初めて私とトレーナーさんが会ったのは、他のウマ娘みたいに劇的な、ドラマのようなものじゃあなかったと言わざるを得ない、そんな出会いだった。
元々行事やトレーニングといった様々な機会をついついサボってしまうという悪癖を持っている彼女だったが、その時はいつものように昼寝の絶好のスポットとして利用させてもらっていた空き部屋に足を運ぶと、誰もいるはずのない部屋に一人の見知らぬ男がいた。
「だ、誰!?なんでここに!?」
「………なんでここにって…君こそなんでここに!?」
そう言って動揺する男の胸元には、磨き上げられくすみ一つないトレーナーバッジが輝いていた。そこから彼は新人トレーナーで、空いていたこの部屋を割り当てられたのだろうと勘繰ったスカイは、一人でそう決断を下し納得すると驚いている男を余所にソファに寝転ぶと、目を点にしている男に言葉を掛けた。
「とりあえず、そこのソファ借りるね?今日はきつめの授業ばっかだったからさー、私もう眠くて眠くて」
「……え?」
「ということでおやすみなさーい」
相手の反応などたかが知れている。恐らく相手の顔は驚きと呆れが綯交ぜになった、そんな顔をしていることだろう。そんな彼を尻目に意識は急速に安眠へと吸い込まれていく。その日スカイは二つのことを…即ち、この部屋はこれからも昼寝のスポットとして使えるだろうということ。そしてこの男は押しに弱いということを学んだセイウンスカイは、いつもの日常とまるで違わず眠りに入ったのだった。
…その数日後。スカイは廊下を駆け抜けていた。それすなわち、今自身に降りかかった災難に対処するため。そして話の途中に見つけたその活路を取りこぼさないために。廊下の向こうから見覚えのある男が歩いてくる。スカイはその男に声を掛けると、さっそく数日前に学んだことを活かすために、口を開いた。
「この前の新人トレーナーさんッ!私今大変なんだよ~~!」
「…あれ、君は…そんなに慌ててどうしたんだい?」
廊下を走ってきた彼女に、彼は訝しげに首を傾げた。
「ちょっともうとにかく大変なの!だから細かいことはさておいて、今すぐ答えて!…呼吸をするために使う、胸の両側にある器官、なんていうんだっけ!?」
質問の意図が全く見えない行為であることは自覚していた。中には「ふざけたことを聞くんじゃあない!」と一蹴する者だっているだろう。それでもことこの男であればこんな質問一つでさえ無碍にはしないことを、スカイは数日前の出来事で学んでいた。
「……肺?」
首を傾げながら彼女の問いに答える男。スカイはその勢いをそのままに彼に下知を飛ばした。
「声が小さー-い!クエスチョンじゃあなくって、もっとエクスクラメーションな感じで!」
「はい!」
「いいね!もういっちょ、はい!」
「はい!!」
「―――ということで先生、この人がさっき話した担当トレーナーさんです!」
「はい!!」
気が付くと、スカイの後ろには彼女を追ってやってきていた先生の姿があった。
「急に駆け出すから何かと思えば…そうなんですね、わかりました。ではトレーナーさん、スカイさんのこと、くれぐれもお願いします」
「………はい?」
話が見えていない男は間の抜けた返事をするが、一応肯定の意を示した返事に満足した先生はその場を立ち去った。未だに状況を呑みこむことができていない男に対して、自身と専属のトレーナー契約を運ぶことになったことを説明すると、彼は怒るようなことはせず、驚いたような素振りを見せる。これも数日前に学んだことだ。…かくして私と男の…いや、トレーナーさんである戸瀬恭也さんとの二人三脚の日々が始まった。
「もう少し膝を曲げて引っ張るんだ!その方が全身の筋力が鍛えられる!」
「わかりました……トレーナーさん」
……この間のお出かけから、平行スカイの態度が少々柔らかくなったような気がする。そんなことを思いながら恭也は二人のスカイにトレーニングの指示を出す、そんな日々が続いていた。恭也はその日も二人のスカイの様子を見ながら、的確にその都度アドバイスを繰り出していた。
「スカイ!走っている時にペースが速すぎるよ。気持ちが先行しすぎてるんじゃあないかな……それじゃあ…」
自身の担当であるスカイにそう注意を促すが、彼女の反応はいつにも増して非常に淡泊な、つかみどころのないような返事だった。
「はいはい~セイちゃんだって分かってますよ~……ってそれよりトレーナーさん」
「……?」
「私にもあそこのスカイさんみたいなトレーニング、させてくれたりしないですかね~?」
スカイの視線の先には平行スカイの姿が…彼女は見るからに重そうな、重機に用いるようなタイヤと自身の身体を括り付け、引っ張るというトレーニングに講じている。
「いや、あれは…スカイにはまだ早いんじゃあないかな…?」
そもそもあのトレーニングは、正規のトレーニングの指南書には記載されていない。平行スカイはクラシック期のウマ娘に課すようなトレーニングではとてもじゃあないが簡単にこなしてしまいトレーニングにならないため、生徒会会長であるシンボリルドルフに無理を言って特注で仕入れてもらったタイヤを引っ張るというトレーニングに講じているわけだ。スカイにはクラシック期のウマ娘に則したトレーニングを講じた方が効率は良いし、あれほどのことをしてしまえば身体を壊してしまう恐れも十分にある。そのことを説明しようと恭也が口を開いたが、スカイはその言葉を聞く前にそっぽを向いてしまった。
「じゃあいいで~す。セイちゃんはセイちゃんなりのトレーニングをこなしますから」
「スカイ……」
「…トレーナーさんは、私のトレーナーさん、ですよね…?」
「……?スカイ?」
最後に彼女が小声で言ったその言葉を、恭也は聞き取ることができなかった。そんな彼を一瞥すると、スカイはその場を立ち去ろうとする…するとその場を制するように言葉が投げかけられた。
「少しいいだろうか」
「あなたは…」
そこにいたのは皇帝として名高いシンボリルドルフと、岸辺露伴だった。彼らは3人に近寄ると、恭也はいぶかし気に彼らに質問を投げかけた。
「どうしたんですか?露伴先生、会長?」
「……実を言うと君に…平行世界からやってきたセイウンスカイ君。君に用があるんだ」
「……?」
周囲の空気が引き締まっていくのを感じる。瞬間、平行スカイはルドルフの言葉を聞かずとも彼女が何を言うつもりなのかを本能で理解した。そしてシンボリルドルフは、これから言う自身の言葉を…つまり自身の皇帝という立場を揺るがしかねない、そんな意味を持っている言葉を発することを覚悟した。
「……君と勝負がしたい」
「え?あのシンボリルドルフと…」
恭也の顔は、驚愕と少しの恐怖で塗り替えられていく。言わずもがな今やシンボリルドルフはこの世界に存在する現役のウマ娘の中でも最強格のウマ娘と言っていいだろう。幾千ものウマ娘たちがその勝利を夢見て、そしてその舞台で辛酸を舐めることになったG1レースを7回も勝利を収めており、他の重賞を加えれば10勝を上回る、まさに「皇帝」として申し分ないキャリアをものにしていた。そんな彼女が、クラシック期の中盤に差し掛かったばかりの新緑に勝負を申し込んだという事実。それが恭也に衝撃としてその身を震わせていた。
そんな恭也の驚く様子とは一方、平行スカイの胸に秘めたる静かなる闘志は彼女の一言によって燃え上がっていた。
「……皇帝さん。どうして私と勝負を…?」
「君には正直に理由を話しておきたい。私は常日頃『全てのウマ娘の幸福のために』行動したい、そう思っている。そしてそれは違う世界からやってきた君にも言えることだ」
「……それで、勝負することと私の幸福。なんのつながりが?」
「私の目には、君は檻の中に囚われ続けているように見える。君は今まで負けたことがない。それはつまり、孤高であり続けるということだ。君が元の世界で受けた重荷や束縛から、解放されるために私がしてあげられることは……」
そこまで言うとルドルフは瞳を閉じて、息を吸い込む。そして正面にいる平行スカイを見据えると言葉を続けた。
「君を自由にする。つまりセイウンスカイ君。君との勝負に勝って君の肩にのしかかるその重荷を解きたいというのが本音だよ」
「……」
「……そして付け加えるのであれば、君という存在と。他の世界からやってきた君と手合わせしたいというのがウマ娘の本能としての願いでもあるがね」
「……わかりました」
スカイは同意の意を示すために、大きくうなずく。二人は軽いアップを済ませるとターフの上に並び立つ。その日の風は何とも肌寒く、これから全身全霊でターフの上を駆ける彼女たちを手厳しく迎え撃つように肌を刺していった。彼女たちは前傾姿勢を取ると、恭也は右手を挙げてスタートの合図を行った。
「位置について…よーい……ドン!」
その途端、二人の身体がまるで弾丸のような速度で放出され前へ突き進んでいく。スカイがルドルフの数バ身先を行き、その後ろにルドルフがつく形となる。
当然ターフの上には、選手は二人しかいない。それでもその神聖なターフの上が放つ気迫は、G1にも負けずとも劣らない、そんな迫力を孕んでいた。それを演出するのは、たった二人のウマ娘。そこには寸分の隙や油断さえも許されない、そんな数分間のレースが学園の誰にも気づかれることなく静かに…ただ彼女たちの足音のみを響かせて繰り広げられていた。
やがて最終曲線に入りスカイは後続を突き放すために、そしてルドルフはスカイに追いつくために同時にギアを入れる。やがて最終直線に入ると、二人の身体は並んでゴールに向かってスピードを上げていった。
皇帝の威厳も、勝利への執念さえも置き去りにして。二人はそのウマ娘としての本能のままに足を繰り出し、風を肩で切り、前へ前へと突き進んでいく。
『はああああああああ!』
二人の感情の発露が、叫びとなって空に放たれる。そこには確かな想いがあった。譲れない信念があった。その二つの信念が迸りながらぶつかり、より純粋なものへと昇華していく。
50メートル、40メートル、30メートル。
20メートル、10メートル……
二人の身体はゴールに近づいていく。二人の身体は縺れるように…正確にはルドルフがハナ差で前に躍り出て勝利をもぎ取った。ルドルフはゴールを先頭で駆け抜けたことを確認すると、やがてゆっくりと減速し立ち止まり、柵越しにレースを見ていた露伴に声を掛けた。
「トレーナー君!」
トレーナー君じゃあない、露伴先生だ。そう言おうと口を開こうとした露伴は寸でのところでその口を噤んだ。彼女は本当によくやってくれた。ヘブンズドアーの記録で彼女にとって勝利そのものが心の枷と見抜き、ルドルフに彼女に打ち勝ってほしいと無茶なお願いをしてしまったが、その無理難題をよくぞ叶えてくれたものだ。そんな無粋な指摘をするのは、聊か野暮というものだろう。
露伴はルドルフに笑みを返しながら、たった一言ではあるが彼女を喜びで打ち震わせるには十分な言葉を掛けた。
「よくやったな。ルドルフ。」
「~~~~~!」
ルドルフはその身体を震わせて露伴のもとへと駆け寄っていく。そしてその横で今しがた接戦に敗れたスカイは、ゴールの少し先で動かないまま力なく膝から地面に崩れ落ちた。
………負けた。
何の意図も有さず、彼女は上を見上げる。そこには憎たらしいほどの青空が、先程のレースを称えるように二人を包んでいた。
信じられなかった。だが同時に覚悟もしていた。
……私、負けちゃったんだ。
なんて悔しいのだろう。なんて、なんて……それでも思うのは。
スカイの目からは涙があふれる。それは悲しみの涙ではない。確かな一歩…小さな壁を打ち破って大空へはばたくことができた、その感傷の涙だった。
なんて清々しいのだろうか。レースの後が怖いと思わないのは……辛いと思わないのは、一体いつぶりだろうか。
生まれて初めて膝を地面に着けた。だが彼女の心は、絶望という雲は微塵もかかっておらず、そこにあるのは曇天の隙間から顔を覗かせる青雲だけだった。
彼女は図らずも、敗北によって心の枷を外された…そして自由を手にした。
「シンボリルドルフさん…」
「……?」
平行スカイは露伴に抱き着いているルドルフに声を掛ける。その声に現実に引き戻されたルドルフが渋々と露伴から離れ、いつものような会長然とした様子に戻ると、スカイは彼女に対して深々と頭を下げた。
「…ありがとうございました。あなたに負けたおかげで……大切なものを、ウマ娘として見失なっちゃあだめなものを思い出すことができました」
「うん……やはり君は逸材だ。この私にクラシック期の君が喉元までその刃を近づけるとは……皇帝としてではなく、一人のウマ娘として。君とのレースは非常に心たぎるものだった。私からも礼を言わせてもらおう…本当にありがとう」
その二人の様子を…紛うことなく勝者の二人のレースをその目に否応にも刻み付けたスカイはその視界を下げた。
平行世界からやってきた自分は、少しずつではあるが前を向き、そして壁を打ち破ろうとしている。それに彼女はトラウマを負うほどのトレーニングの成果で図らずもこの世界のウマ娘では太刀打ちすることができないほどの強さを有している。
……それに比べて私は
これ以上ここにはいたくない。いたら惨めな自分がより鮮明に浮き彫りになるだけだから。彼女はいたたまれない様子でその場を立ち去ろうとする……しかしその瞬間、彼女の視界は暗闇に包まれた。
「スカイ!?」
彼女の身体が地面に触れる前に、恭也がその身体を抱きかかえる。倒れる彼女を、恭也以外の人物が気に掛けることはなかった…なぜなら。
「スカイ君!どうしたんだ!」
ターフの上でスカイと同時に平行スカイが倒れ込み、その身体をルドルフが支えている。二人が唐突に意識を失い、その看護に人々は追われる。ルドルフが平行スカイの身体を支えながらその身体を見やると、その異常事態に顔は驚愕の表情で染め上げられた。
「…指が…透けている…?」