結局オタネ婆さんは小狼(シャオラ)の出産の時と同じに居座り、トルイも暇を見付けては入り浸ったので、西の森は今までになく賑やかになった。
小狼の額の傷は塞がり、外から見える怪我はほとんどが回復した。
まだ枕から頭が離れないが、たまに皆と雑談して笑ったりしている。
イルアルティは、能力に酷いムラがあった。
今まで人間の騎手相手の競馬しかして来なかったので、『無意識に使っていた風』は微々たる物だった。
その程度ならと長も見過ごしていたのだが、トルイ相手に眠っていた力が爆発してしまったのだ。
「俺はさ、分かるの。母さんが妖精だから。でもあいつは? あいつもどっちかの親が妖精だったりすんの?」
パォの前で並んで立つトルイとオタネ婆さん。
上空ではイルアルティが自分の馬に跨がって、半泣きになりながら課題の八の字乗りをやっている。
馬は婆さんの術で浮かばされ、了が出るまで地上に降ろして貰えないのだ。
「長様が仰るには、本当にたまたま、あの娘の両親とも大昔に妖精の血が入っていたらしい」
オタネ婆さんは、イルの両親が誰かを聞いていたが、長や小狼が言わないならば自分も言う物ではないと心得ている。
「へえ? だったらすっごく薄い筈だよね、半分の俺と違って。何で俺とガチで走れたの」
「一概に血の濃さなどで測るような物ではないのじゃよ」
婆は、娘の馬が傾き過ぎぬよう術で補助してやりながら、答えを続ける。
「父親方は多分蒼の妖精、母親方は他国の風の妖精じゃ。血が交じるというのは、時として思いも寄らぬ効果をもたらす事がある」
「そうなの?」
「我ら蒼の一族も、太古に風の霊峰から下りて来た風の民が始祖じゃ」
「あ、それ、母さんに教わった。そんで今の蒼の里に住んでいた大地の妖精と交わって蒼の一族になったんでしょ」
「ふむ、お嬢はキチンとお主にも里の歴史も学ばせておるようじゃな。
そういう理由で、血が交じわるという事を、我々はお主らが思うよりも深く考えておる。故に混血児の扱いにも慎重なのじゃ」
「じゃあ俺も、いきなりピキーンとか謎の力が目覚めたりする?」
「調子に乗るな、小悪童(わっぱ)が」
ようやくイルが八の字に見える形を描け、婆さんに許されて降りて来た。
「あ、足がガクガクですう」
「でも大分、風の加減が自分で出来るようになったじゃん」
最初は邪険だったトルイも、彼女の頑張りを認めて褒めてもくれるようになった。
訓練が終わったら病人の身の回り、水汲み洗濯、おつかいに馬の手入れと、彼女は本当にクルクルと働いた。
イルの話す遊牧民の日常は小狼のお気に入りで、トルイのツッコミと共に明るい時間が過ぎて行く。
このまま順調に時を重ね、細い繋がりを持ったまま其々の生活に戻って行けばいいと、皆が思っていた。
でも……
いつだって影は、油断している所に忍び寄る。
小狼の具合が一向に良くならない。
朝も夕もぐったりと瞼を閉じて食も進まない。
いやいや、外から見える回復と身体の痛みは別物なのだろう。焦らなくても今日よりは明日、明後日にはもっと良くなっている筈…………
「一度、蒼の長を呼んでくれ」
枕元でとうとうテムジンが言った。
オタネ婆さんが自分の馬で秒で消え、半刻もせぬ内に長と共に戻って来た。
怪我はほとんど治っているのに、小狼の身体に力が入らない。
体温が低いままで、体力をどんどん奪われて行く感じなのだ。今では枕から頭も上がらない。
テムジンと、トルイやイルも見守る中、長が病人の額に手を当て、身体中に気を巡らす。
「自分で何か、心当たりはないですか? 特別に重い箇所などは」
「いいえ、本当に分からなくて。ご心配かけてすみません」
取り敢えずの治癒の術を施し、枕元にイルを残して、一同は外へ出る。
「本当に原因が分からないのか? 何でもするから治してくれ」
「ヒトを万能みたいに言わないで下さい。体温が上がらないのは生命力が落ちているからです。なまじかの目で見える怪我より厄介なんですよ」
「生命力って……大好きなアルカンシラの娘に看病して貰って、何を落ち込む事があるんだ」
「本人も分からないと言っているでしょう。そう単純に割り出せる物ではありません」
大人の男性二人が言い争う横、トルイはパォを振り向く。
『アルカンシラ』という名前はイルも気にしていたが、二人で話し合って、容態が良くなるまで詮索しない事にしていた。
(母さんの、大好きな友達の娘って事? それで何で内緒にしてんだろ?)
などと思っていると、イルがパォから出て来た。
「何かあったのか?」
「いえ、今は穏やかに眠っておられます。あの、ちょっとお聞ききしたい事があって」
テムジンと長は緊張の顔をした。今の不用意な会話を聞かれてしまったか?
しかし娘の口から出たのは、全く別な言葉だった。
「怪我は綺麗に治ると仰っていたので安心していたのに、全然治る気配がないです。もしかしてずっと元に戻らないのですか?」
「ああ、貴女は心配しなくていいのですよ。怪我はほとんど治っています。後は何か別の原因が……」
「治っているんですか? 全然生えて来ないけれど」
――??
長はテムジンと顔を見合わせた。
「何が生えて来ないって?」
「羽根ですよ、背中の羽根。イルを庇った時、折って散らしてしまったでしょ? 綺麗に治ると仰ったから、すぐに生え揃うんだと思っていたんです」
――!!!
テムジンは長を見、長はオタネ婆さんを見た。
婆さんは全力で首を横に振り、長も振った。
そりゃ確かに、蒼の里にはごくごく稀に、先祖返りで『羽根の痕のような物』を持って生まれる子供はいる。だが妹にはそんなの無かった。今世話をしているオタネさんだって知らない。
イルが言うには、助けられて目を開けた時、周囲にキラキラした羽根が舞っていたというのだ。
背中には天使のように美しい女性。だから羽根はこの女性の物で、自分を受け止めた衝撃で折れてしまったのだと思ったと。
「見間違いじゃねぇの?」
トルイがぶっきらぼうに言った。
あの場にいた自分はそんなの見ていないし、鷹の眼にも記録されていなかった。
そう言われるとイルも自信をなくし、やはり見間違いだったという事に収まりそうになった……が、長が念の為と呟いて、パォに引き返した。
妹に横を向かせ、背中に手を当てる。何の痕もないツルンとした背中だ。
半信半疑の視線の中、長はハッと目を開けた。
「羽根・・!?」
「兄様?」
「確かに、背中の肌に、『羽根がここにあった』という記憶があるのです。貴女、知っていましたか?」
「えぇ? いいえ、いいえ」
「イルアルティの言うように、折れて散ってしまって今は、背が記憶に残しているだけ。ただその記憶が、根のように貴女の身体を縛っている」
小狼は狐につままれた顔をした。羽根なんて寝耳に水。しょっちゅう会っていた長にだって見えていなかったのだ。
「そいつが母さんの身体に触りを起こしているって事?」
トルイが叫んだが、長は即答出来なかった。
確かに原因はこれだろう。だがこの手の物は因果をキチンと紐解いてやらねばならない。あと……
(どうして自分には見る事が出来なかった?)
長は目を上げてイルアルティを見た。娘は女性の背を凝視して、口を結んで黙っていた。
***
城の書庫の奥深く。
蜘蛛の巣とホコリにまみれて、書物のトンネルから真っ赤な髪が抜け出して来た。
「何か用?」
「あの、お母君が、皇子様がしばらく見えないから、気にしていらっしゃいました」
イルは天井まで届く書物の山に目をパチクリしている。
「ああ、ずっとここに居たから……」
「さっき長様がいらして、王様と、里の治癒師を呼ぶ算段をしていらっしゃいました」
「で? 俺が行ったってどうなる訳でもないだろ」
「…………」
小狼の容態は変わらない。
蒼の長が数日置きに術を掛けに来てくれるが、一時回復しても翌日には後戻り。
それでとうとう、『背中に根付いている羽根の記憶を抜き去る』という手段を取る事になった。
難しい技術で、長以外にも里から専門の治癒師を頼む。
因果が分からないのが不安だが、後になる程小狼の体力がもたなくなるのだ。
トルイは起きている時間の全てを羽根の事を調べるのに費やしていた。
オタネ婆さんをせっついて、どんな僅かなヒントでもないかと聞き出そうとした。
その段階でアルカンシラという女性が蒼の里でイルを生んだ事も打ち明けられたが、羽根には関係なさそうだった。
書庫に潜って古い書物を掘り起こし、羽根に関連しそうな物を片っ端から読み漁る。
多分、婆さんや長も同じような事をしただろう。あのヒト達に比べたら自分の調べられる範囲なんて蚤の歩幅だ。
それでもトルイは何もせずにいられなかった。
「お前、用事がないならパォへ戻れよ」
「イルは、あの羽根、消し去ってしまっていいのか不安なんです。皇子様もそうじゃないんですか?」
「お前……」
確かにそうなのだ。
あの時、羽根なんか見えなかったけれど、石つぶてみたいに飛ばされたイルとそれを受け止めた母親。
自分は両方とも無事では済まないと思った。下敷きになった方は身体が千切れてしまうのではないかという位。
だけれど母の怪我は思った程ではなかったし、イルなんか無傷だ。
考えてみれば、あれだけの勢いなら地面にバウンドするか転がりそうな物なのに、背中から一回着地して終わり。
そう、イルの言うように見えない羽根が折れてクッションになってくれたのだろう。
何で? たまたまあった見えない羽根が、たまたま助けになっただけ?
それだけで済ませてしまうには、何か危ういのでは……トルイはザワザワした胸騒ぎに突き動かされていた。
コトリ・・ 書庫の入り口で音がした。
二人の少年……ヴォルテ妃付きの小姓が、大きな長持ちを運んで来てそこに置いたのだ。
「トルイ皇子様、あの、王妃様のお言い付けで、これを」
「ではお渡ししました。これで」
二人は銀の瞳を恐れるように、そそくさと去って行った。
「あの人が、何を?」
長持ちを開いてびっくりした。
美しく整頓された書物。どれにも羽根の絵や文字があり、明らかに羽根に関連する文敵を選って集めた物だ。
「どうして、急に?」
イルが横から覗き込んで、キョンと言った。
「お城の王妃様は、博学でかなりの蔵書家だと、イル達平民にも伝わっています。でも行動がお早い」
「お前……?」
「さっき、お城に入った所で呼び止められたのです。王様と皇子様の様子が最近ただならない、さすがに気に掛かるから教えて欲しい、って」
「それで、ベラベラ喋ったの?」
「皇子様の血を分けた方のお母様が、羽根が折れて病んでいて、治す方法を探しているんです、って。何もやましい事はないと思って」
イルはケロリと言った。
「いけなかったですか?」
「いや……」
トルイは、書物の一つを手に取って、パラパラと捲ってみた。
書庫の物と違って、保存状態が段違いに良く、大切に扱われていたのが分かる。
……そして、あの人が自分を知らないのと同じに、自分もあの人を知らないのだと気が付いた。
イルが西の森へ戻った後、トルイは長持ちの書物を備(つぶさ)に調べた。
古い民話、伝承……
何となく意味があって一つに繋がって行く気がした。
そして、最後に長持ちの底に残った一冊・・
それを手に取った瞬間、トルイの前髪を風に吹き上げた。
理屈じゃない、全身の血がその書物に惹かれる。
――全ての風が生まれ還り行く場所・・風出流山(かぜいずるやま)――