僕はトレセン学園のトレーナーだ。担当しているウマ娘はアドマイヤベガ───いや……今では元担当バ、か。
彼女との「最初の三年間」を、僕は無事に走り抜けられていた。怪我もなんとか乗り越えたし、ライバルにも恵まれた。
その後にもう一年ほど走り、体力的に陰りが見えたということで引退した。……と言っても、それは悔いが残るようなものではなく、アヤベさんが出来ること、やりたいことは大体やり切れた円満引退だったと思う。
そうして今の僕たちは……。
「……ほら、朝よ。起きなさい」
「うぅ……あと五分ンン……」
「もう四回目よ、それ」
「じゃあ後二分……ねがせて……」
「……これ以上寝ると本当に遅れるわよ。トーストも焼いたんだから、早く起きて食べなさい」
「……アヤベさんが優しく僕の体を揺すってくれるなら起ぎます……」
「フルパワーで頭を揺するのでも良いならやってあげるけど?」
「……僕の脳がミキサーに放り込まれたリンゴみたいになっちゃうんでダメです……」
僕自身意外だったのだが、僕とアヤベさんは一緒に過ごしていた。
「最初の三年間」が終わった、つまりアヤベさんがトレセン学園を卒業した頃に、急に彼女の方から僕の家へ転がり込んできたのだ。
確かに三年目あたりで合鍵を渡してはいたが……。
『もうトレセンの寮には入れないし……アパートを見つけるのって思ったより時間がかかるし面倒なのよ。だからここに居候させて』
『えぇ!?そ、そんな急に言われても……!』
『……家賃はちゃんと払うし、家事もするから。……迷惑はかけないつもり』
『いや別に払わなくてもいいけど……家賃の問題じゃなくて、学生とトレーナーが一つ屋根の下ってのはちょっと……』
『……もう学生じゃないわよ私。それに、私とあなたの契約はまだ続いてる。ここで一緒に過ごしてた方が、色々と都合が良いと思うけど?』
『そ、それもその通りなんだけど……でも、その……』
『良いわよね?』
『アッハイ』
てな感じに説き伏せられた。
そうして、使ってなかった一室を急遽掃除してアヤベさんの部屋とし、彼女との共同生活が始まった。
最初は自分以外の人間が使うシャワー音にドギマギしたり、家事分担で揉めたり、洗い物を『溜めて洗う(僕)』か『すぐ洗う(アヤベさん)』かで派閥戦争が起きたりもしたが、二年も経つと諸々慣れて折り合いもつけて上手くやれるようになっていた。
僕は相変わらずトレーナーを続けている。アヤベさんを育てた功績が認められて、チームを持つことが許されたし給料も増えそうだ。……なぜかそのことを伝えたとき、アヤベさんは不服そうな顔をしていたけど。
アヤベさんは……まだ進路は決めかねているらしい。たまに学業の傍ら、『昔スゴかったウマ娘』としてテレビやCMに出たり、昨年に急に始まった『覇王と怒涛のウマムスラジオ☆』にアポ無しで電話出演させられたりするが。
まぁそんなこんなで、今の僕たちはほどほどに平和な日々を過ごせているというわけだ。
「ほら、起きなさい」
「うう……眠い……」
「はぁ……。あなたってここまで朝弱かったのね……」
ここらへんで朝の光景に戻る。
僕の寝ぼすけぶりに呆れたような声を出すアヤベさん。
そこで僕は、布団の端っこから手だけを出した。
アヤベさんの目が細くなる。
「なにその手?」
「……引っ張ってー……自分じゃ起きれないから」
「……もう」
ため息をはきながら、僕の手を掴もうとするアヤベさん。それを見て、僕は毛布の下でほくそ笑んだ。
かかったなアヤベさん。
自分じゃ起きれない、というのは嘘だ。……いや、一応嘘ってわけではないけど。
ともかく方便だ。このままアヤベさんが僕の手を掴んできたところを、そのままガン◯ムの水中専用モビルアーマーよろしく毛布の中へと引きずり込んでやる。
いくらウマ娘といえど、成人男性が全力で引っ張れば多少はよろけるはずだ。そのまま布団の中でアヤベさんを抱き締めて朝っぱらからアヤベニウムを摂取してやろうじゃないかグッヘッヘッ。
毛布の下でニタニタ笑いを浮かべてる僕に、アヤベさんは警戒した様子もなく手を伸ばして来た。
そして、アヤベさんと僕の手がくっ付いた瞬間。
「ふんっ」
「ふんぬあああああああっ!?」
引っ張ろうとしたはずが逆に途方もない力で引っ張られ、僕は引っこ抜かれた芋みたいに毛布から飛び出た。なんなら体がちょっと宙に浮いてセルフ飛翔体験ができた。
そのまま受け身を取り損ねて冷たい地面を転がる。背中と頭が痛い。
そうして呆然としてアヤベさんを見上げる僕へ、彼女は静かに呟いた。
「……何年一緒にいると思ってるの。あなたが考えてることなんてお見通しよ」
「う、うそん……」
「……さ。目が覚めたなら早くリビングに来なさい。急がないと間に合わないわよ」
それだけ言うと、アヤベさんは背を向けてさっさとリビングへ行ってしまった。
……腕を上げたなぁ、アヤベさん。いや、元からアヤベさんに勝てた試しなんて無かったんだけど。
目を擦りながらリビングにやってくる。すると、アヤベさんの言葉通りテーブルには既に焼かれたトーストが置いてあり、美味しそうな匂いを発していた。
アヤベさんはと探してみると、彼女はエプロンを着けて忙しそうに僕のお弁当に具材を詰めているところだった。
……最初の方で僕は『二年も経つとアヤベさんとの生活も慣れた』的なことを言っていたが、エプロン姿だけはいつまで経っても慣れなかった。
紺の落ち着いた色合いと白い星模様が彼女によく似合っていて、見る度に心がときめいて惚れ直しそうになる。
あとはまぁ、その……エプロン越しでもわかる確かな膨らみが……ね……? 触ったことがあるのかどうかは読者ごとの解釈に委ねるとして……。アレやっぱり現役時代よりも成長してるんじゃないだろうか……。
そんなバカな思考を察知したのか、アヤベさんは僕の方を向くと、片手を腰に当ててため息混じりに、
「……ほら、早く食べなさいよ。お皿洗えないでしょ」
「あっはい。すいません」
……基本的に僕はアヤベさんの尻に敷かれており、家内ではアヤベさんの立場の方が完全に上である。
慌てて椅子に座りトーストを一齧り。たっぷり塗られたハチミツが脳に味を伝えてくる。
「ん、美味しい!今日も上手く焼けてるねアヤベさん!」
「そう」カチャカチャ
「…………」
「…………」
コーヒーも飲んでみる。三つ入れられた砂糖が適度な味となっていた。
「あ、そうだ、今日はちょっと遅くなるかもだから。晩御飯はいると思うけど」
「わかった。ただ、晩ご飯いらなくなったならちゃんと連絡してね」カチャカチャ
「うん」
「…………」
「…………」
「きょ、今日は良い天気だね」
「午後から崩れるらしいわよ。玄関に折り畳み傘置いてるから、忘れないように」カチャカチャ
「りょ、了解っス」
……朝のアヤベさんは忙しいのであまり構ってくれない。当然と言えば当然なのだけど、ちょっと寂しいものがある。
とはいえ気にしてもしょうがないので、僕はさっさとトーストを食べて歯を磨くことにした。
『───それでは、中継先に繋いでみましょう。現場の、スマートファルコンさーん?』
『はーい☆ こちら現場のスマートファルコンでーす☆ ではまずはいつもの、ファルコが逃げたら~? 追うしかn』
『現在のソチラはどのような状態でしょうか?』
『あっはい。えーと、コチラはですねー、もう見ての通りたくさんの人がいてなんかもう凄いことに……』
朝のニュースを耳に入れながら、僕は仕事の準備を進めた。
スーツを着て髭をしっかり剃ると、トレセンへ行く準備は完了した。
……ちなみにアヤベさんが来て以来、僕のスーツはキッチリとアイロンがけと消臭がなされるようになり、同期たちからの「お前って最近同居人できた?」という疑念の元になっている。
『あっ出ました、なんか凄いのが出ました!もう関節とかぐるぐる回ってます!凄いですヤバいです!!』
『はい、現場からは以上です。ではこの後は、あのメジロマックイーンさんによる「今日のスイーツ」を……』
テレビの声を聞きながら、折り畳み傘をバッグに放り込み靴を履こうとしたとき。
「……忘れ物」
リビングの方からアヤベさんが駆け寄ってきて、星柄の包みを渡してくれた。
「あっ、ホントだお弁当忘れてた……。いつもありがとうね、アヤベさん」
「別に……。半分くらいは昨日の夕飯の残り物だから、それほど手間かけてるわけでもないわよ」
視線を外しながら言うアヤベさん。いつも通りのクールビューティーな対応に思えるけど、最近になってこういう時は尻尾が僅かながらも左右に揺れているということに気づいた。
(毎日作ってくれてるってだけで充分なんだけどなぁ)
『アヤベさんが作った』というだけで僕の中でのお弁当の価値は二十倍に跳ね上がるのだが、まだそのあたりは彼女は理解してくれていないようだ。
「……あと、ネクタイも歪んでる」
先の微妙な間を誤魔化すためか、アヤベさんが僕の方へ更に歩み寄ってくる。
彼女の顔と体が急速に近づき、顎の下あたりで両手がモゾモゾと動いた。
「…………」
今度は僕が視線を外す番だった。
エプロン状態のアヤベさんにこんな間近まで来られるというのは……やはり心臓に悪い。アヤベさんとしては無自覚でやってるのであろうことがよりなんというか……。
「はい。終わった」
なんとなく気まずい数秒が過ぎると、アヤベさんの体と手がネクタイから離れた。
これ幸いと数歩後ずさる。
「じゃ、じゃあ、僕はそろそろ行くよ」
赤くなった顔を悟られないようにしながら言う。そのまま僕は扉を開けようとしたのだが───。
「……ちょっと待ちなさい」
彼女からの声に呼び止められた。
まだ何か?と僕が振り返ると、
「……ん」
アヤベさんはそこでバッ、と手を広げて見せた。
えっ、と僕の心臓が一際波を立てる。
なんだアヤベさん、その体勢は。
それはアレか。所謂「いってらっしゃいのハグ」というヤツか。
単純なもので、さっきまで恥ずかしがっていた心が一気に期待に踊り始める。
なんだアヤベさん、可愛いところあるじゃないか。いやアヤベさんは元から一挙手一投足すべてが可愛いんだけど。
ともかく彼女の誘いに乗る形で、僕も嬉々として両手を広げた。それを確認したアヤベさんはゆっくりと僕の腕の中へ近づいてくると───
「ふんっ」
「だあびぃっ!?」
胸に頭突してきた。
いや、頭突きではないかもしれない。
たぶんアヤベさんとしては、肩とかに頭を預ける要領で僕の胸に頭を寄せたのだろう。ただその勢いが少し強かったのと、予想外の動きだったから頭突きみたいになって思わず変な声が上がったのだ。
どうやらあれは「ハグしよう」て意味のジェスチャーではなく、「腕開け」て意味のジェスチャーだったらしい。
「えーと……アヤベさん、何してんの?」
腹にジンジンと来る痛みに耐えながら呻くが、アヤベさんは答えない。
ただ、僕の胸の中で小さく動くだけだ。まるでペットが飼い主にするように、頭を僕に擦り付けている。頭に釣られる形で耳も一緒に動いており、無性に掴みたくなったがやめておくことにした。
……アヤベさん、意外と耳が弱いから。
こそばゆく感じる抱擁モドキが数十秒ほど続き、そこでようやくアヤベさんは離れてくれた。……「これで良し」と小声で呟きながら。
「えーっと……なんで突然こんなことをしたの?アヤベさん」
薄々理由を察しながらも、一応聞いてみる。
問いを受けたアヤベさんは、一瞬だけ表情に影を混じらせると、
「……悪い虫が寄り付かないようにするには、これが一番手軽で確実な方法なのよ」
「あっうん。もういいよ」
『悪い虫』が何を指しているのかは深く考えないことにした。
ともかく、これで本当に準備は終わりだろう。
「じゃ、今度こそ行ってきます」
「……ん。行ってらっしゃい」
軽く手を振ってあいさつを済ませると僕は家を出て、助手席にアヤベさんの匂いが染み付いている車へと乗り込んだ。
そして今日も僕はトレセンへ車を走らせる。
今夜の晩ご飯は何かな、と思いを馳せながら。