僕はトレセン学園のトレーナーだ。担当しているウマ娘はアドマイヤベガこと、アヤベさん。 今回は割愛するが、アヤベさんと過ごす中で星座の知識を身に付けていき、今では星座検定準二級ぐらいなら受かるんじゃないかなという自負を持ち始めたりして、かれこれ二年となる。
そんな僕は現在、数ヵ月分の先輩にあたるオペラオーTと数ヵ月分の後輩にあたるトップロードTと共に昼食を摂っていた。
ウマ娘間の仲がそれなりに良いと、必然的にトレーナー同士でもママ友のごとく交流ができる。
そんな中でも僕らは、ウマ娘同士が築いているのと大体同じ関係性になっているトレーナー同士である。
「あ、そうだ先輩方、最近こんなネット記事があるんスけど、知ってますか?」
食堂の丸テーブルでトンカツ定食を食べていたトップロードTが出し抜けに話すために口を開いた。
「……知ってるって、なにを?」
それまで食べるために口を開いていた僕とオペラオーTは、彼へ視線を向ける。トプロTは一旦箸を器の上に置いてスマホを取り出していた。
「これっスこれ」
何かの記事のページを映し、僕とオペラオーTに見えるようにスマホを差し出す。
代表してカツ丼を食べていたオペラオーTが受け取った。僕はサンドイッチを食べていたので、脇から見るだけに留めることにする。
「なになに……『二秒で無料で終了するウマ娘への
「ちょ、オペラオーTここ公共の場だぞ……周りにウマ娘たちもいるし……」
慌ててオペラオーTの肩をはたく。
女子高みたいな扱いであるこのトレセン学園で、男供が下系の話をしているとなったら普通に通報案件である。現に近くで食べていたウマ娘のグループが何人かこっち向いたし。
だがトレセントレーナーの中でもかなりのチャラ男系であるオペラオーTはあまり気にした様子もなく、スマホに映った文章を読み上げ続ける。
「『試合前、隙間時間にいつでもできるウマ娘の
「撫でる?」
気になる言葉が出てきて首をかしげた。
「撫でることがウマ娘の強化とどう関係あるんだ?」
「待てって今から読むから。……あぁ広告邪魔っ。えーと……『そもそも人間においても、頭を撫でてもらう───ひいては他者に体に触れてもらい繋がりを感じることによって、ストレスを緩和したり幸福感を得られるオキシトシンという物質が脳内に分泌されるのは有名な話ですが───』」
……知らなかった。
だから子供の頃母さんに撫でてもらえるとなんとも言えず心地良かったのか。
「『───しかしウマ娘の場合はそれに加えて、彼女らの筋肉の中に存在する「ウマパワーキン」という微生物を活性化する効果があるのです』」
「う、ウマパワーキン……」
なんか、ウマムスコンドリア以上に怪しい微生物が出てきたんだけど。
「『ウマパワーキンを刺激されたウマ娘は、通常より遥かに優れたパフォーマンスを発揮できるようになります。つまり、ウマ娘を撫でれば簡単に彼女たちのパワーを引き出すことができるのです!』」
……それが本当なら、確かに二秒で無料で終了するが。
「『この機会に皆様も試してみてはどうでしょうか。是非とも勝利の栄光を、あなたのウマ娘に!』……だとよ。くひひひひっ」
読み終わったオペラオーTは、そう言って笑っていた。
「……どう思うよ? アヤベT」
「いや……どうと言われても……」
親友の、特に似てもいない物真似芸を見せられたような気まずさだった。
「とりあえず、『嘘くせー……』としか」
「くひひっ、だよなぁ。こんなのでウマ娘が勝てるようになるんなら、俺らトレーナーは商売上がったりだぜ」
「いや、まぁ、先輩方がそう思うのも無理はないんスけど」
言いながら、スマホを返してもらうトプロT。どうやら話を投げた張本人であるトプロTも、このサイトの話が明らかな眉唾モノだというのはわかっているようだった。
「ジブンも本気で信じてるわけではないんスけど……トプロのために、ジブンができることがあるなら何でもやってみるべきだと思って……こないだのレースで、ちょっと試してみたんス。この方法」
『ほう?』
僕とオペラーT、珍しく思考が合ってハモった。
「それで、効果のほどは?」
「それで、その時のトップロードの反応は?」
と思ったらそこから疑問を持つ部分は違った。オペラオーTよ、わざわざそこを聞くのは下世話過ぎるんじゃないだろうか。
文脈的に僕の疑問を拾った方が良いと判断したのか、トプロTは僕とオペラオーTに7:3で視線を向けながら言った。
「そしたらなんか……トプロが急に絶好調になって、二位に六バ身差ぐらいつけて勝ちました」
「えぇ……」
思わず声を上げる。
だがそれは驚愕などによるものではなく、むしろ呆れの色が強まったというような意味合いだった。
「……なんか、一気に嘘の匂いが漂ってきたな」
「いやホントなんですって!」
トプロTもやはり承知しているのか、信じてほしいと必死に訴える。
「撫でるだけで六バ身差か……くひひひっ、ホントなら美味い話だな。……ホントなら」
「ホントなんですって! なんならログ見るっスか!?」
「ちょっ、トプロT声が大きい……」
「一回だけ! 一回だけ試してみてくださいよ! 世界変わりますってホントに!」
「宗教の勧誘かよ」
その辺りでようやく僕とオペラオーTがどうどうと宥め、トプロTが「ホント、先輩方も今度やってみてくださいね!?」と捨て台詞のようなものを吐いた形で、この話は一先ず終わった。
……ナデナデ。二秒で無料。バフ。六バ身……ねぇ?
「それはそうと、トプロT」
「なんスかオペラオーT?」
「なんスかじゃないよ。さっき俺がした質問をスルーしてんじゃないよ。撫でられたときのトップロードはどんな反応だったんだ?」
「えぇ……それ言わなきゃいけないんスかぁ? あんま言いたくないんスけど……」
「先輩命令だぞ、言え。さもなくば、今度から愛バ同士で併走トレーニングする時にトップロードだけハブるぞ」
「なんてみみっちぃ罰を……」
「もしくは、お前の部屋の机の上から二番目の引き出しの二重底にしまってたヤツをトプロにバラすぞ」
「わっ、わかりましたよ! 話しますよ!」
「よし良い子だ。今度末脚のヒントレベル上げてやるよ」
「といっても、あんま話すことなんかないっスよぉ?撫でた直後は、トプロが雷にでも撃たれたみたいな顔してたんで、ジブンがミスっちゃったかなみたいに思って離そうとしたんスけど、そしたら……その……『いや、やめないでください……』みたいに手を掴まれちゃって……そのまま続行……」
「ひゅーっ!」
「だから言いたくなかったんスよ!」
そんなやり取りを聞きながら僕はサンドイッチを食べ進めていた。
……ふと閃いた! このアイディアはアヤベさんとのトレーニングに活かせる……のだろうか?
(……いや、そんなわけないよなぁ)
結局、昼食の席で話していた事柄は、その後の夜を越えて翌朝のアヤベさんの本番レースの時間になっても僕を悶々とさせていた。
(常識的に考えて、撫でるだけでトップロードがそれだけパワーアップするなんてあり得ないし……。第一、『ウマパワーキン』てのも軽くネットで調べたけど全くヒットしなかったし。知らない間にトップロードがトプロTの想像してたよりも力をつけていたとか、単にトプロTの嘘か。そう考えるのが妥当だよなぁ……)
出場ウマ娘用控え室でウンウンと考える。昨日から考えていたせいで五時間しか寝れてない。
(いやでも……トプロTは嘘を言うようなタイプじゃないよなぁ。アイツ結構上下関係を重んずるタイプで、同期ならともかく先輩にはよほど仲良くならないと冗談とか言わないし。いや、けどなぁ……)
何度も同じ思考地点をグルグルと回る。
……あの場では『ありえないだろ』みたいに言ってしまったが。
ぶっちゃけてしまうと、若干の試してみたさはあった。
撫でるだけでウマ娘が強くなるのなら本当に安いものだし、トプロTも言っていたが、ただでさえトレーナーがウマ娘にしてやれることは少ないので、やれることは最大限やってあげたい。
ただ……それはそれとして、実力だけがモノを言うこの勝負の世界において、確証もない迷信とかジンクスみたいなやり方に頼ってしまうというのは……なんとも言えない情けなさのようなものを感じる気がした。
どうすればいいんだろう……。撫でるべきか、撫でざるべきか。
……いやしかし、アヤベさんの勝ちのためなら……いやいや、情報リテラシーが求められる現代において、デマ情報を本気にして踊らされるというのは現代っ子の敗北と言えるのではないか……いやいやいやだが……うーん……。
「トレーナー?」
「はひゃいっ!? なっ、なに!? 予備の蹄鉄はちゃんとバッグに入ってますよ!?」
唐突に自分を呼ぶ声に驚いて変な事を口走ってしまう。
目の前にいたのは、僕の愛バであるアヤベさんだった。いつもの勝負服ではなく、レース用の体操着を着ており、今日もクールビューティーな雰囲気を纏っている。
「……急に驚かないでよ。驚くじゃない」
「ご、ごめん……アヤベさんこそ、いつの間にここに? さっきまでバ場状態の復習とかしてたんじゃ……」
「……とっくに終わったわよ。それで、さっきからあなたを呼んでたんだけど、一向に反応しなかったのよ」
「嘘でしょ……」
全然聞こえていなかった。脳裏に浮かんでいた思考が聴覚を押し潰していたようである。
そんな僕にアヤベさんはため息を吐いた。
「あなたね……メイクデビューならともかくもう三年目の───それもOPのレースなのに、何をそんなにボーっとしているの?」
「も、申し訳ない……」
確かにその通りだ。言い訳のしようもないので素直に頭を下げる。
アヤベさんになりに試したいことがあるということで出場することになったレース。
この間まで鎬を削っていた場所とはあらゆる意味でランクが下がっているとはいえ、だからってボーッとしていい道理なんてあるわけがない。
彼女に対しても、ひいてはこの先対戦することになる相手ウマ娘にすら申し訳なく思った。
「……一体どうしたの? 軽い相談なら聞くけど」
いつもに増して素直に折れた僕に何かしら思うところがあったのか、アヤベさんは小首をかしげた。
……まさにアヤベさんのことで悩んでいるので、相談できるならしたいのだが……。
「あ……はは、いやぁ……」
かといって、『ネット記事に乗ってた噂を実行するか悩んでました』とか言ったらチョップを喰らいそうな気がしたので、笑って誤魔化そうとする。
「…………」
「…………っ」
そんな僕を、彼女は真っ直ぐに僕を射貫いてきた。唐突に始まる睨めっこ。レーザー光線のような視線に思わず怯む。
……ダメだ。この目をしているときのアヤベさんは、表向きは平静にしているけど腹の中で僕の細かい仕草などから隠し事を分析しようとしている状態だ。
このままだと思考を読まれるのも時間の問題だろう。三年前からアヤベさんに対して隠し事ができた試しはない。正直に白状するべきだろうか。
(……というか)
───たぶん、このときの僕は寝不足とか考えるのが面倒くさくなってきたとかで、少しおかしくなっていたのだろう。
(もういっそ、今から直接すれば良いのでは?)
気づけば、そんな思考に達していた。
(目の前にはアヤベさんがいるし、目前にはレースが迫ってる。これは、まさにトプロTが言っていたシチュエーションと同じじゃないか。だったら、何故試さない必要があるんだ? 頭の中であれこれ考えるより、実際に実験をした方が早いとアグネスタキオンも言っていたじゃないか。ここで撫でて、特にアヤベさんのタイムに変化がなければ、あれはただのショボい噂だったのだとわかる。なんだ、たぶんこれが一番早いじゃないか)
思い立った善は急げ。
ここまで結論付けると、僕の体はブレーキを踏む間もなく動き出していた。
「……アヤベさん」
「なに?」
いつもと比べて声色が変わった僕に、アヤベさんはやや耳を立てた。
だがそれも気にせず、僕はアヤベさんへ向けてゆっくりと距離を詰め手を伸ばす。
彼女は少し驚いたようにパチパチと瞬きをした。だが、一応は僕の手から逃げようとはしない。
周りから音が消えたように思えた。
結果として、僕の手は何にも妨害されることなく彼女の頭へと移動していく。
近づくにつれ、アヤベさんの大きなウマ耳がピコピコと動いた。
そして数秒後には、僕の手はアヤベさんの髪の毛に触れていた。
「んっ……」
彼女が小さく声を漏らす。
よし、あとはこのまま頭を撫でるだけ───
「アヤベさん、頑張」
「っ!!」
バチン!!
「いったああああああああ!!?」
───瞬間、その手を思い切りアヤベさんに払われた。
咄嗟のことで力加減ができていなかったのか凄い音がした。ショベルカーのショベルに殴られたような気さえした。
「いったっ、ちょっ、何すんのさアヤベさん!!」
あまりのパワーに手首の感覚が消えていた。慌てて見ると、手首から先が屍のように力なく垂れている。完全に僕の意思ではなく重力に従っていた。
思わずそのことに抗議しようとしたのだが、なぜかアヤベさんの方も困惑したような……恥ずかしがっている?ような顔をしていた。
「なっ……『何するの』はこっちの台詞なんだけどっ……?」
「へ?」
「……急に、私の頭に手を置いてきて……あなたっ、何をするつもりだったの? ずっと無言だし……」
「はぁ? そんなの───」
珍しく少し怯えたような様子を見せるアヤベさんに『頭を撫でるだけに決まってるでしょ』と言いかけて───そこで僕の動きは止まった。
ここに来てようやく、僕は我に帰った。視界が一気に広くなる。
そして───本当に、ようやくこの期に及んで、僕はとあることを失念していたことに気づいた。
トプロTが事も無げにしていたから、特に疑問に感じていなかったが。
頭を撫でるというのは、本来どういった行為だ?
仮にも人体の急所の一つである頭部に、他人が勝手に触れ、そこで気安く手を動かす。
その間、撫でられてる側は極力抵抗せず大人しくしていなければならない。
言うまでもなく、お互いに信頼関係が必要な行為だ。
親子間でやれば、それは別に驚異にはならない。危害を加えられないという信頼関係が構築されているし、さほどおかしな光景でもないからだ。
しかしその光景を、二十歳越えたオッサンと年頃のJKに置き換えたとしたら?
……うん。間違いなくお縄にされるだろう。
そして、今まさにその光景を、他ならぬ僕が現実のモノにしようとしたのであって。
つまり今の状況は───
「うおおおおおごめんなさいアヤベさん!!」
「!?」
思わず僕は本能で土下座をしていた。
僕が距離を詰めていたときも驚いていたアヤベさんだったが、いきなり僕が謝ったことにますます驚いたようだった。
「こ、今度は急に土下座しないでよ……」
完全にドン引きしたような声音になっている。
とはいえ、僕の様子がいつも通りに戻ったのは理解したのか、その顔はさっきよりも幾分ホッとしたような色があった。
だが僕にそれを確認できるだけの余裕はなく、とにかくアヤベさんに無礼な行いをしてしまったということをひたすらに後悔していた。
「……とりあえず、もうすぐレースなのにそのままでいられても困るから、顔上げて」
「本当に、すいません……」
「……少し驚きはしたけど、別に気にしてはいないから。……何をしようとしてたのか、説明してくれる?」
「はい……」
さすがにここまで来ると誤魔化すつもりはなかった。
「……はぁ? 何その眉唾モノの話」
改めて人に説明しようとすると、物凄く恥ずかしい話だった。
そしてそれを通してアヤベさんが出した感想は、至極ごもっともだった。
「頭撫でるだけで早くなれるんだったら、私たちウマ娘の苦労もないんだけど」
「……ですね」
「それに『ウマパワーキン』なんて、ウマ娘の私も知らないんだけど。生物の授業でも聞いたことないし」
「……まったくです」
「ウマムスコンドリアだって都市伝説に近いのに、それと似たようなものを本気にするなんて……」
「もう許してアヤベさん!!」
思わず悲鳴を上げた。
本当にさっきまでの自分はどうかしていた。睡眠不足だといつもに比べて思考能力が二割ほど下がるらしいが……明らかにそれ以上(以下)下がっていた気がする。
「レース場についてからずっと心ここにあらずと思っていたら……そんなこと考えていたのね」
真意がわかったからか、アヤベさんは完全にいつもの調子に戻って腕を組む。
その表情は呆れたものだった。
……今までよりも、視線の温度が低いような気がする。
「……まぁ、てっきり面倒事でも起こしたのかと思ってたから、この程度でよかったわよ」
「本当に、すいませんでした……これからはちゃんと、レースのこと考えます……ゲートインの用意まであと四分ほどしかないけど」
「……そうしてくれるかしら。勝負においては、そんな確証のない噂よりも確実なデータの方が大事だから」
追加で背中に言葉を刺されつつ、僕はいそいそと書類が乗っているテーブルに向かった。
……本当に悪いことをしてしまった。
横目でアヤベさんの方を見る。
アヤベさん自身も言っていたように、拍子抜けして余裕が出てきたのか、さっきまで僕が触れていた髪の部分を手櫛でといていた。……なんか、飼い猫にさっきまで自分が撫でていたところを毛繕いされているような気分だった。
(いや……当然の報いか。これじゃ明日から僕のあだ名が『キモオヤジ』になってても文句は言えないな……)
余計なことを考える資格はないと、さっさと作業をする。
『……撫でる』
そのせいか、髪を整えながらボソリとアヤベさんが呟いた言葉は、僕の耳には届かなかった。
テーブルに置いていた、A4用紙とホッチキスに纏めておいた相手ウマの対策やバ場状態によっての立ち回り方リストを再び広げる。
「えーとじゃあ、駆け足におさらいするね。今日の舞台は中山レース場。アヤベさんならもう把握してると思うけど、バ場状態はちょっと悪めだから───」
その後はいつも通り。
僕がアヤベさんも既に把握しているような事柄を改めて説明していき、アヤベさんはそれを話半分に聞きながら自分の最終確認を済ませていく。
……のはずだったんだが。
「───出走バの中で頭一つ抜けてるのはアクアピスケスって娘かな。走り方としてはドトウと似たような感じで───」
「…………」
(……あれ)
他人の機微には鈍感な方であるという自負があるが、そんな僕でもさすがにわかった。
今のアヤベさんはいつもより多い……七割ぐらいの意識を僕に向けていた。
なにやら口を真一文字に結んで……なんとも言えないような表情で僕の方を見ている。
なんなんだアヤベさん。その……ちょっと見つけた好機を『いややっぱりやめとくか』と遠慮したけど、後から実はそれが千載一遇のチャンスだったと判明してしまい密かに後悔してるような、そんな顔は。
「えっと……どうしたの? アヤベさん」
今度は僕が問いかける番だった。時計の針は既に二分過ぎており時間はあまりないが……さっきの罪滅ぼしも込めて、悩みがあるなら聞いてあげたい。
しかしその間にも、アヤベさんは無言で僕の方を見ていた。
僕の方……いや、正確には……僕の手の平をか?
そのことに意識が向きだした頃、不意にアヤベさんが小さく咳払いした。
「……トレーナー」
「なに? アヤベさん」
今度は聞こえていたのでしっかり答える。
「……さっきの、話だけど」
「さっきの?」
「その……『ウマパワーキン』の」
「ぐふっ……」
ワードを聞いただけで喀血しそうになる。早くもこのあたりは僕にとっての黒歴史ワードになりつつあった。
「あ……あれが、どうしたの?」
「……試してみた方が、いいんじゃないかしら。あれ」
「へ?」
黒歴史ワードの次は予想外のワードが出てきた。思わず目が点になってしまう。
しかし、困惑する僕を他所にアヤベさんは理論を組み立てていたような間を作る。
「……もちろん私も信じたわけじゃない。けど、立証できてないだけであくまで可能性はあるのよね?」
「いやまぁ、そうだけど……信憑性のほどはヤフ◯ニュースと同レベルだと思うよ……?」
「だったら、なおのことよ」
アヤベさんが一歩近づいてくる。
「デマならデマと、ちゃんとハッキリさせておくべきだわ。不確定要素は一つでも排除しておかないと」
「まぁ……そうかもだけど」
「そうしておかないと、これからのトレーニングや生活に影響が出てしまうかもしれないわ」
「い、いやぁ……そこまで影響出るかなぁ?」
「あなたが言う?」
「本当にすいませんでした」
痛いところを全力で突かれた。こうなってはもう僕が反論できることは何もない。
「といっても……どうすればいいの?」
「簡単よ」
そう言いながら、ズイ、とアヤベさんは小首を前に曲げた。ちょうど、僕に頭を差し出すような格好になる。
「えーと……アヤベさん? そ、その姿勢は一体……?」
「……今、撫でなさいよ」
「ほぇっ!?」
また変な声が出た。
早くも目がボケたかと思った。
「いやいやいやいやいやヤバイってアヤベさんそれは!」
「……なんでよ。あなたはさっきしようとしてたでしょ」
「いやっ、確かにしてたけど……! 改めて考えるとやっぱヤバイって!」
効力のことで頭が一杯で他のことを考える余裕がなかったときと違い、今は思考もクリアである。
よって恥ずかしさがモロに湧いてくる。
だがそれも構わずアヤベさんはまた一歩詰めてくる。
……より鮮明に見えるようになったアヤベさんの髪の毛は艶のあるものだった。毎日手入れされているというのが僕にもわかる。
「……ほら早く。時間がないのよ」
「いや、だから……これ誰かに見られたら不味いって!」
「……誰も見てないから」
「さ、さっきアヤベさん言ったじゃん!こんなの眉唾だって!」
「……さっき言ったわよ。デマならデマと、ちゃんとハッキリさせた方がいいって」
「けど……!」
「いいから」
痺れを切らしたように言うと僕の手が彼女の手に引っ張られた。
「あっ、待って、せめて手汗を───」
僕の制止もむなしく───僕の手はアヤベさんの頭へと導かれていた。
「んっ……」
さっきも聞いたような気がするアヤベさんの声。続いて僕の手の平には、さっき感じる暇がなかった感触が来た。
思わず、息が止まった。
アヤベさんに強制される形で、彼女の頭の上で手を動かされる。
サラサラ、サラサラと。その指は、一度も引っ掛からなかった。
男のガサガサしたものなんかとは、文字通り根本から違う。もちろん彼女の熱心な手入れあってこそだろうが。
まるで絹糸を触っているようだった。
触っているこっちの方が心地良くなる。ずっと触っていたいと無意識に思わせる、そんな髪。
そのせいだろうか。
いつの間にか僕は、自分の意思で手を動かしていた。耳に指が当たらないようにしながら、彼女の頭を撫でていた。
「…………」
そのことに、撫でられる側で、増してや僕の腕に手を添えていたアヤベさんが気づかなかったわけはなかった。
だが、彼女は無言で撫でられていた。
自分の手を下におろして、静かに目を閉じていた。
その様は飼い主に構ってもらった子犬のようにも、子猫の遊びに仕方なく付き合ってやる母猫のようにも見えた。
しばらくの間、僕らは無言で撫でて撫でられていた。
試合のことなど僕は……おそらく、アヤベさんも忘れていただろう。
端から見れば犯罪のワンシーンだったかもしれない。でも……アヤベさんはどうだかわからないが、僕は心地よかった。……こんなことやってて僕は心地よかったって、ますます犯罪のような気がするが、まぁともかく。
永遠に、この時間が続くかと思った。
ていうか、たぶん時間さえ許せば永遠にやってたかもしれない。
だがこのときは、かろうじて僕の理性が勝った。
「アヤベさん……」
「……なに?」
「時間……早く行かないと」
僕の言葉でアヤベさんは目を開けてチラリと時計を見た。
時計の針は淡々と指定の時間を示している。
「……そうね」
そう言ってアヤベさんは……僕の視角補正がついていたのでなければ……どこか名残惜しげに離れた、ような気がした。
「じゃあ、行ってくるから」
顔を見る暇もなく、彼女はさっさと背を向けてしまう。そのまま廊下へ出て、どこか普段より早足にレース場へと歩いていった。
「…………」
僕はというと、しばし放心としてさっきまでアヤベさんに触れていた自分の手の平を見ることしかできなかった。
結局その後のレースにおいて、アヤベさんは絶好調の走りで二位に六バ身差をつけて勝利した。