――ひたすら伸ばした腕に突如現れたハコ。
その空間に千架が相手から防御の形を取りながら、何が起こったのかと不思議な顔をして動きが止まっている。
――正に、今。
脅威となっている康夫はハコに思いっきり拳を打ち付けた直後で、悶絶しながら体を香箱の様に丸め込めて痛みを払拭させようと必死だ。
その隙に、俺は千架に駆け寄った。ハコは途端に姿を消し、千架は呆気に取られたように口を半開きにして尚も硬直から解けない。
「チカ、チカ!…大丈夫か?」
「…お兄ちゃん。だ、だいじょうぶ…。」
我に返った千架が口の中で唱えるように呟く。
康夫が鬼の形相を深くしながら、震える拳を振り上げた。
「チクショウッ!」
振り上げるだけで、そのまま何処に向ければ良いか分からなくなった怒りは急激に窄んでいき、拳はそのまま力なく腰元に落ちていった。
何が起こったのか、分からないまま。とにかく、危機的状況から脱した事だけは確かだった。
ふと、意識が現実に戻った。軽い悲鳴が零れる。額からはドッと嫌な汗が吹き出て心拍も通常よりも早く鼓動を打つ。
嫌な夢を見ていたようだ。
眼前には医学書と参考書、筆記用具の類が散らばっている。時計の針に目をやると時刻は2時40分…。夜中も夜中だ。
カーテンの向こう半分に意識を向けると、規則正しい寝息が聞こえてくる。千架を起こしてはいないようだ。ほっと安堵する。
水分を欲し、台所の方へ身体を向ける。部屋の扉のノブに手をかけた時に、一瞬だけあの男の存在の事を逡巡した。流石にこの時間まで居間にいることは無いだろう。居たとしても、酔い潰れて寝ているはずだ。
部屋を出て、台所へ向かって行き、居間の様子を伺う。
真っ暗闇だった。
やはり、康夫は自室に引っ込み眠っているのだろう。
台所の電気をつけて、棚からグラスを手に取る。
蛇口をゆっくりとひねり、グラスに水を注ぐ。
視線を背中に感じた気がして、振り向きながらグラスの中身を飲み込んでいく。
視線を感じた先は、母が生前使っていた部屋だった。
しばらくそのままに…。と思っている間に、ついに誰も片付けることが出来ず、そのままになってしまった部屋。
入ることも、見ることも、未だに自分は出来ずにいる。
何故、母の部屋の方から視線を感じたのだろうか?気になったが、直ぐに合点がいった。千架は寝ているし、その他にこの家にいる人間はあいつしかいない。
「…おい…。」
「…何?」
日中に引き続き、奴から俺に声を掛けてくるなんて事は、一体どういう風の吹き回しなのだろうか?
「…俺は、変わるんだ…。あの方が言っていた…。変われるんだ…。」
「…はぁ?」
…意味がわからない。とうとう、酒で頭が狂ったのか?
次の瞬間、
十中八九、バーストの波動だろう。ライズを使い、相手の後ろへ回り込んだ。
康夫はその動きを察知していたかのように、ライズで回り込んだ俺を、体の正面で捉えている。
瞬間、脳に直接打撃を受けた様な衝撃が走った。
バーストの波動は誘導の為だったと気付いた。
「…!なん、だ?」
「ここは、お前の精神世界。お前の精神の深層…。」
目の前には、幼少期の俺の姿があった。その姿が自分自身と重なり、気づくと自分は幼少期の自分自身に戻っている。
「大事にしまってるお前の記憶の中だ…。」
小さな少年は、両手をそれぞれ父親と母親に繋がれ、幸せそうに笑っている。
母親を見上げる。逆光で容姿がはっきりとしない。だが、優しく少年を見据えて微笑んでいる事はわかった。
父親を見上げる。父親は少年が顔をよく見ようとしても、モザイクがかっていて、笑っている事には違いないが、どんな容姿だったかはわからない。
自分と居てくれることが、笑ってくれることが幸せだったのを感じた。
そこで、世界が歪む。
褐色の蛇が辺りを一面覆い尽くすように蔓延っている。その蛇はどんどん数を増やして自身に迫ってきていた。
「…っ!」
精神攻撃だ。肉体に苦痛を感じるわけが無いはずなのに、無意識に防御の形をとる。…こんな事は無駄だ。
性根の悪いサイキッカーには、ここ数年で嫌という程出会ってきた。そいつらは大抵バーストで力を発散させてくる。自分は適当にストレングスで奴らの力を受けた様に見せておけば、勝手に満足して帰っていく。
バーストの力を受ける事には慣れていた。だが、トランスを直に受ける事は…。しかも、トランスはその特質上、距離が近ければ近い程強力だ。…迂闊だった。もっとよく相手の能力を見るべきだった。
トランスの波動を受ける前に動ければ…。トリックルームを発動させておけば良かった…!
蛇の数が増え続け、眼前を覆い尽くすようだった。無数の中の一匹が、父親の足元に到達しそのくるぶしに牙を立てる。みるみる蛇が父親を飲み込んでいく姿に、悲鳴をあげた。
振り返ると同じ状況に母親も侵されていた。
自身にも蛇の脅威が迫ってきている。
そこで、意識は空に浮き、自分の事なのに第三者的な気がした。
気付くと蛇に囲まれているのは幼少期の自分で、自分自身は現在の姿に戻って、まるで映像でも見ているようにスクリーンの様なものの前に佇んでいる。
自身の記憶を映し出しているスクリーンの端を徐々に蛇が浸食してゆく。スクリーンは他にも無数にあり、どのスクリーンにも蛇がまとわりついていた。
「こいつらは、記憶をエサにして大きくなっていく…!お前の記憶を喰らって巨大化したこいつはお前の精神を蝕むんだ…!」
「…。ご親切に、説明ドーモ。」
こいつも、結局は自身の力を試したいだけだ。
トランスにはトランスの波動…。
どちらの
「これまで、散々俺を馬鹿にしていやがったな…!自分に力があると大きな面しやがって…!
だが、そんな態度が取れるのは今日で終わりだ!お前を支配し、俺は変わるんだ…!」
相手は全く自分の様子を見ていない。不注意を見逃さず、トランスを至近距離で繋ぐチャンスを伺っていたが、相手の方から近づいて来た。このチャンスを逃す手はないだろう。
一瞬だった。有線ジャックでトランス接続に成功し、相手の精神に働きかけようとする…。
東雲康夫の精神は、暗く歪み、鈍色に世界が沈んでいた。
何か大きな力で弾かれる。
『トランス接続が失敗した…!?』
「…無駄だァ。…あの方から力を与えてくださったんだから…。そんなもんは、効かん…!…ンぐゥッ!…がぁああ!?」
トランスが解除され、同時に東雲康夫は激しく苦しみだした。
「がぁああ!」
『暴走…?』
自身が生み出した蛇が一箇所に集まり、球体に姿を変えていた。球体が東雲康夫の目の前にふわふわと宙を漂ってきて、突然康夫の口から体内に入り込んだ。
ただの暴走では無さそうだ。自分がPSY暴走を起こした時と違う…。
康夫が白目を剥いて、口から涎が滴ると共に口から光の木の様なものが突如突き出てきた。木は康夫の命を吸い上げていくように、みるみる東雲康夫の身体は干からびて、ついには骨と皮だけになってしまった。同時に光の木は消失し、部屋には静寂と状況を理解できない俺だけが残された。
意味も分からないまま、呆然と膝をついていた。
『このままじゃ、マズイ…。』
このまま放置するわけにもいかない。だが、どうすべきか解りかねた。救急か警察かには通報しなければならないが、この異様な状態を理解出来るとは思えない。
敢えなく、どちらにも通報することにした。
ヨロヨロとリビングの端にある固定電話機の前に移動した。電話の受話器を持つ手が震える。ボタンをプッシュし直ぐに繋がった。オペレーターの落ち着いた声が聞こえてくる。
「救急です。火事ですか?救急ですか?」
「きゅ、…救急です…。」
声が震える。
急激に喉の乾きを感じる。さっき潤したばかりなのに…。
やっと振り絞った声でどうにか救急隊を呼ぶことができた。
受話器を戻し、間髪いれずに110番をプッシュする。
「警察です。どうしましたか?」
無機質な声が受話器を通じて聞こえてくる。
なんて。なんて説明すればいいんだ?とにかく、状況だけ伝えるに越したことはない。
努めて、冷静に言葉を繋いだ。
「…父親が。突然、倒れて…。」
「救急に連絡は取りましたか?倒れているだけですか?息はしていますか?」
「救急は、さっき呼びました…。息は…。していないと…思います…。たぶん…。突然、干からびたみたいに…。」
要らぬ説明も口をついて出てハッとする。そんな説明は、混乱させるだけだ。どうにかやり過ごそうと、言葉を探していると、思ってもいない返答が返ってくる。
「…干からびる?…その状況、詳しく聞かせてもらいますか?」
なぜか、対応している警察官はその状況を気にしているようだった。
変に事を隠そうとする方が、余計にボロが出そうだ。見たままを説明する。
「…?なんて説明すれば…。光みたいなものが集まって…。それが体内からなにか…吸い上げていくみたいに…。まるで木のようになって…。」
「…やっぱりか…。すいません。これから刑事を何人か伺わせてもらっても良いでしょうか?
今、似たような事件が多数起きているので関連性を調べたいんです。」
「…同じような…、事件?」
「いきなりで、申し訳ないですが…。こちらも何も分かっていない状況で…。少しでいいので、お話をお聞かせ願いませんか?」
これが、事件…?
サイキッカーが関わっているのだけは確かだが、そうなってくると…。
「…マズイ。」
まず、真っ先に自分が疑われる。
そして、健常者に
ひたすら悪い方向へ転がっている。どうにかしなければ…。
「…兄さん?」
背後の声に、大きく体を捩り目を見開いて相手を確認する。
千架が物音で起きてきたのだ。
「…チカ…。」
「…兄さんは、悪くない。」
床の一点を凝視して、静かに妹は話した。
「俺は、殺ってない。…信じてくれ…チカ…。」
ため息と共に、千架が俺を見据える。
「人一倍ビビりで優しい兄さんが、殺人なんて無理に決まってるじゃん。分かってるよ。…何があったの?」
「…アイツも、力を使った…。力が暴走して…制御出来ずに…死んだんだ…。」
力が暴走していたのは確かだが、普通の暴走と違っているように思う。
自分が
使っている種類そのものまで変化するエラーコードはおかしい。
確かに、東雲康夫はトランス系PSYを使用し
誰かが康夫に攻撃したはずだ。
「誰かが、アイツに
…一体、なぜ?」
「…って言うかさ、父さんもサイキッカーだったって事?これまでどうして黙ってたの?兄さんは気付かなかったの?」
「…。妙な事を言っていた…。」
静寂を切り裂くように遠くからサイレンの音が聞こえる。
程なくして、警察と救急の両車両が路地を赤色回転灯の赤で満たした。
「救急です。東雲さん宅で間違いないですか? 具合が悪いのはどなたですか?」
「父です。…こっちの部屋で突然倒れて…。」
「警察車両も来ていますが、何か事件に巻き込まれたとかですか?」
「…それが…。…どう説明すれば…。分からなくて。」
「とにかく、拝見します。」
救急隊員数名がストレッチャーと共に直線上の廊下を真っ直ぐリビングに向かう。
千架が目配せしてきた。リビングにいた千架はそのまま救急隊を案内している。
開かれっぱなしだった玄関に、二人組のスーツ姿の男が佇んでいた。
「すいません。警察の者です。救急隊、今到着ですか?」
「は、はい。」
「突然伺ってすいません。実は、ここ最近同じ様な事件が頻発していまして…。関係性を調べさせていただいているんです。」
「…事件…とは?」
そこで、リビングから救急隊の一人が慌てた様子で声をかけながら、廊下を戻ってくる。
「お兄さん…!警察の方もちょっと…!」
「丁度いい…。お父さんの状況我々にも見させてください。」
警察の人間を引率してリビングに向かった。
外はまだ、雨が降り続いている。
キッチンとリビング入口の間には、数分前と変わらない光景が目に移る。変化は、救急隊員と刑事がその場に増えた事だけだ。
早速、若い方の刑事が父親だったものに近付く。
「…。」
「脈が取れず、心肺停止状態を確認しました。受け入れ先を確認しているところです。」
救急隊が、状況を説明する。
年配の刑事が、重い口を割った。
「こんな状況で…お話し辛いですが、お父様との関係は…。」
「…血縁関係って事だったら…、妹も含めて…無いです。母が、再婚したので…。
親子仲って意味なら…3年前から粗悪ですよ…。」
救急隊員が忙しなく動き始めた。受け入れ先が見つかり運び出すとの事で、そちらは千架が同乗すると告げて、慌てて救急隊員と共に外へと出ていく。
若手の方の刑事がリビングを一回りしキッチンに向かう。
「…。お母様は?」
「…。5年前に交通事故で……。」
重い空気が更に重力を増させた。
老刑事はきまり悪そうに咳払いをし、視線を部屋全体に走らせる。
「…随分、お父さんはお酒を飲んでたみたいですね。」
「…酒、煙草、パチンコ…。母が死んでからずっと…。」
「…お父さん、仕事は?」
「おにーさん、''超能力''って信じる?」
若い方が被せかけてくるように問いかけてくる。
「…!おい、武智…!」
「佐古さん。分かりきった質問したってしょうがねぇでしょ?ビールの空き缶だらけ、部屋中ヤニだらけ。おまけに壁に大穴。ロクでもねぇ男だって馬鹿でも分かるわ。
お前、妹居んなら、警察に相談するなり、児相行くなり色々あったろうよ?」
その横暴な態度に、何かが弾けた。
毛羽だった神経が、塞ぎ込んでた負の感情を刺激する。
「…行ったよ!!何度も!何度もっ!
警察にも、相談所にも! 担任にも話した!
交通事故で母さんが死んで!!亡くしたショックだろう、しばらくしたら立ち直るから、お父さんを支えてやれ!?お兄ちゃんだろ?強くなれ!?虐待じゃないから援助は必要ない!?
…ふっざけんじゃねぇ…!
逆上して、暴力ふるう大人を、どうして支えなきゃならねーの!?ショック?逆恨みもいいとこだっ!立ち直るとかそういう問題じゃねぇんだよ!
毎日、殴られて死ぬかもしれない…これは虐待じゃねーの?
何遍だって言ってやった!
それでも動かないのは、そっちじゃねぇか!」
…一気に放出される自分の中の暗い感情に自分でも訳が分からなくなる。こんな言葉使ったことないなって変なところに気がついた。
「…ふーん。お前、結構言うねぇ。大人しそうに見えて、案外はっきり物も言えんじゃねえの。」
武智と呼ばれた若い刑事が片方の口の端を持ち上げて笑う。人を馬鹿にしたような態度。
嫌いなタイプの人種だ。
「殺ったのは、お前か?」
「…武智!」
「………殺るなら、とっくに殺ってるよ………。」
嘘の無い、正直な感情をそのまま口にした。
何時ぶりだろう。本音を語るのは。
武智刑事を、しっかり見据えた。
老刑事と並んで立っていたから、当初は若手かと思ったが、年の功で言うと30〜40前半位で、目頭に薄く皺が刻まれている。眉間の皺は老刑事よりも深いところを見ると、この人は普段から難しい顔をしているようだ。
自分の方が長身な事もあって、近くに立たれると、自然と見下ろす形になる所から、身長はせいぜい165センチ〜170センチ位だろう。
「…で?質問に戻るけどよ。''超能力''って信じる?」
「…。…信じて無いよ。」
「でも、お前は見たんだろ?説明つかない現場を。何だと思う?」
「…。それを調べるのが、あんたらの仕事だろ?」
「お前、''W.I.S.E.''(ワイズ)って知ってるか?」
「''W.I.S.E.''…?」
「"超能力者"が集まるテロ集団だよ。そいつらが絡んでる事件の被疑者がみんな干からびて死んじまうんだ。…さて、どうしてだろうなぁ?
被害者は、何かしら被疑者とトラブルがあるみたいで、"W.I.S.E"の名前を出すと、みんな顔色が変わっちまうんだ。」
コイツ…。
俺を袋にしようとしてるんだな。
相手を睨めつける。武智刑事は挑発するように凄んでくる。
「お前も、本当の事を話しといた方がいいぞ?袋になっちまうかもしれねぇぞ?」
「俺に、逮捕されるような言いがかりがつけられるのかよ?」
「…残念ながら…。今のところ無理みてぇだな。
…せいぜい、上手に尻尾隠しとけよ。」
踵を返し、サッと引き上げていく武智刑事を老刑事が憤った様子で後について出ていった。
「…謎のサイキッカーに警察…。」
悪の坩堝はもう足元に迫っているのだろうか?
もう、どうしようも無くこの世界に見放されているのか?
また迫ってきた難に気が遠くなるような思いを抱いた。