僕はトレセン学園のトレーナーだ。担当しているウマ娘はアドマイヤベガ───っと違うそれは五年前の話。今担当しているのは『アリエスコダマ』という名前のウマ娘だ。
かつてのアヤベさんと同じく追い込みのウマ娘であり、粗削りではあるが確かな潜在能力を感じさせてくれるウマ娘である。
そんな彼女との二人三脚を続けた今日、ついに彼女はGIの舞台へと立った。結果、一位にこそなれなかったが、三位との熾烈なデッドヒートの末に惜しくも四位に入るという大健闘を見せてくれた。
レースは非情で冷たい世界。勝者にのみスポットライトがあたり敗者は気にもされない。そういうのが常なのだろうけど、僕としては初のGIでここまでやってくれたアリエスコダマの健闘を素直に讃えたかった。
なので、彼女を元気付けるのと祝杯をかねてちょっとイイとこの店で共に晩飯を食べることにした。
効果は覿面だったようで、落ち込んでいた彼女も少しは元気になってくれたようだ。目尻に僅かに涙を浮かべながら『私、これからトレーナーさんにずっと着いていきます!』とアリエスコダマが言ってくれたのが印象的だった。
そうして、我ながら良いことしたなぁとちょっとした自己満足に浸りながら我が家に帰って───
「…………」
「あの……すいません。ほんと、ごめんなさいでした……」
晩ご飯を作って一人寂しく待っていたらしいアヤベさんに土下座しているという今に至る。
「……私、言ったわよね」
土下座している僕のうなじのあたりに彼女の声がかかる。その声は死神の鎌の一振りのようにも思えた。
「晩ご飯いらなくなった時は必ず連絡入れなさいって。私言ったわよね?」
「……すいません」
「私自身がそうだったからわかるけど、『トレーナー』っていうのはウマ娘の都合によっても帰る時間や晩ご飯の有無が変わるから、そのあたりの連絡は徹底するって条約、ずっと前に家事分担と一緒に締結したわよね??」
「しました……しましたのでホントっ、許してください……」
「しかも担当の娘の慰め兼祝杯って……そんなカモがネギを背負ってくるようなことを……そのアリエスコダマって小娘がチャンス有りかもみたいに考えたらどうするのよ……」
「んんアヤベさん?なんか話が変な方向行ってない?」
「黙って」
「アッハイ」
言語道断一刀両断だった。
もちろん反省はしているし今回のことは全面的に僕が悪いと思うのだけどこれだけは言い返したい。絶対四割くらいアヤベさんの私怨が混じってる。
ほら、今も小声でボソボソと『こんなことなら朝の時にもっと匂いを擦り付けておくべきだった……』とか言ってるし。絶対私怨だ私怨。元からミスした分はともかく私怨部分で怒られるのは不当です!ふ・と・う!ふ・と・う!
……なーんて風に口で反論できればいいのだが、こんな台詞は心の中でしか発音を許されないのが尻に敷かれ系夫の辛い所である。いや、まだ結婚してないんだけどね。
「聞いてる?」
「はい。聞いてます。もう地獄耳にタコができるぐらい聞いてます」
再び土下座を深くする。
危ねぇ心の中でこんなこと言ってるってバレたらウマ娘の脚力でのフルパワーローキックを喰らっちゃう。
数年前に一度だけ大喧嘩をしたときに喰らったことがあるけど、あれはヤバかった。たとえるなら『タンスに小指をぶつけた痛み』を5000倍に増幅させたような痛みで、もはや悶絶なんてレベルじゃなかった。あれを喰らうのはもうゴメンで、我が家が核を持たない理由である。
そうして数十秒ほど額と地面をキスさせていると、やがて目の前にある空気が動いた気配がした。
「……もういいわ。顔上げて」
「は、はい」
命令通りに顔を上げると、いつものケーブルニットの上にエプロンをつけたアヤベさんが腰に手を当てているのが見えた。
恐る恐る訊いてみる。
「ゆ、許してくれるんですか?」
「……一応、ね。どうせあなたのことだから、そのアリエスコダマさんの健闘で頭が一杯になってたんでしょ」
「い、いやぁ~そんなことは」
「……今回は許すけど、次またこんなこと起こしたら……」
「……起こしたら?」
話しながら考えているのか、そこでアヤベさんは顎に手を当てる間を挟んだ。
「……もう、膝枕して耳掻きしてあげないから」
「なん……だと……!?」
アヤベさんのあのぶっと───魅力的な太ももに、合法的に(別に非合法的にもできるけど)頭を乗せながらされる耳掻きをか……!?
それを禁止にされたら僕は髪を掻き乱して発狂するぞ。
「あと、明日が休みの時の晩酌も付き合って上げないから」
「嘘……だろ……!?」
あのアヤベさんに愚痴とかその他諸々を聞いてもらいながら行う晩酌をか……!? お酒を飲んでちょっとほろ酔い気分になったアヤベさんが可愛くて日々の疲れが一気に吹き飛ぶのにっ……!
それを禁止にされたら僕は走行中の電車の窓から飛び降りるぞ。
「これからは守るわね?」
「守ります。絶対に、脛が痛んでも、命に替えても、必ず守ります」
「ん」
お手本とも言えるほどの尻に敷かれている状態。
でもいいんだ。この世には敷かれ心地の良い尻というか、むしろ上に乗せておいてくださいみたいな尻もあるのだ。
……うんダメだなこれ。なんか担当の娘の健闘とか、晩飯で騒いだこととかアヤベさんに怒られたこととかが色々混ざってテンショおかしくなってるわ。
「……まぁ、その宣言が聞けたのなら良いわ。それじゃあ改めて、お帰りなさい」
「う、うぃっス。ただいまっス」
ようやく土下座を解かれて自由になる。
基本的に自分に非があることは意地を張らず早急に謝る。これが夫婦円満の秘訣である。
「それでその…… 作っちゃった晩ご飯はどうするの?」
「どうにかするわよ。お弁当に詰めるか……明日の晩ご飯にでも回すわ」
「ほんとっ、すいません……」
やたらとふわふわしたタオルで汗を適当に拭いてから、スーツから部屋着に着替えてリビングにやってくる。アヤベさんはというと、エプロンをさっさと外して晩ご飯の皿の上にサランラップをかけていた。
……どういう心境によってかはわからないが、アヤベさんは晩ご飯の時はいつもテーブルの対面に座って待って、食べる僕を見つめていたから、ちょっと可哀想にも思った。
やっぱり謝るだけじゃだめだな。今度、仕事終わりにケーキでも買って帰るか、脚のマッサージでもしてあげてトントンということにしておこう。
そう思ってバツが悪い気持ちを誤魔化していると、テーブルの上に珍しい食べ物があるのが見えた。
「あれ、リンゴがあるじゃん」
真っ赤っかな数個のリンゴがミカンみたいに積まれていた。僕自身リンゴは結構好きなのだが、買い物カゴに入れようとすると『リンゴって意外と高いのよ』とアヤベさんに咎められるため、いつも涙を飲んで我慢しているのだ。
そんな我が家ではレアアイテムと化しているリンゴが平然とあるとは。しかも数個。
「……食べる?」
僕のリンゴ好きを理解しているからか、皿を冷蔵庫に放り込みながらアヤベさんが訊いてくる。それに僕は迷うことなく頷いた。
……晩ご飯は食べないのにリンゴは食べるって、我ながらすげぇ勝手な行動してるなぁ……。とはいえ、好物には勝てないので仕方ない。
「なんでこんなにリンゴがあるの? スーパーでセールでもやってた?」
包丁を取り出してリンゴを切り始める背中に問うてみる。シャリシャリ、という音が心地いいなぁとか思っていると、
「いえ、そういうわけではないけど」
「じゃあ、なんで?」
「今日の夕方ぐらいにお義母さんが届けに来てくれてね───あ」
「えっ母さん来てたの!?」
突然の母の登場に思わず声を上げてしまう。そんな僕の様子にアヤベさんは「しまった」と言いたげな顔をした。
「ちょっ、母さん来てたんならLINEしてよ!仕事も早めに切り上げて帰ってたのに!」
「……LINEしてる暇、無かったのよ。それにそのお義母さんも、『知り合いからリンゴを大量にもらったから処理を手伝って』てだけで来たみたいで、それ以上の意図はなかったみたいだし」
おいおいそれはちと寂しくないか我が母よ。
確かに僕はマザコンというわけではないし、実家にも年に数回ぐらいしか帰省しないタイプだが、それでもわざわざこの近くまで来ているんなら顔ぐらい合わせてくれても……。
とそこで、ふとアヤベさんを見てみると、彼女の綺麗なしっぽがどこか所在なさげに揺れているのが見えた。
「…………」
なんだかんだでもう二年も同棲し───関わった年月だけなら五年を過ぎているからわかった。あれは、何かしら思うところがあるときの彼女の癖だ。
「アヤベさん、何か隠してない?」
「……何も隠してないわよ」
「今ちょっと動揺したよね?」
「してない」
絶対してるわコレ。そして母さんに何かされたor何か言われたというのも間違いないらしい。
ひょっとして、我が家にもついに嫁姑問題(結婚してないけど)が来たのだろうか?
……いやしかし、アヤベさんは僕の母さんとも問題なく接しているし、母さんもアヤベさんのことを気に入っていたはずだ。
むしろ僕が子供の頃から常々『女の子が欲しかったわ』とボヤいていた母親は、僕が担当したアヤベさんを見るなり『アナタこんな可愛い娘もっと早く紹介しなさいよ!!』と水を得た魚のようにあれこれ世話を焼いているらしいし。
その扱いにアヤベさんも満更では無さそうだったから、二人の仲はたぶん良好だ。にも関わらず、僕に言えないようなことがあったというのか……?
「アヤベさん、別に気を遣わずに困ったことがあったら相談していいんだよ?アヤベさんに気を遣われると、僕も気を遣っちゃうから」
「そういう……わけじゃないわよ」
「じゃあどういうわけなの?」
「…………」
だんまりだ。
誤魔化したり『黙って』と説き伏せることはあれど、ただ無言で顔を背けるアヤベさんというのは珍しい。
これは何としても聞き出さなくては。心配だ。
……仕方ない、実力行使に出よう。
僕はなるたけ気配と足音を殺しながら、彼女の背後へと近づいていく。
逃避も兼ねてリンゴを切っているからか、アヤベさんは接近する僕に気づいていないようだった。好都合である。
心の中で三秒数えてから、僕は行動に移した。
僕は背後から両腕を伸ばすと、アヤベさんのウサギみたいにデカい耳の根本を思いっきり掴んだ。
「ひゃうっ!!??」
あまりに不意討ちだったからだろう。五年付き添った僕でも数えるほどしか聞いていない、下手すりゃキャラ崩壊にもなりかねないほどの可愛い声をアヤベさんは出した。
だがお構い無しに僕は犬にでもするように耳を指でいじる。
「ひゃっ……! っ、あなたっ……それはっ、やめ……てって、言った……!」
「アヤベさんが言ってくれないからでしょ。大人しく言わないとやめないよ」
「っ。っ、ふっ……うぅ……!」
面白いように体を反応させるアヤベさん。
……たぶんこれを把握しているのは僕だけだろう。
彼女が耳が異常に弱いということは。
道理で『最初の三年間』の頃も全然触らせてくれなかったし、手入れも常に自分でやっていたわけだ。かくいう僕もこの事を知ったのは一年ぐらい前だし。
……え? ナニをしていて知ったのかだって?
そこは……まぁ……皆様のご想像に委ねるとしましょう。たぶんこのあたりに関しては描く予定は無いので悪しからず。
閑話休題。
「ほーれほれ。早く言いなさい」
「わ、わかったっ、わかったからっ! 手……はやっ、くっ、離してっ……!」
体を跳ねさせながら必死に叫ぶアヤベさん。
……やば。ちょっと……ヤバい。精神が好きな子にイタズラする小学生に退化しそう。
「ホントに話す? 離したら話す? この場を逃れたくて言ってるわけじゃないよね?」
「話すわよっ! 話すからっ……お願いだからっ……! 早くっ……変なスイッチが───」
「はい」
とはいえ、さすがに可哀想になってきたのでパッ、と手を離す。
なんか離す直前に『スイッチ』とか聞こえた気がするんだけど。なんのことだ? アヤベさんの体ってロボットだったの?
ま、まぁ、これに関してはあまり深く考えない方がいいだろう。
とりあえずアヤベさんが息を荒げているので、それが落ち着くまで待つことにする。
……正直に言うと、肩で息をするアヤベさんの様子は、かなりイケナイ光景だった。背徳感とか優越感とか色々とヤバかった。
そう。彼女の耳を触っているときだけ、僕は地力で圧倒的に勝るウマ娘に優位に立てるのである。まぁ、大抵その後5640倍で返されるんだけど。
「……落ち着いた?」
「まぁっ……はぁ……一応は」
「ならよかった」
「……誰のせいよ。あなたって、最近割とイイ性格になってきたわよね」
「そうかな?」
「……まぁ、それはあなたがより『素』を出す頻度が増えたってことで、『学生』と『トレーナー』の距離感から圧倒的に進歩したと捉えておくけど」
ボソボソと話すアヤベさん。全然まったく声が聞こえないんだけど。
まぁいいや、本題に入ろう。
「……で、お母さんと何かあったの?」
「別に……あなたが心配しているようなトラブルはなかったわよ。ただ……」
「……ただ?」
そのときのことを思い出しているのか、アヤベさんは少し頬を赤くした。
「……あなたのお母さん、私個人とも話したいことがあったみたいで。それで、言われたの」
「……何を言われたの?もったいぶらないで教えてよ。もし変なこと言ってたら、僕から注意しとくから」
まだ葛藤があったようで、アヤベさんは目をつむったり耳をピコピコと動かしたりしていたが、やがて覚悟を決めたようにゆっくりと言った。
「その……『孫の顔はいつ見せてくれるの?』て」
「…………んんん?」
一瞬思考が飛んだ。
「……ごめん、もっかい言って?」
「だから……『あなたたち、もう結婚して二年でしょ? とっても仲良いし時間の問題だとは思うけど、やっぱり孫の顔を見れるなら早い内に見たいわよねぇ』……て、言われたの」
聞き間違いであってほしかった。
いやっ……ごめんちょっと待って。
「あのクソババァなに言っちゃってくれてんの!?」
「…………」
ほぼ本能で叫んだ。
いや結婚てオメッ……いやっ……えぇ……。
一応、僕らは身を固めているようで実はあんまり固めていない微妙な関係ではある。
そりゃ告白もしたし、指輪も渡したし、同じ家に住んでいるし、これからお互い以外と一緒になるつもりもない。
だけど、結婚式は挙げてないし、同棲の切っ掛けだってアヤベさんが転がり込んで来たからだし、『アヤベさんがまたメディアとか出るときにめんどくさくなるから』てことで姓も別々のままだし、もちろん子供もまだいない。
だから、『結婚式を挙げてない事実婚状態』て感じなのだが……改めて『結婚してる』なんて言われると……なんか照れ臭いと言うか、しっぽがむず痒くなる。生えてないけど。
一方アヤベさんはしっぽがむず痒くなっているらしく、珍しくモジモジとしながら僕の方を見る。
「……だから、言いたくなかったの」
「……なるほど。それは懸命な判断だったよ。ごめんね」
お互いに頭を下げて……そのあと妙な空気が流れる。
えぇ……もうどうすんのこの空気……とりあえずあのババァには後でクレームいれとこ。
重苦しい沈黙が数分ほど続いたんじゃないかという辺りで、アヤベさんがフッと口を開いた。
「私たちって、もう『家族』なのかしら?」
結構大事な問いだと思ったので、僕はじっくり考えてから答えた。
「『家族』……だと思うよ。もう、今さらアヤベさん以外と過ごす生活なんて考えられないし」
僕らは上手くやれてると思うし、僕の母さんやアヤベさんの母さんも『お義母さん』と呼んでいいほど充分良好な関係だと思う。
「……そう」
僕の返答を聞くと、そこでなぜかアヤベさんは一歩前に踏み出した。
「……じゃあ、もういいわよね?」
「えっ?」
瞬間。
アヤベさんの纏っていた空気が変わったように思えた。
「あの……アヤベさん?」
「私も……少しは考えていたのよ。五年も経って大人になったし……体も、学生の頃と違ってもう成熟した。……だから」
「え、あの、ちょっ」
本能的な反応というかで、後退りしていくしかない僕。
だが、すぐに壁に背がぶつかり、後退はあっさりと終わった。
アヤベさんの距離がどんどん近づいてくる。前髪で隠れてその目は見えない。
「それに何より……さっきのでもう、スイッチが入っちゃったから」
「スイッチって……なんの?」
「……私に言わせるの?」
ついに僕とアヤベさんの距離がほぼゼロになる。
間近で見た彼女の目は……獲物を前にした獣の目だった。
「……覚悟はいい?」
「いや、覚悟っていうか……その、落ち着こ? アヤベさん。僕が悪かったなら謝るからさ、その、生活とかもまだ安定してるかというとアレだし、何よりアヤベさんが───」
「……いただきます」
「ちょっ……!? 問答無用なんだったら何で聞い───んんっ」
僕らの『家庭』はこれからどうなっていくのか。
それはわからない。
でもとりあえず。
ウマ娘のスタミナってすごい。
久しぶりに、改めてそう思いました。
次の話から元の時系列に戻ります。