四つ足の馬では厳しい角度の崖が出現した。
小さな人間なら登れそうな細いキレットがある。
「お前、ここで待っていてくれる? 明日中には絶対に戻るから」
鐙(あぶみ)を上げ、手綱を鞍に縛って、トルイは馬の両頬を挟んで銀の目で見つめる。
もう二日目の夕方。明日の日の入りまでが大人達との約束だ。
崖は思ったより短く、二人はほどなく広い棚に出た。
山の頂点が目の前にそびえる。
その真下は見上げるような氷の壁。
表面はツルツルで何の取り掛かりもない。
ここから先には進めないのか?
しかしイルは、ニコニコしてその壁を見上げている。
「やりましたね!」
不思議顔で、何が? と聞く皇子に、イルは戸惑って答えた。
「え、確かに、神殿にたどり着くだけじゃ駄目なんだけれど……」
「神殿って、どれ?」
イルが指差す場所は、氷の壁があるばかりで、どんなに目をこらしたって何も見えない。
イルは罰悪い顔で黙ってしまった。
こいつは意地っぱりだけれど、嘘は言わない。
「どんな神殿?」
「あ、はい。・・太い氷の柱が両側にそびえて、大きな入り口。奥は山を堀り抜いた感じで、先が見えません。でも入り口が氷漬けです」
「入れないの?」
「はい……ただ、ここに意味のありそうな標(しるし)があるんです」
イルが進み出て、雪原のある一点に立った。氷の壁の真正面で、足元の氷の下に太陽の標があるという。トルイにはやはり見えない。
「解錠の魔法、使ってみましょうか」
「あ、それなら俺も習ってる」
二人で並んで、杖と剣を掲げて呪文を唱えた。
小さな風が立ち上がって氷壁を撫でる。
――パシン!
氷に亀裂が入った。それが瞬く間に広がって・・
やったか? と思うより早く、氷壁が一気に砕けた。
開錠の魔法が効いた? 違う。
巨大な破片が鋭い切っ先を向けて、二人目がけて一斉に飛んで来た。
招かざる者に対する攻撃!?
「あぶな・・!」
トルイは咄嗟にイルを庇うが、剣で弾ける量じゃない、やばい!
地を這うように一直線に雪を蹴るモノがあった。
それは一瞬で、牙で男の子の襟首を、爪で女の子の胸ぐらを引っ掛け、垂直にジャンプした。
氷のナイフ達は二人のいた地面に刺さり、盛大に砕けて白い粉となる。
いきなり空に連れて行かれた二人は、今度は急下降し、地面にゴロンと放り出された。
何が起こったのか?
転がったまま呆然と見上げる二人の前に、見馴れすぎた赤い色。
「お前らの来る所じゃねぇ! どチビどもが!」
***
燃えるように真っ赤な、水牛ほどもある狼。
口の端からも炎がチロチロと洩れ、銀の三白眼は鋭い光を放っている。
魔物? 神殿の魔物だろうか?
しかしトルイは、それ以外の事で頭が一杯になっていた。
何で俺と全く同じ色の赤い体毛、銀の瞳? 何で、何で?
狼は踵を返すと、「帰れ!」と言い捨てて頂上の方に跳び、姿を消した。
「ま、待って」
トルイが追い掛けようとするのを、イルが腕にぶら下がって止めた。
「罠かもしれないです!」
「邪魔す……」
怒鳴りかけたトルイの両頬を、小さい両手がパチンと挟んだ。
「何すんだ!」
「貴方は何をしにここへ来たの!?」
「あ・・」
目の前に火花が散ったかと思ったら、いきなり氷壁に巨大な神殿がそびえ立った。
「ああああ、ああ・・!」
「見えるんですか?」
「ああ……」
「良かった」
「俺、覚悟が足りなかったのかもしれない」
トルイは肩で息を付いて、イルをしっかり見た。
「すまなかった」
「いえ、こちらこそすみませんでした。ほっぺ、痛かったですか?」
「いや……」
オタネ婆さんがこいつに無理矢理な自信を植え付け、着いて行くよう仕向けた理由が、トルイはだんだん分かって来た。
とにかく結果だけ見ると、神殿の入り口は開いた。
さっきの事を考えると足を踏み入れるのも恐ろしいが、行く以外にない。
「神殿っていうと、奥に本殿があったりするんでしょうか」
「イル、そっち半分気を付けていてくれよ」
エントランスの階段を上り、広いホールに出る。いきなり奥に向かって真っ直ぐな廊下。
枝道は一切無さそうだ。
「嫌な作りだな」
「奥に……行くしかなさそうですね」
二人並んで、ゆっくりゆっくり氷の廊下を歩く。
外の風の音すら遮断されているようで、静か過ぎて不気味だ。
床も壁も鏡のようにツルツルで、二人の姿を二重三重に写し出す。
トルイは緊張して息が詰まって来た。
「ほっぺ、やっぱり痛かったですか?」
「違うって! 何故それをそんなに気にする!?」
「皇子様だから、ほっぺパチンされた事ないかなぁって」
「ほっぺパチンて……」
「イルのおうちではそう言って、我が儘言ったり悪い事をしたらパチンってされるの」
「親父さんが?」
「お父さんもお母さんもお兄ちゃんもお姉ちゃんも。イル末っ子だから一番一杯される」
「…………」
「された事ない?」
「ないな。頬を張られた事はあるけれど」
「お父さんに?」
「母さん。俺が小さい頃、勝手に草の馬に乗って飛びそうになった時。俺も浮かぶと思っていなかったし」
「わあ・・」
「母さんのあんな怖い顔見た事なかった。俺、吹っ飛んだもん」
「その後ヨシヨシしてくれた?」
「ないよ! 何だよそれ、こっ恥ずかしい」
「イルんちでは、泣きべそしてたらヨシヨシされるよ。末っ子だから一番一杯される」
「俺は泣きべそなんかしない!」
何だか喋っている内に気味が悪いのも吹き飛んで、歩幅が大きくなって行った。
イルは本当に規格外なのだ、色んな意味で。
グングン歩いて、とうとう両開きの大きな扉に突き当たる。
天井まである重そうな扉。
頷(うなず)き合って、片側の取っ手を二人で協力して押したり引いたりした。
固い。当たり前だ、どれだけの時間締め切りだったのか。
それでもやっと少しの隙間を作り、人の通れる隙間をこじ開けた頃には、随分時間が経ってしまっていた。
「はあ、ふう、ちょっと休む?」
「王様達に言われたタイムリミットがあります。行きましょう」
トルイを先頭に、隙間から身体をねじ込むと、内部は以外と明るかった。
天井の円いドームから中央に光が降り、肩で息をしている二人の吐息がやけに響き渡る。
けっこうな広間で、奥には祭壇。
やはり神殿の本殿なのだろうか、壁一面に何やらレリーフが刻まれている。
「見て……!」
イルが掠れた声で叫んだ。
レリーフは羽根のあるヒト達の絵柄だった。大きな鳥のように厚みのあるたっぷりとした羽根を持つ、有翼人。
「やった! やっぱりここで正解だったんだ!」
後は、そう、この部屋をくまなく調べよう。
どこかに文字があるかもしれない、それともレリーフに何かヒントは?
キョロキョロしているトルイに、イルが寄り添った。
「このレリーフ、何だかおっかないです」
「そう?」
「生きているみたいで……」
「まさか、怖い事言うなよ」
「
イルが視線で指した先、祭壇の真後ろに、一際大きい像が立っていた。こちらはレリーフでなく立体だ。
右手にドクロ、左手に一本の羽根を持ち、他の物に比べて確かに生々しい。
「他のより精巧に作ってあるからだよ。そんなに言うなら風の魔法で問い掛けてみる? 何か反応したら儲け物だし」
「でも……」
「何かやらなきゃ進まないだろ。ああ、よく見るとこのホールの床の中心、太陽の標じゃないか。
一歩踏み出すトルイを、イルが引っ張った。
「イルがやります。何かあったら助ける役は、トルイさまの方が頼りになりますから」
「そう? うん……」
確かにそうではある。
イルは太陽の標に立ち、石像に向いて柘榴石の杖を掲げる。
トルイは剣を構えて背中合わせに立ち、剣に術を含ませて、何かが飛んで来ても対処出来るように身構えた。
「いいぞ」
イルが教科書どおりのきれいな呪文を唱える。
風が渦巻いて、祭壇の像だけでなくレリーフ達も撫でた。
何か起こるのか?
起こらないのか?
天井がザワザワとどよめき、降りていた光が陰った。
次いで黒い塊がシュンシュンと飛び回る。
――羽根ヲヨコセ
――ハネ、ハネヲ・・
黒い影の一つがトルイ目掛けて降って来た。
「は、破邪!」
慌てて呪文を唱えて剣を振るが、水を斬ったみたいな感触だ、やっつけた気がしない。
天井の魔物は増えて行く。
床にも黒いもやが湧いて来た。
まずい、まずいまずい・・!
――こっちだ!
喧騒に混じって明確な声がした。
――走れ!
トルイは後ろ手でイルの腕を掴んで、声の方へ駆け出した。
途端、床が消えて足が空を切った。