目を覚ますと薄暗い部屋の中にいた。かなり長い間眠っていたようで、身体は泥のように重たくって言うことを聞かない。一体いつからこうして眠っているのだろう。深層から引き出された意識は未だにハッキリとせず、ぼんやり天井を眺めるだけで数時間の時が過ぎたように思えた。
身体が上手く動かないので唯一動く首だけを使ってあたりを見渡してみるのだが、家具や内装からして病院というわけではなく──またホテルとも違った、どこか生活感のある寝室にいるようであったが、ここから見える調度品は私の記憶において思い当たる節がなかった。
いったい私はどこにいるんだ……?
頭が上手く働かない。記憶もどこか曖昧だ。最後の記憶はなんだったかと頭を悩ませるが、それすらもままならない。どれだけ頭を悩ませても思い出せないのだ。
(うち、なにしとったんやっけ……)
ぼんやり呟く。喉の機能は十分に働いた。
しばらくすると四肢の感覚が戻ってきたのでそれぞれを動かしてみる。手足の先から、身体の付け根まで。
痛みなどはない。大した怪我があるようには思えなかったのでなにか大事故に巻き込まれて意識を失っていたわけでもなさそうだった。
(ますます分からへん)
特に拘束されているわけでもない。とにかく不思議だ。
そうして身体の様子を確かめているうちに気付いたことだが、私は見慣れぬ寝巻きに着替えてあった。あんまりにも自然に着ているものだから違和感がなかったけれど、非常に心地よい肌触りが妙に歯の浮いたような気持ちにさせた。
ベッドもそうだ。暖かで、柔らかく、深みのあるマットレスに軽く保温性の高い布団を被っていたのでなかなかそこからは抜け出しづらい。
思えば季節もいつ頃だろうかと不思議なことを考えた。窓らしきところには分厚いカーテンがかけられていて光が差し込まない。部屋は適温で保たれているため具体的な季節は分からなかったのだ。
(待つか出るか)
そのままそこでじっとしていても良かったのだけれど、不可解な出来事に受け身でいるのは良くないだろうと考えて──なにより目が覚めたなら起きるべきだという考えがあったので、私は布団から這い出して部屋の扉を開いた。まだ手足は動かしづらかったが、動いていればそのうち慣れるだろうと思った。
薄暗い寝室を出ると廊下に出た。フローリングが敷かれていて、奥にはリビングと思われる場所もある。廊下といえどたいへん広い空間であったので一般家庭とは異なる高級感があったが、やはり病院だとか公安といった公的施設ではないのだなという確信を得た。
誰かの家だとしたら、誰の……?
少なくとも私の記憶の中にこのような場所は存在していない。
寝室とは違いリビングには光があった。陽の光ではなく電飾で、声や音は聞こえてこないが、おそらくは誰かいるのではないかと思われた。
そろりそろり、忍び足で光に近づく。光と影の境界線を一歩越えたところで、奥の方からどたどたと軽い足音がいくつかし、角から飛び出してきたそれらの生き物は勢いよく私の胸元を目がけて飛びかかってきた。
「うわっ、犬……!」
「あっこら!」
数え切れないほどの大型犬に襲われて、あっという間に私の姿は犬で隠れた。犬とはいえこのサイズになるとそこそこの重量だ。それが何体も……!
犬で窒息しそうになり両手足をバタつかせるも、抵抗は虚しく大した意味はなかった。これが一匹ならなんとも愛くるしいのだろうが、やはり数は暴力だ。
「タンマ、タンマ……!」
犬は飼ったことがなかったのでどうすればいいのかも分からず、ただされるがままに彼らの忙しない動きを身に受け続けた。すると光のあるリビングの方から一つの人影が現れた。
その人影は私から一匹一匹犬を剥がしつつこんなことを言った。
「夜なのにみんな元気なんだから〜。でもヨツナは寝起きで困ってるみたいだから、またあとで遊んでもらおうね」
どこか聞き慣れた声。
未だに顔を舐めようとしてくる犬を撫でて宥めながら、上半身を起こし、ようやく相手の顔を見た。
「おはようヨツナ。やっと起きたんだ」
「……おおう」
逆光になっていて表情はよく見えなかったけれど、声からしてマキマのようだった。
「ひどい顔してるよ? そこ、左に曲がったら洗面台があるから、顔洗ってきたら?」
「ん……その前に、犬っころなんとかせんと……」
「あはは。すっかり懐かれてるね」
「…………」
私としても寝起きで顔や口をすすぎたかったのでありがたい。寝起きだからか足元がまだおぼつかないが、なんとか洗面台まで向かって顔やらを水ですすぎにいった。
洗面台にまで着いて来たマキマは、私の腰に手を回してそのままリビングの方まで連れて行ってくれた。どうやら顔色から私の体調が良くないのを察してくれたらしい。
リビングに行くとたくさんの犬が寝そべったり跳ねたり走っていたりして、大変騒がしい様子だった。ただ彼らはご主人様の命令をよく聞いているようで、さっきのように襲いかかってくるようなことはない。私はよく躾けられているなあだなんて思いつつ、ぼんやりした頭で近くのソファに腰を沈めた。
「な、なあマキマ」
「なに?」
ソファに座ったタイミングで私は疑問に感じていたことを訊ねた。
「ここって、どこ?」
「どこって……私たちの家だよ」
あんまりにも自然に答えるものだから、ああそうかと納得しかけたが、私にはその言葉にどうしても違和感を覚えてしまうのだった。
「はぁ? 私たちの、家……?」
と素っ頓狂な声をあげると、マキマは呆れたように応えた。
「まだ寝ぼけてるの? 私たち、同棲してるでしょ。シェアハウス」
「……そうやっけ」
「そうだよ、忘れたの?」
「忘れたっちゅうか……」
話しながら、解かれた頭髪を掻く。普段は後ろでまとめてあるので、こうして流したままの髪型を見られるのはなんだか珍しいと思った。
「まあまあ、寝起きはそんなものだよ。さ、ご飯でも食べよう。寝起きだから軽いものがいいよね」
言ってマキマはリビングの方に行った。私はどうこう言うこともできず、ソファに背をもたれさせる。
ダメだ。頭がぼうっとしている。記憶がぐちゃぐちゃで、ところどころ大きく欠落していて──どこが欠落しているのかもよく分からない。
例えるなら本のページだ。私はもともと昔の記憶がなかったから、最初の五十ページは元からない。ただそこから二百ページくらいあるはずなのに、今じゃそのほとんどがどこかに行ってしまった気がする。
「できたよ」
マキマが用意してくれたのは温かいスープだった。寝起きであることを考慮してか、具は柔らかく煮込まれていた。
温かい食べ物を食べるのは思ったよりも心に沁みる。空っぽになっていた胃に食べ物が流れ込んで、そこでようやく自分はお腹が減っていたことに気がついた。
「どう? おいしい?」
「ん……」
顔を覗き込むようにしてマキマが聞いてきた。
私はそれに小さく頷く。
それを受けて、よかった、とマキマが言った。
食事を終えた頃には九時を過ぎていた。
湯を沸かしてあると言われたので、食後にはお風呂に入った。
風呂から上がると着替えが用意されていて、どれもこれも見覚えのない下着や寝巻きだったが、私のサイズにピッタリ合ったので同棲しているという話は本当らしい。
風呂から上がり、ドライヤーで髪を乾かして、そうして寝床につくまでの緩慢な時間をリビングのソファで二人して過ごす。
そんな一連の流れが私にとってはとても久しぶりにしたことのように思えた。
「もう何年前やろか……研修時代、こんな感じやったな」
「そうだね。でも今だってそうでしょ?」
「それもそうか……なんで懐かしいって思ったんやろか」
ぼうっと遠くを眺める。窓はカーテンがかけられていて外の様子が見えない。けれど、遠く遠くを見つめていた。
「なあマキマ……」
「? どうかした?」
ソファの隣に座ったマキマは、温かな紅茶を飲みながら私の方をチラリと見た。私はそれに構うことなく続けた。
「なんや……長い夢見とったような気ぃするわ……」
「夢?」
「そ。一生懸命、色々しとった夢……何しとったんかは憶えとらへんけど、それでも楽しい夢やったわ……」
私がそう言うと、マキマは私の言葉を咀嚼するように少し考えてから、こんなことを言った。
「なにしてたか分からないのに、楽しかったことだけ憶えてるなんて、変なこと言うんだね」
「そら夢ってそういうもんやろ?」
ぼんやりした言葉で返事をする。マキマは「そうだね」とだけ言った。
それからはただただ緩やかに時間が流れ、やがて寝床についた。夢は夢なのだ。こんな生活も悪くないと思った。
布団の中に潜りこんで、あれこれ考えたけれど、眠りにつく頃になると私は考えるのをやめていた。