トゥインクルスター・クライマックス
自身が入学する数年前から始まった、トレセン学園で施行された…どうやらメディアが主催となって始まったレースのようだが、その仔細については及び知るところではない。そのレースを開催しようとする上で掲示された命題…即ち「最強」とは何か?…その問いに主催者が導いた答えは「もっとも安定して強い」ウマ娘だと結論付け、3回の内に最も成績が良い、ポイントを獲得した者が優勝する、という本レースは3年間のトゥインクルシリーズで成績を残した一流のウマ娘でなければ出走することも叶わない…つまりそれはその出場、勝利には多くのレースに必然的に出走しなければならないということを示していた。
数年前から始めったそのレースは、メディアがURAと共同で開催している節もあり、その興業は今までのレースと比較しても非常に大々的にプロモーションされ、またそれに呼応して世間の反応も未だかつてないほど熱狂の渦に包まれており、トレセン学園に入学したのもその熱に当てられた、というのもまた事情として存在していた…だからこそ、そのレースに自身が参加し、またその頂点を目指して行くというこれからの未来に心躍っていたのは紛れもない事実だった。
…はじめに違和感を抱いたのは、トレーナーが決まってトレーニングを始めて数か月が経過した時だった。
夏も終わりに差し掛かり、夜には蝉の鳴き声の代わりにコオロギや鈴虫の鳴き声がこだまする、そんな頃。私はトレーニングの連続で体力の限界に瀕していた。
ターフに自分の汗が滴りおち、脚は鉛のように重く、肺は酸素を求めて荒々しく胸の中で伸縮を繰り返していく。
そろそろ休憩を欲しい。そう言葉を掛けようと傍にいたトレーナーの方へと顔を向けると、彼はその笑顔を崩すことなく自身にあるものを差し出してきた。
「……あの、これは?」
それはコンビニエンスストアでも売っていそうな、栄養ドリンクのような見た目をしていたドリンクだった。こんなものよりも休憩を、そう言おうと彼の方へと視線を向けたが彼の表情には有無を言わさぬ迫力が孕んでいた。スカイはその迫力に押され、手渡されたドリンクをおずおずと受け取るとスカイはそのドリンクに口を付け、中の液体を喉に流し込んだ。
「うっ…」
強烈な酸味が喉の奥に広がっていく。吐きそうになったのを寸前で踏みとどまり、その中身を飲み干すと、自身の身体に変化が訪れた。
瞬く間に、自身の身体に蓄積されていた疲労が引いていくのを実感する。まるで12時間ぐっすりと眠りにつくことができたような、そんな自身の身体に違和感と気味の悪さを覚えていると、トレーナーから徐に一言、言葉が吐かれた。
「……これで練習ができるな!」
身体は癒えたとしても、心が癒えているわけではない。理を捻じ曲げて無理に身体を酷使しても、それには限界がある。それでもスカイは、彼の指示に従い続けた。
この世界にやってきてから、早一週間が経った。
トレセン学園のとある一室で目覚めた彼女は、窓から差し込む朝日に引き寄せられ、彼女は窓に引き寄せられると、そこから望むことができる景色に目を向け、彼女はこの世界に迷い込んでしまった経緯を思い返していた。
この世界にやってきた次の日に、ベッドの傍に立っていた男…岸辺露伴に告げられたこと。それはこの世界は自身が住んでいた世界ではなく、いわゆる平行世界であり、自分は意図せずこの世界に漂着してしまったということだった。
この世界の住人たちの計らいにより、向こうの世界への戻り方がわかるまではここにいているべきだと学園内に宛がわれた部屋で生活を送ることになった。何はともあれ、彼らが元の世界への戻り方が見つかるまでは自身にできることは何もないのは自明の理だった。
時刻は朝の8時半。
こんな時間に起きたのは一体いつぶりだろうか。元居た世界ではこんな遅い時間に起きることなどトレセン学園に入学して以降は許されたことがなかった。この一週間で早朝に目を覚ます必要がなくなり、いくらか精神的に余裕を持って朝目覚めることができるようにはなっていたが、以前の生活とは一変してしまった日常に戸惑いを覚えている自分がいることをスカイは実感していた。
ましてや今日は日曜日。こんな時、普通のウマ娘だったら一体どのように過ごすのだろうか。自分の趣味のために時間を費やし、友達と街に繰り出し、その滋養を図り次のレースへの英気を養うのだろうか。そんなことを思いながら窓から視線を離すと、彼女はいそいそと外出の準備を始めた。
「……一緒にお出かけをしないかい?」
…この世界にいる、トレーナーさん。
この間行った模擬レースの直後に言われた一言。どういう意図でそんな一言を自身に掛けたのか、その真意は図りかねるがそれを差し置き最も驚くべきことは自身がそれを受け入れたという点だった。
この世界にいるトレーナーさんと自分のトレーナーさんは、顔は同じでも全くの別人である。そんなことは頭の中ではわかってはいるのだが、彼の顔を初めて見た時には思わず取り乱してしまったのを覚えている。
…我ながら申し訳ないことをしてしまった。
しかし、どうして?彼への拒絶心がお世辞にも払拭しきれたわけではない現状で、一体どうして彼の誘いを受けてしまったのだろうか?彼の事を目に見える形で拒絶してしまったことへの罪悪感からなのだろうか?いや、それとも…いずれにしても誘いを受けてしまった以上は、それを今さら断ってしまうのは聊か野暮というものだろう。スカイはこの世界の自身から差し入れられた私服に着替えると、部屋の扉を開け外の世界へ飛び出した。
待ち合わせの時間は9時だ。恭也は腕に巻いている時計で時刻を確認すると、溜息をつきながら壁に背中を預けた。
…あんな勢いで約束を取り付けてしまったが、果たして彼女は来てくれるだろうか。
時刻は既に8時55分。いつものスカイの時間のルーズさで待ちぼうけを食うことは慣れっこだったが、9時半になっても来なかったら連絡を入れ、今日の予定はキャンセルして一人で遊びにでも行こうかなどと考えていると、突然背後から声を掛けられた。
「……あの」
そこにいたのは、待ち合わせをしていた張本人…平行スカイだった。恭也は彼女が……最もそれは彼女本人に言えることではないが、彼女が時間通りに集合場所に訪れたことへの驚きを隠しながら徐に口を開いた。
「……よし!それじゃあいこうか!」
恭也が歩き出すと、その数歩後ろを彼女が付いていく。こうして奇妙な一日が……お出かけが幕を明けた。
恭也がスカイを連れ立って訪れたのは、市内から離れた遠く離れた都内東部のとある駅だった。電車で府中駅から2時間近く揺られ、たどり着いたその駅は都内と言っても自然あふれる外観を有しており、駅から降り立つと大きな噴水がスカイたちを出迎えた。
「ここは…」
「さぁ!こっちだ!」
恭也はスカイに笑顔を向ける…その笑顔はスカイが知っている高圧的な笑みではなく、優しさがにじみ出ている朗らかなものだった。そんな恭也の素振りにコクンと頷くと、スカイは彼の少しあとをついていった。
「……それで、今日は何処に行くんですか?その……」
視界の端には、見上げるほど大きな観覧車が見える。まさかここに乗るのだろうかと勘繰っていたスカイだが、彼はその横を素通りして、とある場所まで歩みを進める…そこには大きな滝のオブジェが続いている門だった。スカイはその門の横に書いてある看板に視線を向けると、徐に口を開いた。
「……水族館?」
「そうだ!スカイは釣りが好き…だよな?」
釣りが好き…そういえばそうだった。祖父の影響で幼いころはよく一緒に釣りをしたものだ…魚が餌に食いつくには、どのように針に餌を付けるのか、どのようにロッドを揺らすのかを思考錯誤する推理戦。これから糸を垂らす自身の挑戦を待ち受けるように、海面を宝石のように煌めきながら回遊する魚たち、そしてそんな魚が針に食いついた時に、ロッドが小刻みに震える、あの感覚…その全てがすきだった。もっともトレセン学園に入学してからは釣りをする機会はほとんど与えられなかったが。
二人が門を潜り、しばらく道なりに歩いていくと、やがて視界に白い、大きな円形状のドームが見えてくる。そのドームの中に入ると、目のまえにはエスカレーターが取り付けられており、そこを降りると目のまえには大きな水槽が…そしてその中には大きな、フリスビーのような頭が特徴的な鱶やエイが悠々と泳ぎ二人を出迎えた。
「すごいぞスカイ!えーとこの魚は…ハンマーヘッドシャークっていうのか!」
「……」
こうして二人の水族館デートは始まった。スカイの手を恭也が引っ張り、色とりどりな魚たちが泳ぐ水槽を見て回る。その魚たちの説明文に目を通して恭也がリアクションをして、スカイの反応を伺う。そんなリアクションを繰り返しながら水族館を進む二人だったが、スカイの反応は芳しくなかった。
「………」
水面に映る姿しか視認することができなかった魚たちが、こうして目のまえを自由に泳いでいる、もっとも実際のところ彼らは自由ではないのかもしれないが。それでも彼らはそれに気が付くことなく、何にも縛られることなく生を送っている。ウマ娘である私とは生物的には異なるが、それを差し引いても圧倒的な隔たりが存在していた。彼らの美しさは、今の自分にはあまりにもまぶしすぎた。
恭也の反応に、わずかに頷いたり、返事をしたりといった僅かな反応しかできない。そしてそのことは他ならぬ彼女自身が自覚していた。スカイはペンギンを見つめる恭也の顔を見つめると、その感情の行き場を求めて視線を地面に落とした。
……どうすればいいのかわからない。
こんなとき、どう振舞えば正解だったのだろうか。こうしている間にも、時は流れている。こうしている間に他のウマ娘たちがトレーニングをして、自分は勝てなくなってしまうかもしれない。ここにいる身体と、徒に急いている心が分離してしまっている。
そんなことがグルグルと堂々巡りして、素直に楽しむことができないのだ。今までの経験が、トラウマが。彼女から純粋に楽しむという心を縛り付けていた。そんな彼女の様子をジッと見つめた恭也は、徐に口を開いた。
「……ねぇスカイ?」
その言葉にスカイの身体はぴくっと震える。自身が思っていることを気づかれてしまったのだろうか?そんな不安を余所に、恭也は少し眉を八の字に曲げながら微笑むと、特にそれに反応するようなことはなくお出かけをつづけた。
……この人は悪い人じゃあない…寧ろ良い人なのは振る舞いを見ればわかる。私のトレーナーさんとは違う。だからこそ、自身の身体が未だ刻まれた恐怖で震えることに申し訳なかった。
やがて二人は水族館から出る。まだ昼下がりだろうが、こんなに無愛想な反応を続けてしまったのだ、今に彼から「そろそろ帰ろうか」と言われるのが関の山だろうと思っていると、恭也はスカイに声を掛けた。
「……よし!それじゃあ行くか!」
「………?」
戸惑うスカイの手を引き、彼は水族館を出てしばらく歩く…するとそこには草原が広がっていた。どうやらこの水族館の周辺は広大な公園になっているようだ。草原には家族連れなどの人たちの姿が散見され、子供たちの笑い声が小さく聞こえてくる。
「さて!」
そう言うと、恭也は地面にゴロンと寝転んだ。彼の行動の意図を図りかね、その場に立ち尽くしているスカイだったが、やがて彼はそんな彼女の様子に視線を向けて言葉を口にした。
「ほら!スカイも!」
そんな彼の言葉を聞いて、スカイはおずおずと彼の傍に腰を下ろし、その背中を地面に着けた。
雲が視界の端に映り、穏やかな風が頬を撫でつけて歩いていく。ここには何の感情も寄せ付けない、そんな一瞬だった。
やがてスカイはそわそわと身体を動かし始める。こんなことをしていて大丈夫なのだろうか。練習をしないと、私は…そんな思いに取りつかれ、徐々に呼吸が荒くなってしまう。
私は…
いてもたってもいられなくなり、彼女はその不安のままに立ち上がろうとしたその時だった。
「……不安だったんだろう?」
「……!」
やっぱり見抜かれてたんだ。それは隣に寝ころんでいた、恭也から発せられた言葉だった。スカイはその罪悪感から逃れるために顔を彼から背けながら、かすかに唇を震わせた。
「………はい」
物言えぬ、静寂が二人の間に流れる。
「……君が模擬レースを終えて、ターフから去ろうとしている時。君の背負っているものが少し見えたような気がしたんだ。中等部の女の子が背負うにはあまりにも大きな、そんな……」
「……怖いんです。身体を止めることが。夜眠りにつくことが…走っている時はその不安は感じない………でももう走ることが、楽しくないんです…そんな矛盾が…怖くて…」
それは初めて明かした心の傷だった。醜く膿んで人に見せるのが怖かった、そんな痛み。そんな怖さがあったというのに、どうして目のまえにいる彼にそれを打ち明けてしまったのか。それはスカイ自身にもわからなかった。ひょっとしたら、自身の不安を感じ取ってくれた初めての人だったからかもしれない。
「……正確に言ってしまえば、僕は君のトレーナーじゃあない。だからこれは、無責任な発言だと思われるかもしれない…でも言わせてもらうよ……スカイ、時間は無駄にしていいんだよ」
「……え?」
それは今までの自身が縛り付けられた、自身のトレーナーから植え付けられた思想とは相反するものだった。言葉を失うスカイをよそに、彼は言葉を続けた。
「…確かにサボりすぎはよくない。でも、どんなに身体が無理して休まず動いても、心は休まらない。それは寧ろ、サボるってことより良くないと思うんだ」
「……」
「確かにスカイには勝ってほしい……レースを志してトレセン学園に入学したんだから……でもそれ以上に君には走ることを「楽しんで」欲しい。それを押し殺して、見失ってしまうくらいに自分を追い込むのはいけない」
「………それは」
彼の言う通りだ。自身は今、見失ってしまっている。子供のころ感じていた、風が肩をすり抜けるあの感覚を楽しむ余裕さえも逸していた。
「だからこそもう一度言う……時間は無駄に使っていいんだよ…スカイ」
「そんな……でも」
「君は君だ…たとえ違う世界のスカイだったとしても……僕にとってはセイウンスカイだ。大切なウマ娘だよ」
「……」
「君が怖がらないで夜を越せるようになるために…君が笑顔でいられるようにするのも、僕の役目だ」
彼が自身に何を伝えたいのか、それは何となくわかった。これから自分がどうすればいいのか、その答えはまだ出せない。それでも、僅かに生じた心の隙間に、風が差し込んでくる感覚は感じた。彼女はその余裕で生じた感情があふれ出ることがないように空を見上げた。