薄い皮の膜である瞼の裏から光を感じ、その目をゆっくりと開く。何度夢であってほしいと願った景色。何度夢か現か、その境界を見定めるのに時間を有した、そんな景色。基樹は芋虫のように鈍い動きで机が傍に据え付けられたベッドから這い出ると、その目覚め切っていない意識を少しでも早く覚醒させるためにいそいそと洗面台へと向かっていた。
途方のない旅かとも錯覚するほどの距離。洗面台にたどり着き、蛇口をひねると絞り出るように口から水が吐き出されていく。顔にその水を掛けようと両手で皿を作りその水の中に突っ込む。自分が予想したよりも遥かに低い水温に素っ頓狂な声を喉からひねり出しながら水で顔を拭うと、手探りで傍にかけてあったタオルを探り当てると、それで顔についた水滴を拭い取った。
……外から感受する情報や常識と、今まで生きてきた身体や頭の「慣れ」が引き起こす齟齬も、大分薄まってきた。人間とは慣れる生き物だ。今までの世界の常識から乖離した現状にも、少しずつではあるが生物として順応し、元の世界のように生活しようと感覚が徐々に擦りあわされているのを実感できる。
僕もこの世界の住人として、少しは板についてきたと言えるのではないだろうか。
そんなことを漠然と思いながら身支度を整え、玄関の扉に手をかけて外の世界へと足を繰り出す。扉を引き開けた瞬間に外気が室内に差し込まれ、頬を鋭く刺し、そして流れていく。
そしていつもの通りであるなら……
「……おはよう。今日は寝坊せずにしっかりと起きられたようだな」
健気に扉の前で待ち続ける自身の愛バ。
この姿にもこの世界にやってきた当初の僕であれば、素っ頓狂な悲鳴を上げていたことだろう。だがもう毎日彼女がやってくるということを脳が認識した以上、同様に慣れというものは訪れるというものだ。
「……あぁ、いこうか」
彼女を隣に連れ立って、寮から外へと足を繰り出していく。寮からトレセン学園に向かって続いている道を二人で並んで歩いていくと、やがて彼女以外のウマ娘たちの姿もちらほらと散見されるようになった。
秋も深まり冬の訪れを感じる11月。
東京都の西側に位置する府中の一角にあるとされているここ「日本トレーニングセンター学園」の朝は、いつもの様子とは少々毛色が異なるように見受けられた。
何処か彼女たちと表情に、興奮と期待が見受けられる。まるで学園祭の当日で浮足立つ生徒たちのように……実際のところ、この表現はあながち間違いではないと言えるだろう。今日はこのトレセン学園の生徒たち、引いてはすべてのウマ娘たちにとって「大切」な一日であるということができるのだから。
だがそれは同時に、基樹や同じくこの世界に連れ込まれた岸辺露伴にとって最悪を意味することでもあった。今日というこの日……ウマ娘たちが心待ちにしていた今日この日は、自分たちにとってはこの世界と自分たちが元居た世界とがつながってしまうという最悪の一日だった。AIによってその手立てが見つかってしまうのも、もはや秒読みとなっている。そしてその事実は、自分を含めてまだ数人しか及び知ることのない事実だった。
まるでこれからクラス内の全員が揃って先生から大目玉を食うことを予め立ち聞きしたことで知ってしまったような気分だ。
トレセン学園にたどり着くまで、僕たちにはこれといって会話という会話はなかった。
…あの日からずっとそうだ。
僕が彼女に対して思いのたけを吐き出したあの日から。彼女と僕との間には会話という会話が存在していなかった。気まずいとしか形容しがたい空気だけが、ひたすらに二人の間に満ち満ちている。彼女のもどかしそうな表情を見ることはどうにも居心地の悪い気持ちだったが、かといってこの空気を打ち破るすべも、そして勇気も度量も今の僕には持ち合わせていなかった。
ウマ娘には人間と比べると、非常に強い「想い」をもってこの世界に生まれ落ちてきた存在だとされている。その想いが慕情へと向けられ、一度タガが外れてしまえば、その際限は底なし沼のように果てしないものであると言わざるを得ない。
そしてそれは目のまえのウマ娘、エアグルーヴも例にもれずそんなウマ娘の一人であるといえる。彼女も生まれ落ちた性に身を任せて、この世界に愛する存在だという「僕」を引っ張り込んできたのは紛れもない事実だ。
…それでも。それでも彼女には迷いが生じている。これで本当にいいのか、本当にこのままのやり方が正しいのかという「女帝」として、そして「トレセン学園生徒会副会長」として…そして「愛する者を心の底から想う者」として。彼女は懸命に戦っている。心の中でうごめき、いつ心の中で爆発するかわからない「性」を抱えて、懸命に戦っているのだ。
やがて校舎の前に二人はたどり着く。基樹はゆっくりとエアグルーヴの方へと顔を向けると徐に口を開いた。
「……それじゃあエアグルーヴ。君は運営で忙しいんだろう?」
「……あ、あぁ」
エアグルーヴの顔を見れない自分が情けない。彼女の顔を見てしまえば、せっかく心の中で決した決意がハリボテの代物に早変わりしてしまいそうだ。基樹は校舎に彼女が姿を消したことを確認すると、ある方へと向かって歩みを進めていった。
「やぁエアグルーヴ。息災かい?…と聞きたいところだが、君のその様子じゃあなかなか気持ちは晴れていないようだね」
皮張りの荘厳な装飾が施された一人掛けのイスにその身を預けながら、皇帝・シンボリルドルフは来室したエアグルーヴをもてなした。エアグルーヴは彼女の許可に促されるままに応接用のソファに身体を落とす。その様子に視線を送りながらも、ルドルフはその顔に笑みを深々と刻み付けて言葉を続けた。
「今日はウマ娘たちの、ウマ娘たちによる、ウマ娘たちのための祝祭…囃子の音に合わせて神輿が往来を行き、美しき舞は日頃私たちを見守る三女神様に捧げられ、流鏑馬の矢が厄を払う。そんな誉れ高い祭り、「駿大祭」をこのトレセン学園で開催することができる。…そしてなにより」
「私たちの悲願『平行世界への往来』が可能となる、そんな素晴らしい一日だ。この学園にいるすべてのウマ娘たちが自分の愛するものの元へ行ける…画面の向こうでただ見つめるだけではない、その手に、肌に触れることができる…そんな一日だ。有頂天外ここに極まる一日に、君は一体どうしてそんなに気を落としているというんだい?」
その言葉にエアグルーヴは顔を上げる。その顔は悲痛と苦悶に満ちた、そんな顔だった。彼女はまるで砂漠の中で一滴の水を求めるように口を開いた。
「……すみません。ただ、思わずにはいられないのです。私たちのやっていることは、果たして正しい行いと言えるのでしょうか?今さらになって後悔しているんです…私たちのやろうとしていることは、そしてやってしまったことはこの世界の理を度外視した、あまりにも独善的な行為なんじゃあないかと…」
「………」
その言葉を吐き出した後、エアグルーヴは言葉と共に吐き出された感情の行き場を求めて視線を下へと向ける。しばらくしても対話の相手であるシンボリルドルフからの返事が返ってこない。そのことに疑念を抱いたエアグルーヴは恐る恐る、まるで地雷が敷き詰められた野原を注意深く歩くかのように顔をルドルフの方へと向ける。
「……ヒッ」
その顔には満面の笑みが張り付けられていた。まるで停止画のように、希代の芸術家が私怨を込めて描き上げた1枚の絵画のように、その満面の笑みをぴくりとも、皺ひとつ動かすことなくエアグルーヴの方へと向けられていた。
「……ありがとう、エアグルーヴ。君の心の痛みはよくわかった。確かに私たちのやっていることは、倫理的に言えば間違っていることなのかもしれない」
「だがどうだろう?私はこの学園の生徒会の会長として、そして皇帝として「ウマ娘」の幸せについてこんな深く思っている。そんな私が、「ウマ娘」である私がはっきりと言えることが一つある…それはね」
「私は今、とても「幸せ」だということだよ。愛するものが手に届く距離にいる。これほど幸せなことってないだろう?ならば伝えたいんだ。この幸せをみんなに。みんなに分け与えたいんだよ」
「ですが…ですが会長…!もしもウマ娘たちがこの世界から遠ざかり、その性に身を任せてしまったら…!もう「走る」ということは……私たちのウマ娘たる意義が……!」
自分でも今さらこんなことをのたまっていることに可笑しさを覚える。女帝である本来のあるべき姿を放り出して、自分の欲望のままに行動をしておいて今さら何を言うのか。それでもエアグルーヴは尋ねずにはいられなかった。自分の心の中に生じた迷いを、そして後悔を吐露せずにはいられなかった。
エアグルーヴが食い下がっても尚、シンボリルドルフの表情には微塵の変化も訪れなかった。まるで風を受けたくらいではびくともしない大木のように、彼女はエアグルーヴに視線を向けたまま言葉を続けた。
「……確かにそうだな。だがねエアグルーヴ」
「これ以上に幸せなら、私はほかに何もいらない。それはきっと他のウマ娘たちにもいえることなんだよ」
彼女は分かっているようで、全く理解していない。否、すべて自分の都合の良い方向へと歪曲した解釈になってしまっている。そこには、目には見えない大きな壁が隔てていた。
…そこには、私が憧れた、私が隣で支え続けたいと願った「皇帝」シンボリルドルフの姿はなかった。そこにいるのはただ一人。自分の醜悪な欲望に身をゆだね、その業火が自分や周囲を燃やしつくすまで動きを止めない「暴君」だけだった。
「……というわけでこれが作戦だ。合図があったら各々の持ち場で役割を果たしてほしい」
暗がりの中で先程まで机に広げられた大きな紙を、絵巻のように巻き取りながら彼女、アグネスは言葉を締めくくった。この説明は前回も行ったものとまるで同じものだったが、この作戦、「トレセン学園の未来を救う作戦」について、デモンストレーションは行うことはできない。すべてがぶっつけ本番だ。実際に作戦を実行すれば、計画にはなかったアクシデントが発生する可能性は極めて高い。
それでも私たちは、この作戦を成功させなければならない。作戦にはなかったことが起きれば臨機応変に対応して、お互いがお互いに協力し合ってこの作戦を成就させる必要がある。
「それじゃあ時間が近づいたら君たちは持ち場について、それぞれの役割を果たしてほしい」
そう言ってタキオンは部屋を後にしようとする。作戦の決行までに、まだやらなければならないこともある。その準備を早々に済ませてしまおうと席を立つタキオンに、シャカールは言葉を投げかけた。
「今さらながらに思うけどよぉ~、この作戦。随分と穴だらけなもンだなぁ~?成功の確率は、オレの計算だと10パーセントにも満たない。それでもやろうってンのかよ?」
「……確かにこの作戦には各々の行動が相互関係的に成り立っている。言い換えれば私たちの誰一人として欠けることは許されないわけだ。だが、それがどうしたと言うんだい?そんな奇跡、私たち「ウマ娘」は何度だって引き起こしてきた。今さら確率だのなんだのって口にするのは酔狂なものだよ。我々が今からやろうとしていることはもっと酔狂なことなのだから」
「…ハッ。ロジカルじゃあねーな。だが今回ばかりはタキオン、てめーの言う通りだ」
「……今さらながらだが、二人ともありがとう。君たちが協力してくれなければ、僕たちはこの世界から脱出の機会を得ることはなかった」
その言葉に、室内にいた3人…タキオンとシャカール、基樹は驚愕の表情を浮かべて声を発した人物、岸辺露伴へと顔を向けた。本来であれば彼はやすやすとお礼を口にするような人間ではない。傲岸不遜にわが道を歩み、自分の足元に転がり込んだ幸運はすべて自分の行動のおかげであると思うような、そんな人物だ。
まさかそんな彼がそんなことを口にするとは。あんぐりと口を開ける3人をよそに、露伴は徐に口を開いた。
「この作戦が成功したとしても、失敗したとしても君たちはルドルフからの誹りを免れることをできないだろう。君たちは僕たちがいた世界に来るわけじゃあないからな」
その言葉に、基樹はハッとする。彼女たちはいわば裏切り者。自分たちが元の世界に戻れたとしても、彼女たちはこの世界から脱出できるわけではない。鳥籠から大切な鳥を逃がし、あまつさせそれを取り戻す術を奪ったとなれば、彼女たちの処遇がどうなのかは想像に難くない。
「…御心配ありがとう。だが大丈夫さ。今皇帝殿はご乱心だ……その目を無理やりにでも覚ますのも目的の一つだ。ウマ娘の上に立つ彼女が色恋に感けていたとなれば、今はまだしもいつかは必ず齟齬が生じる。露伴先生たちが元の世界に戻れば、彼女も覚めない夢はないことを否が応でも理解するはずだ」
「オレ達は元々問題児……しょっ引かれることなンざ慣れっこなンだよ。余計な心配をスンじゃあねーよ」
眼前でそう軽口を叩く彼女たち。しかし、彼女たちの瞳の奥には確かな覚悟と、僅かではあるが、確かに存在する恐れが窺い知れた。彼女たちもこの作戦が終わったのちのことを覚悟している。それでもなお、必ず煮えたぎる大釜へと突っ込むことが分かっていたとしても、彼女たちは覚悟しているのだ。「走りたい」という、ただそれだけの、しかし誇り高いその夢に掛けているのだ。
「……ありがとう」
囃子の音が遠くからこだまし、人々の喧騒が鼓膜を支配している。トレセン学園は、いつもとは様相が異なり、露店や出し物が並んでいてウマ娘たちはその顔に笑顔を浮かべてその光景に心奪われている。
駿大祭。これまでターフの上で走り続けられていることに感謝し、そしてこれからのレースでの勝利、そしてターフの上でこれからも変わらずに走り続けられることを三女神に願う、そんな想いが込められた祝祭らしい。
だがそんな類の願いが込められているはずの祭りも、時間がたてばそんな崇高な想いなど風に吹かれて錆が浮き、形骸化されてしまうものだ。
ましてやそんな願いがこめられていたはずの祭りが、熱狂的な、歪んだ愛の坩堝としてその姿を変容させようとしている。そんなことが許されるはずがない。外の浮足立つ様子を窓越しに静かに見つめながら露伴は時計へと視線を移した。
「時間だ」
既に時刻は17時を回っていた。予定されているタキオンの合図までもうすぐだ。露伴は身支度を整えようとすると、突然背後の扉が開かれる音が室内に響き渡った。
「トレーナー君。どこに行こうと言うんだい?今日は私たちの愛が成就する、そんな素晴らしい日だというのに」
……見誤った。彼女は今日という日を心待ちにしていた。自分の歪んで捻じれ、焦がれに焦がれて持て余した愛情を、受け入れると約束した期日。
「……せっかくの駿大祭だ。ちょいと様子を見ようと思ってね。ルドルフ、君も流鏑馬に出ると言っていたじゃあないか。それも見たい」
ルドルフはその言葉に返事をすることなくゆっくりと、しかし着実に露伴のもとへと近づいていく。そして彼の背中に近づくと、その腕を彼の身体に回すのだった。
端から見ればその行為は愛を確かめる恋人のようにも映る。しかし、その当事者である彼からすればこれは捕食行為のなにものでもなかった。返事を返すこともできず、息をひそめる露伴だったが、その瞬間自身がすでに身動きがとれないことに気が付いた。
カチャ
自身の腕に視線を落とすと、そこには手錠がつながれていた。自身の手に片方の輪がつながれ、もう片方の輪は机の脚に繋がれている。自身の身に起こった異常事態に絶句している露伴をよそに、ルドルフは恍惚とした表情を浮かべ言葉を口にした。
「駿大祭の開幕の挨拶と流鏑馬に出なくてはならない……それまでにお預けされるってだけでももう辛抱ならないというのに、校内をうろつく君を探すなんて煩わしい手間も、今はもはや惜しみたいんだよ。ここで大人しくしていてくれ。すぐに済む」
ルドルフはそう告げると、部屋を後にする。これは死刑執行がわずかに延期されたに過ぎない処置だ。そして何よりマズイのは、もうすぐタキオンの合図が始まるというのにその位置につくことができないことだ。
「少々……いや、かなりマズイことになった」
露伴は何度か机に繋がれた腕を引っ張り、脱出を図ろうと試みたが、それがうまくいかないことを悟ると、植物がしおれるようにその場に座り込んだ
時刻は17時30分。
開幕の儀と銘打たれ中央の広場に集まったウマ娘たちは、その数千もの視線を壇上へと向ける。やがて壇上から姿を現したのは、一人のウマ娘。いつもの勝負服である軍服をモチーフとした礼服ではなく、豪華絢爛な和服に身を包み、上半身にサラシを巻き付けたシンボリルドルフだった。
「きれい……」
壇上に姿を現した彼女の新鮮な姿に、周囲からは感嘆の声が漏れ出る。周囲の反応を一瞥した彼女はその初期衝動が観衆から取り除かれることを根気よく待ち、ざわめきが完全に収束したことを確認すると言葉を口にした。
「やぁ諸君。生徒会長のシンボリルドルフだ。今日はこの晩秋を飾る祝祭、駿大祭に参加いただきありがとう。これから駿大祭の開幕の儀を……行う前に君たちに伝えておかなければならないことがある」
「……?」
「……数年前から私たちの目のまえに現れ、もはやそれは日常の一幕と化した。すなわちウマ娘たちの目のまえに表示される奇妙な掲示について、その正体がわかった」
身に覚えがあるのだろう、観衆の中にいるウマ娘たちのいくらかはその話題に興味深々に視線をルドルフの方へと向ける。いい兆候だ、ルドルフは仰々しく言葉を続けた
「画面の向こうで指示を出す君たちの大切な存在…すなわちトレーナーは、実在することが判明した」
その言葉にウマ娘たちの間に動揺が広がり、ざわざわとどよめきが波状に広がっていく。ルドルフはその動揺の渦中にいることを体感しながら、さらに衝撃的な事実を発した。
「そしてそのトレーナーに会うことができる。そう言ったらどうするか?その手に触れて、その想い…自身の胸に秘めたる大切なその想いを伝えることができるとしたらどうする?」
それはまさに、衝撃と呼べる事実だった。ルドルフはその観客の反応を、まるで特等席で喜劇を鑑賞するかのように楽しむと、言葉を続けた。
「その方法を私たち生徒会が発見した。あと数時間で、君たちはその愛するものたちのもとへと足を繰り出すことができる。」
その瞬間、割れんばかりの歓声があたりを支配する。やはり思い人のそばにいられるということ以上の幸せは存在しないということだ。確かな歓喜に心を震わせながらその様子を見つめていたルドルフだったが、その観劇は一人の乱入者によって中断させられることになった。
「シンボリルドルフ会長殿!先日受けた不当な押収について抗議申し上げたい!」
……誰だ?こんな時に水を差すような愚か者は?ルドルフはその声の主を探して観客のほうへと視線を向ける。やがて観客の後方から大海を切り開いたモーゼのように人波を切り開いてウマ娘が姿を現した。
「……アグネスタキオン」
「聞こえなかったかい?君たちの問題行動に異議申し立てるって言っているのだよ。そして今の周囲を惑わせる言動…さながら私には衆愚と化した民衆を耳触りの良い言葉を並べ立てて扇動する独裁者のように見えるが?」
慇懃無礼。その一言に尽きる言動であることに間違いないが、ここで声を荒げるほど私も愚かではない。ルドルフは深呼吸を一つこぼすと徐に口を開いた。
「アグネスタキオン……この神聖なる駿大祭に、そんな讒言を持ち込むとは、とうとう気でも触れたのかい?」
「皇帝殿……君は忘れてしまっているようだねぇ。駿大祭とは本来、晩秋深まるこの季節、各々がその魂……「走りたい」「レースに勝ちたい」という想いを胸に秘めて、その煌々と輝く黄金の意思を成就することを願う、そんな祭りじゃあなかったのかい?それを君のくだらない、独善的な願望のために体よく利用するための飾り事なんかでは決してないのだよ!」
自分でも驚くほどの大声で声を荒げる…事実彼女の心の中には怒りが強く蠢いていた。
「…君には担当トレーナーがついていないからそんなことを言えるのさ。互いの意見やイズムというものはいくら話して煮詰めたとしても混じりあうとは限らない。チープに言えば、「人は人、自分は自分」というやつだよ。もとより話し合って人が完全に分かり合えるというのならばハナから戦争という代物は存在しないはずだ」
その言葉に、タキオンは苦虫をかみつぶしたように顔をゆがめる。確かに彼女の言うことにも一理ある。私には担当トレーナーという存在はいない。学園の問題児というこの私には、中々腰を据えて担当につこうなどという変わり者は存在していなかった。他の世界の私には、会長殿のように心を許すことができる存在がいるのかもしれない。もしそうだとすれば、もしも目の前に彼女のように愛してやまない存在が現れたとすれば、私もどうなるかは分からない。恐らく今私の血液となって強く打ち付けるこの決意も、瞬く間に役に立たない代物と化してしまうに違いない。
……だからこそだ。
考えの異なる私だからこそ。交わることのない私だからこそ、この蛮行を食い止めることができる。もはや漂流者である岸辺露伴たちに声をかけたあの時から、私は止まることの許されないレールの上に乗ってしまったのだ。今さらここから降りるわけにはいかない。すべての賽は既に投げられた。タキオンはポケットの中から計画を開始を告げる合図となる物を取り出すと、それを観衆たちの目のまえで高々と掲げた。
ざわざわ……
「なんだあれ?」
「よく見えないわ……」
「あれは……」
「…………スイッチ?」
タキオンの手に握られていたのは、1つのスイッチだった。ルドルフは表情を崩さず、抜け目なく彼女のことを観察する…ルドルフはスイッチを握るその手がわずかに震えているのを見逃さなかった。
「……アグネスタキオン」
「…私は元々問題児。もはや失うものなどないのだよ。あるのは、心の中にある確かな決意と大志だけだ」
嫌な予感がする。ここで彼女を止めなければ、絶対に後悔するはずだ。ルドルフは瞬時に事態が困窮を極めることを予期すると、傍に控えていた生徒会の役員に下知を下した。
「やつを止めろ」
「……はい?」
「やつを止めろ!!取り押さえろと言っているんだ!」
滅多なことでは感情を荒げることのないルドルフの怒声がこだまするが、タキオンの手のスイッチはすでに強く握りこまれていた。彼女は親指を高々と上げると、スイッチのボタンを強く押し込んだ。
カチッ
無機質な音が響き、その瞬間校舎の一角から爆風が噴き出し、轟音が辺りにこだまする。窓ガラスが瞬時にシャワーとなって地面に振り落ち、爆風によってもたらされた熱が頬を強く打ち付けた。
「さぁ、開戦といこうじゃあないか」
タキオンはそれを確認すると、自身がやってきた方角へと瞬時に足を繰り出していく。あとに取り残された生徒たちは、爆発という自身の常識から逸脱した景色に唖然とするもの。怒り心頭する生徒会長の様子に閉口するもの。先程から立て続けに発せられた衝撃的な事実に驚愕するものと様々であった。
「……捕まえろ」
煌々と火を放ちながら光り輝く校舎の一角…どうやらあそこはタキオンが占領していた教室のようだ。今までは温情でその占拠も黙認していたが、もはやその必要はなさそうだ。
「君たちも、愛する者と会いたいだろう?彼女にはそれを止める何か狙いがあるはずだ。捕まえて私の目のまえに連れてこい」
その瞬間、一人のウマ娘が恐る恐る足を踏み出していく。やがてその後に続くように一人、また一人とウマ娘たちが足を踏みだしていく。やがてその意思は大きな濁流となってすべてを飲み込むと、ウマ娘たちは自身の恋路を邪魔する障害物を取り除くため、走り出していった。