やりすぎだ。
17時30分を少し上回った時刻。自身の左腕にぴったりと据え付けられた手錠を何とか外そうとあくせくしていた露伴が、外から漏れ聞こえた轟音に感じた第一印象だった。
最後の作戦の確認をタキオンから聞かされた際に、作戦の始まりを告げる合図とはいったいどんなものなのかと尋ねたさい、彼女は口角を引き上げたまま「赤ん坊にもわかるような合図だから心配いらない」と言ってはいたが、その代物は予想をはるかに上回るものだったようだ。
薄々勘づいていたことではあったが、彼女にはエンターテイナーとしての気質があるようだ。科学には遊び心が必要とは言われるが、それはあながち見当違いなものでもないらしい。外から漏れ聞こえる悲鳴とざわめきで思考の渦から引き揚げられた露伴は、再び自身を残酷な現実に縛り付けている手錠へと視線を落とした。
「……早いとこ、これを取り外さないとな」
自分の腕に据え付けられた手錠はそこらへんの100円ショップやディスカウントショップで売られているようなおもちゃとはわけが違う、警察が犯人を取り抑えた際に使用されるような、非常に本格的な代物だ。どうしてこんなものを生徒会長とはいえ一介のウマ娘がそんなものを持っているのか、なんてことに疑念を抱いたところでそれは徒労と化すだろう。今やらなければならないことは、如何にしてこの拘束から逃れるのか、ということだけだ。
……鍵はないだろうな
恐らく、いや十中八九鍵はルドルフが持っているはずだ。仮にこの部屋にあったとしても手錠で繋がれている現状では捜索できる範囲などたかが知れている。手錠を取り外すために何か役に立つようなものはないかとあたりを見渡した露伴だったが、ある一点で彼の視線は留まることになった。
「……あれは」
視線の先には机の隣につけられた棚があった。そして棚の中段には一つのガラスケース、その中には資料をまとめる際に用いるようなクリップがいくつか入っているのが目に入った。
あのクリップの形を加工して、手錠の鍵穴に差し込めるようにすればあるいは。
そうと決まればやることはたった一つだ。露伴はまるでベッドから離れることが面倒で、できる限りその行動範囲を手に届く範囲でとどめられるように…もっともこの場合は動きたくても動かないわけだが。露伴は自由にできる脚を力の限りピンと伸ばすと、力の限り棚に向かって足を向ける。
カタンッ
つま先がわずかに触れ、その瞬間棚に置かれたクリップの入ったケースは露伴の方へと静かに回転しながら落下し、地面に音を立ててぶつかった。ケースの蓋が落下の衝撃で外れると、中身のクリップは様々な方向へと散らばっていく。
……しめた。
部屋中へと散らばったクリップの内の一つが、露伴の脚にぶつかり動きを止める。露伴は貪るようにそのクリップに飛びつくと、それを一つのまっすぐな棒へと形状を加工し、自身の腕につけられた手錠の鍵穴に差し込んだ。
……かつて漫画の取材の一環で、ピッキングのことについて取材をしたことがある。取材とはいっても元泥棒だとかいうやつにヘブンズ・ドアーを使って、そいつの頭の中にあるテクニックや心得について多少のぞかせてもらっただけだが。
結局のところそのネタは漫画では使うことはなかったが、まさかその知識がこんな形で活かされることになるとは。露伴はカチャカチャと音を立てながら手錠の鍵穴に針金を差し込んで弄り回していたが、やがてその動きは携帯の着信で止まることになった。
こんな時に一体だれだ?
タキオンか?いや、今の段階では仲間たちと連絡を取り合う予定はないはずだ。それならば基樹君か?いや彼は今頃……
その答えは電話の着信の後の留守番電話によって明らかとなった。
「私だ……開幕の儀のあとに流鏑馬に参加するつもりだったが、少々邪魔が入ってね。早いが一度君のところに戻ろうと思う。事が落ち着いたらじっくり君を味わいたいと思っていたところだが、景気づけに味見くらいしても問題はないだろう?」
それは、露伴にとって死刑宣告だった。怪物がここに腹ごしらえに戻ってくる。生徒会長としての面目をタキオンという目の上のたん瘤に丸つぶれにさせられて多少なりともいらだっているだろう皇帝が、果たして馳走を前に容赦などしてくれるだろうか?そんな期待など初めからしない方が賢明だろう。
「うおおおおおおおおおおおお!」
情けない悲鳴を上げながら露伴は手錠の鍵穴に必至に針金を差し込む。もうこの場所へとルドルフがやってきているとするならば、もはや猶予など残されていない。一刻も早くこの手錠を外し、この場所から抜け出さなければ。
焦りのあまり悲鳴を上げる露伴を差し置いて、時間は残酷に経過していった。
……なかなかにハードな状況だねぇ。
タキオンは後方から雪崩のごとく押し寄せてくるウマ娘の人波に目を向けながら、その顔に苦笑を浮かべた。
どうやらあの独裁者に扇動されてしまったウマ娘は、少なからずあの場にいたようだ。暴君が振るう指揮棒一つで、観劇の邪魔に入った不届き者を排除しようと躍起になっている。
だが、捕まるわけにはいかないのだ。この計画はすでに始動している。今この場で私が捕まってしまえば、それは計画の破綻を意味することになる。
タキオンは少しでも波状的にウマ娘たちが迫ってくるのをふせぐために、校舎へと足を踏み入れようとする。しかし玄関口までおよそ数メートルとなった瞬間、その目のまえに一人のウマ娘が姿を現した。
「……君は」
そこにいたのは一人のウマ娘。鹿毛のロングヘアーに前髪に白いメッシュを一房たらし赤いリボンでその髪を後ろに一つでまとめられている。普段は快活なウマ娘として学園で知られているはずの彼女だが、小柄な体躯から発せられる禍々しいほどの怒気と、普段なその水平線まで覗くことができそうなほど澄み切っていたはずの青い瞳は、すっかりとくすみ、その激情に濁りきってしまっていた。
「君は……トウカイテイオー」
「タキオン!早速でごめんね!タキオンのことをカイチョーのところに連れて行かないと!あんな失礼なことカイチョーに言ったんじゃあ、怒られるのも無理ないよ!」
当然だが、やはり彼女も私のことを追いにやってきたというわけか。トウカイテイオーはルドルフに良い意味でも悪い意味でもゾッコンだ。そんな彼女が先程の大立ち回りを演じ、ルドルフに対して狼藉を働いた私に対していい感情を抱くはずがない。
「それじゃあなんだい?君と一緒に出頭したら、会長殿に許してもらえるように頼み込んでくれるっていうのかい?」
「そんなわけないでしょ?タキオンのやったこと、許せないよ!ボクはカイチョーのことも、画面の向こうでボクのことを待ってるトレーナーも大好きなんだから!」
どうやら交渉は決裂のようだ……最も彼女からも嘆願してやると言われたところで自首するつもりなど毛頭ないが。タキオンは口角を引き上げながら徐に口を開いた。
「ふん……聊か君は会長殿を妄信的に信じすぎている。まさに独裁者に必至こいて尻尾を振りまく側近のようだ。まぁ、君の場合はオツムが足りていない、本当にただただ尻尾を振りまく犬にすぎないみたいだがね」
「タキオンの言っていること、よくわからなかったけどバカにされてるってことだけはわかったよ」
彼女はまだルドルフのように聡明でも、そしてしたたかでもない。たった一言小突いただけでここまで怒りを露わにするとは。タキオンは苦笑を浮かべながら怒り心頭の彼女に向けて言葉を投げかけた。
「足を地面でひっかいて尻尾は荒々しく揺れ、耳は明らかに倒されている。怒り心頭な良い証左だが、そんな軽口一つで頭に来ているとは、まさしくオツムが足りていない証拠じゃあないかい?君の愛しの会長殿はもう少し大人な対応をみせていたが?」
「…もう黙ってよ」
前言撤回だ。彼女はまだ熟れていない……未熟なところがあるとはいえ、シンボリルドルフと、あの皇帝と全く同じ怒気を放っている。とどのつまり、彼女には「皇帝」の素質がある。こちらに向けて視線を槍のように投げつけ、般若のような表情を浮かべる彼女の姿は、先程壇上でこちらに殺意を向けたあの皇帝と、まさしく瓜二つだった。
その瞬間、テイオーがこちらに向けて走り出す。自身のあてのない怒りの衝動をぶつけるために。タキオンは彼女から距離を取ろうと後ろに向かって走りだそうとしたが、後方からは既に彼女同様、その狂愛にとりつかれたウマ娘が自分をとらえようとこちらにむかって一直線に向かってきていた。
「前門の虎、後門の狼か……もっともこの状況じゃあ、虎と狼の方が幾分かマシかもしれないけどねぇ」
その衝動を胸に秘めて、タキオンをひっ捕らえて会長の目のまえで晒し者にするためにこちらに向かってくる彼女に向かって、タキオンは言葉を続けた。
「……君たちに一つ、後学のために教えておこう。感情というものは時に助けになる……だが時にこの場合、いや普遍的に言えることができるが、怒りというやつは周りを見えなくする。さらに始末が悪いのは、恋だよ。恋は盲目、とはよく言ったものだね」
その瞬間、頭上から1本の缶…まるでヘアスプレーのような形状をした物体がカランと音を立てて落ち、そこから煙が噴出した。その様子を目に止めたタキオンは、自身の服の内に仕込んでいた簡易的なガスマスクをつける。その煙が一体どんなものかを警戒もせず、タキオンをとらえようと向かっていったウマ娘たちは、その煙に足を踏み込むと、糸を断ち切られたマリオネットのようにその場に倒れこんだ。
「いやはや即席の武器だったが、案外うまくいくものだね」
タキオンは自身の周りで倒れているウマ娘たちの顔を、しっかりと睡眠薬が効いているのかの確認で覗き込むと、先程催眠薬が投げ込まれた方角へと顔を向けた。
「……ナイスタイミングだったよ、君」
今しがた入ろうとしていた校舎の2階……そこの窓から顔を出していたのは自身の計画の協力者の基樹だった。
「なんとか間に合ってよかったよ……これで計画は1段階完了かい?」
「とりあえずね……私と君は追いかけっこに講じなければならない。今みたくとんでもない状況になったとなれば、私が渡した武器を使ってのりこえてくれ」
「分かった」
そう言い残して、基樹は校舎の中に姿を消した。その姿を見届けたタキオンは、再び視線を前方に戻すと校舎の中へと足を踏み入れた。
[newpage]
ご馳走とは時間をかけて熟成させれば、極上の代物と昇華する。だがその馳走も、テーブルの上に置いていては腹が満たされることは決してないのだ。ご馳走を一口だけ味わうための、そのテーブルに腰を下ろすためにルドルフはその激情を胸に秘めてルドルフは苛立たし気にとある場所へと向かっていた。
「まっていてくれよ……トレーナー君」
せっかくの駿大祭もあの邪魔者によって台無しだ。着付けに苦心したこの和服も、流鏑馬のために子供のころに少し齧った程度の弓を、再び練習したというのにそれもすべて徒労になってしまったわけだ。そして壇上でさらしてしまった自身の激情。あの姿はあの場に集ったウマ娘たちに目撃されている。これではもはや生徒会長としての体裁もあったものではないだろう。
……許さない
タキオンのことは必ず彼女には自分がしでかしたことについて後悔させてやる。狙いは未だ判明していないが、いずれ私が直々に彼女の口からはかせてやる。
それはそうと、今は腹ごしらえだ。
その目を爛々と光らせて、怪物はその欲望を満たすために餌場へと向かった。
「マズイマズイマズイマズイ!この状況は非常にマズイ!早く外れてくれ!」
必死の思いで手錠を外そうと苦心するが、一向に自身の身体を拘束する手錠は外れない。露伴はいらだちのあまりに壁に頭を打ち付けた。
「このままだと彼女が……!」
時は緊急を要する。怪物がその飢えを満たすためにあと数分でここにやってくる。それまでにこの手錠の拘束から抜け出さなければ、もはや脱出どころではなくなってしまう。
コッ、コッ、コッ……
遠くで聞こえる階段を上る音。作戦通りであれば、ここらあたりにウマ娘たちはいないはずだ。とあれば、ここに来るような手合いは一人しかいない。
右手で握る針金に全神経を集中し、額からは脂汗が零れ落ち、目は血走っていく。
死刑執行人が近づいてくる足音を聞きながら、露伴は手錠を取り外そうと懸命にもがいた。
あぁ、楽しみだ。
初めて皐月賞を勝利で収めた時も、クラシック3冠という名誉ある称号を得た時も、G1を7勝した時もこれほどの興奮はなかった。芳醇な香りはディナーをより引き立て、彩りは食事をより楽しくさせる。
廊下を歩く足取りは逸る気持ちと比例して早くなり、やがてその足は一つの部屋の前でとまる。私たちの愛の巣。そして私のディナーの会場だ。
コンコン。
「トレーナー君?」
部屋をノックし、声をかけたが室内から返事はなかった。案外彼は焦らすタイプかな?そんなことを思いながらドアノブをひねり、室内に目を向ける。
……そこには誰もいなかった。
ククッ。
口の中から空気が漏れ出るような笑いが出る。さながら今の私は誰もいない劇場で、それに気づかずに三文芝居を繰り広げた間抜けな道化師といったところだろうか。
室内に足を踏み入れ、机の脚に取り残された手錠を見つめる。だがこれでわかったことがある。彼の逃走も、タキオンの騒動もすべて一連の出来事としてつながっている。トレーナー君たちはグルといったところだろう。
「……私を無礼るなよ?」
漆黒の意思を従えて、ルドルフは踵を返して室内を後にする。
彼女が部屋からいなくなり、足音が遠くなりやがてその音は聞こえなくなる。すると室内に置かれていたロッカーの扉が開き、そこからゆっくりと、まるで嵐をやりすごした漂流者のようにふらふらと露伴が姿を現した。
……なんとか間に合った。
だがこれで、自身がタキオンの計画に少なからず一枚嚙んでいることを知られてしまったわけだ。それを気にしている時間はない。自身がやるべきことをなさなければ。
露伴は左腕の手首をさすりながら、その部屋をあとにした。
あぁ、喉が痛い。
走りすぎて肺はヒビが入って張り裂けそうだ。
だが今は走らなければ。タキオンの計画を成功させる確率を少しでもあげるには、今この場で捕まるわけにはいかないからだ。
基樹は校舎の中をあてどころなく走り回る。階段を駆け上って3階の廊下へと姿を現すと、10メートルほど前方に一人のウマ娘の姿があった。
「……君は」
彼女には見覚えがある。ウマ娘は基本的に容姿端麗な者が多いと言われているが、彼女は群を抜いて優れた容姿を有していて、学園内に置かれている雑誌で彼女の姿をみたことがある。だが、それは今大事なことではない。彼女をみたというのは雑誌でという意味では決してないからだ……すなわち彼女をみたのは学園で、そして今までのウマ娘同様、自身の愛するトレーナーに襲い掛かっていた。
「ゴールドシチー…」
「アンタさ……会長が追えって言ってたタキオンの……仲間だよね?さっき睡眠薬を投げ込んでたのが目に入ったから」
彼女は、見たものを振りむかせ魅了させるように振袖を美しく着込んでいた。駿大祭の衣装だろうかと勘繰っている基樹をよそに、シチーはその顔に、美しさとは対照的に底冷えするようななんの色を窺わせない無表情を張り付かせながら言葉を口にした。
「アタシは今幸せなの……トレーナーと四六時中一緒で、どんな時でも愛を確かめることができる。それを邪魔しようっていうなら、容赦しないから」
マズイ状況になってしまった。
……だが今逃げるわけにはいかない。この身体に流れる覚悟に後押しされている。今ここで誰かに捕まるわけにはいかない。
基樹はその瞬間、飛ぶように先程来た方角へと走っていく。シチーはその様子を見つめると、首をぽきっと鳴らすと、自分の愛を貫き通すため、そして自身の狂愛をぶつけるための、トレーナーとの愛の巣を守るために彼のことを追い始めた。