「よし、着いたよ。ここのサンドイッチが美味しいんだ」
オベイユアマスターの言葉にベルノライトが視線を上げると、そこにあったのはこじんまりとした佇まいの店だった。
先程、あまりにも突然の再会にベルノライトが放心していたところ、オベイユアマスターはひとつの提案を投げてきた。
『ランチはもう食べた? 折角だし、まだならどこかで一緒に食べない?』
ベルノライトにその提案を断る理由はなかった。ちょうどどこで昼食にするか悩んでいたところだったのもあるが、それ以上にオベイユアマスターに対して聞きたいことが沢山生まれていたからだ。二つ返事で了承したベルノライトがオベイユアマスターに連れてこられた場所こそ、眼前のサンドイッチ店であった。
「あ、そうだ。チーズは好きな方?」
「えっと、好きなのは好きですけど、あんまり詳しくなくて……」
「わかった。じゃあ、ストレートに定番もので行こうか」
オベイユアマスターがそう言って、青く染まった毛先を揺らしてサンドイッチ屋に入っていく。ベルノライトもその後に続いた。店内の席はカウンター席がいくつかあるだけで、ほとんど持ち帰り専門店といった様子だったが、幸い二人分の空席を確保することができた。ベルノライトが着席するのを見て、オベイユアマスターが笑顔で聞いてくる。
「ベルノライト、私の荷物を見張っててもらって良い? 注文してくるから。アレルギーはないよね?」
「は、はい! 大丈夫です!」
肩掛けのバッグを座席に置き、店主と思わしい老人にフランス語で声をかけるオベイユアマスター。置き引きされないよう、腕に彼女のバッグの肩紐を通したベルノライトが視線を戻すと、老人がサンドイッチを作り始めていた。
長いフランスパンにナイフを入れ、どう考えても二桁キログラムは山になっているバターの塊に刺さりっぱなしのバターナイフを引き抜くと、とんでもない量のバターをぬりたくり、それからチーズとハムを素手で丁寧に挟み込み……と、すぐにサンドイッチが出来上がった。お釣りを断ったオベイユアマスターは──おそらくチップも込みなのだろう──フランスパンのサンドイッチふたつと緑色の瓶をふたつ抱えて戻ってきた。
「おまたせ。ジャンボン・エ・フロマージュ、チーズとハムのサンドイッチってところかな。チーズが選べたんだけど、こっちがド定番のコンテ、フランスのハードチーズね。で、こっちがヤギ乳を使ったシェーブル、スイスのチーズで私のオススメ。どうせだし半分づつ分けようか」
結構な分量のパンが来たことにちょっと驚きつつ、ちゃんと手を合わせてから手を出すベルノライト。
「……あ、バターの味がすごい」
「ケチケチしてなくて好きなんだ、ここのサンドイッチ。バターとチーズの暴力って感じ。バケットも湿気ってないしさ」
「豪快ですけど美味しいですね。……味も量も、スペちゃんが大喜びしそうだなぁ」
ベルノライトは瓶に口をつける。どうやらコップはなく、直飲みスタイルらしい。ミネラルウォーターとラベルが貼られていたのだが、パチパチした刺激に目を白黒させると、オベイユアマスターが吹き出した。
「もしかして、ガス入りはダメだった?」
「……今の今まで、炭酸入りが普通だったのを忘れてました」
「ごめんごめん。ガス抜き買ってくるよ」
「そこまでしなくて大丈夫です! ちょっと驚いただけですから……それに、バターの味が濃いので、炭酸水の方がすっきりできそうです」
「そぉ? ならいいけど」
オベイユアマスターはそう言って、大口でサンドイッチにかぶりついた。文字通りあふれんばかりに詰められたハムとチーズの山、層として確認できるほど塗りたくられたバターの塊を躊躇なく胃の中に入れていく。
夜は絶対控えめにしよう、と心に決めたベルノライトが口を開いた。
「ところで……オベイユアマスターさんはどうしてここに?」
「んー、どうしてかって言われると……
そう言うなり、オベイユアマスターはサンドイッチを一旦置き、自らの鞄をがさごそと漁る。しばらくの後、彼女が取り出したのは名刺入れだった。
「はい、これ」
差し出された名刺を受け取るベルノライト。英語とフランス語で併記されていたので、幸い何が書いてあるのかは彼女も理解できた。
「『England Times Paris branch correspondent』……イングランド・タイムズ、パリ支部の特派員? イングランド・タイムズって……」
ベルノライトはその固有名詞に見覚えがあった。それも今朝のことだ。
彼女がアパートメントで出発の準備をしていた最中、隣で陽室がコーヒーカップ片手に英字新聞を読んでいたのだ。その英字新聞には間違いなく『England Times』と大きく印字されていた。
「
「……ということは、オベイユアマスターさんは新聞記者として、取材のためにドーヴィルまで来たんですか? というか、パリでお仕事をされてるんですね。てっきりアメリカ在住なのかと思ってました」
「ママは
苦笑を顔に浮かべるオベイユアマスター。
フランスでの戦績は鳴かず飛ばず。アメリカに移ってからは芝で実績を残し強敵相手にも果敢に戦ったが、GI勝利には手が届かない。そんな状態で一縷の望みを賭けて挑んだジャパンカップへの遠征で、彼女は強豪たちを抑えてついにGIレースでの勝利をもぎ取ったのである。
しかし、そこから先も物語のように全てが上手くいったわけではなかった。
アメリカへの帰還後は成績が振るわず、上位入着こそすれど勝ちきれないレースばかり。結局丸一年勝ち星はなく、再び遠征で挑んだジャパンカップも世界レコードのスピードに追いつけず、惜しくも3着に終わる。昨年の勝利がフロックではないという証明にこそなったものの、この敗北で彼女は10連敗を数えることとなってしまった。その後もレースを走り続けたが、挙げた勝利は結局一般競走での1勝のみで、翌年には静かにレースの世界から引退していった。
競走ウマ娘全体から見れば、間違いなく稀有で名誉なGIウマ娘。一方、GIレースで鎬を削り続ける最上位層から見れば、
「でも、やっと勝てたGIがジャパンカップだったっていうのは、後から見てみれば本当に幸運だったね。賞金が高かったのもそうだし、アメリカからの遠征でジャパンの芝のGIに勝ったっていうのもそうだし。……なにより、オグリキャップやタマモクロスと戦えたのは本当に貴重な経験だった。あれがなかったら、今もこうやって記者としてレースに関わろうとは思ってないからね」
「……私も、サポーターとして大事なことをあのジャパンカップで学びました。苦い思い出ではありますけど、ある意味ではオベイユアマスターさんのおかげです」
「あれっ、じゃあ私はいつの間にかベルノライトの気持ちに火を点けちゃってたってこと? こういうのなんて言うんだっけ、えっと……敵に……」
「塩を送る、ですか?」
「そう、それ! ま、それならあのジャパンカップはお互い様って感じなのかな」
うろ覚えとはいえ日本語の慣用句すら使いこなす彼女に、ベルノライトは内心素直な賞賛の感情を覚えていた。数年前の時点で底知れない人物ではあったが、いざこうして敵ではない彼女と向かい合ってみれば、その笑顔の裏にあるだろう血の滲むような努力が確かに見え隠れしている。
「じゃあ今度はこっちから質問ね。オグリキャップが引退してから、君はスペシャルウィークのサポーターを引き受けているって認識でいい?」
「は、はい。チームテンペルのサポーター兼トレーニングマネージャーをやってます」
「……トレーニングマネージャー? 君のところのトレーナーは練習を見ないの?」
目をぱちくりさせるオベイユアマスター。
「やっぱりそういう反応になりますよね……うちのトレーナーさんは元々芸能畑の人で、レーストレーニングよりライブレッスンの方が本職な上に趣味でもあるんです。普段のトレーニングはメニューの組み立てからほとんど私がやってます。あとはデータの収集と整理とか、ライブレッスンでのパートナー役とか、蹄鉄の調整とかも……」
「え、えぇ……? それ、かなり重労働じゃない?」
「大変かどうかで言うと確かに大変ですけど、スペちゃんやマックイーンちゃん……あ、この前テンペルに加入したデビュー前の子です。そのふたりを支えるのはやりがいも楽しさもありますし、お給料も貰いすぎなくらいに貰っているので」
「……なるほど。ちなみに君がスペシャルウィークの、チームテンペルのサポーターになったのはいつ? オグリキャップが引退してすぐ?」
「いえ、正式に所属したのは秋になってからです。半年以上は無所属で過ごしてました」
ベルノライトの返答に考えこむ仕草をするオベイユアマスター。
「あの、何か気になることがありましたか?」
「気になることっていうよりは、興味が湧いたかな。君のトレーナーに」
思い出したかのようにサンドイッチの残りに手をつけながら、オベイユアマスターは続ける。
「ジャパンのクラシックレースで三冠を獲るなんて、どれだけ優秀なウマ娘でも簡単にできることじゃない。そうでしょ?」
「は、はい。その通りです」
「スペシャルウィークがとんでもないウマ娘なのは、直接観てなくたってよくわかる。
そう語る彼女の瞳は真剣そのもので、口を挟むのがベルノライトには躊躇われた。
「君がサポーターになったのは秋だから、つまりそれまでスペシャルウィークの練習を見ていたのはチームテンペルのトレーナー……いや、トレーナーが練習を見るのは当たり前なんだけど、少なくとも今は君がメインで見てるわけだし」
流石にその言葉にはベルノライトも苦笑を浮かべる。全くもってオベイユアマスターの言う通りであった。
「ともかく、スペシャルウィークのトレーナーには間違いなくスターウマ娘を育てる能力がある。君がチームサポーターになってるくらいなんだし、そういうことなんでしょ?」
「まあ、はい……手腕に関しては間違いないです、手腕に関しては」
どこか含みがあるベルノライトの言葉に小さな疑問符を浮かべつつも、オベイユアマスターは納得したような顔を見せた。
「能力はある。実績も作った。なのに君の言葉を信じるなら、そのトレーナーはレースよりもライブのレッスンにリソースを割いてる。いくらレースに強いサポーターをチームに入れてるとしても、とんでもない変わり者だよね? そんなトレーナーが作った
そこまで言って、オベイユアマスターは満足気に笑った。最後に残ったサンドイッチの欠片を口に放り込む。彼女のそんな様子を見て、ベルノライトにはふと疑問が浮かんだ。
「……オベイユアマスターさんは、スペちゃんのことを評価してくれてるんですね」
「え? しないわけないでしょ。ジャパンのクラシックレースにそこまで詳しいわけじゃないけど、三冠……トリプルクラウンっていう言葉の重みくらいはわかるし。しかもついこの前まで無敗でGIを荒らし続けて、ついに負けたマイルレースですら2着。うーん、弱いところがどこにもないね! 正直に言うと論評に困るタイプだよ、スペシャルウィークの強さって」
「ですよね。……そうですよね、そのはずなんですけど」
そのまま口を噤むベルノライト。
「誰かがスペシャルウィークのことを悪く言ったりでもしたの?」
「ああ、いえ、そういうわけじゃないんですけど……先にフランスまで来てたチームメイトの皆さんが言うには、どうもスペちゃんが現地の人たちに実力をかなり低く見積もられてるらしくて、どうしてなのかなあと」
「……Alright, そういうことね。それはなんていうか、ヨーロッパの悪い癖が出てるって感じかな。それもだいぶひどめに」
「悪い癖、ですか?」
ベルノライトの疑問にすぐ答えることはせず、またしても少し考えるような仕草を見せるオベイユアマスター。ややあって、彼女はにこりと笑顔を作ってベルノライトに向き直った。
「ベルノライト、ちょっとしたディールをする気はない?」
「それは……内容によります、としか」
「うん、そういう警戒心の強いところは好きだよ。でもそんなに身構えてもらわなくても大丈夫。そんなに無理なことを言うつもりはないから」
オベイユアマスターはすっと右手の指を2本立てた。
「こっちから出せるのは情報がふたつ。スペシャルウィークがフランスで見くびられてる理由と、スペシャルウィークのレースに役立ちそうな特ダネ。特ダネの方は、いまのところ私くらいしか知ってる人がいないって言い切れるよ」
「……なるほど。でも、こちらには持ち合わせが」
「ばっちりあるよ、安心して。そっちからもふたつ出してほしいの。まずひとつめは、ムーラン・ド・ロンシャン賞当日の関係者エリア入場証。これはチームの分が余ってたらでいいから、無理はしなくていいよ」
ベルノライトは思わず首を傾げた。彼女の出してきた条件があまりにも意外だったからだ。
「ムーラン・ド・ロンシャン賞ですか?」
「スペシャルウィークは出るんでしょ? 記者会見で言ってたし」
「はい、確かに出走の予定はありますけど……その前にジャック・ル・マロワ賞を走るんですよ? そっちの方は必要ないんですか?」
「ああ、マロワ賞はいいの。
あまりにもあっけらかんとオベイユアマスターがそう言ったので、ベルノライトは口を開けっぱなしにして困惑の表情を顔に浮かべることしかできなかった。
「そのあたりもこのディールが成立したら喋ろっか。ともかく、私が欲しいのはロンシャン賞の関係者エリア入場証ね。新米記者だと現地取材しようにも記者用入場証の数が回ってこないからさ、できれば堂々と関係者エリアに入りたいんだよね」
「……わかりました。トレーナーさんに掛け合ってみますね」
「ん、ありがと! それで、もうひとつの条件だけど……」
オベイユアマスターは席を立ち、ベルノライトに向かってビシッとポーズを決めてみせた。
「チームテンペルへの独占取材権! 要するに、君のトレーナーに対する取材交渉を取り持ってほしいんだ。どう、悪くない条件でしょ?」