旅の終わりの、更にその先の物語。 作:しろまち
カラオケに行く事になった。
行くのは転校して来たばかりの慎と、拓郎、めぐみに叶鳴。それから、同じく転校生の湊と美奈子の六人だ。
見た目の割に面倒の良い拓郎に、世話焼きなめぐみ。控えめながらもよく気遣って来る叶鳴。彼等は転校して来たばかりの慎に対しても親切に接してくれた事もあって、一緒に行動する事も多くなった。
「有里達はよくカラオケ行ったりするのか?」
「……割と?」
「学校帰りに行ってたりしたよ」
湊と美奈子に対しても同様だ。少し意外と感じたのは、見た目通り快活でアクティブな美奈子とは反対に淡泊でクールな印象の湊が結構自分から話し掛けに行くタイプだった事だった。基本的な態度が落ち着いているのは変わりないが、人付き合いを嫌っている訳ではないらしい。今もごく自然に会話の輪の中に入り、口数少ないながらも相槌を打っていた。
「へー、じゃあカラオケ、結構自信あったり?」
「兄妹的にどうなんだよその辺?」
拓郎がからかうように問うと、湊と美奈子が揃って釈然としないような、些か形容し難い珍妙な顔になる。
どうしたのだろう。からかわれた事に対して、という訳ではなさそうだが、他に妙な事でも言ったのだろうか。
そんな慎の疑問を余所に、湊と美奈子はあまり興味無さそうに首を傾げた。
「さぁ」
「聴いた事無いから分かんない」
「聴いた事無いってどういう事だよ?」
今は一緒に行動している事が多いが、男女という事で前の学校は別々の交友関係があったのかもしれない。それなら聴いた事無いかもしれないな、と何となく納得し掛けた所で、続けた言葉に納得が綺麗に押し流された。
「一人で行くものじゃないの?」
「何で一人!?」
「勇気が上がる」
「何の!?」
何故かカラオケは勇気を上げる為のもの、という妙な認識があるらしい。
そんなやり取りを挟みつつ、放課後向かったのは駅近くのカラオケ店。他に客は男の一団くらいしか無いらしい空き具合で、少し広めの個室を取ってカラオケを楽しむ。
「ねぇ、それ私のドリンクだよね?」
「もう飲んだ」
「そう言ってお前、茅野のも守本のも飲んじまってたじゃねーか」
「あ、あの、有里君、私は気にしてないですから……」
洵も誘ったら良かったな、とカラオケ用の端末を操作しながら、慎は思う。兄である諒との諍いで洵にも気まずい思いをさせてしまったから、軽々しく声を掛けるのを躊躇ってしまったが洵の兄として自分が躊躇してばかりなのは良くないだろう。少し冷めた部分がある所為もあってか同年代との交友はあまり無いらしい洵だが、この面々となら上手くやれそうだ。
ついお節介だとも思われてしまいそうな所まで思いかけた所で、めぐみが席を立つ。
「ちょっとトイレ行って来ようかな……」
「あ……それなら私も……」
続けて叶鳴が腰を上げ、それを見て拓郎が鷹揚に頷きながら手をひらひらと振った。
「おう、分かった。こっちはテキトーにしとく。男同士で話す事もあるし、な?」
拓郎に同意を求められ、慎は曖昧な笑みを浮かべて頷く。めぐみが呆れた視線を投げているのも視界に入って、ちょっと居心地悪い。
話したい事がある――のはある意味間違ってはいないものの、その言い方はどうなのだろう。男同士というのならば湊も含まれているのだが、と湊の方を見てみると、湊は湊でめぐみと叶鳴と共に部屋を出ていっていた。
「トイレだって」
一人残った女子である美奈子が、ジュースを啜って湊の代わりに答える。その顔は些か不満げだ。毒防御付けといたのに、と妙な事を呟いていた。
「曲、選んで良い?」
「え、ああ。順番とか気にしなくていいと思う」
カラオケの選曲用端末を美奈子に渡すと、そこで拓郎が近付いて耳打ちして来る。その所為で、美奈子が端末を操作しながらもまだ何処か怒ったような顔付きで扉の外を見ている事までは気が回らなかった。
「なぁ、影抜きの時のアレって……」
テレビの液晶から流れるちょっと怪しげな通販番組のCMを流し見しながら、慎は拓郎の言葉に音無く頷きを返す。
そうして口許がひとつの単語を紡ぎかけた所で、唐突に美奈子が勢い良く部屋を飛び出していった。
「あ、有里!?」
前置きも無く部屋から出ていってしまった美奈子に、慎と拓郎もそのままにしておく訳にもいかずにその後を追う。
やや慌ただしく出た個室から、通路を掛けて見えた先。そこにはめぐみと叶鳴を己の背に庇うかのように立つ湊と、それに向かい合う数人の見知らぬ男達の姿があった。
「どうした?」
拓郎が声を掛けると、めぐみと叶鳴、それから三人と向き合っていた男達がこちらを見る。めぐみと叶鳴は困惑した表情で、男達は些か気まずげな表情で。ただ一人、湊だけがこちらを見ようとはしなかった。
聞こえなかったのだろうか。慎が有里、と呼び掛けようとした所で、一足早く先に到着していた美奈子の顔を見て呼び掛けを飲み込む。
こちらを見ようとしない湊と美奈子の目と表情。どちらも男達へ静かに向けられながらも、酷くそっくりで――思わず気圧されてしまうような圧があった。
「あ、あの、それが……」
「この人達が話し掛けて来て、でも有里君が……」
どうやら、めぐみも叶鳴も湊の態度についてよく分からないらしい。ならば、と慎と拓郎は見知らぬ男達の方へ目を向ける。
男達は慎と拓郎の視線を受け、というよりも湊と美奈子からの視線から逃れるようにやたらと大仰に手を振りながら視線を逸らした。
「い、いや、それは、その子達可愛かったからちょっとナンパ的な? そんな大したもんでもなくって、なぁ?」
「そっ、そうそう、嫌がってたり彼氏持ちだったら流石に手ぇ出さないからさ! 悪かったって!」
彼氏ではないが、この場合面倒になるのでその辺りは訂正しないでおく。
つまり、ナンパ目的でめぐみと叶鳴と声を掛けようとした所で、湊が牽制したと――そういう事だろうか。その割には、男達の言い分に益々視線が鋭くなった湊と美奈子に説明が付かない。
警戒するのは分からなくもないし、理解出来るが、それにしたって攻撃的過ぎるのではないだろうか。とはいえこの場に到着するまでの経緯もよく知らない慎では迂闊な事も言えず、同じく困惑した顔でこの場を見回す。
どうかしたものか――とそう思った所で、ふ、と湊と美奈子の顔が同時に上がる。
直後、耳に響いたのは人の悲鳴のような声と――心の内に、何かが押し寄せる感覚。
「な、何!?」
「……な、なぁ、さっきの声、あいつじゃ……?」
困惑しきりの場で、男達のうちの一人がそう声を零す。どうやら先程の声に心当たりがあるらしい。
「知り合いっぽいなら、様子見に行った方がいいんじゃねぇか?」
少なくとも、このまま突っ立っているよりは幾分かマシだろう。
拓郎がそう促すと、男達はまだ湊と美奈子の方を見るのを避けるようにしながらも自分達が取ったらしい個室へ向かう。個室はこちらからでも見える場所で、ドアは開きっぱなしになっていた。
そういえば、こちらも部屋を出る時ドアを閉めただろうか。そう思ったのも、束の間。
「う、うわああっ!?」
男達の叫び声に驚き、同時に嫌な胸騒ぎが駆け抜ける。
「茅野と守本は此処で待っていてくれ」
拓郎と目が合う。慎はそれに頷き返し、めぐみと叶鳴に一言告げると男達が居る部屋へ向かう。この時点で、湊と美奈子は既にこの場を離れて部屋目掛けて駆け出していた。
部屋の前で立ち尽くしたり、へたり込んだりしている男達の顔色は揃って悪い。通路自体は広くないので、大の大人が数人たむろするだけで結構通行の邪魔だ。流石に口に出すような事はせずに少しばかり苦労して男達を退かして部屋の中を覗くと、慎も男達が言葉を失う理由が理解出来た。
数人用のカラオケ店の個室。その中に在ったのは赤々とした血溜まりと、まるで皮膚の表裏が反転したかのような人型――否、死体だった。
「なっ……」
少し遅れて部屋の中を見た拓郎も、慎と同じように絶句する。
リクエスト待機中のカラオケ画面の音楽が酷く場違いで、しかし鼻腔を刺激する鉄のような匂いと赤々とした鮮血が目の前の転がる現実を知らしめる。あまりにも非現実的な光景に、慎は何処か奥底から揺さぶられる感覚に思わず身体をくの字に曲げて手で口許を覆った。
「オイ、大丈……」
「全く、ダサいよね。大した事ないっていうかさ」
自身も顔色を悪くしながらも拓郎が慎を気遣うように顔を覗き込もうとした所で、小馬鹿にしたような声が響いて顔を上げる。
声がした先を辿ると情けなく立ち尽くしたり座り込んでいる男達とは少し離れた場所で、一人の見知らぬ少年が些か生意気そうな面でこの場の者達を見回していた。
「この間の誰だったかも――何だったっけ、そうそう、『しょっぺぇ』とか何とか言ってた割には大した事無かったしさ」
「……待て、今の言葉……」
恐らく誰に言う訳でも無いであろう少年の言葉に、拓郎が目を見開いて聞き咎める。
しかし少年は拓郎に構う事無く相変わらず何処か小馬鹿にしたような表情のままその場から離れ、拓郎は通路にたむろする男達を押し退けて少年の後を追った。
「待てよ、オイ! さっきの言葉!」
「拓郎!? どうしたんだ、いきなり……って、待てって!」
拓郎の様子の豹変に驚いて慎が呼び止めようとするものの、既にその背は遠い。
一体どうしたんだ、と困惑する慎の横を、更に湊が擦り抜けた。
「この場、よろしく」
「え、ちょっ、有里まで!?」
湊が声を向けたのは美奈子に対してだったが、同じくあっという間に駆けて行った様に慎の当惑が更に深まる。
「ああもう! 訳分かんないって……! ごめん、二人連れ戻しに行って来るから!」
もう何が何だか。翻弄されっ放しの思考のまま、ある意味引き摺られるようにして慎も後を追い掛ける事にする。慎も慎でこの場に残す言葉としては足りてない事に、頭が回りきっていなかった。
カラオケ店を出て、外へ。初動が遅れた為に、少年と、それを追う拓郎の姿はもう見失ってしまっている。
何処へ行ってしまったのだろう。困り顔でつい途方に暮れそうになると、先に店を出ていた湊と目が合った。
「いきなり出て行くなんて、驚いただろ。拓郎も一体どうし……」
「飛ぶのってどうやるの」
「はぁ!?」
「まぁどうでもいいけど」
「何が!?」
ついうっかり叫び返してしまったが、飛ぶ、という突拍子もなさ過ぎる言葉に慎は思わず首を捻る。
飛ぶ。そういえば、何か変なものが――ペルソナが出た時、飛んでいた。あれはどうやるのだろう、否、あの時湊は居なかったのだから、知らない筈だろう。確かに飛んでいけたら便利かもしれないが、とついつい思考が逸れてしまっている慎の横で、湊は周囲を見回す。
それから。
「あっ!? だ、だから待てって!」
再び、唐突に走り出す。飛んではいかなかった。
また前置きも無しに駆け出していった湊に、慎は再度慌てて後を追う。これでまた姿を見失いでもしたら大変だ。
湊は迷い無く駆けているように見えて、時折何処か確認するような素振りも見える。何か心当たりでもあるのだろうか。思うが、慎には追い掛けるだけで精一杯だ。既に呼吸も荒く足も覚束なくなりつつある慎とは反対に、湊は呼吸を乱す事も無く汗一つ掻いた様子は無い。身長的には慎よりも少し低い湊だが、体力的には随分と差があるらしい。
「あ、有里、ちょっと待てってば……」
喉が痛くなって来た。慎が流石に限界近くなって来た所で、不意に湊の足が緩む。
多少、合わせてくれたのだろうか。また随分と人気の無い所まで来てしまったようだ。
肩で息をしながら慎がそう思って顔を上げると、目の前に少年と拓郎の姿が見えた。
「拓郎!」
余裕そうな態度の少年と向き合う拓郎は、少年とは反対に余裕無く膝を付いている。それから、半透明の人型のような「もの」が少年の身体から抜け出るように出て来るのが見えた。
「あれはっ……」
「……!? 駄目だ、来るんじゃねぇ!」
多少色彩や造形は違うが、前に慎が遭遇したものと同じ。
だとするのなら、と自然と背筋が粟立つ感覚に引き攣れた声が漏れてしまった所で、こちらに気付いた拓郎が目を見開いて制止の声を上げたのが聞こえた。
あれが、あの時と同様の性質を持つものならば。不敵な笑みを浮かべた少年の頭上に浮かぶ半透明のものから、幾筋もの黄色い線が湧き出て来る。そしてその線や人型らしきものの腕は、拓郎へと向けられていた。
「お前もそのトモダチとやらとおんなじようにしてやるよ!」
少年が声高らか宣言し、それを合図として半透明の人型が腕を振りかぶると共にその身から湧き出た黄色い線が拓郎に襲い掛かる。
助けなければ。思うが、ずっと走り続けて来た足は縺れるばかりで役に立たない。拓郎も半透明の人型から向けられる脅威に対して腕を前にして身体を守ろうとしていたが、到底役に立つとは思えなかった。
――その中で。ただ一人、それに立ち向かう者が居た。
駆け出した足は逃げる事無く、前へ。目は半透明の人型へと逸らす事無く向けたまま、湊は腰元へ手を添える。
「えっ……」
何を、と問う前に、慎は自らの目を疑う。
湊の手が添えられた腰元。そこは白いベルトが巻かれ、片側にホルスターが付けられている。
ただ、そこには「何も無かった筈なのに」、湊がそこへ手を添えた瞬間、一丁の銀色に光る銃が突然現れたように見えた。
更に、慎が困惑したのはそれだけではない。そのいきなり現れたように見える銃のグリップを湊は掴み、続けてまるで手慣れたように自らのこめかみへ銃口をあてた。
「ジャックフロスト!」
引かれる引き金。目の前で、鮮血とは正反対の静謐な青い欠片が舞った。
湊の呼び掛けに、湊の内側から抜け出して来たように青い帽子を被ったゆきだるまのようなマスコットが現れる。
あれは、ジャックフロスト――自販機や、ゲームセンターのプライズで偶に見掛けるマスコットそっくり、というよりもそのものだ。確か湊もジャックフロスト、と呼んでいた。
ヒーホー、という掛け声でも出しそうなジャックフロストは、湊の傍に浮いたまま両手を前へ突き出す。
瞬間、氷雪が吹き荒れた。
突然発生した氷雪はまるで意思を持ったかのように真っ直ぐに前方へ向かっていき、先んじて拓郎を襲おうとした黄色い線を弾き、氷の壁を作る。
「なっ……お前、何なんだよそのペルソナはっ!?」
少年が驚愕と苛立ちが混じった声を上げ、湊はそれに答えない。代わりに拓郎の許へ駆け寄り、片腕で制しながら背の後ろへ庇うように立ち回る。
あれが、あれもペルソナ?
妙に可愛らし過ぎないか、いやそんな事を考えている場合じゃない。我に返った慎は少しだけマシになった足で、遅れて拓郎の許へ向かう。
「拓郎、大丈夫か?」
「あ、ああ……悪ぃ。だけどよ、アレは……」
ざっと見た所、拓郎に大きな怪我は無さそうで少しだけ安堵する。慎に助け起こして貰いながら拓郎がどれを示すべきか迷ったように眼前に在る存在を示すが、慎も明確な答えを述べる事が出来ずに首を横に振るしかなかった。
ひんやりとした冷気は、先程まであった氷壁の所為か、それともただ意識がそう感じているだけか。分からないまま慎達に背を見せる湊の方を見ると、ジャックフロストの拳が先程襲い掛かって来た線達とは遅れて振り上げられた半透明の人型の腕を殴り飛ばしていた。
「うっ……!」
可愛らしい見た目に反して、中々強力な一撃だったらしい。半透明の人型が弾き飛ばされ、少年もシンクロしているかのように仰け反る。
少年が先程とは打って変わって忌々しげに歯噛みし、些かふらつきつつ再び半透明の人型を差し向けた。
向こう側が透けて見える事から実体が無いようにも見えるが、まともに当たったら無事には済まされないだろう。似たような脅威に晒された事のある慎には分かる。しかし人型ではありながら人では決して有り得ない腕を振り下ろして来る半透明の人型に対し、湊が怯むような様子は全く無かった。
一撃、二撃、確実に軌道を見極め、回避していく。その所作は、明らかに手慣れて――そう、まるで初めてではないかのようだった。
「クソッ……!」
対して、少年の方はそういった相手に対して慣れていないようだ。思い通りにいかない状況に、苛立ちと焦りを隠せなくなっている。
経験がある者と、無い者。どちらが有利なのかは自明の理だ。
次第にモーションが大雑把になっていく攻撃の間を、湊は確実に避けながら踏み込んでいく。そこに恐れは無い。その恐怖は、今は此処には無いとばかりに。
半透明の人型が振り下ろした腕が地面を抉る。湊はそれを躱し、攻撃動作によってがら空きになった半透明の人型の脇を擦り抜け――少年の脇腹を、思い切り殴った。
「うわ……」
「スゲェなアイツ……」
思わず、慎の方まで痛そうな声が漏れてしまった。拓郎も何か感心したように呟いている。
スポーツマンとかアスリートタイプな体格でもないのに、素人目でもやたら腰の入った拳だったというか何というか。本当、見掛けによらない。
そんな慎と拓郎の感想を余所に、まともに殴打を食らった少年は身体を前へ折り曲げてよろめく。半透明の人型も姿が薄れつつあり、勝負が決まりそうだった。
「ぐっ、う……! ふざけ、るな、よ……! まだ――……っぐ、あ、あ……!?」
忌々しげに身体を折った少年が湊を睨み付けながら悪態を吐く様が、途中で苦しげな呻きに変わった。
苦悶の呻きを漏らし、頭を押さえ、身体を不自然に震わせる。見開いた目が焦点を失い、滲み出た脂汗が肌を伝って地面に落ちたその時。
先に捉えたのは、何処からか這い出て来るかのような嫌な感覚。次に見えたのは、少年の足下、厳密には足下の影から何かが湧き出て来る様子だった。
「なっ、何だありゃ……!?」
瞠目する拓郎の声を背で聞きながら、湊の表情が僅かに強張る。
足下の影から出て来た何か――それこそ「影」なのだろうか。「影」は更にその領域を広げ、ついには形を成す。その姿は、真っ黒い影の中から茫洋としたような表情の仮面を被った頭とヒトの腕を突き出した形をしていた。
「動けるなら、下がってて」
少しだけ振り向いた湊が、慎と拓郎に言う。片方だけやや長めの前髪から覗く瞳が慎と拓郎を一瞥し、改めて「影」と向き合って慎と拓郎からは見えなくなる。
「オ、オイ、幾らなんだって、オレだって……っつ、てて……」
「拓郎はあんまり動かない方がいい。だけど有里、さっきのは……」
「さっきのじゃないから」
今度の言葉は振り向かずに告げられた。
果たして、正しく意味が通じているのか。それすら確かめられる事も無く、「影」は湊へ襲い掛かる。黒く、ヒトに似ているが人間の腕よりも太い。振りかぶって空気を裂く音が鋭く聞こえた。
破砕音。だが破砕されたのは地面のみ。湊は素早く横に回避し、反対側から襲い掛かる次撃も少し頭を逸らして避ける。
やっぱり、手慣れている。先程、少年との対峙の時もそう感じたが、今の「影」との対処に慎は更に確信を深めた。幾ら運動神経が良かったり、度胸があったとしても、ただそれだけではここまで冷静に対処は出来ないだろう。それ以上の何か理由があるから、としか思えなかった。
それを今、湊に問う事は出来ない。そんな場合ではないという事くらい、慎にも分かっている。
だが、何か出来ないだろうか。下手に手を出すのは湊の邪魔にならないと分かっていても、冷たく突き放して来る兄を思い出させるようで苦しかった。
慎は湊を襲う「影」を見てから、今は苦悶に呻く少年の方を見る。少年の足下、影は不自然に伸び、それは「影」と繋がっている。あれは、少年の身体から抜け出た半透明の人型と何か関係があるのだろうか。分からない。分からないが、完全に独立していないという事は、何がしかの理由がある筈だ。
正直、恐怖はある。自分はタフガイという訳でもない。けれども、奥底に打ち寄せる何かが心を、想いを後押しした。
「……ペルソナ」
何故なのかは分からない。しかしどうしてか酷くしっくりと来る呼び掛けに応えるように、自らの内から現れるものを見た。
あの時も――どの時だろう? 不意に掠めたデジャ・ヴに慎自身も分からない奥底がさざめきつつ、呼び掛けに応じてエメラルドグリーンの体色をした半透明の騎士のような「ペルソナ」が中空を駆けていく。
携えているのは、半透明ながらも大きな剣。透けた見た目通りのそれを騎士姿のペルソナは振り上げ、地面に伸びた影を断ち切った。
「オルフェウス」
騎士姿のペルソナが影を断ち切ると「影」がぴたりと動きを止め、それを見逃さなかった湊の声が響く。
再び舞い散った青い欠片と共に現れたのは先程の青い帽子のゆきだるまではなく、竪琴を背負った球体関節人形のような姿。赤いマフラーを巻き、白髪が顔の半分を隠したその姿は何処か、湊によく似ていた。
オルフェウス、と呼ばれた竪琴を背負う人型は両腕を掲げる。掲げられた両手の中心にみるみる内に赤々とした炎が宿り、やがて人の頭ほどの大きさにまでなったそれをオルフェウスという名のペルソナは目の前の「影」に向かって放った。
「うぉっ……!?」
火の玉が「影」にぶつかった瞬間生まれた風圧に、慎は思わず腕で顔を庇う。拓郎も同じように、少し身を逸らしていた。
熱風が髪の毛を捲り上げていく。その勢いが静まった頃、腕を下ろすと共にいつの間にか閉じてしまった瞼も上げるとそこに「影」の姿は跡形も無くなっていた。
「ッ、はぁ、僕は、何を……はぁ、クソっ……こ、んな時に……!」
はっ、として、慎は少年の方を見る。少年は瞳の焦点が戻りながらも、苦しそうに呻いている。先程までの事は覚えているのかどうか分からないが、胸元を押さえつつも湊を睨み続けていた。
「まだやる気?」
湊が静かに言う。問う、というよりもほとんど独り言のようだ。無感情に、それこそどうでもいいかのように。
これでは逆に、と慎が湊に何か声を掛けようとした所で、けたたましいサイレンの音とパトランプの光が飛び込んで来た。
「あーあ、コレあっちの方が楽だったんじゃないかなぁ……失敗した」
炎とはまた違う鮮烈な赤色に瞬きを繰り返しながらそちらを見ると、停車したパトカーから些か軽薄そうな細身の男がぼやきながら出て来る。パトカーから出て来た、という事は、恐らく刑事だろう。あまり真面目そうには見えないが。
その刑事らしき男が周辺を見回すのにつられて慎も辺りを見回すと、少年はもう居なくなっていた。
「また伊藤さんにどやされますよ」
細身の刑事に続いて、パトカーから出て来た長身の刑事が些か困ったようにそう諭す。こちらは真面目そうだ。
「分かってるって、楢崎さん。あの人、苦手なんだよね……似てて」
楢崎、というらしい刑事にひらひらと手を振りながら、細身の刑事が溜め息を吐く。最後の小さな呟きに言うような苦手、とも嫌っているだけとも感じ取れない揺らめきに慎が怪訝に視線を寄せていると、慎達の許へ楢崎が近付いて来た。
「綾凪署の
「――慎!」
そこで、楢崎の言葉を遮って鋭い声が飛ぶ。
怒鳴り声とはまた違った厳しい声に思わずそちらへ振り向くと、そこには慎の兄である諒が居た。
「兄貴!?」
げぇ、と細身の刑事が嫌そうな声を出したのが聞こえた。楢崎という刑事も、諒が来た事に驚いているようだ。そういえば、兄は綾凪署の署長でもあったか。
どうして、諒が此処に。もしかして、心配して迎えに来てくれたのだろうか――そんな淡い思いを抱いた慎の一方で、近付いて来る諒の顔付きは険しくなるばかりだった。
「諒兄ちゃ……」
「だから、帰って来るなと言っただろう!」
慎の呼び掛けを遮り、諒が声を張り上げる。厳しい声と共に腕が振り上げられ、平手を覚悟して咄嗟に目を瞑った慎だったが、暫く経っても何も感じない違和に再び目を開ける。するとそこには、慎に諒の掌が届く前に諒の腕を掴んだ湊が割って入っていた。
「……有里……?」
「君は……」
慎と諒、二人が同時に呆然と呟く。
「やめた方がいいと思う」
突然の乱入に、諒も少なからず驚いたようだ。恐らくだが、湊の顔を見て以前会った事があるという事も思い出しているのだろう。
続く言葉も無く呆気に取られている慎と諒を挟んで、湊は諒の腕を離す。
慎は湊に、諒との事を詳しく話した訳ではない。最初にファミレスで会った時は兄弟揃ってだったが、その時だってまともに話はしていなかった筈だ。だから、湊も慎と諒との関係は然程分かる事は無い筈なのに。
けれど、とその先に続く言葉を探し出せず、まるで何事も無かったかのようにイヤフォンを耳に掛けた湊を慎はただただ見つめていた。