車は家から少し離れたところに停められてあった。近くに停めていなかったのにはきっと理由があるのだろう。段々と現状を理解し始めた私はその理由とやらもおおよそのあたりをつけることができた。
きっと戦いで巻き込まれないようにするためだ。彼らは移動手段が潰されてはかなわないといった様子だった。
男に促され道端の車の扉を開ける。車に乗り込もうとして、ふと空を見上げた。いつもと変わらぬ空だが、大きな音が響いてどこかどんよりとした雰囲気がある。現にいまだに遠くからは騒がしい音が聞こえてくる。金属と金属がぶつかり合いどちらかが折れる音。炎の立ち上がる光。建物の崩落する地響き。
家を出たときに見られた廊下の惨状はきっと戦いの跡で、遠くから聞こえてくる音は今まさに行われている争いの音なのだろうと思われた。建物の崩壊はかなり大規模なものであったから、仮に建物のそばに車を置いていたならばその崩壊に巻き込まれていたに違いない。
どうして戦いが始まってしまったのかについてはよく知らない。マキマにとって彼らが味方なのか敵なのかすらもハッキリとしたことは説明されなかった。
「やけに素直に着いてくるな」
「素直が一番やないですの。あかんのですか」
車に乗り込むなりバックミラー越しで岸辺さんがそのように話した。嫌味やら皮肉の気持ちが混じっているわけではなさそうだったが、私はムッとした表情で応えた。無意識に出た癖だった。
すると岸辺さんは呆れたふうにこう言った。
「そら結構だが、さっきまでの態度を見れば少しは反抗されるもんだと考えるのが普通だろう」
「さっきのは……岸辺さんがよう知らん人やったからです。せやけどこの遺書を読む限り、無碍にしてええような人やなさそうやったんで」
「……お前、本当は記憶戻ってるんじゃないか?」
その問いかけと共にエンジンのかかる音がした。私は不貞腐れたように窓際で頬杖をついて返す。
「せやったらええんですけどね」
ムッと膨れっ面をしたり素気ない態度をとったりするのは私にしては珍しいことで妙な心地になる。
マキマに対してこういうことをする機会はほとんどないからだろうか。ならどうして私はこの男に対してそういう態度を取ることができるのだろうかと疑問に感じられる。
身体は正面に向けながら横目で車内を見渡した。公安というからには仕事などで使う武器やら道具が後部座席に散らばっていて、よくよく思い返してみれば車の外装もところどころ傷ついていたように思える。
少々荒っぽい運転に気を取られつつも私は岸辺さんと会話をしていた。会話の内容は主に記憶についてだった。
「遺書を読んだ感想はどうだ。あんまり良い気はしなかったか」
「良い気せえへん思うなら読ませんといてください。……いやまあ、助かりましたけど」
「で、どうなんだ?」
しきりに尋ねてくるので正直に答えた。
「記憶はまだぜんぜん戻ってませんよ。うちはアンタが……岸辺さんが何者なんかもよう分かっとらへん。なんせ記憶がないんやから。せやけど、うちが何者かやった過去があったらしいっちゅうことはなんとなく分かりました」
「あ……? なに言ってんだ」
「うちの記憶に穴空いたぁることがよぉ分かったっちゅうことです」
「なら上々だな」
ドリンクホルダーに差してあったペットボトルの中の液体を飲みながら岸辺さんは話した。
「で、記憶がないって感覚が俺にはよく分からないんだが、お前自身そのことについて自覚はあるのか?」
「ええもちろん」
「じゃあ記憶を取り戻そうとはしなかったのか」
「そら……」
訊かれて答えに詰まった。
昔のことを思い返そうとすると頭痛がするので考えないようにしていた。けれど、だとしてもそれに抗ってでも記憶を取り戻そうとするのが普通なのではないかとふと今思ったのだ。
本当はなにが理由で私は記憶を閉じ込めたままにしていたのか。未だに記憶のほとんどが戻っていない今じゃ、推測すらもつけられない謎だった。
「まあいい、単に気になったから聞いてみただけだ。それにいま聞いたことが解決したって目の前にある問題はどうにもなりゃしないだろうしな」
「どうにもならない?」
「だってそうだろ。最終的にお前の記憶が元に戻ればこの話は終わりだ」
グイッとペットボトルを煽って岸辺さんは話す。
私はそれがなんだか納得いかなかったが、どこがどう納得いかないのか分からなかったのでそれ以上疑問を追求するのはやめた。
「っちゅうか、今どこ向かっとるんです? 公安?」
「なんだ、公安は知ってるのか?」
「ええまあ、なんとなく」
「公安に用があるならまた今度にしておけ。あそこはマキマの目や耳が多いからな」
幾度目かの信号で止まる。
「今はセーフハウスに向かってる。つってもまあ、マキマにバレないってだけのただの地下室だ。ひとまずマキマに狙われているやつはあそこに避難させる……」
と言ったところで、岸辺さんは思い出したようにダッシュボードを開けて中にあるものを私に渡した。
「そうだ。これを見せろって言われてた」
ほれ、と手渡されたのは一冊のアルバムであった。相当に年季の入ったもので、いくつもの写真が収められているのか膨れ上がったように分厚くなっていた。
中を開けようとして、岸辺さんに止められた。
「中を見るのは向こうについてからにしろ。……それより、そのアルバムについて聞きたいこととかはないのか?」
「……誰のです?」
「お前のアルバムだ」
私のアルバム。
どうりで胸が痛むわけだ。
「どうだ。なにか思い出すことはないか」
「そないすぐ思い出せるんなら苦労しませんよ。せやけど……」
そっとアルバムの表紙をなぞる。ああ、カメラがあれば、誰かと写真が撮れるのに。
「その、記憶がまだゴチャゴチャしとって、よう分からんのですけど……うちはなんでこんな気持ち今の今まで忘れとったんやろうって、思いました」
そうか、と岸辺さんは頷いた。
それからしばらくは黙って車に乗っていた。私からすれば岸辺さんは初対面同然なので、共通の話題や盛り上がれる話なんてのは当然のようになかった。
なによりアルバムが私の心を引きつけた。ここには私の大切なものがたくさん詰まっているように感じたから。
大切にアルバムを抱えて、背もたれにもたれかかる。そうして少し首を傾けて、岸辺さんの方を見た。
「うちからも質問ええですか」
「ああ」
「どういうワケで、うちのこと助けてくれるいうんですか」
「そりゃ……」
出かかった言葉を岸辺さんは飲み込んだ。一体なにを言おうとしたのだろうか。
けれどすぐに彼はこう答えた。
「お前は何年経っても世話の焼けるやつだからな」
「…………!」
その言葉には自然と感じ入るものがあった。私はあんまりにも衝撃を受けてしまったからか、言葉すら出ないほどだった。
存外それなりに車に乗っていたようで、いつの間にやらセーフハウスとやらに着いていた。私は地下へと降る階段を降りながら先導する岸辺さんにこう尋ねた。
「あともう一つ」
「なんだ? 次はデンジの回収に行かなきゃならねえ。簡単に済ませてくれ」
グイっと岸辺さんはペットボトルの中の水を飲み切る。すっかり空だ。
「それ、いま飲んでるの……ほんまに水ですか?」
「あ? 酒だよ。素面じゃやってられねえ」
「……まぁええわ」
この扉の奥がそうだ。俺は次の場所に行く。と岸部さんが言うので、呆れ顔で私は岸辺さんが出て行くのを見送った。