雨に濡れた路地を俯いたまま歩いた。
激しくアスファルトを叩く雨露を、ただ黙って見ていた。
家から少し離れた寂れた公園のベンチに腰を下ろす。
夢路晴彦は、避けようともせず、雨に濡れたままベンチから動かない。飛び出してきた家の方向に何気なく視線をやった。
その方角からは、人の影さえ現れない。
小さく舌打ちをして、冷たく凍てついた視線を思い出す。
自分の身内にあんな顔をされたショックよりも、自分への苛立ちの方が強かった。
咄嗟に家を飛び出してしまったが、もしかしたら追いかけて来てくれると淡い期待を胸に抱きつつ、途中、家の方を振り返ってみたのに。
父と母は自分を追いかけては来なかった。
胸の中に現れたのは寂しさだ。
その気持ちを追い出すかのように、晴彦は降りしきる雨を顔面に受け止めて、ただ吠えた。
何度も。何度も。天に向けて叫び続けた。
声に出たのはなんの意味も持たない号哭だけだった。
[彼は愛を知らなかった。だから愛を欲した。だが、歪んだ翡翠の瞳では、何が真実の愛かは見極める事が出来ない。]
それからの晴彦は、なりふり構わずに当たり散らしては、悪い友人達と夜の街へ宛もなく歩いて回った。
ただ、今を凌ぐために。
ただ、この瞬間の爆発的な感情の流れのままに。
そして、警察に保護され、家族に引き渡される。
父は、迷惑そうにした。
母は、項垂れたまま落ち着かない。
そんな両親を見て、ただただ愉快だった。
『お前らの大事な世間体なんて物。全部壊してやるよ。ざまぁみろ。』
愉快なはずなのに。清々するはずなのに。
心は一つも満たされない。
[誰が…。俺を満たしてくれるんだよ。]
事件は園内の砂場で起こった。
晴彦と他の園児の間で遊具の取り合いが起こり、晴彦が何時もの「癇癪」を起こしたのだ。
ただ、それだけの事だったが、場所があまりに悪すぎた。
当時の晴彦が、
電流が砂場に走り、磁力を受けた砂鉄が晴彦の身に纏わりついた。
パニックを起こせば起こすほど、磁石にでもなった様に砂鉄は晴彦にこびり付き、泣きわめくほど、口に砂鉄が押し流されてきた。
保育士達が慌てて、砂だらけの晴彦を砂場から離し、宥めすかした所で、
他者と違うという事は、時に個性として理解され受け入れられ、自身を構成する一部とされ、時に脅威として理解する事を拒絶され、嫌悪され、最悪の場合虐げられる。
明らかに晴彦は後者の存在だった。
物心ついた頃には、既に家族との間の確執は広がり、修復が難しい程の距離感だった。
満たされない日々。
遂に、内に留めていた疎外感や不満といった感情が表に現れた時。それは思春期の多感な時期と重なり、強く攻撃的な
年を重ねるうちに、意図せずに
もうどうしようも無いくらいに、家族は崩壊していた。
そんな時期に、晴彦は人生を変える人物に出会うのである。
学区が偶然同じだったから、小学校の頃からよく見知っていた。頭が良くて、優しい性格だからか、どんな奴からも好かれるオイシイ奴という印象を受けた。
歳が離れた妹とよく一緒に居て、兄妹仲が良かった。
中学時代。東雲嵐に興味など無いので、どんな生活を送ったか知らない。が、知らぬ間に小学生の頃に受けた印象とは一転し、暗いガリ勉野郎と化していた。
高校も、勉強が出来るはずの奴は、近隣の超進学校だって行けたはずなのに何故か公立の底辺学校と言われる地元の学校を選び、なんの巡り合わせか同じクラスになった。
何事もなければ、相容れなかっただろうと思う。
東雲嵐と街で会ったその日は、大雨が連日降り続けていた残暑の残る秋の口の頃。
路上を男児が母親と歩いていた。
男の子の手には短い赤い紐。その先に繋がれた首輪、小さな褐色の仔犬が転がりそうになりながら歩いている。
母親は、街に並ぶガラス越しの冬物の衣類に目を奪われ、子供に目を向けていない。
危ない。と思った時には、子供は車道に引っ張られていた。
反射的に手を伸ばしたが、視界に入ってきたトラックを見て、半分程伸ばした手は中途半端に前へ伸びたまま、足は重りでも付いた様に出足が遅くなる。
自分の位置からでは到底助けられない。
次に襲ってくるであろう悲惨な光景から目を離そうと目を瞑りかけた時に、突然それは起こった。
まるで、男の子を囲うように半透明なハコが現れ、すぐ様男の子はハコごと、その場から消えた。
物体が、いとも簡単に消えるはずが無い。
辺りを見渡すと、見つけた。向かいの歩道側に呆然と座り込んでいる。
トラックを運転していたドライバーは呆気にとられてた。母親は、目の前で起きた事に動揺して上手く状況を理解出来ていないようだった。
俺だけが、釈然としない気持ちでいる。あのハコは一体なんだったんだ。
よく見ると、男の子の傍らに男が立っている。
自分と同じ制服の男。
それが、東雲嵐だった。
『何だ…?アイツ。』
何時からそこに居たのか。どうやって、トラックと衝突寸前の子供を助けたのか。疑問が頭に渦巻く。
子供の元に母親が駆け寄った。子供も安心したのか、泣きじゃくり始めた。
東雲嵐は、そっとその場を静かに立ち去ろうとしていた。
一瞬見えたあのハコの正体を、何故か東雲嵐の仕業だと思った。一体何なのか、知りたかった。
その気持ちだけで、東雲嵐の後を追うのに十分な理由だった。
「おい。シノノメ ラン。」
「…。」
怪訝そうな様子で振り返る。瞳の中には明らかな拒絶の色が浮かんだ。
何を考えているのか分からない奴と思っていたが、案外と顔に出やすいらしい。
「…。何?」
「お前だろ?あのガキを助けたの。」
片眉を吊り上げる。
そして、今以上に冷たい視線を投じられた。
「だったら何だ?」
助けた事に、否定はしなかった。やはり、あのハコを出現させたのは、コイツの行いの様である。
「マジックでも使えるのかよ?変なハコなんか出せてさ。」
「ハコ?なんの事だか知らん。」
「とぼけんなよ。お前、能力者だろ?」
破裂音と共に閃光が指先から弾ける。ちょっとだけ
東雲嵐の顔色が明らかに変わった。
直ぐに距離をとり、防御の形をとる。
「お前、サイキッカーか…!」
何故だか、相手は酷く警戒して、焦燥感にも似た切迫した表情を浮かべている。
「お前もだろ?」
「…クソっ!」
全く喧嘩なんて無縁みたいな顔の奴から繰り出されたタックルなんてもの。普段だったら止められる筈なのに、後ろへバランスを崩し、そのまま手をついた。
「…ストレングスは苦手なのに…!」
倒れた俺の横を通り抜けて逃げようとする相手を無意識に足を掛けて制止させた。…はずだった。
相手は、まるで瞬間移動でもしたように、そこにいたはずの東雲嵐は既に道路を渡ろうとしている。
「なんで逃げんだよ!?」
「俺は、まだそこまで落ちぶれちゃならないんだ…!」
「意味わかんねー事言ってんじゃねぇーよ!落ちぶれてねーーし!」
全速力で追いかける。のに、一歩も追いつかない。
角を折れた所で、東雲嵐は忽然とその場から消えた。