アルバムに収められていた写真を見終えた頃になって、階段を降りる誰かの足音が聞こえてきた。おそらく岸辺さんだ。聞き覚えのある固い革靴の足音だった。
それと同じくして二つの足音が後から付いてきていた。これは誰のものか分からない。ただ片方はなんとも気だるげで、もう片方は頼りなさげな足音だったから敵意を持った第三者ではないだろうと直感的に思われた。
古びた扉が開くとまるで疲れた様子を見せない岸辺さんが後ろにいる二人を室内へと案内した。二人のうち一人、影から現れた彼はこちらを見て驚いた表情で、もう一人の女の子は大きなものに怯えるようにして背を曲げて縮こまっていた。
「もう声を出しても大丈夫だ」
彼らが部屋へ入るなり、私は奥の二人に向かって挨拶をした。
「ん、岸辺さん。それにデンジ君とコベニちゃん。お久しゅう」
「え、あ……お久しぶりですう」
「なんだお前。記憶戻ったのか?」
私は少し照れくさそうに頬をかきながら応えた。
「ええまあ……アルバム読んだときに、ビビッと……」
「は……都合の良い頭してやがる」
「迷惑かけてもうてすんません……まぁ記憶戻ったっちゅうても、まだ全部が全部思い出せたわけやないんですけど」
はぁ、と岸辺さんはため息をついてこんなことを話してくれた。
「アルバムがお前にとって大切なもんだってことは知ってた。忘却の悪魔への対処法は過去をなるべく思い出すことだ──遺書はなにより死ぬ間際のお前の気持ちが強く現れている。写真はお前が強く執着していたものだったから、良い材料になった」
「……助かります、ほんま」
「礼ならお前の部下に言ってやれ。アイツらはお前の遺書とアルバムをきちんと保管してくれてたんだからな……確証が足りなかったんでお前が生きていることはまだ伝えてねえが、それでもアイツらにとっちゃ遺品であるもんを貸してくれたんだから」
「それは……悪いことしたわぁ、ほんま」
天童と黒瀬、二人の顔を思い出す。どうして今の今まで私は部下たちの顔を忘れてしまっていたのだろうか……アルバムを捲るたびに様々な顔が思い起こされて、そのたびに罪悪感が私の心を押さえつけていった。
けれど、私の人生というのはそのほとんどが銃の悪魔の肉片回収にのみあてがわれていたから、そんな任務を共にこなしていった彼らの顔を見るたびに私の失われた記憶というのはジグソーパズルの穴を埋めるみたく取り戻されていったのだった。
彼らのおかげだ。死んでいった部下たち、そしてまだ生きているという天童黒瀬二人のおかげ。感謝しても、し足りない。
「身体も鈍っとりませんし、明日からは任務に参加するんで」
「そうか。今はとにかく人が足りない……まあ死なねえ程度にやってくれ」
記憶が戻ったというのを聞いて、デンジ君は「そいつぁ良かった」と少しだけ口角を上げて話した。元気がないのはコベニと同じだったが、その理由はどうにも違うように見えた。なにかに怯えている様子はなかったからだ。
「とりあえず腹に何か入れておけ」
言われて差し出されたのはコンビニのパンやらおにぎりやらだ。
どうやら全体の雰囲気が落ち込んでいるように見えたので、こういうときほど暖かな食べ物が食べたいものだけれど、そうしようにもここには調理器具がないので難しそうだった。
あんまり静かなのも苦手だったので適当にテレビをつける。時刻はまだ夕方前だったのでドラマや時代劇しか流れていなかった。
「死ぬ……酷い目ばっかで、しっ、怖い……死ぬのが……」
デンジ君は良いよね、とコベニちゃんは言った。
生き返れるから、と。
すると彼はこう語った。
「こう見えてもなあ、いま俺ん心の中は糞詰まったトイレん底に落ちてる感じなんだぜ。俺は最高にバカだからバカみてえな暮らししてたんだけど、気付いてみりゃあバカなせいで全部ダメになってたんだ」
彼の言葉はとても胸に染み入ってくるものがあった。彼なりの叫びというものが聞こえてきた気がしたのだ。
「俺はな〜んも自分で決めてこなかったからな。これから生き延びれてもきっと……犬みてえに誰かの言いなりになって暮らしてくんだろうな」
デンジ君が呟くと、しばしの間の後コベニちゃんがこう言った。
「それが普通でしょ?」
「え?」
「ヤな事がない人生なんて……夢の中だけでしょ……」
ぐっとうずくまる。なんとも夢がなくって、希望のない。言ってしまえばそれが彼らの日常で、世間一般にある価値観なのかもしれなかった。
けれどそういう姿勢を目の当たりにして、私は一つ言ってみたいことができた。
「……君ら、暗いことばっか話すなあ。もっと夢とかないん」
「夢……?」
「寝とる時に見るやつやのうて、希望やとか理想とか」
「それは分かりますけど、でもそんなの……ないです」
「ないわけあらへん。仕事したないっちゅう気持ちは仕事休んでどっか遊びに行きたいっちゅう理想やろ。家族から離れたいっちゅう気持ちも、自由になりたいっていう夢があるやん」
自分自身、夢なんてものは長らく持っていなかった。人生を振り返ってみると彼らに偉そうなことを言えるような真っ当な生き方はしてきていない──けれど少しくらい虚勢を張って後ろ姿を見せてやらないと、彼らの未来まで私のようになってしまう。
「嫌なことばっかあるんが普通の人生かもしれんけど、そこで終わっとらんとアレコレ夢見たり理想追いかけるんがええんとちゃうん」
「…………考えたこともなかったです」
「これから考えればええよ。コベニちゃんが死なんように、うち頑張るから」
────────
夜になって皆が寝静まった頃。私はまだ起きてマキマのことを考えていた。記憶をはっきりと取り戻した今、しなければならないことは一つである。
マキマは取り返しのつかないことをしてしまった。アメリカという国がマキマの討伐を求め、岸辺さん自身マキマの殺害を目的としている以上、地球上でマキマの味方なんてのはそういないはずなのだ。
感情論抜きに考えて、マキマが行おうとしている非道を食い止めるには殺すしかないのだろう。私としてもそれに異議を唱えるつもりはなかった。
ただ私にマキマは殺せるのだろうか? 実力の面でも、精神的な面でも──私は一度マキマに負けている。完膚なきまでに叩き潰された。
どうすれば倒せるのか。……そんな、どこか私自身心のどこかで納得のいかない思考回路が巡る。
「はあああー……明日どないしよ」
「……まだ起きてたんすか」
「ん……デンジ君」
向かい側に座っていたデンジ君がむくりと顔を上げて話しかけてきた。私は悩んだ顔つきで話した。
「せや。明日のこと考えとった。……デンジ君は、マキマのことどう思っとる?」
「マキマさんすか……? マキマさんは、そりゃあ……ああ、最悪だなオレ」
少し考え込んだ後、デンジ君は自虐的に笑って見せた。
「笑ってくださいよ、ヨツナさん。俺ぁマキマさんにあんなことされて、でもそれでもまだ、マキマさんのことが好きなんです」
「ふうん……」
「さっき夢の話してましたけど、俺にとっちゃあマキマさんが夢くらいおっきな存在なんですよ……」
デンジ君にとってマキマは大きな存在らしい。
同期として昔からの付き合いがあるのだから、私も同じような気がするのだけれど──彼のその恋心とはまた違った感情が私にはあった。
それはなんだろうか──上手く言語化できない。
「ヨツナさんもなにか夢とかってあるんですか……?」
ふと訊ねられた言葉に、私は深く悩み込んだ。
「夢? せやなあ、夢かぁ……」
明日きっと私はマキマを殺しにいく。
それは揺るぎない。こうしてデンジ君と会話している間にも、正義心に駆られて生まれたその決意は高まっていった。
けれど、それとは別に。
彼女のことを考えれば考えるほどに、なにも知らなかった自分を恥じて、そして彼女のことをもっとよく知りたくなった。
「うちの夢は」
マキマという一人の人間を。
今までろくに見てこなかった彼女のことを、もっとよくよく知りたい。見ていたい。
「友達一人、作ることやな」
マキマと友達になれたなら。今更だけれどそんな理想が、私の心のモヤモヤを取り払った。