジュー。そこから言語を英語に切り替えたモンジューが続ける。
「そういえば、チームテンペルといえば、あの?」
「スペシャルウィークのことですか。ええ、スペはうちのエースです」
首をかしげてそう告げればモンジューは東条の方に顔を向けた。
「トージョが時々指導している彼女のことですね?」
「えぇ。ベルノライトさんが来るまでの支援という形である程度見てはいましたが……」
「私はライブの指導が本業なのですよ」
その声にモンジューは制御された笑みを向ける。その意味を陽室は正確に捉えた。
「ご安心くださって結構ですよ、ミス・モンジュー。我々チームテンペルが貴女の地位を今日明日で脅かすことはありません」
「ちょ!? 陽室さん!?」
いきなり相手国のエースを煽り始めた陽室に慌ててベルノライトが割り込む。東条も一歩前に出ようとしたが、先に陽室が手で止めた。
「事実としてそうでしょう? 直接対決の予定は当面ありません。それにミス・モンジューも、そう簡単に日本勢と戦って負けるわけにもいかないでしょうし、そもそも彼女にも守るべき体面というものがあるはずです」
「……ご配慮痛み入ります、と返せばよろしいかしら?」
ほらやっぱりこじれるじゃないですか! と日本語で叫びつつ、陽室の襟首を締め上げるベルノライト。かっくんかっくん頭を振られながら陽室が続ける。
「ベルノ。貴女もウマ娘ですから、そんなに全力で首を絞められると普通に死ねます。あと二日酔いにそれはキツいです」
「キツくしてますから当たり前です! 今誰に喧嘩を売ってるのかわかってるんですか!?」
ベルノライトは30分ほど前に自らが売り言葉に買い言葉でやらかした喧嘩のあらましを全て棚に上げながら叫ぶ。それでも陽室は、ベルノライトの日本語での問いかけに対して英語で答えた。モンジューにも聞かせるためだ。彼女もある程度ならば日本語を理解できるということを、陽室は知っている。
「当然、存じ上げないわけがありません。モンジュー・ド・モンモランシー・ハモンド……モンモランシー公爵家の傍流ハモンド家の長女で、シャンティイ校の代表生徒でしたね。戦績もすこぶる優秀。ジョッケクルブ賞からアイリッシュダービー、ニエル賞から凱旋門と乗り継ぎ、カルティエから最優秀クラシックウマ娘に選出されたとか」
「家の名前を出されるのは好かないのですが」
「おや、これは失敬。誓って他意はありませんよ」
解放された首筋を撫でつつ、陽室は笑みを浮かべた。
「……私の事をよくご存じのようね。最初視界にないように振舞ったのは演技かしら?」
「確かに演技はいくらか嗜んではいますよ」
「まるで、視界に入れる価値がないような扱いね」
そう言われ、陽室は肩をすくめる。
「そうは申しませんよ。先程申し上げた通り、今日明日で貴女と我々が競うことはないというだけのことです。もっとも……」
「もっとも?」
モンジューが問い返す。しばらく考え込むような間を取り、陽室琥珀は笑みを浮かべた。
「……もしもこの程度の駆け引きで素が見えるような環境だとすれば、スペの
「トレーナーさん!!!」
「陽室チーフ!!!」
そのやりとりに天を仰いで笑ったモンジュー。
「ベルも面白かったが、それに劣らずあなたも面白い人だ、マダム・コハク。実に興味深い」
「お褒め頂き恐縮ですよ、マドモアゼル」
そう言って見えないドレスをつまむ陽室。
「その台詞、我々に撫で切りにされても言えるのかしら」
初めてモンジューの言葉が崩れた。にやりと笑う陽室。
「All is over. Silent, mournful, abandoned, broken, Europe recedes into the darkness」
ベルノライトは今しがた陽室が発した言葉の意味を即座には理解できなかった。しかしその言葉がおそらく『売り言葉に買い言葉』の域を大きく越えたものだったのであろうことは、モンジューや様子をうかがっていたシャンティイ校のウマ娘たちが見せた反応で一目瞭然だった。
「平和を信じ、紙切れを振りかざすには及びません。スペシャルウィークが貴女たちを目覚めさせてくれることでしょう。……ああ、折角なのでひとつ賭けでも致しましょうか」
その声にぞっとした様子のモンジュー。しかし陽室は構わず続ける。
「チームテンペルのスペシャルウィークはジャック・ル・マロワ賞とムーラン・ド・ロンシャン賞に連続で出走します。そのどちらかでもスペシャルウィークが1着を取れなかったら、このベルノライトとのチーム契約を一旦解消しましょう。彼女が望むなら、あるいは貴女のチームに呼べるかもしれませんよ」
「…………へ?」
やや遅れて陽室の言葉を理解したベルノライトの口から呆けた声が漏れる。頭を抱える東条。
「え、えぇぇぇええええええっ!?」
ベルノライトの叫びがシャンティイにこだました。