「……こないな場所、そない来たことないんやけど」
と、私は緊張と恐れの混じった声で話した。普段の私と比べてもあんまりらしくない反応だったが、そうなってしまうのにも訳がある。
このレストラン。事前に天童から聞いていた情報によるとかなり身分の高い人が集まる場所らしいことは分かったのだが、拙い想像力ではせいぜい映画であるような情景ばかりを想像していた。
しかし、画面で見るのと実際に体感するのとでは肌で感じるものが異なる。
折り目正しく折られた紙のように正確かつ礼儀正しい給仕の立ち振る舞い。店内を占める荘厳で静謐な雰囲気。ともかくその全てが私という存在を“場違いである”と否定しているのではないかと錯覚してしまうくらいには想像を何段も上回る現実があった。
おまけに夜景である。
マキマが予約を取っていたので事前にそうしていたのだろうが、夜景が見れる窓際の席であるうえに個室であった。
夜景のうえ個室とは恐ろしい。主に値段の方で。
「私は会食で何度かこういう店に来たことがあるよ」
と、マキマは手慣れた様子で口の汚れを拭った。
実際慣れているのだろう。落ち着き払った彼女の態度を見ていると、実は私たちはちょっと小洒落た居酒屋にいるだけなんじゃなかろうかとすら思えてくるのだから。そう思えてくるくらいには彼女の態度はいつも通りで、反して私はどことなく浮ついていた。
「そーか……」
「ふふ、もしかして緊張してるの?」
「んなわけあるかいぃ……」
マキマに恥をかかせるわけにはいかないので外面だけは平静を保っていたつもりなのだが……どうやら彼女にはお見通しらしい。
どうしたものかな、と小さく息を吐く。ため息をつきたい気分だったが、この素晴らしい空間へため息を落とす気にはならなかった。
渋々、私は自分を誤魔化すことなく話した。
「慣れてへんのは事実や。こないなところ、部下と来たら気ぃ遣わせてまうし」
「だね。私も部下とは来れないかな」
「……相手がマキマで良かったわ。部下もせやけど、お偉いさん相手やとこっちが気ぃ遣う」
「なんだか分かる気がする。そういうの苦手だもんね、ヨツナは」
言いながらマキマはグラスに注がれたワインを口に含んだ。
「だからこそ行ったことがないと思って。経験しておくのは大切だよ」
「ふぅん。まあええ経験やわ」
笑いながら私もワインに口をつけた。
こうして話をしていると心が落ち着く。相手がマキマだからだろうか? 気の知れた相手だと、こんなに慣れない場所でも自然と心が解きほぐされていくのを感じた。
「私もそんなに得意じゃないんだけれどね」
「よう言うわ。……テーブルマナーっちゅうん? 手の運びに迷いがない。うちなんかと比べてようできとる」
「細かいところまで見てるね。身体の動かし方はヨツナの方が上手だと思ってたけど、こういう指先だと私の方に軍配が上がるのかな」
マキマは手に持った銀色のカトラリーを机に置くと、その西洋人形のように長く白い指を動かして見せた。
私も彼女を真似て同じように動かしてみたが、なにをしているのか途中でよく分からなくなって、二人してカラカラと笑ってしまった。
部屋の中は適度に明るく、料理の色味を損なわない程度には適度に暗かったので、夜景の光がグラスに反射してルビーの光を机に映し出した。
しかし絵になる。マキマの普段のスーツとは違うよそ行きの格好がこの高級感溢れる空間にマッチしているのだ。
私も天童に手伝ってもらいそれなりにオシャレしてきたつもりではあるが、慣れない自分の格好に違和感があってかあまり様にはなっていない気がする。
それに比べてマキマは、その怪しげな光を持つ瞳と赤い髪が夕闇のようなドレスによく似合っている。夜景にも劣らぬ美貌は昔からで、相変わらず綺麗なものだと口を開けば褒め言葉ばかりが出てきてしまいそうだった。
(口説いとるんちゃうんやから……)
頭の中に浮かんでくる美辞麗句を払い除け、食べ物を口に含んだ。
美味しい。やはり値段相応の味はする。
「ヨツナは珍しい格好をしてるね」
「さすがにスーツで来るんは気ぃ引けてな……スカートは苦手やからズボン履いてきたけど。こう、身体のラインがどうだの、色の組み合わせがなんだの、大変やった」
この点に関しては天童に最大級の感謝を述べなければならない。本当に、彼女がいなければこうも着やすい服を着ることはできなかっただろうと思うから。
「珍しいけれど、良いと思う。そういう格好も見れて良かった」
「今日限りや。しばらくこういう店に来ることもないやろうしな」
個室とはいえあんまり大きな声で話すことでもないので、呟くような声の大きさで話した。けれどそんな声の大きさでも相手によく聞こえるくらいには、とても静かで親密な空間だった。
しばらくは互いのことについて話した。次に、前にあったサンタクロースのことについて話した。こう深く話すことは久しくなかったので、ついついいつものようにおちゃらけた調子で話してしまった。
個室でよかったと思う。大衆の前ではここまでリラックスして話すこともできなかっただろうから。……もちろん、大衆の前であれ話はできた。けれどここまで深い話を、気軽にできるのは、ひとえにこうした空間があってこそだと感じられた。
「レゼちゃん、だっけ。どう?」
「レゼ? ……報告書通りや。素行は悪ないし仕事もきっちりしとる。せや、そのことで話あったんやけど、一日休みやったってくれへんか? デンジくんと遊びたがっとってやな」
「デンジくんと? あんなことがあったのに、仲良いんだね」
話題は次第と部下の話になっていた。
あんなこと、というのはもちろんレゼがデンジくんの命を狙って襲った夏の日のことだろう。マキマはあのとき現場にはいなかったし、レゼの素性も詳しくは知っていないようだから、その辺りに関しては私に任されている部分が多かった。
「同年代やしな、気ぃ合うんやろ。……二人とも生まれも育ちも一般とはちょっとちゃうかったから、ああして仲良うしとる姿見ると嬉しいわ」
「それは……親心みたいな?」
「アホ言うなや。そないな歳やない。……強いて言うなら姉心? 似たようなもんではあるけどな」
グイッとワインを煽る。もはや味もなにもない。
「休みの件は、そうだな。銃の悪魔の討伐後、落ち着いた頃合いなら人員も過不足なくなるだろうしいいんじゃないかな」
「ほーん。ほなもうじきってことか。……だいぶ進んどるんやろ? 計画の方は」
「まあね」
マキマもグイッとワインを飲んだ。それなりに自信はあるのか、とはいえ作戦の規模の大きさから不安もあるのか、自分を勇気づけるような飲み方だった。
「そういえば、ヨツナの方にも手紙が来てたでしょう。ヨツナはどうするの?」
「ん、どうするって?」
「銃の悪魔の討伐」
ふと、そこでナイフを進める手が止まった。私自身自らのその動きの停止に気付かなかった。
「どうするもなにも、まあなるようになれって感じやな。……これまでにもようさん肉片集めてきたし、その成果がようやく見られるんかって思うと嬉しいようなちょっと悲しいような」
このことに関しては複雑な気持ちがあった。これまでの人生の大半を肉片回収に捧げてきた身としては、全てに終止符を打つことになる悪魔討伐隊の話は前から覚悟ができていたとはいえあまり考えてもいないことだったから。
考えていないというより、あえて考えないようにしていたというのが正しいのかもしれない。私はあえてそこには触れないようにして、あの部下との日々を楽しんでいたのだから。
「うちは、銃の悪魔ってヤツをよう知らんから。昔のことはなんも憶えとらへんって話したやろ?」
マキマは頷いた。この辺りの話は私と同じくらいマキマが一番よく知っている。なんせ公安に入ってすぐに知り合ったのが彼女で、同期だったから。
「うちに親がおったんかもよう分からんから。十数年前のあのときに死んでもたんかもしれへんけど、不思議と怒りはないねん」
「…………」
「せやけどまぁ、そいつがようさん人殺したみたいやし、倒さなあかんのは事実よな……」
この時、私の心には残念がる気持ちが少しだけ含まれていたように、後になってふと気付いた。けれどこのとき私の理性は、「仕方がないことなのだから」ということにばかり執心していた気がする。
「……ねえ」
場の静寂を打ち破るようにマキマは口を開いた。
「隠し事はなしにしよう」
「……隠し事?」
本当になんのことだから分からなくって、私は訊ね返した。するとマキマはなんのこともないようにこう言った。
「私、知ってるよ。ヨツナのことなら全部」
グイッと机の上から身を乗り出して、マキマはじっとこちらを見て話した。その螺旋状に奥まっていく瞳が、ただ一点こちらを見つめていた。熱く熱く、熱を持った視線があった。
「一緒に逃げちゃおう」
ぐっと手を握られる。
「一緒にチェンソーマンを倒そう」