何もかもあの雨に奪われた。
まるで蛇に睨まれる様な。
背筋にゾクゾクとくる視線に日々、嫌悪感を覚える。あいつは一体何を考えている?
そんな事を考える余地があるなら、何か家事を一つでも多くこなしている方が有意義な時間の使い方だと思い直し、食器洗いを再開する。
あいつと顔を鉢合わせない様に生活をするには、簡単で...。ただ単に生活のリズムをちょっと変えるだけでいい。相手が居間に出てくる時間に自室で休めるように調整した。
アルコール中毒で、一日中酒を浴びているあいつは20時を過ぎた頃にふらりと居間に顔を出すのだ。
早く妹との団欒を切り上げ兄妹の居室へ引っ込めば、うちの動く粗大ごみとは顔さえ会わさず生活が出来た。
そうやってかれこれ5年は生活している。
かつての幸せ一杯の普通の家族図はもう存在しない。
今、自分達兄妹にあるものは、家族の仮面を被った偽物で、本当の家族ではない。
あいつが俺を見る目。-それは異端者を見る視線。
-頼る者なんて存在しない。
自分には『
妹の為に。ただそれだけが、俺に残された希望だった。
外は雨が降っている。窓を叩く粒が硝子を伝い落ちて、水溜まりを形成し始めた。溜まっていく水かさを見つめ、何となく歯を食いしばった。自分の中に溜まる、虚しさの様だったから。
[愛を知っているが故に、それを失ったが故に、彼はまたそれを得る事を恐れた。
失う悲しみも、絶望も痛い程に理解していたから。]
「…おい。」
飛び上がらんばかりに、心臓が脈打つのを感じた。
あいつが、俺に声をかける事象はもう何年も起きてこなかったが故の驚き。
俺の存在を一応は認識しているのかと単純にその事にも驚きを覚える程、東雲康夫は俺に遭遇する事を恐れていた。
「…何?」
「…。…メシ。」
「…え?」
「…メシだって、…聞こえないのか?」
俺に食事を作れと言いたいのか。相手の言っている意味は理解した。
「…いつもみたいに、弁当買わないんだ。」
「…金がねェんだよ。」
「…。」
母が亡くなってから、徐々にこの人は崩壊していった。
酒や煙草、賭博に女遊び…。
ここ最近は、仕事に出ているかも怪しい。
「…早くしろ。」
言い残して、リビングへ消えていった。
作らない選択肢もあるが、そうして逆上したあいつが、千架に暴力を振るなんて事があってはならない。
あり合わせで、適当なモノを作った。
台所から暖簾を捲り、相手の様子を伺う。
テレビを見ながら、缶ビールの空き缶を2、3積み上げていた。
「自分で運べよ。」
丸まった背中に向かって吐き捨てながら、台所から出て、そのまま自室に体を向けた。
渋々、立ち上がったあいつの足元で空き缶が潰れる。
「…。」
何も言わず、台所から食事を運んでリビングへと康夫は戻っていく。
自室に引っ込むと、カーテンも閉めずに千架が寝巻きへと着替えていた。
反射的に視線は薄暗い壁に移動するのと同時に目元を手で覆う。
「あ、嵐兄さんのエッチ!」
「カーテン閉めておけよ…。」
突っ張り棒を擦る金物の音と同時に布が部屋を分ける。
その音を聞いてから、ゆっくりと顔を覆っていた手を下ろした。
「部屋に入る前にノックをしてよー。」
「…悪い。ちょっと考え事をしてた。」
「…お父さんの事?」
「…。」
机に向かって椅子に座った(机はカラーボックスと長板で作り、椅子はビール瓶のケースで作ったものだが、どちらも使い勝手には困らない)。疲れが一気に滲み出てきたが、ベットへ放り出したバックからノートや筆記用具等引っ張り出して机へ広げる。参考書も机の脚から引き出してくるのを忘れない。
「嵐兄さん、お父さんと何かあったの?」
「…。今。話しかけてきた。メシ作れって。」
「えっ!?お父さんがっ!?」
布が勢いよく捲り上がり、妹が仰天した顔で覗き込んできた。奥から椅子を引きずってきて、閉めたカーテンを開ける気配がする。
「かなりレアだね。お父さん、兄さんの事すっごく嫌がってるのに。」
「背に腹はかえられないとか。そういう事だろ。」
「そっか。…ウチもとうとうゆく所まで来たか…。」
「…いや。それは無い。母さんの保険金は俺が持っているんだから。」
母親が亡くなった際に下りた保険金等を管理する通帳と印鑑。最初こそ、あの男に管理させていたが、奴が酒や博打に走り始めて直ぐに母の保険金を定期的に崩している事が分かり、直ぐに通帳と印鑑は自分が預かった。
この金は、千架の学費の為に使う。と、その日から手をつけていない。
「どうするの?お父さんの事…。」
「どうするって…。俺達はちゃんと取り決めただけの事と、多少生活費も出してるんだ。後の事は知ったことか。」
「でも…。」
「このままアイツと生活したら、こっちまで破滅する…。俺はアイツと心中だけはしたくない。
だから…。出よう。…家を。チカが高校に上がる頃にはアパートを借りれるだけの金が出来る…。」
高校を卒業する前に、働き口を見つけて…。これまで続けてきたバイトの給料の貯金もそこそこ貯まっている。
贅沢さえ言わなければ、暮らせるだけの住まいを見つけられるだろうと希望が湧いてくる。
「嵐兄さん…。無理しないでね?
兄さんが倒れたら…。ウチ本当に駄目になっちゃうんだから…。」
「大丈夫。お前にまで苦労させないつもりだよ。」
そう。苦労なんてさせない。千架は、千架だけは幸せにならなきゃいけないんだ。