旅の終わりの、更にその先の物語。 作:しろまち
教室の窓から見える空は青く、日差しも暖かで良い天気だ。
青緑色の月が浮かび、黒い影が綾凪を覆い尽くさんとしたあの夜。あの夜が明けたのを境に無気力症候群の患者は何事も無かったかのように一斉に元の状態へ戻り、リバース事件もぱったりと起きなくなった。
あの夜の事は真田や戌井が関わる組織と警察による情報統制で、表向きには集団ヒステリーによる混乱という事にされている。勿論、人の口に戸は立てられぬもので、ネット上やらゴシップ誌には色々とある意味真実に近いような事も書かれていたりして騒がれてはいる。しかし同時に、人の噂も七十五日。それも世間の他の話題に紛れて、目立たくなっていくだろう。
真田と戌井からは、あれから所属する機関の他に外部から介入があり、指揮系統や組織そのものが刷新される予定だという。それで今は色々と慌ただしくなっているという事だったが、そう話す真田と戌井は何処か安堵しているようでもあった。
今、この教室内に湊と美奈子の姿は無い。
湊と美奈子は転校するのだという。転校先は知らない。その行き先を、慎は知らされていなかった。
知らされたのも、決まったのも急な事だったらしい。今日にはもう綾凪市を出るようで、学園内にも居なかった。
慎も元々、転校して来た身だ。色々な都合で急に転校になってしまう事だってあるだろう。それを頭では分かっていても胸はざわざわと落ち着き無く、気付くと慎は授業中にもかかわらず勢い良く立ち上がっていた。
「……どうした?」
教壇に立つ教師、小田桐の視線を受けて、そこで慎は我に返る。
今は授業の真っ只中、しかも指名された訳でもないのに突然勝手に立ち上がる。不審に思われて当たり前だ。クラスじゅうから一斉に慎へと視線が集中し、慎は酷く居たたまれないまま立ち竦んだ。
恥ずかしい。居堪れない。何か言おうにも上手い言い訳などひとつも浮かばず、明らかに挙動不審な状態で居る慎を小田桐は暫く無言で見つめた後に小さく息を吐いた。
「……顔色が悪いな。授業はいいから、保健室まで行くといい」
「……え」
思わず慎が小田桐を見ると、表情を変えないままの小田桐と目が合う。
「一人で行けるな?」
その前に言われた事を考えるのなら、その問い掛けは保健室へ、だったのだろう。だが、慎を見る小田桐の目はそれ以外の意味を含んでいるようで、それを察するというよりも都合が良い方にと考えるようにして慎は頷いた。
鞄を手に、顔色が悪いと言われたようには見えない慌ただしく急いだ足取りで席から教室の外へ向かう。教室を出る直前には慎を見つめる拓郎とめぐみが力強く頷き、慎もそれに無言ながらもしっかりと頷き返してから教室を出た。
教室から廊下へ。廊下から下駄箱へ。下駄箱から校舎の外へ。授業中の為、校舎外のグラウンドでは他学年が体育の授業を行っていた。
授業中なのに一人で校舎から出て来る慎に、訝しげに幾人かの生徒達から視線を向けられるが構っていられない。半ばグラウンドを突っ切るようにして慎が走っていると、校門を舞子が開けている所だった。
「大橋先輩!」
舞子に気付いて慎が声を上げると、ジャージ姿の舞子が慎一人分通れるくらいに校門を開けて手招いた。
「気を付けてね!」
「ありがとうございます!」
立ち止まっている余裕は無く、舞子も引き留める事はしない。擦れ違い様に声を掛け合うに留め、慎は舞子が開けてくれた校門から外に出た。
向かう先は綾凪駅。何処へ転校するのかとは聞けなかったが、何処かへ行くのなら大体は綾凪駅からの電車で行く事になる。
そう判断した慎が一心に息を切らせて綾凪駅へと目指して走っていた所で、その慎の横に一台の車が停まった。
「慎」
「あ、兄貴……」
車のパワーウィンドウが下げられ、運転席から諒が呼び掛ける。
「何をしている」
「それ、は……」
どうして、と慎が言うよりも先に、諒が問うて来て慎は口籠もる。
諒の疑問は尤もだ。諒はまだ自宅に居る事も多いが、少しずつ仕事に復帰している。今日も綾凪署に行ったのかしたのだろう。対して、慎は時間的に授業中である事が丸分かりだ。これでは詰問されても仕方無い。
つい狼狽える慎に諒の思案は数瞬、諒は慎へ短く乗れ、と車のロックを開ける。慎がほとんど言われるままに車に乗り込むと、諒はパワーウィンドウを上げ直してからハンドルを握った。
「綾凪駅でいいな」
問い掛けではなくほとんど確信的な確認に、慎は頷く他ない。否、慎が応答するよりも早く、車は綾凪駅へ向かって走り出していた。
「その、兄貴……」
「……洵から、転校の話を聞いてからのお前の様子がおかしいと聞いた。まさかと思って、学園の近くを走らせてはみたが」
いまだ何と言い出したら良いのか分からずに窺い見る慎に、諒が前方を見たまま言う。
転校の話。それは勿論、慎や洵の事ではなく湊と美奈子の事だ。急な転校の話に多少は思う所も様子も違ったりするだろうとは思うが、洵には諒にわざわざ相談する程におかしいと思われていたらしい。道理で今日、洵から何か物言いたげな目で見られていた訳だ。
弟にそこまで心配されるなんて。湧き上がる不甲斐なさに、慎はシートベルトを握り締めながら肩を落とす。
「洵に……弟に心配させるなんて、情けないな」
「……兄として、不甲斐ない姿は見せたくない……か?」
思わず漏れた言葉にそう返した諒に、はっとして慎は諒を見る。
諒の視線は、運転中である為に前方を見たままだ。しかしその表情は何処かむっすりとして、けれどもそれでも何となく自分自身含めて揶揄めいたもので――以前に、周防という刑事が言っていた言葉を思い起こさせた。
もしかすると、諒も周防に同じような事を言われたのかもしれない。今の慎と同じ気持ちを、諒も抱いていたのかもしれない。ふと浮かんだ思考に心の奥底に何とも言えないくすぐったさが湧き上がりながら、慎も鞄を抱えて前へ向き直した。
まだ明るい内の平日、交通量は多い方ではない。渋滞に引っ掛かる事も無く、車は順調に綾凪駅に辿り着く。
駅前のロータリーに車が停まり、慎は車から降りて綾凪駅構内へ入る。
しかし、そこからどうしたらいいのか。湊と美奈子は何処に居るのか、そもそも駅内に居るのかさっぱりだ。駅構内といってもそれなりに広い為、あちこち探し回っても下手すると擦れ違いに、なんて事になりかねない。
駅構内を行き来する人波の中、正しく慎は右往左往としてしまう。その癖に気ばかりがやたら急いてしまっていると、不意に慎の手がそっと握られた。
「神郷君、あそこですよ」
柔らかな声音と共に慎の手を握ったまま指し示されたのは、駅の窓口近く。そこには確かに、湊と美奈子が立っていた。
見つけた。そのまま衝動的に湊と美奈子の許へと駆け出し掛けた慎だったが、そこでふとある事に思い至る。
――今の、声は。
聞き覚えのある声であり、聞ける筈の無い声。はっとした慎が顔を上げると、そこには微笑んだ叶鳴の姿があった。
「もりも……」
守本、と呼び掛ける前に、呆けた瞬きひとつ経るよりも早く。気が付くとつい先程まで慎の手に触れていた感覚も、目の前に居た筈の叶鳴の姿も無くなっていた。
まるで幻か、それこそ白昼夢。けれどもそれで済ませるには心の奥底に柔らかな何かが強く確固として残っていて、慎は静かに手を握り締めた。
「……ありがとう、守本」
呟きは心の海へ。小さく礼を告げ、慎は湊と美奈子の許へ向かう。
「湊! 美奈子!」
「……慎?」
大声で呼び掛けると、慎に気付いた湊と美奈子が振り返って見つめて来る。
どうやら、電車に乗る時間にはまだ余裕があるらしい。間に合って良かった。それに見つけられて良かった。安堵に胸を撫で下ろし、慎は鞄から二冊の本を取り出した。
一冊は「くじらのはね」。慎の父と母が描いた絵本だ。
それから、もう一冊は――
「これ……本にするには間に合わなかった、けど」
慎の父と母宛に送られて来た、挿絵を描いて欲しいと書かれた手紙。
その手紙の差出人の息子が書いたという小説であり、手紙の中に書かれていた話。
慎が家の片付けをしていた時に見つけ、湊と美奈子に返事をする事を提案され、差出人に連絡を取り、舞耶の仲介と諒の協力を得て慎はこの話に絵を描いた。
ただ、本として出版に至るにはまだまだ先の話で、湊と美奈子に渡したのは第一稿の電子データを出力して簡単にホチキスで留めたものだ。本と言えるかどうかすら分からない。
そんな中途半端な代物でも、どうしても湊と美奈子には見て欲しかった。渡さないといけない気がした。
何故なのかは慎でも分からない。返事を書く事を湊と美奈子から促されたからというのもあるのかもしれないが、それ以外にもあるような気がする。慎には分からないし、知らないが、何か大事な意味や価値があるような――そんな気がした。
湊と美奈子は、「ピンクのワニ」と題名が記された本をじっと見つめている。そしてそれを大事そうに、大切そうに「くじらのはね」の絵本と共に受け取った。
「……ありがとう」
「大切にする」
そこからぽつぽつと授業中にもかかわらず抜け出せた事について気を回してくれた面々や心配してくれた弟や兄の事も話し、そこで一度言葉が途切れる。
まぁまぁ広い駅構内、昼間故に人通りは然程多くは無く、通行の邪魔にならない限り会話程度では特に咎められる事も無い。とはいえ、まだ電車の時間には早いらしいとは聞いていたがあまり引き留めるのも宜しくないだろう。
それを湊と美奈子も察したらしい。普段は空気読み人知らずなのに、どうしてこういう時の思いは読むのだろう。それが理不尽で、けれども何とも湊と美奈子らしいとも慎は思った。
「……あの、さ」
「何?」
不思議そうに首を傾げて、湊と美奈子が慎を見る。
言葉が幾つも浮かんで、しかし中々口から出て来ない。上手く回らない。沢山言いたい事があるのに、ばらばらに散らばって纏まらない。
それでも、言わなくては。伝えなくては。言わなくたって想いが伝わる事もあるのだろうけど、それに甘えてはいけない。何より、言葉に出して伝えたかった。
「……っ、俺! 絶対、忘れないから! 湊と美奈子と、皆で過ごした事も、一緒に……沢山の事を思った事も、覚えてる……!」
同じ日に転校して来て、同じ時間を沢山過ごした。
湊と美奈子がこの綾凪で、慎達と過ごした事を慎は覚えている。それはこの綾凪で起こった事の所為で、決して喜ばしい事ばかりではなかったけれど。怒って、泣いて――きっと湊と美奈子も、そうだった。その時は感じていなかったけれど、掛け替えのない時間だった。
「ずっと……いつだって、友達だって……!」
だから、忘れない。覚えている。それがこの綾凪から居なくなってしまう、湊と美奈子が「此処」に居た証でもあり意味でもあると思うから。同時に、慎の願いでもあるから。
傍から見たら、格好が付かないにも程がある様だっただろう。ただただ思いの丈をぶつける慎に、湊と美奈子は少し呆然としたように目を瞬かせた後、揃って微笑む。
それは春の桜のように暖かく優しくも儚げで――けれどとても、綺麗だった。
駅から出て、慎はロータリーに停まっている諒の車へ戻る。
ロックが解除されたドアを開けて助手席に座ると、張り詰めていた身体の力が一気に抜けた。
「会えたのか」
「……うん」
隣の運転席で静かに問い掛ける諒に、慎は小さく頷いて答える。
湊と美奈子が行ってしまう前に、会う事が出来た。伝えたかった事も、渡したかった物も言えたし渡せた。
これで良かった筈なのだ。ちゃんと約束だとも伝えられたのに、けれど。
「うっ……う、ぁ、……う、ぁああっ……!」
どうしてだろう。悲しくて苦しくて、涙が止まらない。
本当は、本当なら、湊と美奈子に会えた時点でもう泣きそうな気分だった。もう会えないかもしれない、そんな恐ろしさがあった。涙を流して、湊と美奈子に気掛かりに思われたくないのもあった。みっともなく、泣くのを見られたくないのもあった。
もっと、何か。そう願い、望んでしまう。欲張ってしまう。
他にも何か出来たのではないか。言えたのではないか。そう思えども、湊と美奈子はきっとそういう何か更にという事を望んだりしないであろう事も分かっていた。
頭の中では納得していても、心の底で騒がしく揺れ動く「自分」が居る。
世の中にはどうにもならない事もあるのだと、深い奥底で何かが嘲う。
そんな事は分かっている。分かっているから、込み上げて来る涙を湊と美奈子の前では堪えて見送った。受け入れていて、こうしようと選んで、それでも溢れる感情だけは誤魔化せなかった。
ぽたり、ぽたりと止め処なく溢れる雫が重力に従って、嗚咽を漏らす慎の膝上を濡らしていく。
そんな慎に諒はただただ黙って、静かに慎の思いを受け止めていた。