先に気付いたのは赤い狼だった。
「何かおかしかねぇか?」
テムジンも不自然を感じていた。
敵方が大きく動き、撃って出るのを匂わせたが、どうにも殺気が薄い。
「中途半端なタイミングでちょっとづつ動きやがる。大将をここに張り付けて置く為みたいな」
「――狼、あの中に鴉使いはいるか?」
「ああ、鴉は飛んでいる…………いやちょっと待てよ。薄い、あれは幻影だ。術者は側に居ない」
「狼・・」
テムジンが呼んだ時、赤い狼はもうその場に居なかった。
膠着状態の本陣に、泡を吹いた馬の伝令が駆け込んだのはその直後。
――側女を護衛していた一行が信じられないような巨鳥に襲われ、アルカンシラが行方知れずだと。
***
細く吸った小狼(シャオラ)の息が腕を伝い、振り下ろした剣から強烈な光が弧を描いて飛び、鴉に命中した。
蒼の妖精の破邪の術。
(や、やった、一発で出来た!)
真っ二つになった鴉が羽根を散らして消滅するのを見てホッとしたのも束の間、上空が渦巻いて、更に二羽の鴉が降って来た。
(えっ、複数居たのなら何故アルを追わなかったの?)
考えている隙もなく、左右から鋭い鉤爪が迫る。
「――破邪!」
続けて術を炸裂させる。
空振りなんかしている暇はない。
とにかくここには自分しかいない、誰も助けてくれない。
自分が抜かれたらアルが襲われる!
経験のない高揚が身体を駆け上がった。
空気が震える。
剣から撃ち下ろされた衝撃波が波紋状に広がる。
(わ! なにこれ!?)
双方の鴉がその場から動けず粉々になった。
信じられない威力。
自分がやったのか?
一瞬、また狼が助けてくれたのかと思ったが、気配はない。やっぱり自分がやったんだ。
その代わり、身体から一気に力が抜けて膝を着いてしまった。
手の中の剣がボロボロと崩れ落ちる。
駄目だ、目が回る、立ち上がれない。
術を使い過ぎたせい? こんなの経験がない。
(で、でも、アルは、守れた……)
グラグラする視界を上げて、小狼は凍り付いた。
目の前の空間がまた渦巻いているのだ。
(嘘でしょ……)
今度は黒雲が現れ、すぅ、と左右に千切れて二匹の大虎となった。
白地に黒縞の虎と、黒地に白縞の虎。
狂暴そうな吐息が、妖精の娘がしゃがみ込む地面にまで伝わって来る。
しかし小狼が鳥肌を立てているのは、虎の間に立っている人影を見てだ。
人間…… 人間には違いない、でも……
「・・そのように恐ろしげな顔をするな。ちと色々なモノと契約を交わし過ぎておるだけなのだ」
おどろおどろしい雲の中に像を結んだのは、姿形は人間の陰陽師の出で立ちではあった。
だけれどこの気配は人間とは違う。
今まで出会ったどんな邪(よこしま)な魔物よりも恐ろしい。
小狼は背筋の於曾気(おぞけ)に身を震わせながら、懐の小剣に手を伸ばした。
間違いない、この人間が、テムジンを悩ませている鴉使いの陰陽師。
「さすが噂に聞く北の草原の蒼の妖精殿。大した術をお使いになる。じゃが小さいお身体が術力に見合っておらぬようですな」
二匹の虎の間に立つ黒い男は、蛇がうねるような声で喋る。
「稀少な太古の術を使う蒼の妖精。戒律厳しく警戒心の強い筈の妖精の子供が、草原の覇王の側仕えにおると、魔性どもの噂で耳に入りましてな。お会い出来るのを楽しみにしておりました。もっともこれからは儂のコレクションに加わって頂くが」
――!!
小狼は身震いした。於曾気の正体はこれだ。
この男の目的は敵王の寵姫の誘拐などではない。それはついでで、優先しているのは自分の欲だ。
子供が珍しい虫を掴まえたがるみたいに、妖精の子供を自分の収集箱に入れたいのだ。
多分、自分が仕える王にも戦の先行きにも興味はない。
(アルに意識が行っていないのは良かった。あとはどうにかしてこの場を切り抜けなくては。でないといい加減テムジンの傍に居られなくなる)
***
赤い狼が見付けたのは、荒野に野営の残骸と、飛散した鴉の羽根、砕けた剣……
「・・ふん」
鼻から息を一つ吐き、消し炭になった焚き火跡を覗き込む。
「なぁ兄弟、お前さんは見ていたよな? 妖精のチビと人間の女はどうなった?」
焚き火跡に芥子粒のように残っていた燃えさしが瞬き、たちまち大きな炎となった。
赤く揺れる中心に、今しがたここで起こった出来事が浮かびあがる。
人かとみまごう隈取りを湛えた陰陽師が、手にした杖を振り上げる。
両脇に鎮座していた黒白の二頭の虎が、糸で操られるように立ち上がった。
並みの虎の数倍の大きさ。
妖精の娘は座り込んだまま動けない。
「二つ返事では来て頂けるとは思ぅておらぬ。黒虎(こくこ)よ、白虎(びゃくこ)よ、ほぉれ出番だぞ」
奇矯な形の杖が地を打つと、虎の爪の色が根元から紫に変わり、切っ先から毒がしたたった。
小狼は変わらず動かない。
でも懐で小刀を握って、絞り出した魔力を貯めている。眼の奥の光は消えていない。
「やめて、やめてぇ!」
双方の間に、黒髪の娘が割って入った。
「えっ!?」
妖精の娘は固まった。何が起こったのか理解出来ない表情。
しかしアルカンシラの次の言葉が、彼女を心臓深くまで凍り付かせる。
「妖精の女の子には何もしないって言ったじゃない。誰も血を流さないで戦を終わらせるって言うから協力したのよ!」
――それ見たことか・・
映像を映していた炎がシュンと消え、赤い狼は今一度鼻から息を吐いた。
(本音を言わない人間なんぞ、無償で信用しちまうからいちいちダメージを受けるんだ。ヒトとヒトとの関わりなんぞ、術で縛った契約だけにしておけばいいのによ)
あの陰陽師はモノホンだ。ヤバイ気配がビンビンする。魔界に片足か両足首ぐらいまでは踏み込んでいるだろう。
「テムジンに知らせるか? いや……」
知らせてどうなる?
側女はともかく、どチビが敵の手に落ちたとなると、あの唐変木は何をトチ狂うか分からない。俺様にとって面白くない方向に転がっちまう事だけは確かだ。
炎の記憶の最後は、脱力して連れ去られる妖精の後ろ姿だった。
「あっちか……」
狼がその方向に踏み出した時……
足元に何かが転がった。小指の先程のトルコ石の玉。
「あの娘がしていた首飾り?」
確かテムジンがアルカンシラに贈った物だ。
見ると、幾ばくか置きに、ポツポツと落ちている。
「ふん、しゃら臭ぇ」
狼は三度(みたび)鼻から息を吐き、青い玉を辿りながら空中を駆け出した。
***
月明かりに石造りの城塞が浮かぶ。
小狼は随分と大層な部屋に入れられていた。
石煉瓦の頑丈な壁に、天涯付きのベッドと毛皮を張った椅子、凝った彫り物の調度品。
出入り口は大虎が出入り出来る程の大きさがあるが、ご丁寧に結界の膜が張られている。半透明の膜の向こう側では、黒虎が寝そべって薄目で睨んでいる。
ここは敵将の砦の一つ。
廃墟となっていた昔の城跡。見張り塔まである大きな造りで、結構な数の兵士が駐留している。
陰陽師は墨将(メィジャ)と呼ばれ、砦の将軍に仕えている。かなり重用されているらしく、城の一部を立ち入り禁止にして妖しげな事を好き放題にやっていても、誰にも文句を言われない。
入り口の壁の向こう側に、虎が視線を動かした。
先程からそこに、アルカンシラが背をもたせかけて立っているのだ。
「王様の側女に名乗りを上げて、出発の前夜に、あの人が忍んで来たの」
小狼は家具に一切触れず、入り口に背を向けて石の床に座り込んでいる。
声は届いているのだが、微動だにしない。
「私の協力次第で戦を終わらせる事が出来るって。私、もう戦が嫌だった。集落の男の人達、徴集されて誰も戻らなかった。毎日誰かが泣いて、心が荒れて癇癪を起して、そういうのが私に向くの。ずっとビクビクして怖くて辛くて……早く穏やかになって欲しかった。だから承諾したの」
小狼は無機質な床をぼぉっと見つめていた。
(何と能天気だった事か)
侵略に来たのだ。恨まれて当たり前なのだ。友達になんかなれる筈なかったんだ。
「毒の入った爪を渡されたわ。でも聞いて。とても出来なかった。王様、あんなにいい人だとは思わなかったもの。最初の夜、王様と一緒でなくて本当に本当によかった」
返事はなくとも、アルはひたすら続ける。それしか出来ることがないからだ。
「しばらくして、業を煮やした間者鴉が来たわ。それではっきり伝えたの。王様を殺める事は出来ません、気に入らないのなら私の命を取って下さいって。本当よ。
そしたらね、もういいって。私が妖精と懇意になれたようだから方針を変える、妖精の子供の身柄を利用して、交渉で戦を終わらせる事にした。その方が、王様も誰も血を流さないで済むって」
うまい事言うな……小狼は床を見つめた。
戦に脅かされるアルのような弱い者には効くだろう。
しかし、質の一人や二人で折れるような者は戦なんか始めない。
現に小狼はあちこちで、身内を犠牲に平気で攻め入る人間を見て来た。
そも、テムジンが自分の身柄ごときで足を止めるなんて有り得ない。
「ねえ、もうそれでいいじゃない。このまま引き揚げて帰ったって。王様も無事、兵隊さん達も無事、小狼だって戦なんか消えてしまえばいいと思っていたんじゃないの?」
虎が首を上げて居住まいを正した。
黒衣をひらめかせて墨将が、白虎を従えて滑るように歩いて来た。
「儂の特別誂(あつら)えの部屋は如何かな、北の国の妖精殿」
小狼は顔を上げたが、振り向きはしない。
「長年話にだけ聞いていた蒼の妖精が生きてこの手に収まるなど、夢のようです。しかも雌だ。色々遊べそうですね。どんな掛け合わせをしましょうか。楽しみだ楽しみだ」
「墨将様? 何を言って……」
アルが慌てて言うのに、小狼は被せて声を張った。
「アルカンシラはもう要らないでしょう? 解き放ちなさい!」
壁の向こうのアルが息を呑む音が聞こえた気がした。
元々は賢い娘だ。瞬時に、自分が何をされたかを悟っただろう。
「それは無理な相談です」
ねちっこい嫌な声。
「さてさてこちらの娘も面白いモノを宿している。鬼神とも言われる草原の覇王の種子」
小狼は驚愕の目を見開いて振り向いた。
何て? 今何て?
「隠しておけると思ぅたか? 儂の目はごまかせぬ、この娘には命が二つ見えておるのだよ。
まぁ安心してよい。種子は儂のコレクションの一つとして大事に大事に育むとしよう。取り出せるまではその腹で大きくして貰わねばならぬが」
ひきつった喉で息を吸い込むアルの悲鳴。
バネで弾かれたように小狼は入り口に駆け寄った。
「あぅ!!」
結界の膜に触れた瞬間、全身を針で貫かれる衝撃。駄目だ、今の自分の力では。
アルカンシラは白虎に押されて奥へと連れ去られて行く。
何度も振り向いて口をパクパクさせるが、とうとう言葉を喋れなかった。
「謝りの言葉すら出せないようですな。自分でも『今更何を言っても』と思っているのでしょう。まぁ利用しやすいですな、あの手の単純な娘は」
「黙れ!」
小狼は髪を逆立てて怒鳴った。人の気持ちが分かっていない訳ではないのだ。どう利用出来るかしか考えていないだけで。
相容れない。この人間が今までどんな人生を積んで来たとしても、理解はしないだろうと思った。
「儂を怒らせない方が宜しいですぞ。今貴女に四肢があるのは、我が主君の為にだけです。面倒ですが、貴女を質に戦を優位に運ぶ仕事もやっておかねばならぬのです。ある程度の地位も必要ですからね、人間界で自由にやって行くには。戦が終わった後は、貴女の態度次第だという事をお忘れなく」
嫌な声で喋るだけ喋って、墨将は満足して去って行った。
小狼は拳を握りしめて黙って突っ立っていた。
口の中に血の味がする。
こんなに奥歯を噛み締めたのは生まれて初めてだ。
――落ち着けよ、どチビ。
耳元で声がささやいた。