夜中の森を掻き分けて、徒歩でパォに近付くトルイ。
どんなに叱られたって、縁を切られたっていい。母さんの草の馬が必要だ。
パォの灯りは消えている。
オタネ婆さんもイルも寝静まっているのだろう。
母さんの馬は、いつもあの辺りで休んでいる筈……
身を低くして歩いていて、太い灌木にぶつかった。
こんな所に木なんかあったっけ?
・・見上げると、二つの鋭い光!?
尻餅を付いたトルイの前、灌木のような太い前肢でヌッと立つのは、母の馬ではない。
蒼の長の愛馬『闘牙の馬』が、爛々(らんらん)と光る目で皇子を見下ろしている。
「え? 長はまだ居るの?」
「いえ、蒼の長様が置いて行かれたんです」
馬の後ろからイルがひょいと顔を出した。
「皇子様が草の馬を盗みに来るだろうから、こちらの馬の方が力があっていいでしょうって」
「ぬ、盗むって人聞きの悪い。ちょっと借りるだけ……」
「王様は、皇子様が何をしようとしているか、ご存知なようでした」
イルがスィと差し出した包みは、母の白銀の剣。
「三日だけ待つ、明後日の日の入りまでに必ず戻れって仰っていました」
「……親父、長……」
剣を受け取り、トルイは目を閉じて感謝を念じ、そしてキッと顔を上げた。
馬の腹帯を締め直し、決意新たに、勢いを付けて跨がる。
「行くぞ!」
「行きましょう!」
後ろにイルがチョコンとよじ登る。
「待て待て待て! お前は降りろ、 何考えてんだ!」
振り向いたトルイは、イルの手の中にある杖を見てしゃっくりしたみたいに息を呑んだ。
エンジの柘榴石が先端に付いた、オタネ婆さん愛用の杖。
「ガ、ガメて来たのか?」
「まさか人聞きの悪い。ちょっと借りて来ただけです」
「…………」
「今から行く所は、妖精さんにとっては禁忌の山なんでしょう?」
「……何で知っている?」
禁忌の地、風出流山(かぜいずるやま)。
長持ちの底に残されたその書物に、トルイは酷く惹き込まれた。
羽根を失くした有翼人が、山で新たな羽根を授かる、何て事はないお伽噺(とぎばなし)。
しかし書物には地図があり、現実の地図と同じ。山も、名前は違うがちゃんとある。
普通の馬ではとてもたどり着けない高山。だけれど草の馬なら可能かもしれない。
そう思うともう、そこへ行く事しか考えられなくなった。
だが妖精の禁忌の地だと記されている。
何か理由はあるんだろう。意味もなくそう呼ばれたりはしない。
相談したってきっと反対される。だからこっそり行こうとしたのだ。
「ただ俺が惹かれただけなんだ。骨折り損の可能性の方が高いんだぞ」
「でも行くんでしょう?」
「…………」
「皇子様」
イルはシンと畏(かしこ)まった声を出した。
「長様達は、皇子様に、何も期待していません。ただ気の済むようにやらせてあげたいだけ。闘牙の馬を置いて行ったのは、皇子様を守らせる為だと思います」
「…………」
「でもイルはそうは思っていません」
顔を上げてきっぱり言う娘に、トルイは一瞬気圧された。
「皇子様、最初に草原で逢った時、どうしてイルを追い掛けたんですか?」
「えっ、いや、そう聞かれても、何となく、面白そうだったから」
「それが答えです、皇子様の『何となく』は凄いんです」
「ちょっ、待っ、何でそんな自信満々……」
「誰が何と言っても、イルは、イルを見付けた皇子様を信じます」
結局押し切られて一緒に出発した二人を、パォの陰からテムジンとオタネ婆さんが見上げていた。
「すげぇな、あの屁理屈。婆さんが仕込んだの?」
「まあ、儂の弟子じゃでな。しかし小悪童(わっぱ)が、本当に山の情報を調べ上げるとは思わなんだ」
「まあ、俺の子だもん」
***
イルアルティは根っからの草原育ちだ。
山といっても、頂が一つポンとあるお饅頭のようなお山を想像していた。
だから今、翼を広げたように連なる白い稜線群を見て、クラクラしている。
しかも寒い、オタネお婆さんに『ありったけを着て行け』と言われた事がヒシヒシと有難く感じる程に寒い。
馬上で、トルイは荷物から毛皮を引っ張り出した。
「着ていろ」
「皇子様は?」
「いいから着ていろ。足手まといになられても困るんだよ」
休ませてやりたいが、丸一日飛んでもう日暮れ近い。帰りの事も考えると一刻も早く山に着きたかった。
もやの中、ひときわ高い頂がヌッと現れた。ここいらで一番高い山の筈だから、きっとあれだ。
トルイは馬を上に向けようとしたが、何でか風に乗れなかった。
それどころか、山懐に入るにつれて経験した事もない気流に翻弄される。
「こ、こんなの、習わなかった」
闘牙の馬じゃなければ飛んでいられない。水圧に近い風にぶつかられる中、イルが叫んだ。
「皇子様、あれ!」
前方の急斜面を岩塊が転がり落ち、雪煙の中から生き物が飛び出して来た。
毛むくじゃらの……熊? 違う、翼が開いた。
人間大の巨大蝙蝠(こうもり)!!
「ニ、ニンゲン、ニンゲン、キタ!」
灰色のマダラ模様の魔蝙蝠が数匹、気流に乗って舞い上がる。
この山に定住している魔物だろう、小さい翼のくせに、乱気流に自在に乗っている。
縄張りを死守するタイプか、曲がった鉤爪を振り上げて四方から威嚇して来る。まずい。
トルイは剣を抜いた。母に一通りは仕込まれている。
破邪の光で怯ませて、その隙に離脱。この馬なら行けるだろう。
しかしイレギュラーな横風が来た。
しまった、馬が傾いて……
・・・・
魔物達が止まっている。
どうした?
それぞれが黄色い目を見開いて、トルイの後ろを凝視している。
振り向くと、イルが柘榴石の杖を高く掲げていた。
「オタネ、オタネノ姉御――!」
「ナンデ、ソンナ、縮ンダ?」
何とまあ、蝙蝠型の魔物達はオタネ婆さんの旧知だった。
しかも会話が通じた。
オタネ婆さんの弟子だというと、彼らの洞穴に案内してくれた。
「知っていたの? イル」
「いいえ。でもお婆さん、若い頃ヤンチャしてあちこちに子分を作っていたって。冗談だと思っていたら本当だったんですね」
「…………」
どんなヤンチャだったか知らないが、『氷蝙蝠(コォリコゥモリ)』達は親切に、凍えた二人の為に火を用意してくれた。
トルイ達の事情を聞いて、洞穴の奥から真っ白な老蝙蝠の手を引いて来る。一番長く生きている蝙蝠らしい。
「コノ山ノ、チョウジョウハ、ヨウセイニハ、キンキ」
「俺達は妖精と違う。貴方がたの理(ことわり)からは外れない筈だ」
老蝙蝠はしばらく渋ったが、イルが命の恩人を助けたい気持ちを一生懸命伝えると、心を動かされたようだった。
若い者に地図を持って来させて、説明を始めてくれた。
「コトワリユエ、オタネニモ、言ッタコトナイ。オヌシタチノ、ムネダケニ、オサメテホシイ」
風出流山(かぜいずるやま)・・禁忌の霊峰は、今見えている範囲ではなく、その背後に、もやに包まれて天にも突き刺さる如くに存在すると。
「あれより高いの!?」
その頂上直下に神殿がある。いつ誰が建てたのかも分からない氷の神殿。封印が効いている為、妖精には近寄れない。ただ妖精に対する封印なので、トルイ達には近寄れるだろうとの事。
「妖精にだけ……?」
「ヨウセイニハ、フコウシカ持タラサヌト、言イ伝エラレテイル」
蝙蝠翁も先代からそう聞かされただけだ。
先祖代々口伝(こうでん)されている内に、失する事柄もあったのだろう。
それでも行くという意思を見せると、蝙蝠達は、気流の荒れている山懐(やまふところ)の外までの案内を約束してくれた。
ありがたい。イルが柘榴石の杖を持って来てくれたお陰だ。でも……
朝の幾分凪いでいる時に出発するからそれまで休めと、蝙蝠達は毛皮を敷いて床を設(しつら)えてくれた。
周囲が寝静まってから、トルイは隣に話し掛けた。
「イル、お前、ここに残れ」
娘は寝返りを打ってこちらに向いた。
「人間とはいえ妖精の血が混じっている。不幸って奴がどんな物か分からないし、呪いを被ったら洒落になんないだろ」
「皇子様だっておんなじです。イルがはいそうですかと引き下がるとでも思っているんですか」
青みをおびた白目に浮かぶ真っ黒な瞳にじっと見つめられ、トルイはドギマギした。
「いやだから、その自信は何処から……」
観念して、トルイは上を向いて、はぁ・・と息を吐いた。
「お前さ」
「はい」
「皇子様って呼ぶのやめない?」
「…………」
「トルイでいい。俺の好きな奴で皇子様って呼ぶ奴、いない」
「…………」
返事がないので見ると、娘は口を半開きにしてクゥクゥと寝息を立てていた。
自由だなっ!
山鳴りが響いて洞穴を揺らす。
氷蝙蝠達にはこんな夜が日常なんだろう。
世の中には自分の知らない日常が沢山ある……と思った。
朝になり、一体の若い蝙蝠に先導されて二人は出発した。
昨日程ではないにしろ、また突風に煽られる。蝙蝠はヒョイヒョイと風を受け流しながら、こちらを振り向いては風が来るタイミングを教えてくれた。
見えている頂を越えると、なるほど向こうにうっすら山影が現れた。
「ココカラ先ハ、ワレワレモ、行ッタコト、ナイ。アンナイ、ココマデ」
「ありがとう、氷蝙蝠さん」
若い蝙蝠は無事を祈る手旗(サイン)を送りながら去って行き、二人は闘牙の馬の上で感謝の手を振った。
ここからは本当に、未知の領域。
風圧は緩くなったが、多分空気が薄くなったせいだ。
闘牙の馬が風を孕めなくなっているのが分かる。
雪の斜面に着地しては少し飛ぶ事を繰り返したが、ある地点でもう舞い上がれなくなった。
蝙蝠翁が教えてくれた頂が見えている。
もう少しだ、後は歩いて。
最初乗馬していたが。流石の闘牙の馬も、雪を掻いての登りは体力を消耗する。
トルイが降り、そしてイルも降りた。
「お前は乗ってろよ」
「イルはこれでも重いんです」
「お前さ、屁理屈こきの意地っ張りって言われない?」
「お父さんによく言われます」
二人は馬の踏んでくれた跡をザクザクと歩いた。本当に闘牙の馬がいていれて良かった。長の事をシスコンとか好好爺とか陰口言うのはもうよそう。
「お父さんって、どっちの?」
「人間の方のお父さんです。長様の事は私が勝手に呼んでいるだけだし」
「人間の家族が好きか?」
「はい、皇子様・・トルイさまも、そうでしょ」
「俺は違う……」
「…………」
「もしお前が、こんな真っ赤な髪に銀の瞳をしていたら、お前の家族は受け入れてくれたかな?」
しまった、こんな女々しい事を言うつもりじゃなかったのに…… トルイは後悔したが、イルは暫く視線を空中に游がせ、ああそうか、と呟いた。
「イルは小さい時から青い髪のヒトを当たり前に見ていたから、トルイさまを初めて見た時、ああ都には赤い髪のヒトもいるんだ、って思いました」
「……?……」
「銀の目が光った時はビックリしたけれど、やっぱりイルが知らないだけで、広い世界のその辺には、その位の人、普通にゴロゴロいるんだろうなぁ、って」
トルイの目の前で何かがパンと弾けた気がした。
「イルのお父さんも同じだと思います。子供の頃に青い髪の子と友達だったんだから、もし赤い髪のイルが落っこちていても、あんまり何も考えないで拾い上げるんじゃ…………? 何笑ってるんですか?」
「ああ、何でもない、何でも……」
皇子は笑いすぎて涙をこぼしていた。
こんな雪と氷の世界で何かを溶かす力があるなんて……こいつ、凄いよ……