シャンゼリゼ通りの角、霧雨に濡れるマロニエの並木が見える料理店に秋川やよいの声が響く。
「ではッ! ムーラン・ド・ロンシャン賞および凱旋門賞での、URA-Japan選抜ウマ娘の活躍を祈念して……乾杯ッ!」
それぞれの手にあるミネラルウォーターや人参ジュース、白ワインなどが掲げられる。理事長の帰国日が明日に迫った本日、太陽がようやく昇ったかどうかのタイミングでいきなり「提案ッ!」とチームテンペルとチームリギルの面々を叩き起こした彼女が連れてきたのは、パリ市内にある有名なレストランだった。その2階から通りを見下ろす位置にある個室で部屋の様子を見回しながら東条ハナが口を開く。
「ですが、よろしいのですか? 理事長」
「無論ッ! わざわざ顔を出したのに食事のひとつも出来ないのではあまりに味気ないのでな! もちろん奢りだ! 是非味わってくれたまえー!」
高笑いをする理事長を見て苦笑いを浮かべるのはベルノライトである。実家がスポーツ用品店の経営者な彼女も、ドレスコードが必要になるのではと思わせるような店に入ることなど、知己の結婚式を除けばこれまでなかったのである。それも歌でしか知らないシャンゼリゼ通りの店なこともあって、彼女は目に見えてわかるほどガチガチに緊張していた。
「メニューに値段が書いてなかったんですけど……ど、どれぐらいの値段だったんでしょうか……」
ベルノライトの隣で同じように緊張した様子なのはスペシャルウィークだ。パスタが食べたいと希望を出してオススメを頼んでみれば、それが『黒トリュフとポルチーニ茸のクリームパスタ』などという、どこをどう切り取っても高級パスタだったと知ったのが5分前である。
「スペシャルウィークさん、ここは素直に理事長の顔を立てるべきです。それにランチ営業でワンプレートですので、そうそう恐ろしい額にならないはずですわよ」
「マックイーンちゃんの感覚ならそうかもしれないけど……」
メジロ家の金銭感覚でそんなことを言うメジロマックイーン。その隣でうんうんと頷くのはエルコンドルパサーである。
「スペちゃんは心配性デース」
「エルちゃんまで……」
「そう緊張しないことです、スペ。それぞれの家のつながりやバックボーンを無視すれば、一番稼いでいるのは貴女ですよ。私もベルノも貴女に稼いでもらっているようなものなのですから、胸を張りなさい」
「そう言われましても……!」
そう反論するスペシャルウィークだが、理事長を含むその場の全員が頷いていては、言葉の続きを口にすることはできなかった。
「スペシャルウィーク!」
「は、はいっ!」
「そう緊張しなくてよいぞ。少なくともここには、スペシャルウィークを笑うような者はいない」
理事長は柔らかく微笑みながらそんなことを言った。ボーイがそれぞれの料理を運びはじめたのを眺めつつ、陽室は口を開いた。
「とはいえ、スペもそろそろ現実を見なければならない状況になってきました」
「スペちゃんの現実……ですか? ちゃんと見てると思ってたんですけど」
ベルノライトが要領を得ないといった様子で首をかしげる。
「そうですね、少なくとも現状で留まるのであれば十二分に認識できていると言えるでしょう。とはいえ、これから先はそれでは足りないだろうと私は考えています。それほどまでに貴女と貴女の周囲が与えるインパクトは大きい」
「ムーラン・ド・ロンシャン賞に勝てば、ということ?」
東条がそう口を挟んだが、陽室は首を横に振った。
「現状で留まるのであれば十二分というのは、『レースを走り、勝利し、ウイニングライブで輝くのであれば』という意図です。スペの覚悟は勝ち負けの次元に拘泥するようなものではないと、私は信じていますがね」
しかし、と陽室は続ける。
「ここから先は『その先』を問われていくでしょう。ロンシャンまで残すところ1週間、これでスペが好成績を残せば、貴女はターフにおいて世界トップクラスのマイラーと言っても過言ではないでしょう。もう貴女はこういう世界から逃げられない」
「こういう世界……?」
「社交界、とでも言い換えましょうか」
陽室はそう言ってすっと手を上げる。音もなくボーイがやってきて一言二言フランス語で会話を交わす。ボーイは一礼して下がっていった。
「この2ヶ月以上、貴女とミス・エルコンドルパサーがURA-Japanの看板を、日本という国の看板を背負って走ってきたように、今後貴女はたくさんの看板を背負っていく日常が強いられます」
事ここに及び、海外所属であろうがスペシャルウィークやエルコンドルパサーを鼻で笑うようなウマ娘は激減した。もちろんその背景にはフランスで両者が積み重ねた戦績もあるし、ジャック・ル・マロワ賞で爆弾発言をこれでもかと投げ込んだことも無視できないだろう。しかしながら、最大の要因は他にあった。
「スぺは……そしてミス・エルコンドルパサーは、拙いながらもフランス語での会話を覚えました。走れば理解してもらえる、勝てば認められるというような楽観的な幻想を捨て去った。故に欧州のウマ娘たちは貴女たちを一過性のイベントとしての脅威ではなく、すぐ隣にある脅威として認識し、問答無用で意識させることに成功した。……いわば、外交的に勝利しつつある状況です」
陽室はそう口にして微笑んだ。
「ミス・モンジューに限った話ではなく、フランスのウマ娘たちが、そして
「陽室」
すっと理事長の声が割り込む。咎めるような声色だが、理事長の目元は笑っている。体裁上止めなければならないから止めた、というだけだろう。その意図を正確に読み取った陽室は続ける。
「無視できなくなった先、乗り込むことになるのはターフとはまた異なるフィールドです。誰かが望む仮面を被り、誰かが望んだ筋書きに沿って、それを台無しにしないという条件下で、自らの利益を最大化する経済戦争の最前線。真の意味での味方を周囲に期待しては道化に成り下がり、しかし相互不信に陥ればそもそもテーブルにも上げてもらえない、そんな空間が貴女の存在に勘付き始めている。……あえて、こう言いましょう」
そこで的確に間を取り、呟くような声量で、しかし確実に届くように陽室は言った。
ミス・スペシャルウィーク。貴女がかつて望んだ領域の先まで、既に半歩踏み込んでいることにお気付きか?
陽室の所にワイングラスが追加で運ばれ、白ワインが注がれる。ボーイが去ったのを確認してから、問いをぶつけられたスペシャルウィークは慎重に口を開く。
「実感として捉えてるわけじゃないですけど……でも、それはすぐそこにあるって感じてます」
「実感として、とは……どういう意味でしょう?」
意図を掴み切れないメジロマックイーンがそう問い返す。陽室が口を開かないのを確認して、スペシャルウィークが感覚を言語化しようと試みる。
「……それがどういうものなのか、今の私は理解できていません。でも、それは……そうですね、私が『生徒会長スペシャルウィーク』になるために必要なものとしてそこにあるんだって、そう思えるぐらいには、自分事として感じています」
ベルノライトとメジロマックイーンが驚きの顔を見せた。エルコンドルパサーも口をあんぐり開けている。
「せ、生徒会長……!?」
生徒会長スペシャルウィーク。その言葉が彼女本人から飛び出したのは初めてのことだった。思わずといった様子で口にしたエルコンドルパサーの言葉にスペシャルウィークは反応しない。
エルコンドルパサーはいつぞやの会話を思い出していた。確かあれはもう半年前、期末テストで留年を回避した直後のことだったはずだ。グラスワンダーとセイウンスカイがスペシャルウィークについて論じており、セイウンスカイが見解を披露した。
────スペシャルウィークは、生徒会入りを目指しているのではないか。
その推論が正しかったことを知り、それを見通していたセイウンスカイの目にゾッとするエルコンドルパサーだったが、そんな様子の生徒たちとは対照的に落ち着いた様子の陽室が白ワインをぐいと飲んでから続けた。
「次元の壁に阻まれているようなものでしょうから、その感覚は正しいでしょう。三次元に生きる我々が四次元を認識できないように、その世界は貴女にとって未知です。ですが球体が立方体に形を変えれば平面に落ちる影の形が変わるように、その世界の変化は決して我々に無関係ではない」
朗々とそう口にした彼女は満足そうに頷いた。
「現時点でそのように捉えられているのであれば結構。その上で……聞くまでもないかもしれませんが、聞きましょう。スペ、貴女はどこまで望みますか?」
「どこまでも……なんて言ったら、トレーナーさんは笑いますか?」
過去に何度か同じような問答をした。それを思い出しながらスペシャルウィークはそう答える。
「いいえ、笑いませんとも。ただ、足りない。ここから先は貴女の思いだけでは到底足りない」
「何が足りませんか?」
「大義名分」
即座に返ってきた答えに、スペシャルウィークは黙り込む。
「貴女はこれから先、いかなる場所や時間、状況如何を問わず『日之本一の総大将』として振舞うことを求められます。それはすなわち、誰もが日本一のウマ娘スペシャルウィークという虚像を貴女に重ねるということです。この虚像は貴女ひとりでは完結しません。スペ、意味はわかりますね?」
「はい」
スペシャルウィークは即答する。
実力と運、そして自己暗示。それらで手にした今の地位。この先もそれを維持し、あらゆる過去を乗り越え上を目指すというなら、自らに向けられる期待はさらに増していくだろう。
日本一のウマ娘という夢が二人の母親とスペシャルウィークの抱く夢だったころは、その二人の応援を背負っていればよかった。日本一のウマ娘という夢を陽室琥珀に肯定され、メイクデビューで勝利を飾るまでの間は、三人の期待を背負っていればよかった。
ならば、クラシック三冠を手にし、有馬記念で三冠ウマ娘たちを下し、春の天皇賞を獲って春秋連覇に手をかけた今は? 安田記念で黒星がひとつ付いたとはいえ、自分自身の価値がそれでもなお高いことを今のスペシャルウィークは理解していた。
「貴女が思う以上に、貴女の事を周囲は気にしているものです。貴女にとっての私の価値は? 貴女に協力することで何を得て、何を失うのか? 貴女をどこまで信用すればよいのか? 貴女の価値は?」
グラスワインを飲み干した陽室。熱を帯びた瞳がスペシャルウィークを射貫く。
「ターフの上だけにおける強さであれば、その唯一の指標であるレース成績さえ確保できれば問題ありませんでした。そして、貴女はそれを見事に達成している」
陽室の視線の先でスペシャルウィークは真剣にその先を待つ。
「しかしここから先を目指すのであれば、多数が共感する大義名分が必要です」
「大義……名分……」
ベルノライトが噛み砕くようにそう言った。メジロマックイーンがそのあとを引き取るように口を開く。
「あまり良い響きではありませんが、必要であることは確かですわね」
「スぺが望む夢の先を掴むには、『スぺの夢』を『みんなの夢』にしていく必要があります。貴女の夢を皆が追いかける夢にしなければ、その先を掴むことは難しいでしょう。だからこそ、『みんなの夢』として掲げるに足る大義名分が必要なのです」
どうやら事象が線によって繋がったらしい東条がはっとした表情を浮かべた。
「まさか陽室トレーナー、あなたは……」
「ミス・東条。これは私が、いいえ、チームテンペルがスペと締結した契約に基づくプロデュースです」
「契約ですって?」
「その通り、契約です。私はスペを日本一のウマ娘にするという契約を結んでいます。日本一のウマ娘になるために生徒会長の椅子を欲するのであれば、その最短の道筋を演出し、整える。契約の範囲内ですよ」
「……そういうこと」
諦めたように溜息を吐いた東条。エルコンドルパサーは混乱した様子で彼女を見る。
「トレーナーさん?」
「陽室トレーナーは……日本一のウマ娘の証明に、スペシャルウィークが日本一のウマ娘でなければならない理由の強化のためだけに、欧州の面々に火をつけて回った。……スペシャルウィークならば、日本を背負って世界と戦えるということを、見せつけるために」
「なっ、ずるいデスっ! それはエルの役目デース!」
エルコンドルパサーが反射的にそう言ったが、噛みつかれてもスペシャルウィークと陽室は涼しい顔だ。そんな二人の前で、東条は首を横に振った。
「いいえ、走りや強さだけの問題ではないのよ。スペシャルウィークさんと陽室トレーナーは……レース場以外でも通用する強さに軸足を置いている。レース場での強さをまやかしだとは言わないけれど、そこ以外の何かを得るために欧州に来て……私たちをその火遊びに巻き込んだ」
東条の言葉に、陽室の口元が吊り上がる。
トゥインクル・シリーズが世界でも通用するだけの強さを誇ることを証明すれば、世界中のウマ娘がトゥインクルを警戒し始める。それはそれだけ世界に一目置かれることにつながるだろう。その立役者としてスペシャルウィークの名前が残ることになれば、生徒会長やこの先につながる手土産としては十分だろう。
クラシック三冠、無敗連勝記録歴代一位、そしてその走りは海外でも通用し、欧州最強のモンジューを中心に欧州とのコネクションも確保した。ここから先は『スペシャルウィークを倒すため』に海外から有力ウマ娘が日本にやってきて、トゥインクル・シリーズに挑戦する時代が来る。
その一人目が欧州最強のモンジューになった暁には、
「もっとも、目先のレースを勝たねば話になりませんがね」
そう口にした陽室が、微笑みとともにスペシャルウィークに視線を送った。
「貴女がどこまで進むのか、どこまで皆を引き連れていくのか、よく考えることです」
「はい」
「結構。スぺはこれまで通り強欲でいなさい。そして真の意味で誠実でいなさい。貴女の夢と、貴女の夢を信じる人々の思いに誠実でいなさい。貴女なら、おそらくその夢の先まで行きつける」
ふぅ、と息を吐く陽室。会話の一段落を察したのか、メジロマックイーンが口を開いた。
「それにしても、驚きました。生徒会執行部からお声が掛かっているとはお聞きしていましたが、まさか生徒会長を本当に目指しているとは……」
「あはは、実はだいぶ前からルドルフさんから推薦を貰ってたんだ。あんまり早いころから噂が広がると良くないからって、しばらく秘密にしてたんだけど……陽室さん、なんでこのタイミングでバラしちゃったんですか?」
「何を言いますか、口を滑らせたのは貴女ですよ。スぺの夢を誰もが見る夢にしていくため、丁度良い機会だから貴女の会話に乗った。それだけのことです」
そう言われ、ごまかすように笑うスペシャルウィーク。
「あとでルドルフさんに怒られちゃうかもですね……」
「そうなれば素直に謝りなさい。しかし私の感想を述べるのであれば、このタイミングで良かったと思いますよ。ミス・シンボリルドルフも雷を落とすことはないでしょうし……」
そう言って陽室は理事長の方を見た。
「少なくとも、このテーブルに座る皆様方は敵ではない。そうでしょう?」
「むむむ……ちょっと複雑デスけど、でもスペちゃんが生徒会長になるなら友達として応援するデース!」
「無論ッ! すべてのウマ娘の味方であるからな!」
エルコンドルパサーと理事長の返答に満足したらしい陽室は笑った。
「……それに、この先を考えればそろそろ次のステップに進まなければなりません」
「次のステップ?」
スペシャルウィークが首を傾げた。
「ミス・アグネスデジタルを倒すのでしょう?」
冷え切った声色に息を飲むウマ娘一同。スペシャルウィークに視線を向け、ベルノライトが口を開いた。
「日本に戻ったら……どう動くつもりなの?」
「秋の天皇賞からマイルチャンピオンシップ、有馬記念と連戦するつもりでいます」
「妥当なところでしょう。私としても否認材料はありませんね」
「やはり……ですわね」
頭を抱えるメジロマックイーン。
「もはや聞くまでもないことだとは思いますが、ムーラン・ド・ロンシャン賞で1着となった場合、十中八九モンジューさんから名指しでジャパンカップにおけるリベンジマッチを申し込まれることになりますわよ。ですが……スペシャルウィークさんは、それを黙殺するのですね?」
「はい」
スペシャルウィークが即答。エルコンドルパサーが口笛を吹き、メジロマックイーンとベルノライトが同時に頭を抱えた。
「また新聞が盛り上がりますわね……」
「今度はどんな煽り文句になるかな、オベイユアマスターさん……」
「あの分ですと、次は『カノッサの屈辱、東京で再演』などと書きそうですわね」
メジロマックイーンの言葉にスペシャルウィークも苦笑いだ。ベルノライトの
「……それでも立ち止まるつもりはありません。私は日本一のウマ娘になります。それが私の、スペシャルウィークの夢です。もしもそれが私の望んだ結果に結びつかなかったとしても、追いかけることを諦めたりなんてしません。夢の先まで、必ず」
その宣言にも似た声に、どこか満足そうに溜息を吐いた陽室。
「よろしい。では、証明の時間です。……勝ちなさい、スぺ。時にはそれが誰かの救いとなり、時には断罪となると知ってもなお、夢への道をひた走る貴女を見てみたい」
「……はいっ!」