旅の終わりの、更にその先の物語。 作:しろまち
終わりの無い影の出現。それが止み、今まで綾凪全体を覆おうとしたそれらが溶けて消えていく。
それはまるで、波が広がるように。その波が静かで平らな水面と変わるように。
心の奥底に、言いようの無い安堵感が広がっていく。その感覚に遅れる形で、何かが終わりを迎えたのだと悟った。
「消え……た……?」
影が消えた。綾凪を覆い尽くさんとした深くて先の見えない黒い闇も薄まり、辺りの暗さは見慣れた夜の暗さに変わる。空には、いつもの青白い色の月が在った。
ペルソナの酷使の所為だろうか。身体に疲労感が纏わり付きながら慎が肩で呼吸を繰り返していると、視界に黒い襤褸布が映る。
分銅の付いた鎖を揺らし、剣を携えたその襤褸布の姿は透けていた。否、透けていく。それを黒い襤褸布も感じているのか、ゆらゆらと揺れる黒い襤褸布から声が漏れた。
『……信じていたよ』
信じていた。何を。湊と美奈子が、綾凪ひいては世界に黒い影であり人々が死に向かう衝動を食い止める事を。それをやり遂げる事を。
黒い襤褸布の短い言葉とは裏腹に大きな意味を持つ事に、慎は思わず身体の力が抜ける感覚を覚える。しかし黒い襤褸布が次に向けた言葉によって、慎の思考は慌ただしく移り変わる事となった。
『君達はどうするの?』
黒い襤褸布の骸骨のような顔が向けた先は、結祈とアヤネ。
結祈とアヤネも同じように綾凪市から影が消えていくのを見つめ、それから問い掛けにアヤネは首を横に振った。
「わたしは、くじらに還るだけ。くじらの中に在るものだから」
くじら。普遍的無意識の集合体。人々の死に向かう衝動によって一時浮かび上がり、アヤネもこうして姿を現したがそれが遠ざかればくじらも深く在るべき場所へ沈む。くじらと溶け合ったアヤネもまた、同じように心の海へ還るだけだという。
そう語りながら、アヤネは慎を見る。諒も慎の傍らに立ち、アヤネの言葉を待った。
「……羨ましかった」
くじらの中に沈む事は、アヤネ自身が決めた事だった。
これはしてはならない事。あってはならない事。だから、と思う一方で、あの実験を受け入れたのは父に褒めて欲しかったからだった。
父に喜んで欲しかった。父の為なら、辛い実験も耐えられた。人為的にペルソナというものを取り付ける行為をしてはならぬと思い、自らをくじらの中に溶け合わせた後でも、父に愛されたい思いは変わらなかった。
だから、10年前の綾凪の海辺で。
父と母と、子供と。仲の良い親子。それが羨ましくて、妬ましかった。
どうして、わたしはお父さんにただ愛されたかっただけなのに。どうして、それなのにあんな風に愛し、愛されているのだろう。わたしはそれが叶わなかったのに。
わたしも欲しかった。欲しくて手を伸ばして、それはペルソナに覚醒した慎によって、叶わなかったけれど。
少し透け始めたアヤネから、10年越しに秘せられていた思いが心に直接流れて伝わって来る。
彼女、アヤネもペルソナ研究の被害者だった。父という大人の都合に振り回され、肉体という軛から解放されても父への思いに苦しんだ。
それでも。
「……俺はまだ、君を許す事は出来ない」
兄、諒に支えられながら、慎はアヤネに言う。
両親が許されざる研究に加担していたのは分かっている。アヤネも哀れな被害者だったというのも分かる。アヤネを追い詰めた張本人である小松原を、父を責められなくて、協力していた慎達の父と母に理不尽さの矛先を向けるのも理解出来る。たとえ父の為とはいえ、人体実験同然の事をされて、それ故に綾凪の海中に沈むのをアヤネ自身が選んだのだとしても、そう追い詰めた者達が幸せにしているのを見たら、怒りだってしたくなるだろう。
けれど、慎にとっては。否、諒や洵と結祈にとっても。たとえどんな事をしていたとしても、大好きな両親であったのは変わらない。
10年前の出来事を思い出してまだ経っていない事もある。時が経てば薄まるかもしれない痛みや感情は、しかし思い出してからあまり経っていない分まだまだ深く根強かった。
「俺は……憶えていようと思う。父さんと母さんがした事で、君が父さんと母さんに何をしたのか。だから、君も憶えていて欲しい。君がそうした、父さんと母さんの事を」
喪った人は戻って来ない。犯した罪も消えない。
大人が作り出した禍根を子供が背負うべきではないと、父と母と共にペルソナ研究に加担したひいらぎ製薬社長の柊が言っていたけれど。それによって子供達に起こった事が無くなる訳ではない。
ならばどうしたらいいか、なんて、きっと適切な正解なんてものは無いのだろう。それでも取り戻せず、消えないというのなら。
その痛みを、消えさせないという想いに変えて。否定せず、抱き締め続けていよう。
無意識に拳を作って強く握り締める慎の手を、諒が上から己の掌で包んで重ねる。そして結祈もまた、アヤネの手を取った。
「洵じゃないけど、わたしが一緒に居るよ」
もう寂しくないから、と結祈は微笑む。
ひとりで居たくなかったから、アヤネはひとりになりたい洵をくじらの許へ連れて行った。
けれど、洵はまだくじらの許に行くべきでは無いから。洵の身体には、洵が居るべきだから。
結祈の言葉にどうしたらいいのか分からないようで、けれども何処か泣きそうに手を握り返すアヤネに結祈は寄り添いながら、慎と諒、それからまだ眠っている洵を見た。
「諒お兄ちゃん、慎お兄ちゃん……洵。皆、仲良くしてね」
「……結祈」
「大丈夫。わたしはずっと、ずっとお兄ちゃん達や洵の心の中に居るから」
だから寂しくないよ、と結祈が笑い、アヤネと並び合う。
結祈、と慎と諒が結祈に向かって手を伸ばす。しかしその前に何処からか白い羽根が目の前を覆い、それが全て消え去る頃には結祈とアヤネの姿は無かった。
「結祈……」
「……結祈は、俺達の心の中に居る。これまでも、これからも、ずっと……そうだろう?」
「……うん」
伸ばす先の無くなった手を下ろす慎に、諒が穏やかな声音で告げる。それは慎に対してだけではなく諒自身にも言い聞かせているかのようで、慎は静かに頷いた。
『……おかえり』
そこで不意に、唐突に黒い襤褸布が小さく言葉を漏らす。
姿や気配から感じる恐ろしいものとは裏腹に酷く柔らかい響きに慎と諒が我に返るようにして黒い襤褸布の方を見ると、黒い襤褸布の姿は既に薄れてほとんど消えかけていて、その透けた先に見知った姿が近付いて来るのが見えた。
「有里!」
慎が思わず叫んだ時には、黒い襤褸布の姿は無い。まるで最初から居なかったように消えてしまったその姿よりも、慎の意識は戻って来た湊と美奈子に向けられていた。
こちらへ向かって歩いて来る湊と美奈子を挟んで、灰髪の青年と黒髪の少年が互いに身体を支えながら歩いている。誰だろう。慎には覚えが無い二人だ。知らない二人、それにどうしてだろう。もう一人居た筈なのにと有り得る筈の無い思考が意識の端に掠めながらも、両者が湊と美奈子と支え合っているように見える様に慎は何故だかとても安堵した。
湊と美奈子が顔を上げ、慎達の方を見る。目が合い、何かを言おうと口許が動いた――と思ったのも束の間、目の前で湊と美奈子の身体が前のめりに倒れた。
「あ、有里……!」
慌てて慎が駆け寄りながら腕を伸ばすが、それには距離が遠い。
両脇に居た灰髪の青年と黒髪の少年も気付いて身体を支え直そうとするが、間に合わない。むしろ逆に引っ張られて、両者とも体勢を崩し掛けてしまっていた。
このままでは、四人纏めて転倒してしまう。思わず顔を青ざめさせる慎と倒れ掛ける四人の間に、さっと誰かが割り込んだ。
「あ……」
その誰かは主に湊と美奈子を抱き留め、次いでその両脇に居た二人も支えて転倒を防ぐ。
危うく目の前での転倒を免れた事に対して慎はほっとしつつ、四人の身体を支えたその男を見つめた。
いつの間に現われたのだろう。それも誰だろう。分からないし、知らない。真田や戌井からは綾凪市に迫っていた脅威にあたり、関係する別の機関か何かからも協力を仰ぐとか何とか言っていたような気がするが、そこの関係者だろうか。
倒れた時点で、湊と美奈子は意識を失ってしまったらしい。男にぐったりと身体を預けながら、その目は伏せられて静かな寝息を立てている。一方で灰髪の青年と黒髪の少年は、自分達の身体を支えた男を少し呆けたような顔で見上げていた。もしかしたら、あの四人にも慎と同じくこの男が誰なのかは分かっていないのかもしれない。
そんな四人をしっかりと支え、男は湊と美奈子、それから灰髪の青年と黒髪の少年の頭を労うように掻き乱す。
「よくやった」
そう紡ぐ口許は、酷く艶やかに。
白み始めた空の下、男の片耳を飾るピアスが夜明けの光に美しく煌めいた。