校内は静寂で占められていた。息遣う音すら響いてしまいそうな長い廊下を歩くと、遠く上の階から若い男女の笑い声が聞こえた。それは不穏さなんて感じさせない聞き馴染みのある笑い声で、こうして辺りを警戒しているのが馬鹿らしくなってしまうほど愉快な音だった。
音源の位置をおおよそ確認すると、足音を立てぬよう抜き足差し足で近くの教室まで向かう。彼らに干渉するつもりはない。今宵の出来事が彼らだけの秘密で終わるのなら、それで良いのだから。
廊下の窓から外を確認すると、草木に隠れた天童と目があった。外は彼女が監視しており、異変が起こればすぐに連絡するようことづけてある。
外に現れれば連絡を受けて私が討伐に向かい、校舎内に現れれば私が察知し討伐する。悪魔がよっぽど強大で大多数でない限り、デンジくんの安全は保証できるはずだ。
仮に銃の悪魔の肉片を持った強化個体が現れたとしても、それなら出現した時点でおおよその位置が把握できるので私が難なく対処できる。
問題はなんの変化もない悪魔の場合だが──私が気付けないほど小さく矮小な悪魔ならば、一瞬で彼を連れ去ってしまうなんてことはないだろう。声や音から異変を察知した時点で乗り込めば良い。
「しっかし……レゼちゃん自身はなんの悪気もなかったんやろうけど……ちとお灸据えた方がええんやろか」
空き教室の手近な椅子に座り、彼らの処遇を考えた。
そもそも学校へ忍び込むのは不法侵入だ……それに、在校生が忘れ物をとりに来たなどであればレゼちゃんはまだしも、デンジくんに限ればそうでない。
夜遊び自体は今日が初めてだが、もし何度も続くようなら注意すべきかと頭を悩ませる。過干渉はなるべく避けたいのだが……。
悩みごとをしながらも耳の感覚だけは鋭敏に澄ませていた。遠くの教室からはなにやら黒板にカツカツと文字を書いているような音が聞こえた。それに連なり、人の楽しげな会話が聞こえてくる。
「……デンジくんは、学校行っとらんのやったっけ」
学校で勉強をする。日本ではあまりに普遍的すぎてそこらで溢れかえっている概念だ。皆、まるで湯水を使うが如く教育を享受している。
それに比べデンジくんの境遇を考えると、私は先ほどまで抱いていた怒りがだんだん鎮まっていくのを感じた。彼の身を案ずる気持ちは、私の中で二律背反の形を成していくのだった。
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しばらくして、二人はプールまで泳ぎに行った。
生まれたままの姿で、今まで得られなかったなにかを取り戻すように懸命に四肢を動かして水の中で踊っていた。
私はそれを近くの校舎から見張っている。楽しそうだな、とか今年はまだプール行ってないな、とか。去年は三人で海に行ったっけ……今となっては懐かしい思い出である。
こうして二人が楽しんでいるのを見ていると、不思議な感覚に襲われる。混じりたい気持ちはない。ただ見ているだけで充足した気持ちになるのだ。
この不思議な気持ちはなんだろう。ただ、今のこのひとときが、大変穏やかなものであるのに変わりはなかった。
ぼうっと見ていると雨が降り出し、しばらくして二人は校舎の中に戻ってきた。
雨が降るなんて予報はあっただろうか。前に傘を持ち忘れていたのを教訓に、忘れぬよう努めていたのだが……。ま、初夏であれば雨が降ることもあるかと、もうじきやってくる彼らにバレぬよう離れた教室まで移動した。
「しっかし台風みたいな大雨やな……これやとみっちゃん、外からなんも見えへんやろ」
窓を叩きつける大粒の雨。風も強いのか、校庭を挟んで向こうにあるはずの建物が雨風に隠れて見えなくなるほどだった。
「……電話も繋がらへん」
電話をかけるが応答はない。この大雨で電波も不安定になってしまったらしい。
この天候じゃあ外で出張っているのは大変だろうから、先に帰るよう伝えようと思ったのだが……さすがに自己判断で帰っているだろうか。どこかのタイミングで送信されればいいと、簡潔な文章をメールで送信しておいた。
「うーん……この雨やと、音もよう聞こえへんしなあ」
音を頼りに二人の様子を窺っていたが、こうも雨が降っているとそれも難しい。
どうしたものかと首を傾ける。もう少し、近づくべきだろうか? でもそうすると、確かに音はよく聞こえるようになるだろうが、私の存在が発覚する可能性も高まる。
しばらくどうしようか迷っていたが、バレそうになったらなったで窓から飛び出してしまえばこの雨の中誰がいたのかまでは分からないだろうから、近付いた方がいいだろうと廊下に出た。
足音を消して二人のいる教室まで近付くと、誰かが教室から出る音がした。
咄嗟に身を隠す。
この足音は……おそらくレゼちゃんのものだろう。一つ上の階にあるトイレへ向かっているらしい。
(帰ってくるまでここで待っとこかな)
そんなことを考えていると、不意に下の階から水の滴る嫌な音がした。
なにか人でも引きずっているようなザラザラした音を引き連れ、何者かが階下からこちらへ向かっているのが感じられた。
(……なんの音や。警備員? いや、それにしてはおかしい……音が変や……)
学校と聞くと、七不思議だの怪談だの、おどろおどろしい話が多い。私自身それを一つも知らないというわけではない。
一瞬、そういった魑魅魍魎の類が脳裏をよぎったが、そんな夢物語のような可能性は即座に切り捨て、何某かの刺客がやってきたのではないかと身構えた。
天童の可能性も考えたが、彼女には「うち一人で入る」と理由もつけて言ってあるのだから、緊急事態でもない限りやって来るとは思えない。
つまるところ、この音の発生源は部外者である可能性が高い。警備員ならともかく、敵であるなら即座に対処する必要がある。
……息を殺す。いつでも飛び出せるように物陰で脚をかがめた。
階段を上がる足音は段々と近づく。
そうして、月明かりの差さぬ暗闇から、ヌッと一人の男が現れた。風貌が光で露わになっていくにつれ、キラリと手元に光るなにかが見えた……一振りのナイフは、雨水に濡れてあやしげな照りを返す。
その男はなにやら言葉をつぶやいているようだったが、それが耳に入るよりも早く私は動き始めていた。相手がナイフを持っていたからでも、風貌が怪しいからでもない。
なにかものを引きずるような音がした、と先ほど言ったが──その“なにか”がついに露わになったからだ。
男はナイフを持つ手とは反対の方の手で、人を抱えていたのだ。
その柔い首元にナイフを当て、動けばすぐに殺すとでも言わんばかりに、人を抱えていたのだ。
その人は──天童は、まるで夢でも見るみたいに気絶しているらしかったが、行動に移る理由はそれだけで十分だった。
「────!」
飛び出すと共に男の頬に右肘を当て、間髪入れずにナイフを持つ手を左手で捻り上げた。まるで社交ダンスでも踊るような格好で目を合わせる。男は突然の出来事に困惑していたらしいが、反撃の隙を与える間もなくガラ空きになった鳩尾に膝蹴りを加えた。
空中に飛び出てからの蹴りであったので威力は十分でなかったが、それでも抱えている人間を放り出す程度にはダメージを与えることに成功した。男は受け身を取ることも叶わず階段を転げ落ちていった。
「大丈夫か、みっちゃん……!」
彼女の頬を叩くが返事はない。
ただ息はあって、脈も確かだったので、死んでいるわけではないのを確認しホッと息をついた。
「……あぁあ……畜生……」
階段の下から呻き声が聞こえてきた。随分とタフな奴だ。
「さっさと殺しちまえば良かった……くだらねえこと考えちまった……クソッタレが……」
ナイフにまで気が回らず、それが男と一緒に階段の下まで落ちていったことに今更意識が及んだ。
私はやつがどのような悪魔と契約しているのか分からなかったため、距離を取りつつ天童の身体を遠ざけた。
「ああ、クソ……デビルハンターめが……」
フラフラした足取りで男は立ち上がる。ナイフを手に取り、気を確かめるように強い力で握りしめていた。
本当ならすぐに階段の下まで飛んでいって殺したいのだが、後処理が面倒なので室内で血を流すわけにはいかなかった。そのうえ、階段の下はいま男が来た道である。なにかしらの罠があってもおかしくはない……。
「クソッタレが……殺す……」
男は恨み言を呟きながら階段を登ってきた。こうして正面から突っ切ってきたということは、やつの手持ちに罠はないのだろう。
私はやつが仕掛けるのに合わせて出迎えようと考え、懐のナイフに手をかけていた。ところが、
「…………!」
男はなにかを察知したのか、急に身体の方向を変えて、上の階へとつながる階段を登り始めたのだ。
一瞬混乱した。なにせ私も、天童も、デンジくんも。みな上の階にはいないのだから。
「いや、ちゃう……あいつの狙いは……!」
気付いて私も階段を駆け上がった。天童を置いていくわけにはいかなかったので担いでの跳躍だった。
くぅ……最近また肥えよって……! ようさん飯食わせとるからやろうけど……!
証拠はなかったが、男の狙いはレゼだろうという確信めいた直感が私を動かした。
見れば、トイレから出たばかりのレゼを男が追いかけているのが見えた。追いかけようとするも、すぐに廊下の角を曲がり、姿を消す。足音は上の方へと続いていったので、ちょうど屋上に出るところらしい。
気絶してしまった天童に障りがないようスピードを落として──けれどそれでも出しうる限りの速さで男の後を追った。
屋上に辿り着くと、そこでは今まさにレゼへと手をかけようとしている男の姿があった。レゼはなす術もなく、それを受け入れようとしている。
有無を言わず、私は扉のそばに天童を寝かせ、大雨の降る屋上に飛び込んだ。
「触んなッ!」
「……グゥ!」
助走をつけず飛び込み、男の腰に横から蹴りを入れる。すると、まるでカスタネットのように男の体は上半身と下半身とで二つ折りになり斜め前方へと吹っ飛んでいった。
前にはレゼがいたので角度を調整したのだが、上手いこと当たらずに済んだ。
私は雨で滑るのをどうにか抑えて着陸すると、平静を装ったように汗を拭いながらレゼに話しかけた。すっかり顔を見られたので、今更隠すのはかえって不自然だと思ったからだ。
「……ふぅ。レゼちゃん、だ、大丈夫……?」
「な、ど、どうしてヨツナさんが……」
「その、なんや。仕事の一環? 言うんかな。街の巡回しとったら、変なやつおったから……」
上手い言葉が見つからず、怪しい挙動で彼女の言葉に答える。
だが長居するわけにもいかない。彼女は前からデンジくんの境遇に対して不満を抱いているようだったから、彼を監視をしている……なんて、彼女には知られたくなかった。
大きなボロが出る前に立ち去るため、私は屋上の奥で倒れた男の身体を担ぎ、帰る素振りを見せた。
「ほなうちはこいつ連れて帰らなあかんから……帰りはよう気いつけて帰りや」
たまたま街角で会ったときに見せるような笑顔で私は屋内に入った。
やっぱりこれだと不自然だろうか。こういったときは「夜は危ないから」と帰りも送るべきだろうか。
そう考え、また不審者に襲われ心傷を負った可能性もあるのだからメンタルケアを図るべきかと振り向いたが、レゼは大雨の中地面の方を向いてなにやら呟いているようだった。
非常に落ち着いた表情で、私が見ているのに気付いた途端、笑顔で返してくれるくらいには余裕そうな態度をとっていた。
無理していそうだと思い声をかけようとしたが、レゼが「デンジくんなら家まで送りますから」と明るく言うので、言葉が出せず頷くしかできなかった。