10月10日、日曜日。東京レース場は快晴、バ場状態も文句なしの良。
本日のメインレースは11R、GII毎日王冠。秋の天皇賞、あるいはマイルチャンピオンシップに挑みうる精鋭が集う重賞レースだ。しかも今年のメンバーは、精鋭という言葉だけで収められるものではない。
安田記念でこれまでにない大逃げを見せ、観客を熱狂の渦に叩き込んだ『異次元の逃亡者』サイレンススズカ。シニア初年にして海外に飛び出し、ジャック・ル・マロワ賞を引っ提げて堂々帰国した『マイル最強』タイキシャトル。昨年のオークスと秋華賞を勝利で飾り、ティアラ二冠の栄誉と共に天皇賞を目指す『女帝』エアグルーヴ。
さらにジュニア級以降では目立つレースの勝利こそ逃しているものの、マイル路線で地道に重賞での勝ちを重ねてきたクラシック級ウマ娘、エルコンドルパサーとグラスワンダー。
そしてそんな魔境に登録期限ギリギリで飛び入り参加した、現クラシック最強ウマ娘『変則三冠』スペシャルウィーク。NHKマイルカップ以来のマイル参戦に全陣営が困惑した。
そう、困惑である。
「まさかスペシャルウィーク陣営が菊花賞の叩きに毎日王冠を選ぶとは誰も思ってなかった。当然俺もだ。もし予想できた奴がいるとしたら、そいつはエスパーだな」
ウイナーズサークルにほど近い関係者専用エリアで、棒付きの飴玉を舐めながら男が言った。
「どうでしょうね。貴方は案外予想していたのではないですか、ミスター・沖野」
「冗談はよせ。お前さんの思考を読めるほどイカれてる自覚はないぞ、俺には」
陽室の質問にそう返す男──沖野は、その軽い口調の割にはかなり真剣に不服そうな表情を作っていた。
「ミス・サイレンススズカに自由な大逃げ戦術を許すほど狂っている自覚もどうやらおありではないようで」
「スペシャルウィークに日本ダービーで逃げさせる奴ほどイカれてはないさ」
「おや、これは手厳しいご返答を頂いてしまいましたね」
沖野はサイレンススズカ擁する『チームスピカ』のチーフトレーナーである。
トレセン学園でチームスピカといえば、例外なく実力派揃いの──また同時に、やたらと変人揃いの──強豪チームとして認識されている。サイレンススズカはもちろんのこと、学園一の大問題児にして今年の宝塚記念を掻っ攫ったゴールドシップなどは様々な意味でその名を轟かせている。
さらに最近にはスピカ所属のウマ娘たちが揃ってメイクデビューを勝利で飾り、トゥインクル・シリーズのスタートラインに立ったという。GIウマ娘を二人抱えたうえでそんな芸当を実現させている沖野は、間違いなくベテランの名トレーナーであった。
『7枠13番スペシャルウィーク、2番人気となりました』
『NHKマイルカップ覇者にしてクラシック最強ウマ娘との呼び声高い彼女ですが、外枠の不利を覆すことができるのか注目したいですね』
東京の芝1800mはスタート直後に2コーナーが待ち構えており、外枠を引いたウマ娘が不利を背負うものとされる。内枠と中枠のどちらが有利かについては意見がばらつくものの、16人立てという大人数となった今年の毎日王冠では、どのみちスペシャルウィークが不利なことに変わりはない。……と、大半の人間は考えている。
「案外不利というわけでもないんだよなあ、これが」
頭を掻きながら沖野が呟いた。それとほぼ同じタイミングで、関係者席と一般席を隔てる仕切りの向こう側から声が聞こえてくる。
「今日の毎日王冠は第4回東京開催初週のAコース。内ラチに最も近い、いわばレース場本来のコースで走ることになる」
「どうした急に」
突如解説を始めたメガネの男性に、パーカーの男性が冷静なツッコミを入れた。
「一口に東京の芝1800と言っても、芝を保護するために本来よりも外を走ることになるコースでは確かに外枠不利の内枠有利だが、Aコースではむしろ内枠不利、中枠有利のデータが出ている。毎日王冠だけを見るならまた話は変わってくるかもしれないが、それでもスペシャルウィークは言われているほどに不利を背負いはしないんじゃないか」
「なるほど。札幌ジュニアステークスやNHKマイルカップで、スペシャルウィークがこの距離を走れることは分かっている。なら、彼女が勝利を掴んでも何もおかしいことはない……」
彼らが口にした言葉は的確だった。メガネの男性はなおも続ける。
「だが開催初週ということは、長らく保護された芝が良好な状態で残っているということ。つまり内枠のウマ娘が陣取りやすい内ラチ側の芝もまだ痛んでいない、だとすれば外枠を割り振られたスペシャルウィークにとっては苦しい戦いになるかもしれない。先行するバ群か差し位置のバ群か、どちらにせよ簡単に内に入らせてはくれないだろう」
「無敗クラシック三冠が達成間近な現状、観客の人気が集まるようにウマ娘たちのマークも彼女に集まる、か。ここで勝てるかどうかが正念場ってことだな」
互いに頷きあう二人。しかしまとまりかけた会話に待ったをかける声が響く。
「スペシャルウィークさんは負けないもんっ!」
声の主は、彼らの隣でターフを覗きこんでいた黒いショートヘアの幼いウマ娘だ。その横には彼女と同年代であろう、亜麻色のロングヘアが特徴的なウマ娘もいる。
「ご、ごめん!」
ふくれっ面の少女に謝罪する男性二人。
「もう、キタちゃんったら」
「でもダイヤちゃんも思うでしょ? スペシャルウィークさんが勝つって」
「うん、きっとね」
そう言いながら期待に満ちた瞳でレース開始を待つ少女たちを見て、メガネの男性もパーカーの男性も微笑ましいものを見守るように笑みを浮かばせた。
その様子を眺めつつ、陽室が口を開く。
「よく理解している観客も、無邪気な観客も、形は違えどウマ娘の力になることでしょう。……それはそれとして、綺麗な芝を誰にも邪魔されず走ることのできるミス・サイレンススズカが1枠1番となったのは、まさしく悪夢とでも表現すべきなのでしょうが」
「こればかりは運否天賦ってな。お前さんには悪いが、スペシャルウィークの無敗記録はここでストップだ」
序盤中盤は逃げウマ娘との競り合いすら許さないリードを確保し、それでいて終盤には差すという理想的かつ圧倒的な大逃げ。そこに最内・快晴・良バ場の良条件、さらには一見するだけで明らかな好調ぶりも相まって、サイレンススズカは人気投票でも記者予想でも1番人気・最本命から全くブレていない。
「確かにミスは強敵です。実力と幸運と人気の全てを兼ね備えていることに間違いはありません。ですが、今回もスペが勝ちますよ」
「流石に強気だな」
「トレーナーが担当ウマ娘の勝利を信じない理由がありますか?」
「ごもっともだ。でもお前さんが自信満々のときは、そんな
沖野の口からその名前が出て、陽室はようやく彼の方を向いた。
「やはり話題には挙がりますか」
「そりゃお前さん、いくら伏せようとしたところで限度はあるだろ。スペシャルウィークと陽室琥珀のことをベルノライトがサポートし始めたらしい、なんて話は一ヵ月前からどのチームでも公然の秘密だったろうさ」
「なるほど、それこそごもっともです」
「ま、これでようやく『チームテンペル』の名前がお前さんとスペシャルウィークだけのものじゃなくなったってわけだな」
沖野がスピカを率いているように、陽室も書類上ではテンペルという名称のチームを率いていることになっている。だが沖野が言う通り、結成から今に至るまでチームテンペルの所属名簿に載っている名前はスペシャルウィークのみ。いわゆる専属トレーナーにありがちな、事実上の個人チームでしかなかった。
「で、だ。スペシャルウィークの蹄鉄についてベルノライトが助言したからには、無敗街道に最早死角なしってか?」
笑いながらそう問いかける沖野に、陽室はこれ見よがしな溜息を吐いた。
「対戦相手に余計な情報を漏らすとお思いで?」
「そもそも余計なことを話す気が無いなら最初から世間話に応じないだろ。お前さんはそういう人間だ」
「これまた手厳しい。ではミスターのご要望通り、お答えいたしましょう」
陽室は左手の指を三本立てた。
「ミスター・沖野、貴方には三点の思い違いがあります」
「聞かせてもらおうか」
「まず一点目、チームテンペルの名簿にベルノの名前はまだありません」
沖野は首を傾げた。
「チームに入ってないって言うのか? ベルノライトは連日スペシャルウィークについてるって話だったし、なんなら俺も一度は見たぞ。そもそもお前さんが愛称で呼んでるあたり……」
「彼女との契約、というよりは約束事でしてね。スペの毎日王冠における走りがベルノの琴線に触れたのならば、そのとき初めて正式にチーム加入の手続きを行うということになっています」
「琴線ねえ。まさか具体的な条件を詰めてないわけじゃないだろ?」
沖野の問いに陽室は微笑みを作った。
沖野は知っている。こういうときに陽室琥珀が微笑むと、本当にろくなことがない。スペシャルウィークがNHKマイルに出走するという表明をしたときも、記者陣にダービーでスペシャルウィークを逃げさせた理由を問われたときも、登録期限スレスレになってこの毎日王冠に滑り込んできたときも、およそ例外なくこんな笑い方をしていた。
この新人トレーナーはいつどこであろうとも『自分のやりたいことをやる』のが第一の行動原理なのだ。それでいて結果は出すうえ責任も取るので本当にろくでもない、というのが彼女を知る者の一致した見解であった。
「ミス・オグリキャップと同格のスター性を持つと、スペがターフの上で証明したならば」
そして今回も、陽室の発言は沖野の予想を軽く飛び越えていった。
「……随分お前さんに不利じゃないか? その条件をよりにもよってベルノライトに叩きつけたのかよ」
「ベルノをチームに引き込むならば必要な条件だと思いませんか?」
陽室の言葉に考え込む沖野。確かに一理もないような話ではない。事実、これまでどのようなチームの勧誘も受けなかったベルノライトがチームテンペルの勧誘には乗ったという紛れもない現実がここにあるのだから。
だが一方で伝え聞く彼女の性格と実際に一度会ったときの印象からすると、そういった挑発じみた類の提案に乗るようなタイプではないように思われた。歯の間に何かが挟まったような違和感が拭えない。
『各ウマ娘、まもなくゲートインとなります』
『この面子での対決は二度と見られないかもしれません。1秒たりとも目が離せませんね』
ウィナーズサークルから遥か遠く、2コーナー前のポケットに配置されたゲートにウマ娘たちが集まりつつある。
「二点目。折角ベルノの協力を得られたというのに、
「……何が言いたいんだ?」
「ベルノには、『スペが今日の毎日王冠を7枠13番で走るための蹄鉄』をわざわざ作っていただいたのですよ」
「お前さん正気か!?」
間髪入れずに沖野が叫んだ。陽室が発した言葉の意味を理解できてしまったからだ。
レースに出走するウマ娘の枠番が決定されるのは基本的にレース前日の午前10時だ。一部の重賞レースでは前々日になることもあるが、どちらにせよ本番までの猶予時間はそう長くない。
しかも実際には不正防止などを目的に、レースで実際に利用される体操服やシューズ──GIであれば勝負服──は事前にURAの検査を受ける必要がある。つまり、枠番が発表されてから実際に蹄鉄を調整する時間は基本的に数時間もないということだ。
それが技術的に不可能なわけではない。完成品にどこまでの精度を求めるかにもよるが、調整自体に何時間もかかりはしないだろう。
だが、トゥインクル・シリーズでは利用可能な蹄鉄にもしっかりと規定が存在する。既製品でない蹄鉄を利用する場合は事前の申請と許可が必須になるし、万が一検査で不合格になれば最悪の場合レースへの出走自体が不可能になるのだ。
一点ものの専用蹄鉄を直前に調整する最大のリスクがこれだ。二十年三十年と年月を遡って、蹄鉄専門のプロフェッショナルであるURAお抱えの装蹄師がまだ現役だった頃であればいざ知らず、機械による大量生産品を店頭で買うのが基本となった今では、そんなリスクを背負ってまで直前に蹄鉄を調整するということはほぼほぼ行われていない。
「いくらなんでも生徒にそれをやらせるのはマズいだろ。今回は通ったから良かっただろうが、万が一落ちてたらその責任は……」
「無論、ベルノの責任になりますね。ですが仕事に責任を持たないプロはいませんよ。それに、彼女はミスターが心配しているような初歩的な失敗をすることはありません」
「……お前さんは、ベルノライトの技術にそこまで信用を置いてるのか?」
陽室は双眼鏡でゲートの方角を覗き見ながら言葉を返す。
「ミス・オグリキャップの実績である程度は証明されていますし、なによりこれはビジネスです。信用できない相手とはそもそも取引しません」
「ビジネス? どうしてそこでそんな……」
そんなワードが出てくるんだ、と最後まで口にすることはできなかった。先程と同じく、沖野は陽室の発した言葉の意味に気付いてしまったのだ。
「お前さん、まさか」
「流石にお気付きですか。……スペがこのレースで得る全賞金の10%。それがベルノの取り分ですよ」
毎日王冠の1着賞金は6700万円。奨励金や出走手当まで含めれば、勝利したウマ娘が手にする額は7000万円を超える。陽室の言を信じるならば、スペシャルウィークが1着となった暁にはベルノライトの手元に700万円が転がり込むことになる。
手間賃、あるいはアルバイトの範疇を遥かに超えているのは言うまでもない。なるほど確かに、本気で成立させたならばそれは間違いなく陽室琥珀とベルノライトによるビジネスだ。
「互いに真摯である、つまり信用できる前提ですが、明確な報酬は仕事の質を担保してくれます。元々の分配はウマ娘7割、トレーナー2割、学園1割ですからね。私の取り分を半分に分けてしまえば、その片方をベルノに渡すだけで済むという寸法です」
「……やっぱりお前さんはイカれてるよ。そんなやり方、普通は思いつきもしねぇわ」
「サブトレーナーとの賞金分配手順と何も違わないでしょう? ただ、今回はその対象がサポート科の生徒であったというだけです」
「その違いが致命的だって言ってるんだ」
陽室に対しては呆れ交じりにそう言っておきつつも、沖野は内心深く感心していた。より正確に言うならば、『やられた』という感情が彼の頭には渦巻いていた。
「では納得していただけたようですので、最後に三点目を……おや」
陽室が口を閉じる。発走委員の赤旗が掲げられたのだ。ほぼ間を置かず、重賞競走のファンファーレがレース場に鳴り響く。
「やはり良いものですね、この瞬間は」
「これに関してはお前さんに同意だ。……それで、俺が見落としてた最後のひとつってのはなんなんだ?」
ファンファーレが終わり大きな拍手が巻き起こる中、沖野が問う。
「いえ、実のところ勿体ぶるようなものでもありませんよ。ミスターも分かっていて指摘しなかっただけだろうと私は思っています。……まさか、我々の秘策がベルノの存在だけだとお考えなわけではないでしょう?」
陽室の言葉とほぼ同時、ウマ娘たちが全員ゲートに収まった。
『小細工無用の真っ向勝負。府中千八毎日王冠、スタートです!』